Lab 2015.10

新しい時間(村上)

藤研M1の村上さんによる展覧会レビュー第3弾。原美術館「そこにある、時間」展について書いてくれました。写真の「神話」ともいえる時間性に切り込んでいます。

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原美術館「そこにある、時間」展評

 

新しい時間

村上由鶴(むらかみゆづ)

 

 決定的瞬間の呪縛

 

「そこにある時間 —ドイツ銀行の現代写真コレクション−」展はドイツ銀行が所有する60,000展の現代美術のコレクションのなかから写真を使った表現を紹介する展覧会である。いまや写真は現代美術の中心的なメディアになり、多くの作品が生み出されてきた。今展では写真作品を通し、「時間」というテーマで時間のさまざまな形を提示している。

 

1964年に、MoMAの写真部門のディレクターにジョン・シャーカフスキーが就任し開催された「写真家の眼(Photographer’s eye)」展では、写真を評価する際の軸として、「物、そのもの」、「細部」、「枠」、「より良い視点」そして「時間」という5つの写真の独特の性質が挙げられた。これらの特性は、写真家が写真を撮影する際に選択する写真家の特徴でもあるために、写真を判断する際の軸になった。

 今日でも、「時間」をテーマとして写真展が開かれているように、「時間」はずっと変わらず写真の重要な要素であり、ロラン・バルトが『明るい部屋』で述べた 写真のノエマ「それは、かつて、あった」にも、大きく関わっている。しかし、この半世紀の間に写真における時間の表現は、シャーカフスキーの評価したものとは明らかに変わっているのではないだろうか。

 

まず、約半世紀前の「写真家の眼」展では、リー・フリードランダーや、ウィリアム・エグルストンなどの作品が紹介され、彼の5つの評価軸にかなったものとされた。リー・フリードランダーの写真は技巧的な美しさの表現によらず、日常的な光景を飾らずに写したものが多い。ウィリアム・エグルストンのカラー写真もまた、風景や建物などの日常の風景とその色の美しさを写していた。シャーカフスキーは、写真家が「瞬間の切片を不動なものにする」[1]うちに見出した「実際に起こっている出来事とはかけ離れたような美と快」[2]を被写体の織りなす線や形態に感じとった。そうした美しさと快さのスイッチとなったのがアンリ=カルティエ=ブレッソンが言うところの《決定的瞬間》であり、シャーカフスキーが評価した写真の「時間」であった。しかし、彼らの写真は被写体が存在した過去のある1地点をありのままにとらえてはいたが、実は過去の1地点という写真の時間の枠にとらわれていたのである。

 

時間の呪縛を逃れる写真

 

では、今展で紹介された現代の写真における時間ではどうだろうか。

今展で紹介された日本人のアーティストのひとり、杉本博司は写真を使ったコンセプチュアルアーティストである。《劇場》シリーズは、杉本が1本の映画の間、シャッターを開放して撮影したものである。発光するスクリーンとスクリーンが照らす劇場の内部は1本分の映画とその時間を写している。この写真も、一定の時間を切り取ったものである点ではフリードランダーやエグルストンの写真と違わない。しかし、この写真に流れる時間は、シャーカフスキーの提唱した「時間」とは明らかに異なる。杉本の写真には時間そのものの形が写っていながら、ほかにはなにも写っていないのである。つまり、この写真には「物、そのもの」という部分が欠落しており、それを補完する物として「時間」が肥大化し、「時間、そのもの」として可視化されているのだ。

 

また、ツァオフェイの作品《ユートピアは誰のもの》では、中国の工場で働く若者の夢や願望を彼ら自身が演じた様子を撮影している。被写体となった個人の期待する未来は撮影されることによって、過去に存在したものとして証明される。この写真には、「それは、かつて、あった」という写真のノエマがにおわす過去、彼ら自身の未来、そしてわたしたちが彼らの未来を見つめる今という複数の時間が流入し、彼らの実際の生活から夢までの隔たりを否応なく感じさせる。

 

さて、シグマー・ポルケの写真にはシャーカフスキーの5項目のうち、どれかが当てはまるだろうか。観者は感光した印画紙のわずかなグラデーションに混乱させられる。キャプションに目を移すと「Ulan」とある。この写真はウランの放射性物質に感光した印画紙の痕跡なのである。こうした何も写さない写真に観者は、新しい写真の時間を体験する。

シャーカフスキーの頃の写真と言えば、タイトルなしでも、人が写っているだとか、どこかの草原だろうかとか、現実に即したある状況や状態のインデックスとして見ることができたわけだが、今回の作品において、観者は写真がなにを写しているのかを理解するのに、写真の外部に情報を求めることになる。写真は、その多くが1秒に満たないわずかな時間を写しているのと同時に、それを鑑賞するとき、内容を理解するのに多くの時間を要さない媒体である。それは、写真が現実に即したある状況や状態を指示する言語のような機能を持つからなのだが、ここでは写真1枚そのイメージだけでは、そうした写真の機能が剥奪されている。逆に、そうした機能から逃避していると言ってよい。指示機能のない写真においては、撮影も鑑賞も無時間的なのであり、その無時間性が可視化されていると言える。

 

写真が氾濫しきったいまでも、わたしたちは真実性や現実への依拠を写真に期待してしまっている。そうした写真の能力を存分に発揮したのが、シャーカフスキーが評価した写真であり、わたしたちが期待してしまう写真でもある。しかし、現代の写真は、写真への期待に対する裏切りを繰り返して表現を広げていった。「時間、そのもの」の形を可視化させた杉本や、未来を写真の射程に含めたツァオフェイ、時間を感じさせる要素を排除したポルケなどの写真においても、過去の1地点という区切られた時間から逃れることに成功している。

通常、時間は、眼で見たり手に触れたりして感じることのできないものであるが、今展の写真が描写した新しい時間のすがたは、わたしたちを取り囲む時間の枠を手に取るように見せ、同時にそれを超えるためのたくましい想像力を育ててくれる。いまや写真は過去の存在の証明には協力しない。わたしたちは時間を、そして無時間をも見ることもできる。写真は新しい時間の経験を与えるのである。

 



[1] ジョン・シャーカフスキー『写真家の眼』(ニューヨーク近代美術館、1966年)John Szarkowski, The Photograper’s Eye,New York: The Museum of Modern Art, New York, 1966. 佐藤守弘〔訳〕

 

[2] 同前