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1/30午後=ジョグジャカルタ(北澤潤さん)

深夜0:05羽田発のフライトでジョグジャカルタ入り。トランジットのジャカルタで飛行機の遅れがあったので、ジョグジャについたのは13:00すぎ。この空港は2016年にできた新しい空港で、みんなわざわざ「NEW Yogya International Airport」と呼ぶとのちに北澤さんが教えてくれた。預けていたトランクが湿気でベトベトになっていて、乾燥した真冬の東京からトロピカルに来たことを実感する。南国では屋内と屋外の境界があいまいで、「えんがわ」的な日陰のスペースにみんなが自然と集まってくる。この気候が意外とケアのありかたに影響していることをのちのち実感することになる。

金色のゴージャスな空港の出入り口(金色の馬車みたいな展示もあった)を抜け、手配していただいた車にのりこむ。ホテルまで1時間強。街に入る前から道の両側に黄色や赤の巨大な旗が飾られていて、平塚の七夕祭り?みたいな賑わいである。聞けば2/14に大統領選があるとのことで、各政党が自分たちの色の旗を出しているのだそうだ。旗だけでなく候補者の顔がでかでかと配置された看板もある。日本と違うのは、大統領と副大統領がペアになって立候補しているところ。だからポスターにも顔が2つある(1つのやつは地方議会)。ジャカルタ生まれでジョグジャで大学時代を過ごした現地スタッフのIさんが、「現職のジョコ大統領の息子が副大統領候補になっていて、世襲政治が批判されている」と教えてくれる。日本では当たり前すぎて問題にすらならないけど・・。ちなみにジョコJr.とペアを組んでいるのは国防省のプラヴォ氏。ジョコ大統領に過去2回破れていて、そのときはコワモテ強硬派なイメージで売ってたけど、今回はソフトな印象に戦略を変えているとのこと。

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大統領選期間中であったことは、訪問のタイミングとしてはアンラッキーだった。展覧会やイベントがことごとくやっていないのである。この時期、人が集まるようなことをするのを、みんな避けるらしい。滞在中にいろんな人に理由を聞いたけど、「忙しい」「利用されるリスクがある」などの答え。「利用される」というのは、イベントに立候補者や関係者がとつぜん来て、票集め活動をすることがあるのだそうだ。

国政も気になるけど、でもインドネシアがよく「東南アジアでもっとも民主化した国」と言われる(実態は分からないけど)のは、むしろ地方分権化が進んでいるかららしい。今回の旅のために一夜漬けした『暴力と適応の政治学ーーインドネシア民主化と地方自治の安定』(岡本正明、京都大学出版会)によると、60年代半ばに確立したスハルト体制(映画『アクト・オブ・キリング』にもなった1965/9/30の共産党によるスカルノへのクーデータ未遂→スハルトによる共産党解体→権力掌握)はむしろ中央集権的だったらしい。「共産主義を完全に否定することで、格差の政治化を認めず、地方にはあまり自治権を与えず、エスニシティや宗教の政治化には歯止めがかけられていた」(6-7)。まあ、エスニシティ的にも、宗教・宗派的にも、階層差的にも、地域差的にも超多様なインドネシア(そもそも一体感があったわけでわなく、もともとオランダの植民地だったという成り行きでひとつの国になった)を統治するのはなかなか至難のわざだろう(旅行中、誰一人として「私たちインドネシア人は」という主語で語らなかった。みんなせいぜい「ジャワ人はJawanese」どまり。でもジャワ島といっても多様だし、これが厳密にどの範囲を指すのかは不明)。スハルト体制は30年も続いたが、97年のアジア通貨危機であっけなく崩壊。その後国内は混乱し、国家分裂論争もあったくらいで、インドネシアも第二のスーダンや第二のソマリアになるのかと思われたが、地方分権化がうまくいって、民主化に成功したようだ。ただ社会的亀裂が政治的争点にならないようにする工夫はいろいろあるみたい。今回の大統領選においても、同日に国会議員や地方議員の選挙もまとめて行われるらしく、これも争点を拡散させる仕組みなのだそうだ(9-10)。

地方自治といってもジョグジャは特殊で、王様(ハメンクブウォノ10世)が州知事をつとめている、ということを事前にオンラインミーティングしたBakdapanのメンバーが教えてくれた。王様が地方自治をして民主化、というのが日本の感覚すると何重にも謎めいているけど、北澤さんによれば「ふつうにその辺の道を自転車で走ってる、いい王様」らしい。一方で政治的にはいろいろ問題もあるようで、Bakdapanのメンバーは、「王室があるかぎりどんな運動をしても変わらないので ジョグジャのアクティビストはみんな疲弊している、それを支える必要がある」とも言っていた。

さてさてそんな赤や黄色の旗たちに歓迎されながら市街へ、そしてホテルへ。ホテルの前にはどこもベチャ(三輪人力車)が停まっていて、運転手のおじさんが猫並みの絶妙な体勢で昼寝してるのだった。

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ホテルで少し休憩したあと、リサーチのメンバーみんなで少し街を歩くことに。最初に行ったのはCEMETIというギャラリーで、SISATというグループ展が1/27まで開催されていたらしいのだけど、やはり大統領選の影響でいまはクローズド。SISATとはtacticという意味だそうで、地震と津波のあとの瓦礫でこどもたちと宝探しをやるプロジェクトなど、リサーチのテーマである「ケア」に通じそうな内容が紹介されていたらしく、これは見たかったなあとポスターの中の大統領候補者たちに恨み節を言う。でもクローズドしてても中に入れちゃうのがトロピカル?ジョグジャ?らしいところで、まだ搬出作業前だった最後のオブジェを見せてもらったり、スタッフの方と話して別のギャラリーを教えてもらう。

教えてもらったのはLAV Galleryというところで、パステルカラーのハートがあったからLAVはLoveのことなんだろうか。「Life of our years」という展覧会で日本の有名作家をグロくしたような作品とかがあったりして、退散。入場券にドリンクがついていて、温かいお茶(こちらのお茶は砂糖入りがデフォルト)をすすりながら猫をくすぐりつつ、今後の予定の確認。ちなみにギャラリーの前は中学校で広い校庭(というか原っぱ)でグランドホッケーや陸上をしていた。途中、道路をうめつくすバッタの群れのような通勤ラッシュのバイクたちを右手一本で制してわたるIさんの手腕に脱帽。

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夕食に向かう途中、Periplusという本屋を見つけて物色。基本英語の本のみで、日本では知らない日本人の本なんかもある。わたしはEelly KentのArtists and the People: Ideologies of Art in Indonesiaという本を購入。今回のリサーチの大事な副読本になりそう。

夕食は北澤潤さんさんとMediterranea Restaurantにて。北澤さんは2019年からジョグジャカルタ在住のアーティストで、こちらではStudio Belimbingを運営し、ガジャ・マダ大学で人類学を教えていらっしゃるとのこと。カルボナーラ、ピザ、タコ、サーモンステーキなどをつまみつつ、北澤さんご自身の活動や、それを通じて感じたジャワ文化のことをうかがう。北部での強制立ち退きがあった地域で、建国記念日用の運動会的イベント(パン食い競争)を企画したり、みんなが作るのが得意な小屋のコンテストを開いたことなど、「久しぶりに日本語が話せてうれしい!」とおっしゃってくれる北澤さん。ジャカルタ最初の夜に北澤さんのお話をうかがえたのは、今回のリサーチにとってめちゃくちゃ大きかった!

なぜなら「ケア」という私たちのテーマについて考えるうえで外せない、大事なキーワードを教えてくれたから。それは「ゴトン・ロヨンgotong royong」というもの。日本語に訳すなら「相互扶助」だ。語源的にはgotongとはパタヴイア地方の語で「非常に重いものを運 ぶこと 」「2、3人がかりで荷物を運ぶこと」、royongは「① よろめくこと」「② 物語」という意味らしい。この旅の間、いったい何回この言葉を口にしたり聞いたりしたことか!(ケアがその地域の社会情勢や文化の影響を受けて地域差をもつ、という点は重要)

まず前提として、北澤さん曰くインドネシアは「風穴だらけ」。日本ではアーティストの役割は「凝り固まっているところに風穴を開けること」なんて言われるけれど、それは道路や水道などのインフラや警察などの社会システムが整っているからで、インフラやシステムが脆弱なインドネシアではむしろ「風穴をうめたくなる」。「みんな作る能力が高く」て、たとえば家の前の道路が壊れたら、住民たちでお金と労力を出し合って直してしまうらしい(作る能力の高さは、二日後のJogja Disability Artsで足と手に障害がある方が自分用に作ったという改造バイクで驚愕することになる)。便座が外れただけで大家さんに連絡しちゃう自分を恥じつつ、いやでも道路を治すのはさすがに行政の仕事ではないのか?という疑問も湧く(後述)。足が悪い人がいたらみんな助けるし、病気の人がいたらみんなでお金を出し合って病院に行かせる。そうしたジャワニーズの助けあいの文化がgotong royongだ。

そっか、と納得する。アートの文脈では、インドネシアはコレクティブの活動がさかんというイメージがあるけど、彼らは別にコレクティブ・アートを狙ってやっているわけではなく、そもそもここでは何をするにもコレクティブで、その上にアートを載せるからコレクティブ・アートになるのだった。たとえば北澤さんは、コレクティブで活動しているわけではないけど、それでも何かを作ろうとすると、いろいろな職人さんと知り合って作ってもらうという形になるそうだ。日本だとまずホームセンターに言って材料を買ってきて、みたいになるけど、そうならない。ちなみにジョグジャは工芸がさかんで、職人さんの中にはかなり裕福な人もいるらしく、アーティスト=金持ちというイメージをもつ人もいるらしい。

インフラやシステムがととのっていないから、gotong royongが育つ。北澤さんによれば、こちらでは「他者の感覚が違う」のだそうだ。誰でも友達になる。そもそも生きていることがリスクだらけであり、だから生きているだけでいいという感覚がある。確かにそこにいただけの人がいきなり交通整理を始めたり、その人と運転手が気軽に言葉を交わしたりするのは、ジャワならではの気がする。誰でも潜在的には助け合う人=友達なんだろう。(ちなみにホテルのwifiのパスワードが誰でも思いつくような簡単なやつだったのだけど、やっぱり基本は性善説なのだろうか・・)

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ただし、このgotong royongが日本の相互扶助と違うのは、意外とかっちり制度化されていること。相互扶助というと単なる心構えの問題だと思われがちだけど、こちらには地域ごとにRT(エルテー:隣組)やその上位概念であるRW(エルウエー:町内会)といった仕組みが発達していて、月に1度という高い頻度で集まりがあり、そこで先ほどの道路補修などさまざまな地域の問題が話し合われ、解決されているらしい。

「日本と違う」と言ったが、実はこの仕組みを整えたのは1942-1945年にこの地を統治した日本の植民地政府である。要は、もともとあったgotong royongの文化を日本の隣組と組み合わせて制度化し、オランダ・ユダヤ政治の個人主義を排して、家族主義を根付かせ、勤労奉仕を奨励したらしい(沢英雄「「ゴトン・ロヨン」概念の誕生と変容 一一植民地期末期からスカルノ期まで一一」)。その後1945年の独立に際して、スカルノがパンチャシラ(建国五原則)を定め、それをひとことで述べるならgotong royongだと規定したのである。さらにスハルト政権はRT /RWの仕組みを、共産党撲滅のために利用し、隣組に身元確認の任務を負わせたらしい。こうなると恐怖の監視システムだ。

gotong royong、確かに素晴らしいし、ジャワ流ケアの本質を言い当ててはいると思うけど、一方で公共事業をやらないことの言い訳になっているような気もするし、歴史的な経緯や国家との結びつきもあって、一筋縄ではいかなそう・・そして旅のあちこちで訪ねた「gotong royongどう思う?」という質問に対して、みんな、それぞれの立場から違う答えが返ってくることになったのであった。

ちなみに帰国後に読んだ倉沢愛子『ジャカルタ路地裏(カンポン)フィールドノート』によれば、1983年には「RT・RWに関する1983年度内務大臣規定第7号」が規定されたらしい。その設立目的は以下(39)。

(1)相互扶助(ゴトンロヨン)と家族主義に基づいたインドネシア社会生活の価値を育成・維持し、保存すること

(2)デサ/クルラハン・レベルで行政、開発、社会の任務遂行を円滑ならしめること

(3)人民の福祉向上のための努力の中で、社会の自律的な潜在能力を集積させること

さらにRTの任務はこうなっている(39-40)。

(1)建国五原則(パンチャシラ)、1945年憲法、群島海域構想に基づいた社会生活の実現

(2)相互扶助(ゴトンロヨン)、自立、社会参加に向けて動員する

(3)国家の安定を支える一環と秩序の創造を助ける

(4)政府のひとつひとつのプログラムを周知徹底させ、守ることを助ける

(5)社会の全成員間の、そして社会の成員と政府との間の関係の橋渡しをする

(6)政府の責任になっている社会に対する奉仕を実施する

(7)生活環境の保全の一環として、地域の育成や運営という任務を積極的に助ける

文言だけ読むとなかなか恐ろしいですね・・

そんなこんなで初日は北澤さんからたくさんのことを教えてもらい、ぐるぐるした頭でホテルへ。すてきなホテルなのだけど、裏のモスクから早朝4時にアザーンが爆音で流れてくるので、全然眠れないのであった・・(非イスラム教徒は慣れると聞こえなくなるらしい)

(引用・転載禁止:筆者のメモと記憶で書いているので、事実と違う場合があります。悪しからず・・)