Lab 2015.08

文系ゼミ(27年度前期)

8月10〜12日にかけて、文系ゼミのフィールドワークとして越後妻有トリエンナーレに行ってきました。20名と大所帯でしたが、毎日2時間の振返り会、そして夜更けまでの飲み会とディープで濃厚な3日間でした。

十日町市の石井さんのご協力のもと、今回の見所をバッチリ抑えたプランで作品めぐり。それにしても『廃校』『古民家』の連続でした。学生たちは最初、廃校や古民家の暗さを「ホラー」と形容していましたが、それが過疎の現実であることに気づき、地方出身の学生や留学生の実体験を交えてディスカッションが深まりました。

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おもしろがれないおとなたち(村上)

A195-620.jpgM1の村上由鶴(ゆづ)さんが、作品撤去問題でゆれる東京都現代美術館「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」についての展評を書いてくれました。ラボのメンバーのよるレビューを、ここで少しずつ公開していきたいと思っています。アートマネジメントの学科が増えていますが、そこで教えられるのは基本的に「作品を作るまで」の制作プロセス。でも多様で自由な社会にとって必要なのは、むしろ「作品を作ってから」の鑑賞のプロセスを豊かにする力(まさに以下の文章で語られている「おもしろがる能力」)をつける教育なのではないかと思います。


おもしろがれないおとなたち

 

村上 由鶴

 

歓迎してくれない場所

 

 夏休みのこども向け展覧会として企画された本展は、4組のアーティストによる「考える」ための展覧会である。そして、こどもと同時におとなも楽しめる、というよりは、おとなが見るべきおとなのための展覧会である。

 この展覧会では、こどもたちは「おもしろがる」ことの天才として歓迎され、対するおとなたちはいつのまにか「おもしろがる」能力を失っていたことに目を覚まされる。おもしろがれないおとなたちの能力は、まだ回復できるだろうか。まだ間に合うだろうか。

 

 現代美術の展覧会に行くと、かなりの高確率で、けらけらと笑いながら足早に作品と作品の間を通り抜けていくおとなを目にする。彼らは自らが「わからない」ことを笑い、逃げるように去っていく。おかざき乾じろによる《はじまるよ、美術館》は「こどもしか入れない美術館」で、中学生以下ではないおとなのわたしたちは入ることも、通り抜けることも許されない。「おもしろがる」天才だけが入ることを許されたその空間から締め出されたおとなたちは、この“策”では、冒頭のメッセージのみを引き受け、展覧会タイトルの問いを反芻させられる。ここは自分(おとな)たちの場所ではないかもしれない。

 

自由を許された場所

 

 進んだ先には会田家(会田誠、岡田裕子、会田寅次郎)による「美術館は誰の場所?」という問いをテーマにした展示室が続く。彼らは、政治や教育、フェミニズムといった真面目なテーマを不真面目に茶化すことを真面目にやる。なかでも会田誠による《国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ》は、現日本の総理大臣に話し方や佇まいがそっくりで相当笑える作品ではあるのだが、ビデオ内で男が「すべての国が鎖国すべきだ!グローバリズムは敵である!」と拙い英語で話す様子には、既視感と予見性がある。確かに、鎖国すればこんな風に多くの国の面前で拙い英語を使って話すこともなくなるし、小学校で必修になることがきまった英語の授業も必要ない。国交がなければ、争いは起きないかもしれないし、起きなかったかもしれない。彼の訴える“平和”は、日々を普通に生きたいわたしたちの平和とそう大きくは変わらないかもしれない。

 「文部科学省に物申す」として小学生(しかも習字が苦手な)が書いたような字体で書かれた《檄文》は、会田家3人の家族の会話がそのまま展示室の壁からつられているような、とても素朴な作品だった。それらに加えて、展示室には会田家の作品や活動がところ狭しとぎっしり詰まっていて、家族アルバムのようである。アルバムにつまった超個人的な思いと思い出、テレビのニュースを見ながら家族で話したこと。そうしたクローズドで自由な“家族”という感覚が、美術館という公の場に放たれたとき、「美術館はだれの場所?」という問いは、自由を許された場所について考えるきっかけを与えてくれる。

 

 しかし、この展示室をめぐるここ数日の状況からわかるように “檄”を真に受けた「おもしろがる」能力をなくしたおとなが憤慨し、投げかけられた展覧会タイトルに対して「自分の場所!」と声高に答えているようで、自由を許された場所が許されないなんてことが、実際に起こってしまうかもしれない。こんな様子を見ていると「おもしろがる」能力の回復は、手遅れだったようにも思えてしまう。

 確かに、そもそもおもしろがり方など、誰も教えてくれなかった。《はじまるよ!美術館》の冒頭文の言葉を借りるならば、「ピカソ」のなにをわかっていれば「わかる」ことになるのかも、誰も教えてくれなかった。社会や他人の承認を得ることが正しさの裏付けだったし、とくにここ日本では批判されるような言動はしないことが美徳だったかもしれない。そうしておとなになるうちに多くのこどもたちは、「おもしろがる」ことを忘れた。

 しかし、本展覧会のタイトルにもう一度帰るならば、「だれの場所?」と問われている地球や社会には、誰もが含まれているし、美術館という場所には誰もが入ることを許されている。これらの場所には本来、考えたり、出入りしたり、おもしろがったりするための、干渉するための、余白があるはずである。もちろん、誰でも入れることを、そこを「自分の場所」にすることは全くの別物だ。

 

守るべき場所

 

 それでも、こうして、場所の余白を語るわたしでさえ「自分の場所!」と知らず知らずのうちに考えているもののひとつが地球かもしれない。

「地球はだれの場所?」というテーマで展示をしているヨーガン・レールはドイツ出身のデザイナーである。40年前ドイツから石垣島に移住したヨーガン・レールは、愛犬と散歩する海岸を大切に思っていた。彼の作品群は、彼が愛した場所が汚れていく様子を憂う気持ちにその出発点がある。浜辺に打ち上げられたプラスチックのごみを暖かい光を放つランプシェードに生まれ変わらせ、長い年月を経て劣化したビーチサンダルは生命力のある虫のような色をしていた。これらの作品は、光と時間、どちらも地球ずっと存在する美しいものを見せてくれた。これほど美しく親切な忠告があるだろうか。もはや「環境を大切に」という言葉が氾濫し、メッセージを持たなくなっているなかにあって、最後にヨーガン・レールがのこしたメッセージは切実だった。

 

 「ここはだれの場所?」という問いは、考える仕掛けに満ちた、美術館という場の挑戦状でもある。「おもしろがる」天才としてのこどもと一緒に考え、おもしろがるための余白が、本展覧会にはあった。そして、「おもしろがる」天才としてのこどもたちがおとなになったとき、この社会にはちょっと余白が生まれるかもしれない。わたしはあらゆる場所に干渉する余地としての余白を、美術館そして美術が担っていけると信じたい。そこは、わたしたちみんなの場所である。