7/14 ケソン市 Center for Migration Advocacy(CMA)
今日の午前は、ケソン市にてOFWの支援や啓蒙をしているCenter for Migration Advocacy(CMA)にてヒアリング。
コンクリート造りの建物に到着して早々、駐車場の障害者マークに目を奪われる。手書きなので個体差があるし、車椅子と人が一体化していてなんだか新種の生き物みたいだ。
CMAは2002年にスタートした"human rights community"。Advocacyと聞いていたので、啓蒙的な内容が中心かと思っていたけれど、暴力の経験について語る場を作ったり、OFWの人たちが選挙で投票できるようにするための法整備を働きかけるなど、国・地方政府と現場をつなぐ役割を果たしているという印象。「low makerなのに憲法がわかってないのよ!」と笑いながら話すEさん。シリアスな話をしていてもとにかく明るい。日本のSMJとも連携していると言っていた。
フィリピンではAssociationのようなグラスルーツの活動は共産主義活動と見なされ逮捕されてしまうが、CMAのトピックは移民労働者なので、政府からも警戒されないそうだ。政治体制によっては「集まれること」は当たり前ではなく、こういうこともケアに関連しそうだ。
フィリピンのOFWの渡航先は20%がサウジアラビア、ついでUAE、クウェート、香港、カタール、台湾、日本とつづく(図の引用元はこちら)。多いトラブルは賃金の支払いに関するもので、ドメスティックワーカーでは精神的身体的暴力が多いとのこと。ドメスティックワーカーの被害としては、クウェートでレイプされた上に殺害されるというおぞましい事件が繰り返し起こっている。2023年にはフィリピン政府が、労働者の派遣を停止しており、外交問題にも発展した。支払いの男女差も28%とかなり大きい。
採用のミスマッチも問題になっているそう。フィリピンの女性は男性よりも高学歴なのだが、高卒の46%、大卒の32%が単純労働にしかつけていない。「Brain Waste」という言葉が使われていた。残された家族への負荷もある。OFWの子供の25%が薬物中毒になっていたり、配偶者との長期の別離、健康へのインパクトが指摘されていた。女性が海外に行ったことで男性が女性の代わりに家事労働をするようになった、という興味深い話も。
そのあとは実際にOFWとしてマカオに行っていた女性の話をうかがう。娘が10歳、息子7歳のときに子供を両親(70歳と50歳)に預け、友達がすでにいたマカオで働くことを決心。夫と離婚していたので、夫が子供を連れ去らないようにバランガイに頼んでいたそうだ。家を質に入れて渡航費100,000ペソ(約25万円)を確保し、ツーリストビザで入国。70,000ペソを両親に渡し、自分で持っていたのは30,000ペソのみ。マカオに迎えてくれる家族がいないので、まずは香港へ。「冒険だったよ」と言いながら彼女が語ったのは、フィリピンの入国管理局で3時間質問攻めにされたこと。無事に香港に渡航したあとは、団体にまじって行動。この団体は香港で日用品などを買ってフィリピンで売る仕事をしていたのだが、それがヒントになり、6ヶ月後、彼女もマカオでソーセージなどをオンラインで売って生き延びることになる。お金はいつも節約していた。マカオでは仕事が終わるといつも子供とはビデオ通話でコミュニケーションしていた。
マカオで5年たったころ、コロナがやってきて仕事がなくなる。ネットワークで仕事を紹介してもらっていたそうで、マスコット着ぐるみの仕事からバーテンダーまでいろいろやった。食べ物を買うお金もなく、送金もできずにいた。コロナ禍では政府によるアユーダがあったが、「この家にはOFWがいるから」と優先順位を下げられてしまい、女性の子供達の手には渡らなかったとのこと。
マカオの住処は相部屋で眠れなかった。昼はマッサージやマニュキュアの仕事をし、夜はバーで働いてて大変だったが、エージェンシーにplacement feeを8000パタカ(約14万円)を支払っているのでやめられなかった。2019年6月に父親が死去し、10日間の休暇。その後香港の民主化デモが起こり、客が減少(客は香港から来ていた)。と思ったらコロナがやってきてますます客がいなくなった。バーのキッチンでは中国人のスタッフが国に帰ってしまい、仕事が全部女性にまわってきて「私を殺したいのか?」と思ったがマネージャーは英語ができず、交渉もできない(と言いながら中国語のモノマネ)。いやならやめろと言われた。Labor departmentは協力的だと聞いていたので、申し立てをした。会社に手紙を書いてくれた。ベトナムやインドネシアのco-workerから、どうやったのかと質問ぜめに。その後ビザを取得しにいったときに(ワクチンを打たないと罰金なので、ワクチンを打ってその日の午後にビザをとりにいった)、なぜLabor departmentに申し立てをしたか聞かれたが、それは私たちの権利である。
帰国することになったが隔離がまた冒険で。1日の食べ物がチキン1本だけなのだそうだ(a piece of chikenと言いながらみんなで爆笑)。帰国してからはOWWAによるreintegration programがある。マカオでは自分のスペースがなかったので、帰国して自分の家をリフォームした。
海外で働いて家族の価値を実感した、とも。帰国したら娘は17歳でボーイフレンドもできていた。7年たって、子供達との関係はバリアがあると感じるようになってしまった。ハグしようとすると、拒むわけではないけれど、恥ずかしがる。料理も彼女の作ったものは好きではなく、おばあちゃんが作ったものを好む。悲しすぎる・・失った時間と引き換えに彼女は子供たちに送金をしている(という話をしながらフィリピン人たちは大爆笑)。
食べ物にも困るような彼女の経験は「壮絶」なのだが、とにかく印象的だったのは、そういうことを話すときのフィリピンの人たちの様式(スタイル)だった。席につくなりトイレットペーパーを渡されて、「泣く準備」を始めるのだが、悲惨な話をするときほどみんな大爆笑する。冗談を交えていたりしなくても、言い方でみんな笑う。完全に涙に暮れてしまうことがない。この「泣き笑い」スタイルがフィリピンのケア技法の基本である気がする(のちに、洪水が来たら泳ぐ、障害のことも笑う、と聞いた)。
写真はマカオに行っていた女性が作ってくれたアドボ。子供たちが彼女の味を食べない、と聞いていたからいっそう胸がつまる気になる。鶏肉とゆで卵を酢、醤油、八角?で煮たもので、意識したことなかったけど、わたしも以前よく作っていた料理だった。
ランチはショッピングモールにてミンダナオ料理。アーティスト一家と日本語が堪能な研究者に合流していただく。フィリピンは障害者が買い物をするときにはディスカウントされると聞いておどろく。
その後、靴工場をリノベして作られたおしゃれなCubao Expoへ。その一角にあるsilingan cafeに入る。反ドゥテルテ的な内容のzineがたくさん売っていていくつか購入。Cubao Expoのとなりにはスーパーがあり、お金を下ろしたついでにIさんの導きでSafe Guardという石鹸を3つ購入。Iさんによればフィリピンの人たちは、体を清潔にする意識が高く、ボクサーもよくシャワーを浴びていただとのこと。その清潔のお供がこの石鹸で、Iさん的には「これこそフィリピンの香り」。
今日はこのあとバギオを目指す。人によって4時間でつくともいや5時間かかるともいう北部の高原の街。
途中、夕食に立ち寄った食堂で、パヤタスでもみかけたホウキを購入。癖っ毛でかわいい。途中、日光のいろは坂もかくあというヘアピンカーブ連続の山道で酔ってしまい、車を止めてもらう。すかさず同行していたフィリピン人のスタッフが、すっきりする香りの香水の小瓶を持たせてくれて、気分を落ち着かせてくれた。香りで酔い止めなんて、理にかなってる。ちなみにこのバギオは山道ケノンロードの工事(1901-)には、日本人労働力が使われたそうだ。つまり120年ほど前にここに移住してきた日本人がすでにいたとのこと。バギオは今も日系人が多いらしい。また戦争中は山下財宝が埋められたとの話も。