Project 2020.02

私の手の倫理(7)九谷焼

以前、仕事で九谷焼の赤絵の先生にインタビューしたことがあります。
九谷の赤絵は細筆で細密描写を施した大変技術力の必要なもので
その道の大家と呼ばれる先生でした。
当日、お話し伺わせていただいた後「もうすぐ個展だから」と
沢山の出来上がったばかりの作品を見せてくださいました。
壺やら大皿やらと、いわゆる古典柄の美術工芸品で
その当時30代だったわたしには個人的には縁遠く
興味をひかれるものではなかったのですが
先生が「さわっていいよ」とおっしゃってくださいます。
傷でもつけたら!とビクビクしながらも壺を持ち上げ撫でつつ
頭の中では「これ幾らするのかな」なんていう冷静な自分がいました。
でも、手から何か伝わってくるのです。
それは今もうまく言語化できないのですが
その作品を作っている時の先生の集中力というか、エネルギーというか
そういうものが手からビリビリ伝わってきてしまい
頭は冷静なままなのに、勝手に涙があふれてきてしまいました。
なんの涙なのかよく分からないのですが
ある意味では「感動」だったのだと思います。
自分でもびっくりして、先生もびっくりしていましたが
「ほんとに好きなんだね」と笑ってくださいました。(K. Fさん)

私の手の倫理(6)仏像の修復

大英博物館で修復のインターンをしていたときに、自分が足の部分を担当していた仏像の手に自分の手を合わせたいという欲求がすごくあって。右の手のひらを前に向けている姿で、調べたらそれは「don’t fear」という意味でした。それである朝早く仕事場に行って、誰もいないときに横に座って手を合わせてみました。もうゾクゾクっとする感じでした。手を合わせたことで、この仏像が言っている「don’t fear」ということが入ってきて、将来私が落ち込んだりしたときに、この感触を思い出すんだろうなと思いました。心が通じたというか、特別な感覚でした。仏像も床に寝ていると、威圧的じゃなくて、親近感があるんですよね。普段見下ろされているのに、私が見下ろすというのは変な感覚ですね。(S. M.さん)

像を触ることで分かるものは何層かのレイヤーになっていて。肖像でバストだと、修復するときも、モデルになった人をイメージしますよね。その人はもういないんだなあと思う。さらにそれは誰かが作ったわけだから、作った人のことも考えるんですが、裏側を見たりすると鑿で荒く削ったところとか、石膏だと手で掻き出したりしたところがあって、そこを手でなぞったりします。素材自身の歴史もあります。たまに石のなかに小さい化石が入っていたりして、何億年か前の生き物を感じたりします。前の世代の修復の方がやっていらした仕事も見えますね。
修復の仕事をしていると、「親密になる」ってみんな言うんですよね。一緒にいるという感じで、手放しちゃうのが淋しいです。(S. M.さん)

 

私の手の倫理(5)合気道

ドイツで合気道の大会があったときに、多分あれポーランド人だったと思うんですけど、年配の女性がいて、組み手で相手の手首を持ち合うんです。感情的にはまったく親しげに優しくしてくれるわけじゃないですけど、皮膚をさわったときに「この人は知らない人じゃない」と思えたんですよね。他の人には感じない、至福の瞬間を感じたんです。(O. J.さん)

私の手の倫理(4)駅で

 1年程行っていたドイツで知り合った日本人の女性がいた。彼女はシュタイナー教育を勉強していて、常に一生懸命な人だった。私が日本に戻り3年ほどしてから、彼女は一時帰国することになり、久しぶりに会うことになった。カフェで数時間もドイツの思い出話や現在の状況を語りあった。
けれども、私は異国での開放的な感じから、気を使い合う日本社会に引き戻されて、どこか斜に構えたようになっていた。
別れ際の駅で、彼女はふっと私を抱きしめた。それは、異国であれば割と普通な挨拶ではあったが、彼女の優しさが痛いほどに伝わってきて涙してしまった。
日本では家族であっても身体的に触れ合うことが全くない生活で、あの一瞬の出来事は今でも身体を通して心に触れたような出来事としてずっと心に残っている。(N.M.さん)