私の手の倫理(9)声の手 物の手 意識の手
月に一度、茶道を習っています。
大正〜昭和中心のアンティーク店の
中にある和室で行っています。
古物の経年の波動や、赤茶の
電球明かりが温かい不思議な場所です。
お茶独特の作法を知り真似て直す中
ご指導で自身には触れないのですが
先生の声や言葉で、手の様に導かれ
所作を整えられている感じです。
日常には無い手先指先の扱いも多く、
自分の手なのに上手くいかない事も
まだまだあります。
お稽古を繰り返すと袱紗や茶筅に
柄杓が身体に同化した様な感覚も。
指先で細く固い柄をすっと掴む、
ひらひらした袱紗を手に収まる様
最後は綺麗に畳む…など難しいですが
持った茶筅や柄杓がお茶碗に当たると
次第にそれも自分の手、の感覚に
なってきます。
物を通して感じる茶碗の生地や温度も
味わい深いです。
お茶を頂く時は、お茶碗を回して
正面を定位置に来させます。
左手に底を置いて右手で回す時には、
背中辺りから"意識の手"が出て来て
何とか正面を合わせよう合わせよう…と
毎回一緒に回してしまいます。
昨今、強めにはっきり見せたものを
瞬時に分からせて完結させるものが
増えていてそれらとは対象的な
時間と空間でのお稽古のひとときです。
在る肉体ではない様々な"手"の存在や
触れ方を感じながら所作を整える
面白さ。
窯にお湯が沸く、茶筅で泡立てる、
足袋が畳を擦る…の音や風にも
敏感になり、普段と異なる事にわくわく
しながら適応しようと全身の意識が
立ち上がっているのかもしれないですね。
(Y. Iさん)