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7/13午後 ケソン市 パヤタス

パンソルをあとにして北上、パヤタスへ。パヤタスにはダンプ・サイト(廃棄物処分場)があり、廃棄物を拾いながら生活している人たちがそのまわりにスラムを形成している街、と聞いていた。ゴミ山からメタンガスが出るためスモーキー・バレーとも呼ばれ、2000年にはついに崩落事故が起こり、400人とも800人とも言われる人が犠牲になったそうだ。かつては匂いも酷かったようだが、今は匂いもなく、道も舗装されている。

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実際に行ってみて初めて理解したのは、廃棄物を拾うとは結局ゴミを分別するということだということだった。パヤタスの街に通じる大通り沿いには、タイヤのゴムや、鉄くずや、電線などを扱う「専門店」が並んでいる。分別なしに捨てられているゴミの山から、ゴム屋はゴムを拾い、鉄くず屋は鉄くずを拾い、それを束ねて自分の店に並べる。客はそれを買っていってリサイクルする。

分別に「加工」が加わる場合もある。たとえば、端切れからラグマットを作っている工場を見せてもらった。YシャツではなくTシャツに使うような伸縮性のある布の端切れを短冊状に切り、それを長方形の布ではさんで「中綿」がわりにして、抑えのミシンをザーとかけていく、というスタイル。短冊を並べるのは女性の仕事(妊婦の女性や子供もいた)で床に座って作業をし、抑えのミシンをかけるのは男性の仕事。他にも、短冊の布を編んだマットも作られていて、お店で売られていたものを一枚購入した。

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金物や繊維だけでなく、食べ物もリサイクルされていると聞いたことがある。つまり、残飯を拾って、それを洗って売る店もあるそうだ。日本も明治時代に深川など中小工場が密集していた地域には残飯屋があり、労働者の食糧になっていたり、戦後にも進駐軍の残飯で作った残飯シチューがあったと聞く。

さてこの日の訪問先は、パヤタスのカトリック教会(Mother of Divine Providence Parish)。①教会の中で食事を作って提供するFeeding、②才能のある子を発掘して就学支援をするScholarship、③無料診療を提供するMedicineの3つが、この教会の活動の3つの柱だ。説明してくれた女性が私たちを見るなりやたら「common」と言うと思ったらそれは「公文」のことであった。30-40名の子供が算数を学んでいるらしい。放っておけば家計を支えるためにダンプ・サイトに送られてしまう子供に、奨学金を出して学校に行かせている。その子たちに会う機会があったけど、文字通り目がかがやいていた。

20240830211529.jpeg診療所も見せていただいた。20年前の設備だけどレントゲン室があったり、薬もそろっていて、日本の町医者のような印象。運営は寄付で賄われているとのこと。ダイオキシンやタバコの健康被害が多いそうだ。コロナのときは、消費期限の切れそうなワクチンがただで配られたとのこと。

繰り返し語られたのは「holisticなケア」ということだ。まず第一には個人と共同体(社会)を同時に見る「全体的なケア」という意味だ。だがもうひとつ、「聖なる」という意味もある(ということを初めて知った!)。そもそもholisticの語源は、ギリシャ語の「ホロス(holos)」で、ホロスの派生語には、「全体」「聖なる」「癒やし」「健康」といった言葉があるそうだ。「全体」と「聖なる」と「健康」がつながっていたなんて面白い。

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20240830214750.jpeg最後にパヤタスのバランガイキャプテンを表敬訪問。テクノロジーの話。ダンプサイトの中で何が起こっているかわからないから調査が必要だと。バランガイキャプテンは司法権も持っているから、机の上には裁判で使うような木製のハンマーが。

遅めのランチは、子供たちのあこがれ、ジョリビーへ。パンソルのフィーディングでも配られていた。お店の中では誕生日会?も開かれていた。甘いパスタにフライドチキン。いかにもジャンクで体には良くなさそうだけど予想以上のうまさ・・癖になるのわかる。

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午後の残りの時間はIさんがおすすめの本屋Solidaridadに連れて行ってもらう。閉店5時、ちょっと遅れてしまうかもしれないけど、開けといてくれる?と電話でお願いしつつ。混んだ道を車で急ぐ。フィリピンの国民的作家シオニル・ホセが1964年に開いたお店。ケアに関連しそうな本を5−6冊買い込む。店内には川端康成とホセが映った写真もあった。店頭には、ヒゲがぼうぼうの招き猫も・・

20240916113016.jpeg20240916113950.jpeg買い物後は、海沿いにあるリサール公園へ。リサールとは独立運動の英雄ホセ・リサールのこと。公園は日比谷公園のような雰囲気で、さまざまな遺物や碑文、銅像、洞窟などを通じて、リサールの人生とフィリピンの公式の歴史を知ることができる。夕暮れのなか、話のうまいガイドさんをその場でやとって公園内を散策する。

リサールはヨーロッパで医学や社会学を学びつつ、「人権宣言」をタガログ語に翻訳、帰国して小説『ノリ・メ・タンヘレ』(1887)を出版、これがスペインから反植民地的だとされて日本に逃れ、臼井勢似子と恋愛関係に(と、ガイドさんが強調してた)。渡欧を経て1892年に帰国、「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を結成しようとしていたが、ミンダナオ島に流刑。その後スペイン軍医になるが、「ラ・リガ・フィリピナ」のメンバーだったアンドレス・ボニファシオが作った秘密結社カプナタンが独立闘争を開始したため、バルセロナで逮捕。1896年に銃殺刑。辞世の句『ミ・ウルティモ・アディオス』は公園内に各国語&点字で碑文になっていた。カプナタンの独立闘争は、結局うまくいかず、フィリピンはスペインからアメリカ合衆国へ2,000万ドルで割譲されてしまう。

20240916115939.jpeg20240916120002.jpegもちろんこれはあくまで「公式の歴史」であって、Iさんが教えてくれた『キリスト受難詩と革命』などを読むと、「ヨーロッパで学んだ知識人たちが革命を導いた」という見解とはまた違う「下からの革命」の様子が見えてくるのではあるけれど、そもそも国名からして「フェリペ2世」に由来するこの国にとって、自国の歴史を語ることの難しさとその重みを感じるツアーだった。

公園の裏にはパシグ川(ピリピーノ語で「砂の堤防」という意味)が流れており、大量のウキクサ(ヒヤシンス)が流れていた。対岸には中華街が見えた。