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聴覚版VR

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芸術Cの課題作品として学生が作った聴覚版VRシステムが、iPhone用ゲームアプリとして、iTuneで公開されました
授業は科学技術とアートの関係についての話をメインに、ときどき目の見えない世界の話などをしていたのですが、学生はそこをうまくつなげて、「視覚ぬきのスマホの使い方」を提案してくれました。音が空間に定位されていて、スマホをそちらに向けると、鳥のさえずりやゾンビのうめきが聞こえてくる。音が聞こえる方向にスマホを向けたままタップすることで、音の主を捕獲(=写真に撮る)ことができるという仕組みです。

授業の成果がパブリッシュされるというのはとても嬉しいこと。いい反響があることを期待しています。


ーーーー(以下、アプリのディスクリプション)ーーーー
アプリの内容は、
あなたの周囲360度に広がる『音』に耳を澄ませよう!
視覚情報の一切ない状況で『音』だけを頼りにミニゲームに挑戦!
聴覚版の擬似現実( VR )体験が出来る新感覚アプリここに誕生!
聴覚を刺激する3種類のミニゲーム
いずれも視覚情報は一切ありません。
周囲360度から聞こえる音を拾いながら状況を判断しよう。
(デバイスの向きとゲーム内のあなたの視線は同期しています。デバイスの向きを変えることでゲーム内のあなたの視線の向きを変えられます。)
1)Bird Watching
あなたは静寂と騒めきに包まれた森林でバードウォッチングをしている。周囲から聞こえるホトトギスの鳴き声をよく聞き、上手に写真を撮ろう。
2)Zombie Baster
血肉に飢えたゾンビが出る真夜中の墓地に迷い込んでしまったあなた。
手に構えるショットガンで襲いかかるゾンビの軍勢に立ち向かおう。ただし真っ暗闇の中、あなたが頼れるのは自身の聴覚だけ、、。
3)Jet Chase
白熱の空中逃走劇!
ジェット機に乗り亡命を企むUFOを捕まえよう。しかし、UFOは姿が見えず機体が発するサイレン音だけが頼りだ。

2016芸術C作品講評会

今年度から新しく始まった3-4年生向けの科目、芸術C。「科学技術とアート」というテーマで、過去の歴史的名作について学びつつ、最終的には各自が自分の作品を作って発表します。中間発表でプランを練ってからの制作だったこともあり、なかなかの力作ぞろい。「アート」ということを意識せず、どんな経験を人に与えたいかに焦点をしぼ
って楽しんで作れたのが何よりよかったです。ものづくり大学といいながら、気軽に作る雰囲気、実はあまりないんですよね。

◎メールが来ると肩を叩いて教えてくれるリュック

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◎回転椅子に座って回されながら体験するVR

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◎反転した画像を見ながら図形をなぞる

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◎スマホのバイブ機能で心拍を体感

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◎ラバーハンドイリュージョン

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◎ギークな雰囲気

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渇望する東京(村上)

20151117231243.jpg村上さんレビュー第4弾。大学のイベントでゲストにも招いた長谷川祐子氏キュレーションの「“TOKYO”—見えない都市を見せる」展(東京都現代美術館)。こういう展覧会は、見る人の世代や経験で印象がだいぶ変わるのが面白いです。メタキュレーションという手法も最近よく見かけます。


 

渇望する東京

 

東京的承認欲求

 

2020年の東京オリンピック・パラリンピックをめぐるあらゆる失望のなかでも、わたしたちは2020年という近未来的な字面に希望を諦めずにはいられない。東京アートミーティングの第6弾として開催された「“TOKYO”-見えない都市を見せる」展は、世界に誇る東京の魅力の源泉を80年代のサブカルチャーに見出し、現在へと接続することによって「新しい東京の創造力」という希望と、ある種の安心感を与えている。

 

 80年代、高度経済成長を終え、すっかりアジアの中でのエリート意識を手に入れた日本は、欧米のなかでは未だ劣等感を募らせてもいた。そんな複雑なプライドを持つ日本の首都、東京の文化は、世界から承認されたいという欲求に突き動かされてきたのではないだろうか。

 今展の蜷川実花のセクションでは、今の東京のディープなサブカルチャーを代表する「ギリギリの人たち」撮影し、Instagramを思わせる正方形のフォーマットで展示している。蜷川は80年代の竹の子族やジュリアナ東京といった誰もが“見られる”立場になることができる装置としてのサブカルチャーが、東京的な自己表現の特徴であると考え、80年代の若者文化を文字通り自身の写真の背景に据えることによって、東京的な自己表現の系譜を具現化した。

 彼女の言う「ギリギリの人たち」とは、「際限ない承認欲求とそれを制する自分自身の理性とがせめぎ合う」境界線で戦っている人たちを指し、彼らはInstagramにおいて「いいね」を得るために写真を加工し、メイクを施し、コスプレするが、その自己演出は時に整形にさえ及ぶ。蜷川はそのような自己表現に傾倒していく彼らを愛おしいと述べ、圧倒的に支持する。彼らの際限ない承認欲求は、彼らに特別なのではなく、日本の、そして東京に通底する欲求なのではないだろうか。そして、この展覧会が私たちを満たす理由もそこにある。

 

東京の自尊心を取り戻す

 

宮沢章夫とYMOのセクションでは、80年代の良質なサブカルチャーとしてのYMOが現在にも通づる文化事象であることに誰もが納得するのではないだろうか。病的に統制されたビート、洗練されたコスチュームやアートワークは約30年前のものであるが、現在のわたしたちにとっても誇らしく、鼻が高くなる。今展は「東京のオリジナルな文化アイデンティティの批評」という試みであり、まさに彼らはこの展覧会において、現在までの日本のサブカルチャーを代表し、これからの東京に新たに求められるべきオリジナルな文化アイデンティティとして参照されている。

 そもそもYMOは、彼らに影響を与えた欧米の音楽へのカウンターという形で、黄色人種として、日本人として、東京から発信する音楽の可能性を探りテクノ+ポップというハイブリッドな形態とアジア人らしさを誇張する人民服や背広などのヴィジュアルを選び取ったのである。しかし、今展においては、彼らを形成した外的な影響が拭い去られてしまっていた。彼らが背負わされたのは日本独自に突然「ぽっ」と生まれたオリジナルな文化への期待と言えるだろう。そのことで彼らは、まるで悟りを開いたかのように突然に生まれた東京オリジナルな文化へと昇華させられ、日本人のアイデンティティが含む承認欲求を満たす役割を負ってしまったのである。

 

中国のアーティスト、林科は東京をテーマに作品を制作しているが、東京に一度も来たことがない。デフォルトのソフトウェアを使い、中国から仮想の都市としての東京を更新するように、作品を制作する。《トーキョーのビーチ》は、ショパンのピアノ曲のピッチを波のように上下させた音に合わせて、その波形を映像で見せた。穏やかで豊かな海が、時にわたしたち襲いかかり、日常を破壊することを知ったわたしたちにとって、この作品は東京の忘れっぽい性格に対する警鐘のようであった。

しかし、この展覧会で林科の作品が担っているのは、日本と政治的な対立や文化的な違いを抱える中国からの東京に対する目線を可視化し私たちを安心させる役割と考えるのは過敏だろうか。わたしには、中国からの日本・東京への関心あるいは好奇の視線のサンプルとして、80年代にあった日本人のアジア内でのエリート意識を取り戻し、安心感を与える機能を持たされているようにも思えてしまった。

 

更新される近未来

 

 一方ポスト・インターネットの感性はそうした80年代的な東京感を脱することを可能にするにするかもしれない。EBM(T)は89年生まれのナイル・ケティングと90年生まれの松本望睦によるアーティスト・ユニットであり、同時に彼らが主催するバーチャルの聴覚室を指す。彼らの選んだ作品のほとんどが10年代以降に制作された作品であり、テクノロジーや技術を用いて今日的な都市と都市の感覚を描写している。テイバー・ロバックの《20XX》は、世界中の都市から高層ビルや企業のネオンのロゴがサンプリングされた映像作品であり、日本という国の人格形成を手伝った企業のネオンや、見覚えのあるビルが目に入る。80年代の東京が夢見ていた未来の都市を写したレンズは、どんどんと雨に濡れ、写る都市の形を歪ませる。わずか10秒間で次の都市を映し出し、近未来的な都市という妄想の儚さを視覚化している。

 

ここ数年、特に2020年オリンピック・パラリンピックの招致決定後からは国民レベルでの自尊心への渇望が顕著であるように思われる。この展覧会は渇望したわたしたちに、80年代の東京が夢見たのと同様の夢を見せるように働きかけ、承認欲求を満たし安心させる。しかし、忘れてはならないのは、そうした近未来への期待はテイバー・ロバックの作品のように、現れては消えて、現れては消えてを繰り返し、時に絶望を伴って打ち破られたのだった。ホンマタカシは、今展で「何かが起こる前夜としての東京」と銘打ち東京の歩んできた物語をキュレーションしている。良くも悪くも東京は、何かが起こる前夜であり、夢を見せるが夢を破る場所でもあるのだ。

新しい時間(村上)

藤研M1の村上さんによる展覧会レビュー第3弾。原美術館「そこにある、時間」展について書いてくれました。写真の「神話」ともいえる時間性に切り込んでいます。

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原美術館「そこにある、時間」展評

 

新しい時間

村上由鶴(むらかみゆづ)

 

 決定的瞬間の呪縛

 

「そこにある時間 —ドイツ銀行の現代写真コレクション−」展はドイツ銀行が所有する60,000展の現代美術のコレクションのなかから写真を使った表現を紹介する展覧会である。いまや写真は現代美術の中心的なメディアになり、多くの作品が生み出されてきた。今展では写真作品を通し、「時間」というテーマで時間のさまざまな形を提示している。

 

1964年に、MoMAの写真部門のディレクターにジョン・シャーカフスキーが就任し開催された「写真家の眼(Photographer’s eye)」展では、写真を評価する際の軸として、「物、そのもの」、「細部」、「枠」、「より良い視点」そして「時間」という5つの写真の独特の性質が挙げられた。これらの特性は、写真家が写真を撮影する際に選択する写真家の特徴でもあるために、写真を判断する際の軸になった。

 今日でも、「時間」をテーマとして写真展が開かれているように、「時間」はずっと変わらず写真の重要な要素であり、ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べた 写真のノエマ「それは、かつて、あった」にも、大きく関わっている。しかし、この半世紀の間に写真における時間の表現は、シャーカフスキーの評価したものとは明らかに変わっているのではないだろうか。

 

まず、約半世紀前の「写真家の眼」展では、リー・フリードランダーや、ウィリアム・エグルストンなどの作品が紹介され、彼の5つの評価軸にかなったものとされた。リー・フリードランダーの写真は技巧的な美しさの表現によらず、日常的な光景を飾らずに写したものが多い。ウィリアム・エグルストンのカラー写真もまた、風景や建物などの日常の風景とその色の美しさを写していた。シャーカフスキーは、写真家が「瞬間の切片を不動なものにする」[1]うちに見出した「実際に起こっている出来事とはかけ離れたような美と快」[2]を被写体の織りなす線や形態に感じとった。そうした美しさと快さのスイッチとなったのがアンリ=カルティエ=ブレッソンが言うところの《決定的瞬間》であり、シャーカフスキーが評価した写真の「時間」であった。しかし、彼らの写真は被写体が存在した過去のある1地点をありのままにとらえてはいたが、実は過去の1地点という写真の時間の枠にとらわれていたのである。

 

時間の呪縛を逃れる写真

 

では、今展で紹介された現代の写真における時間ではどうだろうか。

今展で紹介された日本人のアーティストのひとり、杉本博司は写真を使ったコンセプチュアルアーティストである。《劇場》シリーズは、杉本が1本の映画の間、シャッターを開放して撮影したものである。発光するスクリーンとスクリーンが照らす劇場の内部は1本分の映画とその時間を写している。この写真も、一定の時間を切り取ったものである点ではフリードランダーやエグルストンの写真と違わない。しかし、この写真に流れる時間は、シャーカフスキーの提唱した「時間」とは明らかに異なる。杉本の写真には時間そのものの形が写っていながら、ほかにはなにも写っていないのである。つまり、この写真には「物、そのもの」という部分が欠落しており、それを補完する物として「時間」が肥大化し、「時間、そのもの」として可視化されているのだ。

 

また、ツァオフェイの作品《ユートピアは誰のもの》では、中国の工場で働く若者の夢や願望を彼ら自身が演じた様子を撮影している。被写体となった個人の期待する未来は撮影されることによって、過去に存在したものとして証明される。この写真には、「それは、かつて、あった」という写真のノエマがにおわす過去、彼ら自身の未来、そしてわたしたちが彼らの未来を見つめる今という複数の時間が流入し、彼らの実際の生活から夢までの隔たりを否応なく感じさせる。

 

さて、シグマー・ポルケの写真にはシャーカフスキーの5項目のうち、どれかが当てはまるだろうか。観者は感光した印画紙のわずかなグラデーションに混乱させられる。キャプションに目を移すと「Ulan」とある。この写真はウランの放射性物質に感光した印画紙の痕跡なのである。こうした何も写さない写真に観者は、新しい写真の時間を体験する。

シャーカフスキーの頃の写真と言えば、タイトルなしでも、人が写っているだとか、どこかの草原だろうかとか、現実に即したある状況や状態のインデックスとして見ることができたわけだが、今回の作品において、観者は写真がなにを写しているのかを理解するのに、写真の外部に情報を求めることになる。写真は、その多くが1秒に満たないわずかな時間を写しているのと同時に、それを鑑賞するとき、内容を理解するのに多くの時間を要さない媒体である。それは、写真が現実に即したある状況や状態を指示する言語のような機能を持つからなのだが、ここでは写真1枚そのイメージだけでは、そうした写真の機能が剥奪されている。逆に、そうした機能から逃避していると言ってよい。指示機能のない写真においては、撮影も鑑賞も無時間的なのであり、その無時間性が可視化されていると言える。

 

写真が氾濫しきったいまでも、わたしたちは真実性や現実への依拠を写真に期待してしまっている。そうした写真の能力を存分に発揮したのが、シャーカフスキーが評価した写真であり、わたしたちが期待してしまう写真でもある。しかし、現代の写真は、写真への期待に対する裏切りを繰り返して表現を広げていった。「時間、そのもの」の形を可視化させた杉本や、未来を写真の射程に含めたツァオフェイ、時間を感じさせる要素を排除したポルケなどの写真においても、過去の1地点という区切られた時間から逃れることに成功している。

通常、時間は、眼で見たり手に触れたりして感じることのできないものであるが、今展の写真が描写した新しい時間のすがたは、わたしたちを取り囲む時間の枠を手に取るように見せ、同時にそれを超えるためのたくましい想像力を育ててくれる。いまや写真は過去の存在の証明には協力しない。わたしたちは時間を、そして無時間をも見ることもできる。写真は新しい時間の経験を与えるのである。

 



[1] ジョン・シャーカフスキー『写真家の眼』(ニューヨーク近代美術館、1966年)John Szarkowski, The Photograper’s Eye,New York: The Museum of Modern Art, New York, 1966. 佐藤守弘〔訳〕

 

[2] 同前