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『手の倫理』あとがき(一部)

 幼い頃の幸福な思い出のひとつに、「盗みさわられ」があります。

「盗みさわられ」とはもちろん私の造語です。盗む相手は母。「盗み見」をするように、こっそり、母にさわられるのです。

 

 私の家族は、都心から電車で一時間ほどかかるところに住んでいました。一時間なんて今思えば大した距離ではないのですが、子供にとっては永遠と思われるほどの長旅です。シートに座ってじっと揺れに身をまかせ、空想の世界を三周ほど経めぐる。それでもまだ、道行きの半分にも到達していないのでした。絶望に駆られて「あと何駅?」「あと何駅?」としつこくたずねる私に、父も母もうんざりしたことでしょう。年に数回の都心へのお出かけは、欲しいものが買ってもらえる楽しみであると同時に、座禅にも似た耐えがたい苦行でもありました。

 そんなとき、「寝ていいよ」と母がひざや肩を貸してくれました。私はうなずいて大人しく身をまかせます。紙袋のガサガサいう音を耳元に感じながら、狭いシートに身をよじり、必死にきゅっと目をつむる。はあ、いつになったら着くのだろう…。じりじりと苛立つ気持ちを抑えながら、いつしかうとうとと眠りに落ちてしまうのが常でした。

 ふと目が覚めると、電車はまだ揺れています。都心を走っているときと、雑木林の残る自宅近くを走っているときでは、音の響き方が違うので、外を見なくてもだいたいどのくらいの地点を走っているかが分かります。まだまだ目的地までは遠い…。音からそう感じ取って、このまま目が覚めては大変だと、必死に眠気にすがりつこうとします。

と、そのとき、母の手が私の体をそっとなでていることに気づきます。それが背中だったのか、頭だったのか、今となっては覚えていないのですが、そのさわり方がどうもふだんとは違うのでした。

母とはよくいろいろな話をしましたが、基本的には子供の好奇心や自立心を大切にするタイプで、ベタベタと甘えるような関係ではありませんでした。それは母個人の教育方針というより、当時としては当たり前の距離感だったようにも思います。「抱き癖がつく」という言い方があって、子供が泣いてもすぐに抱っこしない方がいいという考え方がまだ残っていました。

なので、たとえば風邪をひいてお風呂に入れず、熱いタオルで体を拭いてもらうようなときであっても、拭き方はどちらかというと「ゴシゴシ」という感じでした。病気の私をいたわるというより、汚れをきちんと落とすことに主眼がある、情より科学が勝ったような拭き方だったのです。

 ところが、電車の中で感じた母の手は、ほとんど無意識的な、柔らかい触り心地をひたすら味わうような動き方をしていました。「汚れを落とす」とか「薬を塗る」とかいった目的から解放された、純粋にさわることを楽しんでいる手。私にとって大きな喜びだったのは、母が母自身の快楽のために自分をなでているように感じられたことでした。お母さんにとって、自分はさわりたくなる存在なんだ!その動きが無意識であればあるほど、母の手は自分という存在をまるごと肯定してくれているような感じがしました。

私はそのときたぶん小学校低学年くらいで、本心ではまだまだ甘えたい年頃だったのかもしれません。ああ、ずっとずっとなでていてほしいな。夢か現かのぼんやりとした頭で、私は必死に祈っていました。

そのために私ができることはただ一つ、「寝たフリ」をすることです。母の手の動きは無意識的なものなので、私が目を覚まししたら、きっといつもの距離のある関係に戻ってしまうことでしょう。母に気づかれないように息を殺し、目をつむってじっとさわられるがままになっていました。私は寝ている私は寝ている私は寝ている…。そんなふうにして幼い私は、私の知らない母の一面に「盗みさわられ」ていたのでした。

 

 触覚の話をすると、多くの人がこれまで誰にも話したことのないエピソードを語りはじめます。

 義理の親を介護することになったときのとまどい。人に足つぼマッサージをしてあげたときの自分の体も元気になる感覚。小学校の頃、手のひらに汗をかきやすくプリントがやぶけてしまったときの恥ずかしさ。「手に歴史あり」と言いたくなるような豊かな記憶が、その小さな面には蓄積されているようです。

 私自身、本書を書きながらさまざまな記憶がよみがえる経験をしていました。「盗みさわられ」のような幸福な記憶もあれば、もちろんあまり思い出したくない記憶もあります。書きながら、書いていることとは無関係に心をかき乱されるという、不思議な執筆経験をしました。

 触覚の記憶が心をかき乱すのは、それが写真にも映像にも残らない主観的な記憶であり、それゆえ圧倒的なリアリティを保ち続けるからなのでしょう。決して何にも置き換えられることのない、永遠に不可侵の生々しい記憶。そして、その圧倒的なリアリティの中に、当時の人間関係や感情が、時を経て全く古びることなく、真空パックされています。

その記憶は、どこまでも繊細で複雑です。本書では、議論を分かりやすくするために、さまざまな要素を図式化して論じました。しかし、実際の接触の経験は、その図式をはるかに超える豊かさを持っています。私の「盗みさわられ」だって、通常は物を対して使われる「さわる」にこそ、「ふれる」を超えた、母の真意を読み取ろうとしていました。そうとうねじれています。

本書を読んでくださったみなさんの手やその他の部位に、亡霊のようにさまざまな触覚の記憶が蘇っていったとしたら、それは著者にとってこれ以上ない喜びです。そしてそのリアリティの中で他者との関わりについて思いを馳せていただけたとしたら、まさにそれは「倫理」への考察に通じる道です。