4/14 差異についての学
ランを始めて約3ヶ月経った。最初のきっかけは津田道子さんのイベントで有楽町を走ったこと。金沢でイベントがある予定だったが、震災で延期になり、代わりに金沢からきていた津田さんのランイベントに参加した。その後、家の近くを4キロ弱くらいちょこちょこ走るように。
アディダスアプリの記録を見ると、1/29は29分31秒かかって距離が、4/14は20分32秒で走れるようになっている。分速にして7分34秒から5分21秒に。筋肉がついて足の形も大根からさつまいもになった。血流がよくなって全身の肌がつるつるになった。太ももの肌がすべるらしく、トイレにいくたびにズボンをあげる感触が変わっているのを実感する。
4月からのチャレンジもうひとつは、英語で授業を始めたこと。留学生たちのバックグラウンド(アートへの関心ぐあい)がわからず余計に緊張したけど、slidoへのコメントでアスキーアートを返してくるあたり、当たり前だけどふつうの東工大生でもあることを知って妙にホッとした。
あとはIris Marion Yongを読んでる。『身体の美学』のための準備。美学が扱う趣味の問題は、つまりは「違いがわかること」だとして、これをアイデンティティポリティクスと結びつけるということが、この本でとりくみたいこと。趣味判断は物を対象とした判断が想定されることが多いけど、物ではなく人の身体を対象とした趣味判断も(道徳的には禁じられているとしても)当然あって、その後ひきつづく人と人の相互行為を規定している(趣味判断そのものよりも趣味判断した「後=実践的関心」が重要)。「違いがわかる」を「上下の優劣の違い」ではなく、「水平的に多様性なものたちの間の違い」を分かることだとすると、美学は法的に保障された差別禁止を深いところ(習慣に関わるところ)で補完する重要な「差異についての学」だということになる。これらをBlack Aesthetics やDisability Aestheticsなどを素材に考えること。美学が美学史学になりがちで、社会のなかでAestheticsという言葉がどう使われてきたか(つまりは美学の政治性)の歴史から切り離されているのはすごくもったいないと思う。そうであるかぎり、文化資本に囲まれて育った子女のためのの学問、みたいなイメージから出られないじゃないかな。