Project 2024.08

7/13午後 ケソン市 パヤタス

パンソルをあとにして北上、パヤタスへ。パヤタスにはダンプ・サイト(廃棄物処分場)があり、廃棄物を拾いながら生活している人たちがそのまわりにスラムを形成している街、と聞いていた。ゴミ山からメタンガスが出るためスモーキー・バレーとも呼ばれ、2000年にはついに崩落事故が起こり、400人とも800人とも言われる人が犠牲になったそうだ。かつては匂いも酷かったようだが、今は匂いもなく、道も舗装されている。

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実際に行ってみて初めて理解したのは、廃棄物を拾うとは結局ゴミを分別するということだということだった。パヤタスの街に通じる大通り沿いには、タイヤのゴムや、鉄くずや、電線などを扱う「専門店」が並んでいる。分別なしに捨てられているゴミの山から、ゴム屋はゴムを拾い、鉄くず屋は鉄くずを拾い、それを束ねて自分の店に並べる。客はそれを買っていってリサイクルする。

分別に「加工」が加わる場合もある。たとえば、端切れからラグマットを作っている工場を見せてもらった。YシャツではなくTシャツに使うような伸縮性のある布の端切れを短冊状に切り、それを長方形の布ではさんで「中綿」がわりにして、抑えのミシンをザーとかけていく、というスタイル。短冊を並べるのは女性の仕事(妊婦の女性や子供もいた)で床に座って作業をし、抑えのミシンをかけるのは男性の仕事。他にも、短冊の布を編んだマットも作られていて、お店で売られていたものを一枚購入した。

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金物や繊維だけでなく、食べ物もリサイクルされていると聞いたことがある。つまり、残飯を拾って、それを洗って売る店もあるそうだ。日本も明治時代に深川など中小工場が密集していた地域には残飯屋があり、労働者の食糧になっていたり、戦後にも進駐軍の残飯で作った残飯シチューがあったと聞く。

さてこの日の訪問先は、パヤタスのカトリック教会(Mother of Divine Providence Parish)。①教会の中で食事を作って提供するFeeding、②才能のある子を発掘して就学支援をするScholarship、③無料診療を提供するMedicineの3つが、この教会の活動の3つの柱だ。説明してくれた女性が私たちを見るなりやたら「common」と言うと思ったらそれは「公文」のことであった。30-40名の子供が算数を学んでいるらしい。放っておけば家計を支えるためにダンプ・サイトに送られてしまう子供に、奨学金を出して学校に行かせている。その子たちに会う機会があったけど、文字通り目がかがやいていた。

20240830211529.jpeg診療所も見せていただいた。20年前の設備だけどレントゲン室があったり、薬もそろっていて、日本の町医者のような印象。運営は寄付で賄われているとのこと。ダイオキシンやタバコの健康被害が多いそうだ。コロナのときは、消費期限の切れそうなワクチンがただで配られたとのこと。

繰り返し語られたのは「holisticなケア」ということだ。まず第一には個人と共同体(社会)を同時に見る「全体的なケア」という意味だ。だがもうひとつ、「聖なる」という意味もある(ということを初めて知った!)。そもそもholisticの語源は、ギリシャ語の「ホロス(holos)」で、ホロスの派生語には、「全体」「聖なる」「癒やし」「健康」といった言葉があるそうだ。「全体」と「聖なる」と「健康」がつながっていたなんて面白い。

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20240830214750.jpeg最後にパヤタスのバランガイキャプテンを表敬訪問。テクノロジーの話。ダンプサイトの中で何が起こっているかわからないから調査が必要だと。バランガイキャプテンは司法権も持っているから、机の上には裁判で使うような木製のハンマーが。

遅めのランチは、子供たちのあこがれ、ジョリビーへ。パンソルのフィーディングでも配られていた。お店の中では誕生日会?も開かれていた。甘いパスタにフライドチキン。いかにもジャンクで体には良くなさそうだけど予想以上のうまさ・・癖になるのわかる。

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午後の残りの時間はIさんがおすすめの本屋Solidaridadに連れて行ってもらう。閉店5時、ちょっと遅れてしまうかもしれないけど、開けといてくれる?と電話でお願いしつつ。混んだ道を車で急ぐ。フィリピンの国民的作家シオニル・ホセが1964年に開いたお店。ケアに関連しそうな本を5−6冊買い込む。店内には川端康成とホセが映った写真もあった。店頭には、ヒゲがぼうぼうの招き猫も・・

20240916113016.jpeg20240916113950.jpeg買い物後は、海沿いにあるリサール公園へ。リサールとは独立運動の英雄ホセ・リサールのこと。公園は日比谷公園のような雰囲気で、さまざまな遺物や碑文、銅像、洞窟などを通じて、リサールの人生とフィリピンの公式の歴史を知ることができる。夕暮れのなか、話のうまいガイドさんをその場でやとって公園内を散策する。

リサールはヨーロッパで医学や社会学を学びつつ、「人権宣言」をタガログ語に翻訳、帰国して小説『ノリ・メ・タンヘレ』(1887)を出版、これがスペインから反植民地的だとされて日本に逃れ、臼井勢似子と恋愛関係に(と、ガイドさんが強調してた)。渡欧を経て1892年に帰国、「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を結成しようとしていたが、ミンダナオ島に流刑。その後スペイン軍医になるが、「ラ・リガ・フィリピナ」のメンバーだったアンドレス・ボニファシオが作った秘密結社カプナタンが独立闘争を開始したため、バルセロナで逮捕。1896年に銃殺刑。辞世の句『ミ・ウルティモ・アディオス』は公園内に各国語&点字で碑文になっていた。カプナタンの独立闘争は、結局うまくいかず、フィリピンはスペインからアメリカ合衆国へ2,000万ドルで割譲されてしまう。

20240916115939.jpeg20240916120002.jpegもちろんこれはあくまで「公式の歴史」であって、Iさんが教えてくれた『キリスト受難詩と革命』などを読むと、「ヨーロッパで学んだ知識人たちが革命を導いた」という見解とはまた違う「下からの革命」の様子が見えてくるのではあるけれど、そもそも国名からして「フェリペ2世」に由来するこの国にとって、自国の歴史を語ることの難しさとその重みを感じるツアーだった。

公園の裏にはパシグ川(ピリピーノ語で「砂の堤防」という意味)が流れており、大量のウキクサ(ヒヤシンス)が流れていた。対岸には中華街が見えた。

7/13午前 ケソン市 バランガイ「パンソル」

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今日はバランガイを訪問。バランガイとはフィリピンの町内会組織で、インドネシアを訪問したときにRT/RWと言われる町内会組織が相互扶助(ゴトンロヨン)の実働部隊として重要な役割を果たしていたことから、今回の視察でも訪問先に加えてもらった。バランガイはフィリピンが来る前(1521年以前)からあったシステムで、もともとは「船」という意味。マレー半島からやってくるときに、一つの船に乗っていた人たちの集団をバランガイと呼んだらしい。

バランガイのサイズは30-100戸とのことで、インドネシアRTの40戸よりは大きいものが多そうだ。しかも、バランガイは物理的なオフィスがあったり、議会などの組織があったりするので、RTのような相互扶助というより統治機構という感じがする。バランガイの長=バランガイ・キャプテンの仕事は地方自治法典に定められていて、法律や条例の行使(内閣)、社会秩序の維持(警察)予算支出の承認(国会)、紛争の調停(裁判所)など、かなりの権力をもっている。紛争の調停に関しては、この日2つめに訪れたパヤタスのバランガイで、キャプテンの机の上に裁判官用の木製ハンマーが確かに置かれていた。

朝ホテルを出発してまず訪れたのはケソン市のパンソルと呼ばれるバランガイ。マリキナ川の西、アテネオ大学のすぐ北に位置する。2020年の調査で人口35,254人、面積1.48平方メートル。ここは先進的なバランガイらしい。

「P」の文字がちょい曲がったRTのそれよりかなり大きなゲートをくぐると、すぐにオフィスが見えてくる。隣は遊具の充実した三角公園で、おじさんが寝たり子供が遊んだりしている。公園の中に駄菓子屋が3軒くらいあるのが日本とは違う。

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オフィスは2階建で、1階のピロティでは女性たちによる料理コンテストが行われていた。決められた予算が渡され、その予算内で材料を買ってチームごとに料理を作るというもの。実はこのコンテストの裏では別室にこの女性たちの子供20名ほどが集められていて、child feedingが行われている。child feedingってすごい表現だなと思ったけど、子供たちにとって大のご馳走であるジョリビー(チキンとスパゲティ)を床に座ってがっついているのだった。つまりこれ全体が食糧配給をイベント化したものだということだ。平常時にも食糧の配給(アユーダー)を行っているそうだ。

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川が近いので減災の工夫や食糧備蓄などを行っている、という説明をうけたあと、2階のバランガイ・キャプテンの執務に通される。現れたキャプテンは、日焼けした肌に真っ白い歯が光る胸筋のぶあつい男性であった(54歳と言ってたけど40代に見える)。元は警察で働いていたそうで、ソファにどっかりと腰掛けたその姿、これまでにお会いしたフィリピン人とは明らかにオーラが違う。。。

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キャプテンの部屋は、とにかくチャートだらけだ。Children in Conflictのチャートでは、子供が15歳以上か15歳以下かにまず分かれ、15歳以上の場合には、どのような場合に家庭裁判所に送られ、どのような場合に監視下に置かれ、どのような場合に医療に送られるのかが場合分けされている。Conflictの具体例として想定されているのは、「非合法ドラッグ(マリファナ、シャブ)の使用」「ネグレクト」「非ケソン市民のストリートチルドレン」などなどだ。

このチャートが象徴しているように、パンソルのバランガイ・キャプテンは「秩序」を重んじる男である。彼にとってケアとはディシプリン(規律・しつけ)を与えることであり、「大事なのはpeace and order」なのだ。「(麻薬戦争のドゥテルテみたいに)我々は殺すことはしない」と歯を光らせながら笑うキャプテンは、自らがこのバランガイに与えているディシプリンの内容について誇らしく語ってくれた。

まず、驚くべきことにここのバランガイには門限がある(22時)。通りでの喫煙は禁止。葬式のときの賭け事も禁止。夜は室内でも大きい音は禁止。治安維持法?的な自由の制限された世界なのだが、こうでもしないと麻薬などの侵食を阻止できないということなのか?こういうことと、学用品の無料配布や、先の食料配給、割礼の公費実施(対象は9歳。レーザーで一瞬で終わるらしい)、減災対策など、彼らはケアと言うけれど管理にも近いようなことが、彼らにとっては地続きである。要するにこの徹底的な管理体制が「先進的」ということらしかった。これもまたケアなのか・・お金の流れはどうなっているんだろう・・きのうおじゃましたジムでの、いろいろな人を包摂するケアとはあまりに違う世界で頭の中がくらくらする。

7/12午後=パラニャーケ市  E Boxing Gym

午後は、日本人研究者Iさんと合流し、Iさんの導きでマニラの人々の生活の深部にダイブイン!半日とは思えない濃密さだった・・

Iさんとの待ち合わせ場所であり午後の視察の拠点は、Iさんが20年以上前からフィールドワークしているEボクシングジム。Eジムは元世界チャンピョンが1970年代初頭に設立したジムで、現在は子供や孫の世代が経営している。経営している、といってもここはある種の複合施設で(ただし組み合わせは日本人の感覚からすると異分野すぎる感じ)、まず敷地内のメインの建物の1階はリングが2つあるボクシングジム(プロのボクサーが使う時間帯(6-7時/13-15時)と富裕層向けフィットネスの時間帯がある)で、2階は闘鶏場(もちろん賭けながら、の男の世界。鶏の足には刃がついていて、どちらかが死ぬまでやる。)、3階は大型客船みたいな紳士マダムの社交ダンス場。その隣は数百人分の席がある大きな野外レストランがあり、その奥にある商業用プールは、さらにはボクサーたちが生活する建物や鶏小屋がある。このほか敷地外にもいくつかのフィットネスクラブを運営していたり(コロナでかなり打撃があったとのこと)、ほかにも質屋や水売り場があるようだ。ビジネス手広くやってるなー才覚あるなーという印象を受けるが、案内してくれたマネージャーのMさんの話を聞くと、むしろ引退したボクサーたちや関係する仲間たち(ファミリー)のセカンドキャリアのための場所をたくさん用意しているということのようだ。たとえば彼らのフィットネスクラブのトレーナーは、引退したボクサーがつとめている。

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Iさんとは日本でお会いしたことがあって、それが学会だったからかもしれないけれど、フィリピンでお会いすると全くの別人そのものなのだった。事前のIさんからのレクチャーで「フィリピンは東南アジアだけどラテン系です」(フィリピンのスペイン統治は370年以上(1521-1898)、そもそもフィリピン=フェリペのこと)と聞いていたけれど、何を隠そうIさんがまっさきにフィリピン化=ラテン化していたのだった。汗をかきかき満面の笑顔でジムのボクサーたちとボディタッチでコミュニケーションをとり、2分に1回ペースできわどいジョークを飛ばす(「NOシャブ、BUTしゃぶしゃぶ」)。あとでIさんが教えてくれたようにフィリピンの人たちはパーソナルスペースが小さく、このことが地方から出てきた知り合いを自宅に迎えるような「家族」の流動性の感覚や、辛いことを泣き笑いしながら話す感覚につながっていて、そのときは気づかなかったけど、たぶんフィリピンの相互扶助を物理的感情的レベルで支える配置なのだと思う。

「家族Familiy」は、ジムのマネージャーでMさんもしきりに力説していた。ジムにいる人たちはみな家族なのだ、と。この意図するところのひとつは、ケアするのが当然という感覚、つまり返礼義務がないということなのだと思う。Mさんは仕事を世話したり、お金を貸したりして一方的に与える側にも見えるけれど、そのことで自分が損しているという感覚はないようだ。kuripot(けち)はよくないよ、と。Utang na loob(心の負債)を感じなくていい相手がFamilyということなのかもしれない。

(全然関係ないのだけど、Mさんの話を聞いているあいだ、そのうしろの壁がずっと気になっていた。ブロックを重ねたような作りで、たぶんあれはボクサーのみんなで作ったのではないかと思う。Mさんの話を聞いたのはメインの建物の1階の奥の事務所のようなところで、手前にはボクサーたちの生活空間があってIさんもここで暮らしたベットやシャワーをチラ見させてもらった)

Mさんはプライベートスペースにも案内してくれて、その住居の一画はこのジムを作ったチャンピョンの資料館のようなスペースにいなっていた。印象的だったのは、チャンピョンベルトやグローブにまじって、たくさんの革靴が展示されていたこと。チャンピョンは非常に貧しい家の出身で、靴を履くということに特別な意味を感じていたそうだ。

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Iさんが著書で示しているとおり、ここは国際的な成功と名声/抑圧と暴力へととつながっている「華やかなボクシングマーケットの入り口」である一方で、スクオッターと呼ばれる不法占拠地域とつながったローカルな「貧困層の人々の日常生活の場」でもある。フィリピンは人口の1/3がスクオッターに住んでいると言われていて、このジムも巨大なスクオッター地域と隣接している。たくさんのセルフビルドの家(でも意外と高層の「建物」もある)が密集するなか、通り沿いは肉、魚、野菜、米を売る店、日用品のみならずwifiを分単位で売ってるサリサリストア、教会などが並び、生活機能がすっかり根付いているさまはスラムというより下町という印象。ジムを後にし、MさんとIさんに案内してもらいながら、そんなスクオッター地域をぶらぶらする。

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スクオッターではジム関係者2名の自宅を案内してもらうことができ、これは本当に貴重な経験だった。1件目は「リノタイプ」と呼ばれる地域のお家で、広さは5畳ほど。確かに中は狭くて、クーラーも水もない(TVと冷蔵庫はある)ので、7人入ると息がつまるような感じがするのだが、マジックリアリズム的な広さ?を感じるのだった。その理由はたぶん、何重にも重ね張りされた壁紙の模様(バラの花、緑色、木目調のビニール)やと、キッチン道具や食材、宗教的なアイコンなどが、びっくりするくらい小綺麗かつ機能的に整理されているから。とくにキッチン周りはすごくて、色とりどりの歯ブラシの並びや、ハサミのしまい方などに、いちいち感動してしまう。毎日どんなふうこの空間を掃除するんだろうか。家族の写真もたくさん飾ってあって(Iさんの写真もあった)、みんなに見下ろされている気分になる。

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もう一件目は「グルーンヴィル」と呼ばれる地域にある家で、この地域は道が入り組んでいて迷路みたいなところをずんずん進んでいく。夕食どきだったこともあり、ドアのない家から醤油とにんにく?をベースにしたいい匂いが。Iさんの著作によれば、カピットバハイ(近隣者)でおかずを分け合うのは日常的な光景のようだ。路地の奥にあったお宅は2階立てで、「2階はファイトマネーで作った」とのこと。ここも室内は絵がかざってあり、小綺麗にものがしまわれている。

印象的だったのは、家のすぐ前にナイター設備もある立派なバスケットコートがあったこと。しかもこれは行政によって作られたものだ。Iさんによれば、スクオッターは確かに「不法」占拠地区なのだが、行政の介入がまったくないわけではないのだそうだ(バスケコートのとなりにはチャイルドケアセンターもあった。もちろん水道などのインフラはないのだが)。こういったものはスクオッターの人たちから見れば交渉のたまもの、政治家から見れば集票マシンらしい。「バスケコート作ってやるからこんどの選挙ではお願いしますよ」というわけだ。そのアピールはかなり露骨で、地域のためにした手柄を示すパネルが設置されていたりもしていて(でも地面に書かれたそれは塗り消されそうになっていた)、気持ちいいくらい見返りを求める利他なのだった。日本は行政が高度にシステム化されていてよくも悪くも抜け穴が少ないが、フィリピンは逆にあらゆることが属人的で、コネ重視、その分不確実性が高く、交渉の余地も多い社会だ。日下渉さんによれば、それは裏を返せば努力が報われない社会ということでもあり、だからドゥテルテのようなディシプリン=規律・しつけを重視するリーダーを招いたという側面もあるそうだが、ディシプリン=規律・しつけの強化は自己責任論の強化であり、弱者の切り捨てにつながっていく。ケアと規律のちょうどといいバランスとは何か?システムと属人性のちょうどいいバランスとは?などなど考え始めるも、問いはさらに翌日のバランガイ・キャプテンの訪問でさらに深まっていくのだった。。

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