Project

2/2午前=ジャカルタ(LabTanya)

リサーチの旅もいよいよ最終日。

午前はまずLabTanyaのオフィスを訪問。ここは代官山の蔦屋⁈みたいな雰囲気の、おしゃれなコワーキングスペースの2階の部屋に案内される。ガラス張りの細長い部屋に入ると真ん中にシックな会議机が場所を占め、その上にはモニターがあってPCの画面が前面に映し出され、壁一面には貼られたカラフルなポストイットがあり、そこはまさに自分がふだん東京で慣れ親しんでいる「ミーティング」と寸分変わらない景色である。ひゅーっと一気に現実に引き戻される気が。

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LabTanyaは2015年にスタートしたデザインリサーチラボで、建築スタジオのなかのイニシアチブという位置付け(science-ecological design studioとも言っていた)。tanyaとはquestionのことで、デザインの力をつかって、人々の日常生活のあり方に問いを投げかける活動をしているそうだ。彼らが問題意識として抱えていることを聞くと、regenerative、sutainable、consumption&production cultureというこれまた東京でもお馴染みのキーワードが。とくに都市におけるゴミの問題には初期から取り組んでいて、たとえば「NO TRUSH CITYプロジェクト」(2015)では、ごみをださずに暮らせるかの実験をしたり、「ZERO WASTE HOME: POSSIBLE!」ではカードを作って学校に配布し対話のきっかけを作っているそうだ。RTよりもう一段上、RWのレベルを狙って活動しているのも彼らの特徴である。

20240314085100.jpegわ、都会のデザインプロジェクト!という感じで、ジョグジャで見てきたようなある意味泥くさい野生のコミュニティ活動とは全然違う。でもこれを「デザインされすぎていておもしろくない」と退けてはいけない。なぜなら彼らの立ち位置(前提条件)こそ、たぶん、東京で暮らす私の立ち位置に最も近いものだろうから。あらゆるものが快適にデザインされているこの立ち位置から、ジョグジャで見てきたような不便な生活の中の野生のケアをどう捉えるか、がたぶん問われているのだ。

つまり、ジャカルタで活動するLabTanyaにとっても、東京で暮らす私たちにとって、gotonroyong的なもの、あるいは利他的なものはすでに失われたものとしてある。というか、そういうムラ的なつながりを断ち切って、自由な匿名の個人として、都会にやってきたのだった。都会の暮らしは確かに身軽だけど、でも殺伐としていて、何かがあったときに助け合ってサバイブできる、身を委ねることのできる環境だとは思えない。だから捨ててきたその当のものをわざわざ探し求めている、そんな状況なんだと思う。

ここにあるのは、あの有名な「再帰的近代」の問題である。近代化によって、伝統とか、生きる意味とか、美の基準とか、それまであたりまえとされていたことから切り離されたときに、人はそれを意識的に再構築しなければならなくなる。実際、LabTanyaは「gotongroyongはユートピア」つまり「ここにはない理想」と言っていた。利他もたぶんそう。LabTanyaは、近代化された都市のなかで、gotongroyongを再発明しようとしているということだ。

その一例が、「Our commons: food resources」(2021-2022)というプロジェクト。説明を聞いていてなんだか切なくなってしまうんだけど、内容としては、都市の中で食べられる植物を探してそれをスープやクッキーなどに料理してみんなで食べる、というもの。インドネシアでは、木の葉っぱや実など、個人の敷地のフェンスを超えたものはpublicなのだそうで、そういう漏れたもの=コモンズをいただいて食べるという趣旨だ。つまり都会ではgotongroyongはワークショップで体感するものなのだ。彼らの問題意識は、スーパーで食料を買う人が増えるなかで、金銭的なやりとりが現実を隠しているということ。お金の変わりに知識(この場合はレシピ)を渡す、と言っていて、こういうときに金銭の代替物が「知識」や「スキル」だという感覚はbakudapanやruanrupaも言っていたこと。日本ではあまり当たり前ではないように思う(日本だと、君はいるだけで価値がある、みたいな議論に一気になってしまう印象がある)。

もっとも、ジャカルタが都市だと言っても、すべてが均一に都市化しているわけではない。ジャカルタには高層ビルもいっぱい建っているけれど、ちょっと目を向ければその下に「カンポン」と呼ばれる低層の家、ときにはバラックのようだったり壁すらなかったりする建物が密集して建ち並ぶ地域がスプロール的に広がっている。地方から出てきた人たちが、地元の親類や知人を頼って住み着いてできたもので、よく言えばたくましく自己組織化された集住地域、でも違法占拠であるものも多いという。LabTanyaメンバーのわかりやすい説明によれば、カンポンは「spiritは村だけどphysicalには都市にある」。つまり都市の中で、gotonroyong的な村の生活をしている人たちの生活空間ということだ(物理的な村のことはdesaと言う)。ただし彼らが一方的に都市に寄生しているというわけでもなく、都会的なオフィスビルで働く人がランチをカンポンに買いに行ったりするのは普通だそう。また、カンポンといってもいろいろで、スラムに近いものもあれば、中流くらいの給料をもらっているけれど、そこの暮らしが好きで住み続けている人も多いらしい。(午後にカンポンに行ったので詳細はあとで)

ケアと再帰的近代……ジョグジャ的なものを無邪気に礼賛することはその再演になってしまうし、かといって再帰性を全面にうちだしても、それはケアの本質からは遠ざかる。野生のケアかデザインされたケアか?今回のプロジェクトをアウトプットする上でもずっしり重い課題を得た気分になってLabTanyaをあとにした。

(引用・転載禁止:筆者のメモと記憶で書いているので、事実と違う場合があります。悪しからず・・)