Project 2020.09

新刊『手の倫理』

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㊗️10/9に講談社から新刊『手の倫理』が発売されます‼️

「さわる」と「ふれる」の違いは?

「触覚モデル」じゃない「視覚モデル」の倫理とは?

「信頼」と「安心」の違いは?

そんな問いをめぐって、人の体にさわる/ふれることの意味について考えた本です。接触が忌避される時代だからこそ、また自己責任論が非常に強い国だからこそ、「身を委ねるほど相手のことが分かる」ような人間関係について考えてみたいと思いました。

とはいえ、このご時世では、直接本屋さんで手にとっていただくのも難しいかもしれない。そこで、本サイトで本の中身を簡単にご紹介しすることにしました。

また、刊行にあわせて、「私の手の倫理」なるプロジェクトも立ち上げました。こちらでは、さまざまな人からうかがった触覚にまつわるエピソードをアーカイブしていきます。


 あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。相手は自分のことをどう思っているのか。あるいは、どうしようとしているのか。「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもあるでしょう。こうしたことすべてをひっくるめて、接触面には「人間関係」があります。(序より)


【書誌情報】

著者|伊藤亜紗

出版社|講談社

発売日|2020/10/9

価格|1,760円

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【目次】

序(こちらで一部お読みいただけます)

第1章 倫理 …ほんとうの体育/フレーベルの恩物/まなざしの倫理/手の倫理/倫理と道徳/「倫理一般」は存在しない/不確かな道を創造的に進む/蟻のように/「多様性」という言葉への違和感/一人の中にある無限

第2章 触覚 …低級感覚としての触覚ーー「距離ゼロ」と「持続性」/モリヌー問題ーー「対称性」/触覚論が人の体にふれるには/触感はさわり方しだい/ヘルダーの触覚論/内部的にはいりこむ感覚/「じゃれあい」か「力くらべ」か/「色を見る」と「人にふれる」/ラグビーのスクラム/距離があるほど入っていける

第3章 信頼 …GPSに見守られた学生/安心と信頼は違う/結果的に信頼の方が合理的/リスクが人を生き生きさせる/ハンバーグが餃子に/「ふれられる」とは主導権を手渡すこと/だまされる覚悟で委ねてる/無責任な優しさで生きている/「もしも」が消えるまでの三年間

第4章 コミュニケーション …記号的メディア/物理的メディア/使える方法はいろいろ使う/伝達モード/生成モード/「さわる」は伝達、「ふれる」は生成/ほどきつつ拾い合う関係/相手の体に入り込み合う/死にゆく体を「さわる」/「できなさ」からの再編集/「介助」アレンジメントー複合体

第5章 共鳴 …ロープを介したシンクロ/足がすくむ/あそびから生まれる「共鳴」/ロープが神経線維/「伴走してあげる/伴走してもらう」じゃない関係/「伝える」ではなく「伝わっていく」/隙のある体/見えるように曲がっていく/あえてハンドルを切る/生成モードの究極形態/あずけると入ってくる

第6章 不埒な手 …介助とセックス/別のリアリティへの扉/「うっとり」のタイムスリップ/手拭いで柔道を翻訳する/勝ちたくなっちゃう/目で見ないスポーツ/不道徳だからこそ倫理的でありうる

あとがき(こちらで一部お読みいただけます)

【装画】

装画は黒坂祐さんにお願いしました。黒坂さんは色覚障害のあるペインター。だからこそ、黒坂さんの絵の中では、一般的には色彩が果たす役割を、線の震えや質の違いといった色彩以外の要素が担っています。黒坂さんへのインタビューはこちら

『手の倫理』序(一部)

日本語には、触覚に関する二つの動詞があります。

 

①    さわる

②    ふれる

 

英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。

たとえば、怪我をした場面を考えてみましょう。傷口に「さわる」というと、何だか痛そうな感じがします。さわってほしくなくて、思わず患部を引っ込めたくなる。

では、「ふれる」だとどうでしょうか。傷口に「ふれる」というと、状態をみたり、薬をつけたり、さすったり、そっと手当てをしてもらえそうなイメージを持ちます。痛いかもしれないけど、ちょっと我慢してみようかなという気になる。

虫や動物を前にした場合はどうでしょうか。「怖くてさわれない」とは言いますが、「怖くてふれられない」とは言いません。物に対する触覚も同じです。スライムや布地の質感を確かめてほしいとき、私たちは「さわってごらん」と言うのであって、「ふれてごらん」とは言いません。

不可解なのは、気体の場合です。部屋の中の目に見えない空気を、「さわる」ことは基本的にできません。ところが窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことはできるのです。

抽象的な触覚もあります。会議などで特定の話題に言及することは「ふれる」ですが、じっくり話すわけではない場合には、「ほんのさわりだけ」になります。あるいは怒りの感情はどうでしょう。「逆鱗にふれる」というと怒りを爆発させるイメージがありますが、「神経にさわる」というと必ずしも怒りを外に出さず、イライラと腹立たしく思っている状態を指します。

つまり私たちは、「さわる」と「ふれる」という二つの触覚に関する動詞を、状況に応じて、無意識に使い分けているのです。もちろん曖昧な部分もたくさんあります。「さわる」と「ふれる」の両方が使える場合もあるでしょう。けれども、そこに私たちは微妙な意味の違いを感じとっている。同じ触覚なのに、そこにはいくつかの種類があるのです。

哲学の立場からこの違いに注目したのが、坂部恵です。坂部は、その違いをこんなふうに論じています。

 

愛する人の体にふれることと、単にたとえば電車のなかで痴漢が見ず知らずの異性の体にさわることとは、いうまでもなく同じ位相における体験ないし行動ではない。

一言でいえば、ふれるという体験にある相互嵌入の契機、ふれることは直ちにふれ合うことに通じるという相互性の契機、あるいはまたふれるということが、いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機が、さわるということの場合には抜け落ちて、ここでは内―外、自―他、受動―能動、一言でいってさわるものとさわられるものの区別がはっきりしてくるのである。[1]

 

「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。ひとことで言えば、これが坂部の主張です。

言い変えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。そこにいのちをいつくしむような人間的なかかわりがある場合には、それは「ふれる」であり、おのずと「ふれ合い」に通じていきます。逆に、物としての特徴や性質を確認したり、味わったりするときには、そこには相互性は生まれず、ただの「さわる」にとどまります。

重要なのは、相手が人間だからといって、必ずしもかかわりが人間的であるとは限らない、ということです。坂部があげている痴漢の例のように、相手の同意がないにもかかわらず、つまり相手を物として扱って、ただ自分の欲望を満足させるために一方的に行為におよぶのは、「さわる」であると言わなければなりません。傷口に「さわる」のが痛そうなのは、それが一方的で、さわられる側の心情を無視しているように感じられるからです。そこには「ふれる」のような相互性、つまり相手の痛みをおもんばかるような配慮はありません。

もっとも、人間の体を「さわる」こと、つまり物のように扱うことが、必ずしも「悪」とは限りません。たとえば医師が患者の体を触診する場合。お腹の張り具合を調べたり、しこりの状態を確認したりする場合には、「さわる」と言うほうが自然です。触診は、医師の専門的な知識を前提とした触覚です。ある意味で、医師は患者の体を科学の対象として見ている。この態度表明が「さわる」であると考えられます。

同じように、相手が人間でないからといって、必ずしもかかわりが非人間的であるとは限りません。物であったとしても、それが一点物のうつわで、作り手に思いを馳せながら、あるいは壊れないように気をつけながら、いつくしむようにかかわるのは「ふれる」です。では「外の空気にふれる」はどうでしょう。対象が気体である場合には、ふれようとするこちらの意志だけでなく、実際に流れ込んでくるという気体側のアプローチが必要です。この出会いの相互性が「ふれる」という言葉の使用を引き寄せていると考えられます。

人間を物のように「さわる」こともできるし、物を人間のように「ふれる」こともできる。このことが示しているのは、「ふれる」は容易に「さわる」に転じうるし、逆に「さわる」のつもりだったものが「ふれる」になることもある、ということです。

相手が人間である場合には、この違いは非常に大きな意味を持ちます。たとえば、障害や病気とともに生きる人、あるいはお年寄りの体にかかわるとき。冒頭に出した、傷に「ふれる」はよいが「さわる」は痛い、という例は、より一般的な言い方をすれば「ケアとは何か」という問題に直結します。

ケアの場面で、「ふれて」ほしいときに「さわら」れたら、勝手に自分の領域に入られたような暴力性を感じるでしょう。逆に触診のように「さわる」が想定される場面で過剰に「ふれる」が入ってきたら、その感情的な湿度のようなものに不快感を覚えるかもしれません。ケアの場面において、「ふれる」と「さわる」を混同することは、相手に大きな苦痛を与えることになりかねないのです。

あらためて気づかされるのは、私たちがいかに、接触面のほんのわずかな力加減、波打ち、リズム等のうちに、相手の自分に対する「態度」を読み取っているか、ということです。相手は自分のことをどう思っているのか。あるいは、どうしようとしているのか。「さわる」「ふれる」はあくまで入り口であって、そこから「つかむ」「なでる」「ひっぱる」「もちあげる」など、さまざまな接触的動作に移行することもあるでしょう。こうしたことすべてをひっくるめて、接触面には「人間関係」があります。

この接触面の人間関係は、ケアの場面はもちろんのこと、子育て、教育、性愛、スポーツ、看取りなど、人生の重要な局面で、私たちが出会うことになる人間関係です。そこで経験する人間関係、つまりさわり方/ふれ方は、その人の幸福感にダイレクトに影響を与えるでしょう。

「よき生き方」ならぬ「よきさわり方/ふれ方」とは何なのか。触覚の最大のポイントは、それが親密さにも、暴力にも通じている、ということです。人が人の体にさわる/ふれるとき、そこにはどのような緊張や信頼、あるいは交渉や譲歩が交わされているのか。つまり触覚の倫理とは何なのか。

触覚を担うのは手だけではありませんが、人間関係という意味で主要な役割を果たすのはやはり手です。さまざまな場面における手の働きに注目しながら、そこにある触覚ならでは関わりのかたちを明らかにすること。これが本書のテーマです。



[1] 『「ふれる」ことの哲学』、岩波書店、一九八三年、二十七頁

『手の倫理』あとがき(一部)

 幼い頃の幸福な思い出のひとつに、「盗みさわられ」があります。

「盗みさわられ」とはもちろん私の造語です。盗む相手は母。「盗み見」をするように、こっそり、母にさわられるのです。

 

 私の家族は、都心から電車で一時間ほどかかるところに住んでいました。一時間なんて今思えば大した距離ではないのですが、子供にとっては永遠と思われるほどの長旅です。シートに座ってじっと揺れに身をまかせ、空想の世界を三周ほど経めぐる。それでもまだ、道行きの半分にも到達していないのでした。絶望に駆られて「あと何駅?」「あと何駅?」としつこくたずねる私に、父も母もうんざりしたことでしょう。年に数回の都心へのお出かけは、欲しいものが買ってもらえる楽しみであると同時に、座禅にも似た耐えがたい苦行でもありました。

 そんなとき、「寝ていいよ」と母がひざや肩を貸してくれました。私はうなずいて大人しく身をまかせます。紙袋のガサガサいう音を耳元に感じながら、狭いシートに身をよじり、必死にきゅっと目をつむる。はあ、いつになったら着くのだろう…。じりじりと苛立つ気持ちを抑えながら、いつしかうとうとと眠りに落ちてしまうのが常でした。

 ふと目が覚めると、電車はまだ揺れています。都心を走っているときと、雑木林の残る自宅近くを走っているときでは、音の響き方が違うので、外を見なくてもだいたいどのくらいの地点を走っているかが分かります。まだまだ目的地までは遠い…。音からそう感じ取って、このまま目が覚めては大変だと、必死に眠気にすがりつこうとします。

と、そのとき、母の手が私の体をそっとなでていることに気づきます。それが背中だったのか、頭だったのか、今となっては覚えていないのですが、そのさわり方がどうもふだんとは違うのでした。

母とはよくいろいろな話をしましたが、基本的には子供の好奇心や自立心を大切にするタイプで、ベタベタと甘えるような関係ではありませんでした。それは母個人の教育方針というより、当時としては当たり前の距離感だったようにも思います。「抱き癖がつく」という言い方があって、子供が泣いてもすぐに抱っこしない方がいいという考え方がまだ残っていました。

なので、たとえば風邪をひいてお風呂に入れず、熱いタオルで体を拭いてもらうようなときであっても、拭き方はどちらかというと「ゴシゴシ」という感じでした。病気の私をいたわるというより、汚れをきちんと落とすことに主眼がある、情より科学が勝ったような拭き方だったのです。

 ところが、電車の中で感じた母の手は、ほとんど無意識的な、柔らかい触り心地をひたすら味わうような動き方をしていました。「汚れを落とす」とか「薬を塗る」とかいった目的から解放された、純粋にさわることを楽しんでいる手。私にとって大きな喜びだったのは、母が母自身の快楽のために自分をなでているように感じられたことでした。お母さんにとって、自分はさわりたくなる存在なんだ!その動きが無意識であればあるほど、母の手は自分という存在をまるごと肯定してくれているような感じがしました。

私はそのときたぶん小学校低学年くらいで、本心ではまだまだ甘えたい年頃だったのかもしれません。ああ、ずっとずっとなでていてほしいな。夢か現かのぼんやりとした頭で、私は必死に祈っていました。

そのために私ができることはただ一つ、「寝たフリ」をすることです。母の手の動きは無意識的なものなので、私が目を覚まししたら、きっといつもの距離のある関係に戻ってしまうことでしょう。母に気づかれないように息を殺し、目をつむってじっとさわられるがままになっていました。私は寝ている私は寝ている私は寝ている…。そんなふうにして幼い私は、私の知らない母の一面に「盗みさわられ」ていたのでした。

 

 触覚の話をすると、多くの人がこれまで誰にも話したことのないエピソードを語りはじめます。

 義理の親を介護することになったときのとまどい。人に足つぼマッサージをしてあげたときの自分の体も元気になる感覚。小学校の頃、手のひらに汗をかきやすくプリントがやぶけてしまったときの恥ずかしさ。「手に歴史あり」と言いたくなるような豊かな記憶が、その小さな面には蓄積されているようです。

 私自身、本書を書きながらさまざまな記憶がよみがえる経験をしていました。「盗みさわられ」のような幸福な記憶もあれば、もちろんあまり思い出したくない記憶もあります。書きながら、書いていることとは無関係に心をかき乱されるという、不思議な執筆経験をしました。

 触覚の記憶が心をかき乱すのは、それが写真にも映像にも残らない主観的な記憶であり、それゆえ圧倒的なリアリティを保ち続けるからなのでしょう。決して何にも置き換えられることのない、永遠に不可侵の生々しい記憶。そして、その圧倒的なリアリティの中に、当時の人間関係や感情が、時を経て全く古びることなく、真空パックされています。

その記憶は、どこまでも繊細で複雑です。本書では、議論を分かりやすくするために、さまざまな要素を図式化して論じました。しかし、実際の接触の経験は、その図式をはるかに超える豊かさを持っています。私の「盗みさわられ」だって、通常は物を対して使われる「さわる」にこそ、「ふれる」を超えた、母の真意を読み取ろうとしていました。そうとうねじれています。

本書を読んでくださったみなさんの手やその他の部位に、亡霊のようにさまざまな触覚の記憶が蘇っていったとしたら、それは著者にとってこれ以上ない喜びです。そしてそのリアリティの中で他者との関わりについて思いを馳せていただけたとしたら、まさにそれは「倫理」への考察に通じる道です。