Project 2015.11

大岡山研究会レポート(10月)

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9月の研究会レポート

開催:10月26日(月)19:00〜21:30 伊藤研究室にて

渡辺裕『聴衆の誕生』

前回の研究会で、「対話型鑑賞の誕生」と連動したできごととして「作者の地位の相対的な低下」があるのではないか、という伊藤の指摘があった。それをきっかけに、では逆にどのようにして作者の地位は上がったのか、ということが話題になり、この問題に関して音楽をフィールドに論じたこの本を読むことになった。

 

【トピック】

文体・内容そのものが1980年代の雰囲気を反映しているという話から始まり、「作者」「タイトル」を鑑賞WSではどのように扱っているかが話題になった。本題と関係ない話題(けどこういうのこそ面白い)として、作品のオーラは視覚的なものなのかどうか、目の見えない人は不気味の谷を感じるのか、声でかわいいは分かるのか、といった話題が出た。

【研究会を終えて(文=て)】 

 高校生の頃、上海でクラシック音楽のコンサートに出かけたことがあった。ホールに入るとそこには、携帯をいじる人やおしゃべりをする人、通路をかける子供がいたりと雑多な空間が広がっていた。その時、軽い衝撃を感じたのを覚えているが、その衝撃の正体はなんだったのだろうか。改めて考えてみると、私は「クラシック音楽は静かに集中して聴くものだ」と何の疑いもなく信じていたのだと思う。どこでどういう風に刷り込まれたのかわからないが、特にクラシックファンでもない私のような人間にまで深く刻み込まれているのだから、そうとう強力な刷り込みだったに違いない。だからこそ、普段の生活とほとんど変わらないようなふるまいをする聴衆を見て驚いたのだろう。そしてその驚きは、少しの安堵を含んだものだった。良くも悪くもホールに緊張感と威圧感はなく、一見さんが気軽に入っていける雰囲気が漂っていた。そこは、日常と地続きの空間だったのだ。

 

日常と非日常の境界線は必要か?

 美術館やホール、劇場のような場所を訪れるとき、私たちは非日常の体験をしていると感じることが多い。外界から遮断された空間であり、かつ独特のふるまいが必要となる場所だからである。この「普段とは違うふるまい」が緊張感を生みだし、私たちに非日常感を抱かせる要因となっているのではないだろうか。「普段とは違うふるまい」を行ううちに、私たちの中では日常とここは異なる場所であるという線がパッきり引かれることとなる。ホールのような空間で、私たちは極度に集中し、作品を鑑賞する。それはある意味作品が一番見えやすい環境なのかもしれない。しかし、「楽しむ」ということを軸にして考えたとき、リラックスした自分本意な行動をとる聴衆と集中し微動だにしない聴衆のどちらがより音楽を楽しんでいるのかを判断することが果たしてできるだろうか。結局どちらも極端な聴衆であることに変わりはない。どちらかではなく、二つの世界を行き来するようなふるまいもあるはずではないか。

 

移動する曖昧な境界線

 境界線とは何かを考えるとき、興味深い話がある。人間の声帯はビーという機械音のような音を発しているだけのものらしい。声帯の先に続く喉や口の形を変えることでビーという音が声になり、意味を持つ言葉として発せられる。なので、一定の音を出すブザーにガラス管をかぶせ「あ」という声を出すことも可能である。このような実験が音声物理学の分野で行われているという話を聞いたとき、違和感を覚えた。機械やモノが発する音は声ではないという前提があるので、その「あ」という音を「声」として受け取っていいのか困惑した。しかし、その後に声帯を失った人の中には、人工声帯を装着する人がいるという話を聞いた。喉に声帯の代わりとなるブザーのような機械を付け、自分の口の形を変えることで言葉を発するそうだ。そこに違和感はなかった。機械の出した音であろうが、すんなりそれは「声」だと受け取った。何をもって声とするのか、ここには曖昧な境界線が存在する。

私たちは、目の前で起きていることを捉え、自分が持っている前提と比較し、違和感を敏感にあぶり出す。境界線のこちら側とあちら側を見極めているのだと思う。しかし、状況に応じてその線の在りかを変えたりもする。どうやら線を明確に引くことはできないらしいということを無意識のうちに知っている。

 

越境すること

 だが私たちは、「これ」と「あれ」が明確に違うということも知っている。雨が降っていることと雨が降っていないことが明確に違うように、ぼんやりではあるが確かに線が存在していることを知っている。では、どうようなふるまいによって私たちは線を越えていけるのだろうか。

 例えば、異国に旅立ち物理的に越境するとき、見知らぬ土地で多くの出会いがある。知らない言葉に出会い、知らない食べ物に出会い、いい人にも悪い人にも出会う。旅はいつも驚きと発見に満ちている。そして長旅が続いてその土地に少し馴染んできた頃、ふと自分の国を思い出したりするのだ。懐かしく感じたり、いや異国の方が居心地がいいと感じたり、色々だろうが外から眺めてみることで自国がよく見えたりする。そこでやっと、ああ今自分は異国にいるのだと改めて実感するだろう。本当の越境の瞬間である。

 上海のホールでの経験は、私にとって音楽を楽しむとはどういうことなのかを改めて考えてみるきっかけになった。正しいと思っていた価値観が揺らぎ、彼方に異なる価値観が見えてくる。その差異をもって自分の立ち位置を再確認することにもなった。こうあるべきとか常識とか疑ってみもしなかったことについて、一旦立ち止まって考えてみること。まるで異国に旅立つように、日常の中で知らない場所への小さな旅を繰り返すこと。これが越境するふるまいなのかもしれない。

 

 

大岡山研究会レポート(9月)

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今年の4月から、目が見える人と見えない人で月に一度の研究会を開催している。テーマは、ざっくり「感覚」や「身体」。より特定されたトピックとして「アート」や「美術鑑賞」についても扱っている。メンバーはほぼ固定の5−6名。当初は毎回「色」「錯覚」といったお題を決めて、参加者が自分の経験を持ち寄るという形で進めていた。だけど、それだとどうしても「見える人が見えない人の話を聞く」ばかりになり、見えない人にとっての発見が減ってしまう。ならば素材はすでにあるものを使いそれについて各自の視点で議論すればいいのではないか、という話になった。そんな手探りと紆余曲折を経て、9月以降は私がチョイスしたテキストをみんなで読むことに。しばらくは「ソーシャル・ビュー」に関わりがありそうなテキストをいろいろ読んでみている。ほとんど内輪向けのものだが、毎回担当者を決めて、その記録をこのウェブ上に残していくことにする。


9月の研究会レポート(担当=伊藤)

開催:9月28日(月)19:00〜21:30 伊藤研究室にて

佐々木敦『「4分33秒」論』

下條信輔『意識とは何だろうか』

アメリア・アレナス『みる・かんがえる・はなす』

参加者の興味をさぐる意味もこめて、上記3つのテキストから各3〜4ページを選んだ。事前にテキストデータの形に変換したものを配布して各自で目を通しておき、感想メモを伊藤が受け取って当日の研究会を進行した。

とても面白かったのは、テキストの内容以前に、それぞれの筆者の文体が話題になったこと。これは目が見えない人ならではのアプローチで、要するに音声読み上げソフトで聴いたときに聴きやすい文体と、そうでない文体があるらしい。確かに目で読む場合には、多少分からない部分があっても理解を保留して「あとから読み返そう」くらいの気持ちで気楽に読むことができる。しかし音声読み上げソフトで読む場合には、ソフトが時間を管理することになるので、「分からないな」と立ち止まってしまうとそこから先が頭に入ってこなくなってしまう。修飾語を長くしすぎないなど、工夫が必要そうだ。

加えて、同じ文章でもどの音声読み上げソフトを使って読むかで印象が変わるということが話題になった。「新しいSiriは、人間に近づいた分だけ余計な感情がはいってきて、それが嫌味に聞こえる」なんていうこともあるらしい。また人間の声による朗読も、人によってやはり相性があり、特に小説を読む場合には問題になるそうだ。

目の見える人が読む場合は、書かれたテキストと読み手がダイレクトに結びつくが、見えない人が読む場合には、テキストと読み手のあいだに媒介物が入る。それは場合によってはノイズだろうが、媒介物によってテキストの意外な一面が見えてくるということもあるだろう。見える人にとっての「フォントの種類」や「誌面のデザイン」に相当するものだろうか。今まで考えたことのない側面だったのでとても面白かった。

それぞれのテキストの内容に関することでいえば、完全な沈黙がないように、完全な闇もないのではないか、という話が興味深かった。目の見えない人でも、カラフルな七色の粒が上から降ってくるのが見えたり、閃輝暗点で螺旋状の幾何学模様が見えたりする場合があるそうだ。これは純粋に神経的なものだと考えられるが、混雑した場所で見えると注意をそがれてしまうので、やっかいだ。またビジュアルの夢も見るとのことで、見えない人の夢の特徴はむしろ「夢から醒めたときに何も見えなくなる」というところにあるようだ。