Project 2024.03

3/24 名古屋

以前インタビューさせていただいた方と名古屋駅近くでお茶をする。2年ぶりにあえてとても嬉しい。

中世の修道女は痛みを神からの呼びかけだと理解していた、というところから、その方が神学部で学び、右から左までいろいろな宗派の集まりに行った経験があることを知る。たしかに宗教は、痛みなど体に起こる出来事に対する理由づけの仕組みという側面があり、身体論として考えられるものなのかもしれない。自分の痛みを通じて他者の痛みを感じること、についていつか考えてみたい。

3/21 能登

金沢の知人のお世話になり、車で能登を案内していただく。小木中学校の避難所、鵜川地区などまわる。

車で片道3時間、1日たった今でも微弱な酔いが。原因は道路があちこちででこぼこしているから。工事中の箇所が100箇所くらいあったのではないかと思う。特に橋のつなぎめ。橋は落ちないけど地面が落ちてしまって段差ができる。震災直後はパンクが多くて修理剤が大量に必要だったそう。

特にひどいところでは、ガードレールが宙に浮いていた。山の斜面に造成した道で、山肌を削ったほうは頑丈なのだけど、盛り土をしたほうが弱くて土が流れてしまう。そういうところも、消しゴムで線を消して引き直すように臨時の道が作られていく。土木すごい。こういう作業は現場の計画でどんどんできるように、事前に協定が結ばれているそうだ。

(追記)案内してくれた地元の方は、このガードレールを「シュール」と形容していた。大変なのは現実だし炊き出しなどたくさん動いていらっしゃるかただけど、「被災」とは違う語りが必要とされているのかな、と思った。能登にはいろんな面白い人がいるからそれを見てほしいとも言っていた。

20240322084157.jpeg避難所は体育館の半分ほどに40戸ほどの段ボールで囲われた生活空間が残っている状態。中学3年生の門出をみんなで祝いましょう、と自治体の職員さんが声をかけて、この状態のまま卒業式をやったそう。花飾りなども避難者の方が作ったとのこと。ここはランチは週5で自衛隊の食事がでて、夜は地元の事業者さんが行政から800円でうけおってお弁当を作っているそう。800円というとビジネス的にはまわりそうな気がするけど、みんな利益度外視で栄養のある料理を提供しようとするらしい。避難所はひとつの町のようなもので、コの字型に家を配置して真ん中のスペースに屋根をかけ、お茶の間のようにしている避難所もあるそうだ。プライベートとパブリックの中間の領域が重要そうだ。小木の避難所ではストーブのまわりにおばあさんたちがあつまっていた。一方で避難所をしめるむずかしさもあって、依存が生まれてしまったり(「ありがとう」を言わなくなって軋轢がうまれている場所もあるとのこと)、行き場所がない人もいるらしい。地銀も職員が複数の店舗を兼ねており、週に2−3日しか営業していない。日常とはほど遠い。

小木といえばイカキング。イカ漁がさかんなところ。寄せ書きとか至るところにイカが描いてある。海はほんとうにおだやかだ。

20240322085048.jpeg鵜川地区は、家屋の被害がかなり大きかったところ。それまで生活を成り立たせていたものが文字通りフレーク状の端材の山になってしまっている。道路に散乱していたものを敷地まで片付けたところ。川の向こうの地域ではほとんど被害がないのに、ちょっとしたことで影響の出方が違う。残酷だ。

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3/16-17 八丈島リタビフェス

2週間前に利他学会議を終えたばかりだけど再び八丈島へ。魚谷さん企画のリタビフェスに登壇するため。1日目のテーマは「漏れる利他」、2日目のテーマは「ぼけと利他」。肝がすわってる!

1便で空港についたら、魚谷さんが迎えに来てくれていた。約束してないのに。1日目のワークで言われたけど、そう、島では約束とかしないのだ。来るのわかってたら迎えにいくでしょ、みたいな感じ。それを支えているのは「誰が今どこで何してるかが筒抜け」「噂好き」みたいな見方によっては窮屈な情報空間なわけだけど、それがあるからこそ「利他=一員であること」が可能になる。そうだよね、一員だったらいちいち約束とかしない。バンドのイメージが一員性に近いのもそのためだ。

約束のなさは会場についたときにも。山でとってきたらしい植物で、会場がとても素敵に飾られていたのだ。これは魚谷さんが頼んだものではないらしい。ツル植物とトロピカルが共存しているのが八丈らしい。舞台のところにはバナナの葉っぱ。これが計画せずにできてしまうのはすごい。

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ちなみに会場は旧末吉小学校。流人がつくった学校で、日本で3番目に古い小学校らしい。このおかげでいまでも末吉の人は勉強熱心だそうだ。島のなかでははしっこだけど、かつてはこのあたりが中心地だった。水が出るから。

ワークでも、八丈の方言には「ありがとう」という言葉がないと教えてもらった。これはインドも同じだと中島さんが言っていたな。ありがとうって約束と同じで白々しいこと、ふたたび関係を切ることを前提にした近代的個ベースの発想なんだろうな。じゃがいもとか余った食べ物を玄関に置いておくという習慣がいまでも八丈にはあるらしいけど、それが誰かからというのはよく分からないことも多くて、分かったときも「ありがとう」とは言わずに、肘でツンと合図するくらいなのだそうだ。ちなみに「こんにちは」も言わなくて、「おっ」て手をあげてあいさつするらしい。「ありがとう」「こんにちは」がためらわれるくらいだから、ましてや「利他」なんて恥ずかしい言葉を口にしちゃう研究者は、島ではそうとうに「さむい人」という感じがする。

情報交換についてはかつては「朝参り」という習慣があったそうだ。朝、だれかの家やビニルハウスなどに集まって、情報交換する。それをハシゴすることによって、みんなの近況が島中に伝わるらしい。明治からあり、中之郷では今でも毎日やってるようだ。SNSではニュアンスが伝わらないけれど、これならいろんな意味を乗せられる。

ただ南海タイムスが2020年に無くなったことは、島の情報共有をずいぶん困難にしているそうだ。南海タイムスは政治的に中立で、どんな立場の人も読む新聞になっていた、と。守備よく、島の本屋さん(八丈島コーナーがある)で、縮刷版を購入することができた。戦時中のものもある。漁関係が多い。春休みにゆっくり読みたい。

こちらは朝のジョギングでいった「海辺のベンチ」。現地では溶岩と海の組み合わせが非人間的すぎて怖かったけど、写真で見ると光は春。

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私の手の倫理(17)「使う手」とデザイン

手で物を持った瞬間が心地良いと
品物にはより愛着が湧いてきますね。
化粧品メーカーさんの商品パッケージ
の美しさに惹かれ、何故その形なのかを
見つめると創り上げて送り出す時点で
"これから使う人の手"の気配も乗って
いるかに思えてきます。

蓋や容器を持ち、触れる部分に丸みや
膨らみ凹み揺らぎが絶妙に入っている
ものは手の座りや収まりが落ち着いて
中身を出して使う前後にも親しみが。
蓋=頭を開け閉め、ボディ=中身の入る
胴体…とこれらの全部を本体として
手の内の重量感や収まり具合はよく
手に取るカップやペットボトルの
無意識な形状記憶にも近いです。

毎日数回使う動作の蓄積に容器の触感で
"此処にある!"が解れば、鏡や洗面台
から顔を外して確認しなくても定位置の
習慣化が手から創られて日々が進んで
いきます。ポーチの中で迷子になりがち
な口紅やマスカラも煌めく姿を生む独特
の立体と質感で、手が目になり探って
いて"あった!"となる事も多いですね。

溶液を抽出、クリームを掬う行為など
中身を肌に塗布するだけでなく容器本体
も触れ続けると体のパーツに繋がりゆく
様な不思議さも。
なのでやむなく容器が劣化や破損し
手が慣れたものを文字通り"手放す"
場合、次のものが馴染む迄同じ内容物
だとさながら器の出会い直しです。
私達の手を先見する使い易さや特性を
纏うデザインは、自然に場や行動導線も
生んでいます。リモデルに新商品が効能
効果は勿論ながら今後もどんな佇まいで
現れてくれるか楽しみです。

(Y.I.さん)

2/2午後=ジャカルタ(Troto Art)

午後のアポまでは時間があったので、高層ビルが建ち並ぶイケイケな地域(日本の融資でできた地下鉄もある。延伸工事が道半ばで大使館の前で止まってるらしい)を抜け、定番の観光地であるモナス(独立記念塔)に連れて行ってもらう。暑い!公園を抜け、ひとまず屋台で昼食。どの店だかさんざん迷い、そもそもこの机がどの店の机がよくわからなくなったところで席につき、定番のSOTO AYAMをいただく。

20240314102058.jpeg20240314102119.jpegそのあと砂漠のような日照りのアスファルトをぬけ、モナスのほうへ。モナスは1975年に作られた独立のシンボルで、ろうそくの形をしてる。インドネシアの国旗も赤白の二色だけど、あれもろうそくらしい。知らなかった・・

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目的は地下の歴史博物館。先史時代からさまざまな宗教の流入、オランダによる支配、日本による支配、独立、までのインドネシアの歴史が遠近感のあるちっちゃなジオラマでつぎつぎ展示されていて、おもしろかった。それにしても本当に迫害と戦いの連続だな・・

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20240314105306.jpegぐったりした気分で地下から灼熱の地上にあがり、遊園地の中にありそうな電車型のバスを使って車のある場所にもどる。と、そこには本物のゆるキャラがいた。

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握手は遠慮して、無事に車にのりこみ、アポの場所をめざす。途中 、Ismail Marzuki Parkというアートセンターに立ち寄る。gotongroyongの作品をつくっているTita Salinaさんが夜のレクチャーパフォーマンスのリハをやるので、ここにいけば一瞬ご挨拶できそう、とのことで。Titaさんを待っているあいだ、下のカフェで「アボガドコーヒー」というメニューを見つけ、興味本位でたのんでみる。でもこれが運の尽きで、一緒にいた人が「アフォガード」という音が似たメニューを注文したために、やな予感はしていたんだけど、やっぱりバニラアイスの上にエスプレッソをかけたやつが2個でてきてしまうのだった。「いやいや違うよ、たのんだのはアボガドコーヒーだよ」と通訳さんにクレームを言ってもらったら、こんどはアボガドジュースが出てきた。もういい。

そんなこんなで午後のアポの場所をめざす。目的地は、空港にも近いTroto Art。Trotoとは「歩道」という意味で、カンポンのなかで活動しているコミュニティだ。そのカンポンは高速道路の下にあると言う。

細い道を強引に車で進み、ついた先にあったTrotoArtの拠点は、カンポンの中でもかなりシビアだと思われるカンポンの中にあった。私を含め日本から来たメンバーはあまり細かいサインに気が付かないので、ある意味ぼーっと見てしまうのだけれど、何より現地の通訳さんの表情が違う。明らかに緊張しているし、その後もTrotoArtリーダーのジョニーさんの通訳をするのをためらう様子が見られた。とにかく人が多い。バイクがくる。路地に入って靴の紐を直そうとしゃがんだら、側溝の隙間から蚊?ハエ?の赤ちゃんたちが湯気みたいに立ち昇ってきた。ここに住む人たちはコロナのときはどうしていたんだろう。近くに下水がたまる川があったから、洪水も頻繁に起こっているにちがいない。

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Troto Artの拠点の入り口は楽しい雰囲気でお菓子やテンペを売っていた。奥にとおされ、キッチンのあるスペースで話を伺うことに。ジョニーさんはこのカンポンで生まれ育った独学のストリートペインターで、1989年に活動を始めたそうだ。こちらは近所の共同浴場にジョニーさんが書いたという絵。

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だがその後、2001年にArt Publicを始め、それがTroto Artにつながる。このあたりの地域では貧困のため学校に言っていない子供が多く、そうした子供はギャングになってしまう。薬物も横行していて、School gang fightsばかりなのだそうだ。そんな環境で独学でペインターになったジョニーさんはそれだけでそうとうすごいと思うのだが、ジョニーさんとしては学校に行っていない子供たちが気掛かりである。そこでそうした子供たちや、彼らの両親たちといっしょに、ミサンガや髪飾りなど手芸的なものを作る、という活動をはじめた(もともとこの地域はテキスタイルが盛んらしい)。とにかく自分にはできるという感覚、楽しみをもつことが重要で、地域のエンパワーをしたいという気持ちが核にある。

ジョニーさんは地域の中だけにとどまっておらず、知事や政府系機関とのつながりも構築しているし、2015年のジャカルタビエンナーレに出品している。そのときの動画がこちらで、このカンポンの様子もわかる。あとでその場所を案内してもらったけど、サッカー場らしきスペースがゴミだらけになっていたのだが(ゴミというか死体もあったと言っていた)、そこをみんなで整備するプロジェクトを行ったそうだ。

さらにTroto Artは高速道路の下にレジデンススペースを整備していたり、日本人をふくめ海外からのアーティストの訪問もうけいれているそうだ。ジョニーさんの家やカンポンの中も少し案内してもらったけど、途中からどしゃぶりの雨がふりだして、夕暮れも相まって、なんか映画スワロウテイルのような景色になっていた。

20240314115135.jpeg帰り際、ジョニーさんはほかほかのテンペのフライをもたせてくれる。雨のなか車で走り出すが、道が狭くてアリの巣にモグラが押しかけたような格好になってしまう。この角ぜったいに曲がれないでしょ、という角を曲がろうとしたり戻ったりの針の穴に糸を通すような運転で、カンポンから抜け出すのに1時間くらいかかる。やっとのことで高速に乗って空港へ。ケアをさがす旅はここまで。夜の便で寝たまま東京に帰りました。

(引用・転載禁止:筆者のメモと記憶で書いているので、事実と違う場合があります。悪しからず・・)

2/2午前=ジャカルタ(LabTanya)

リサーチの旅もいよいよ最終日。

午前はまずLabTanyaのオフィスを訪問。ここは代官山の蔦屋⁈みたいな雰囲気の、おしゃれなコワーキングスペースの2階の部屋に案内される。ガラス張りの細長い部屋に入ると真ん中にシックな会議机が場所を占め、その上にはモニターがあってPCの画面が前面に映し出され、壁一面には貼られたカラフルなポストイットがあり、そこはまさに自分がふだん東京で慣れ親しんでいる「ミーティング」と寸分変わらない景色である。ひゅーっと一気に現実に引き戻される気が。

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LabTanyaは2015年にスタートしたデザインリサーチラボで、建築スタジオのなかのイニシアチブという位置付け(science-ecological design studioとも言っていた)。tanyaとはquestionのことで、デザインの力をつかって、人々の日常生活のあり方に問いを投げかける活動をしているそうだ。彼らが問題意識として抱えていることを聞くと、regenerative、sutainable、consumption&production cultureというこれまた東京でもお馴染みのキーワードが。とくに都市におけるゴミの問題には初期から取り組んでいて、たとえば「NO TRUSH CITYプロジェクト」(2015)では、ごみをださずに暮らせるかの実験をしたり、「ZERO WASTE HOME: POSSIBLE!」ではカードを作って学校に配布し対話のきっかけを作っているそうだ。RTよりもう一段上、RWのレベルを狙って活動しているのも彼らの特徴である。

20240314085100.jpegわ、都会のデザインプロジェクト!という感じで、ジョグジャで見てきたようなある意味泥くさい野生のコミュニティ活動とは全然違う。でもこれを「デザインされすぎていておもしろくない」と退けてはいけない。なぜなら彼らの立ち位置(前提条件)こそ、たぶん、東京で暮らす私の立ち位置に最も近いものだろうから。あらゆるものが快適にデザインされているこの立ち位置から、ジョグジャで見てきたような不便な生活の中の野生のケアをどう捉えるか、がたぶん問われているのだ。

つまり、ジャカルタで活動するLabTanyaにとっても、東京で暮らす私たちにとって、gotonroyong的なもの、あるいは利他的なものはすでに失われたものとしてある。というか、そういうムラ的なつながりを断ち切って、自由な匿名の個人として、都会にやってきたのだった。都会の暮らしは確かに身軽だけど、でも殺伐としていて、何かがあったときに助け合ってサバイブできる、身を委ねることのできる環境だとは思えない。だから捨ててきたその当のものをわざわざ探し求めている、そんな状況なんだと思う。

ここにあるのは、あの有名な「再帰的近代」の問題である。近代化によって、伝統とか、生きる意味とか、美の基準とか、それまであたりまえとされていたことから切り離されたときに、人はそれを意識的に再構築しなければならなくなる。実際、LabTanyaは「gotongroyongはユートピア」つまり「ここにはない理想」と言っていた。利他もたぶんそう。LabTanyaは、近代化された都市のなかで、gotongroyongを再発明しようとしているということだ。

その一例が、「Our commons: food resources」(2021-2022)というプロジェクト。説明を聞いていてなんだか切なくなってしまうんだけど、内容としては、都市の中で食べられる植物を探してそれをスープやクッキーなどに料理してみんなで食べる、というもの。インドネシアでは、木の葉っぱや実など、個人の敷地のフェンスを超えたものはpublicなのだそうで、そういう漏れたもの=コモンズをいただいて食べるという趣旨だ。つまり都会ではgotongroyongはワークショップで体感するものなのだ。彼らの問題意識は、スーパーで食料を買う人が増えるなかで、金銭的なやりとりが現実を隠しているということ。お金の変わりに知識(この場合はレシピ)を渡す、と言っていて、こういうときに金銭の代替物が「知識」や「スキル」だという感覚はbakudapanやruanrupaも言っていたこと。日本ではあまり当たり前ではないように思う(日本だと、君はいるだけで価値がある、みたいな議論に一気になってしまう印象がある)。

もっとも、ジャカルタが都市だと言っても、すべてが均一に都市化しているわけではない。ジャカルタには高層ビルもいっぱい建っているけれど、ちょっと目を向ければその下に「カンポン」と呼ばれる低層の家、ときにはバラックのようだったり壁すらなかったりする建物が密集して建ち並ぶ地域がスプロール的に広がっている。地方から出てきた人たちが、地元の親類や知人を頼って住み着いてできたもので、よく言えばたくましく自己組織化された集住地域、でも違法占拠であるものも多いという。LabTanyaメンバーのわかりやすい説明によれば、カンポンは「spiritは村だけどphysicalには都市にある」。つまり都市の中で、gotonroyong的な村の生活をしている人たちの生活空間ということだ(物理的な村のことはdesaと言う)。ただし彼らが一方的に都市に寄生しているというわけでもなく、都会的なオフィスビルで働く人がランチをカンポンに買いに行ったりするのは普通だそう。また、カンポンといってもいろいろで、スラムに近いものもあれば、中流くらいの給料をもらっているけれど、そこの暮らしが好きで住み続けている人も多いらしい。(午後にカンポンに行ったので詳細はあとで)

ケアと再帰的近代……ジョグジャ的なものを無邪気に礼賛することはその再演になってしまうし、かといって再帰性を全面にうちだしても、それはケアの本質からは遠ざかる。野生のケアかデザインされたケアか?今回のプロジェクトをアウトプットする上でもずっしり重い課題を得た気分になってLabTanyaをあとにした。

(引用・転載禁止:筆者のメモと記憶で書いているので、事実と違う場合があります。悪しからず・・)