Macical Mystery Tour

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「東南アジアのケア」リサーチ日記:ベトナム編

・9/26 ホーチミン 技能実習生送り出し機関

7/15 バギオ市 Tam-awan village、Kapwaレクチャー

ロッジ風のすてきなホテルで朝食をいただき、バギオの街へ。坂道だらけの街で、山肌に家が点在する。

最初に訪れたのはTAM-AWAN VILLAGEという、イフガオ族の居住跡地につくられたアート村(でも観光地化している)。イフガオ族の踊りや住居が見られるほか、アーティストたちがレジデンスして作品を作っていて、作品の購入も可能。趣旨としては北海道のウポポイに近いところがあるかもしれないが、イフガオ族の踊りのデモンストレーションをしてた人が、曲が終わるといきなり踊りをやめるのが面白かった(イリュージョン感ゼロ)。

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その後のランチはOh My Gulay へ。ここは、35年かけて制作された『500年の航海』などで知られる映画監督キドラット・タヒミックが手がけたレストラン。ビルの最上階に広がる眺めのよい異世界レストランでパスタをいただく。ちょっとジブリっぽい。

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ランチ後は池のあるバーナムパークへ。同行してくれたアーティストのWSで、ここまでで見た景色を絵に描く。久しぶりに絵に集中して楽しい。池のまわりにはベンチが置かれているのだけど、フィリピンに人たちは密着して座るので、日本なら3人掛けのところに5人くらい座っている。ジプニーもめちゃくちゃ混んでるしなあ。さっきレストランでみかけた本にも、フィリピン人の椅子で寝る方法を説明したページが。

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20240916161001.jpeg午後は、同じくタヒミックが手がけたカフェIli Likhaへ。ハウルの動く城的なカフェで、いまだに工事中らしい。

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20240916162205.jpegここの2階?スペースが映画館になっていて、ここでデラサル大学のEさんからレクチャーを受ける。テーマはKapwa。Kapwaはフィリピンサイコロジーの概念で、Other is a part of me/ shared identityのような意味らしい。フィリピンの学問は植民地の歴史を踏まえつつ自分たちの伝統を立ち上げようとする意識が高いように感じる。

心理学者Jaime C. Bulataoの比喩によると、Kapwaは目玉が二つある目玉焼きみたいなものらしい。つまり、私と他者がひとつの白身につつまれている感覚。面白いなと思ったのは、これが心理学の用語であると同時に物理的な側面もあるということだ。たとえばどこかに行ったらお土産を買ってくるとか、人と人の距離が近いとか。香港でOFWの人たちが集まる場所があり、そこで料理がされているのもKapwaの一例だと教えてくれた。 Katrin De Guiaという人が書いたKapwa: The Self in the Other, Worldviews and Lifestyles of Filipino Culture-Bearersという本は、現象学的なアプローチでそのあたりがわかりやすく書かれているらしい。

7/14 ケソン市 Center for Migration Advocacy(CMA)

今日の午前は、ケソン市にてOFWの支援や啓蒙をしているCenter for Migration Advocacy(CMA)にてヒアリング。

コンクリート造りの建物に到着して早々、駐車場の障害者マークに目を奪われる。手書きなので個体差があるし、車椅子と人が一体化していてなんだか新種の生き物みたいだ。

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CMAは2002年にスタートした"human rights community"。Advocacyと聞いていたので、啓蒙的な内容が中心かと思っていたけれど、暴力の経験について語る場を作ったり、OFWの人たちが選挙で投票できるようにするための法整備を働きかけるなど、国・地方政府と現場をつなぐ役割を果たしているという印象。「low makerなのに憲法がわかってないのよ!」と笑いながら話すEさん。シリアスな話をしていてもとにかく明るい。日本のSMJとも連携していると言っていた。

フィリピンではAssociationのようなグラスルーツの活動は共産主義活動と見なされ逮捕されてしまうが、CMAのトピックは移民労働者なので、政府からも警戒されないそうだ。政治体制によっては「集まれること」は当たり前ではなく、こういうこともケアに関連しそうだ。

フィリピンのOFWの渡航先は20%がサウジアラビア、ついでUAE、クウェート、香港、カタール、台湾、日本とつづく(図の引用元はこちら)。多いトラブルは賃金の支払いに関するもので、ドメスティックワーカーでは精神的身体的暴力が多いとのこと。ドメスティックワーカーの被害としては、クウェートでレイプされた上に殺害されるというおぞましい事件が繰り返し起こっている。2023年にはフィリピン政府が、労働者の派遣を停止しており、外交問題にも発展した。支払いの男女差も28%とかなり大きい。

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採用のミスマッチも問題になっているそう。フィリピンの女性は男性よりも高学歴なのだが、高卒の46%、大卒の32%が単純労働にしかつけていない。「Brain Waste」という言葉が使われていた。残された家族への負荷もある。OFWの子供の25%が薬物中毒になっていたり、配偶者との長期の別離、健康へのインパクトが指摘されていた。女性が海外に行ったことで男性が女性の代わりに家事労働をするようになった、という興味深い話も。

そのあとは実際にOFWとしてマカオに行っていた女性の話をうかがう。娘が10歳、息子7歳のときに子供を両親(70歳と50歳)に預け、友達がすでにいたマカオで働くことを決心。夫と離婚していたので、夫が子供を連れ去らないようにバランガイに頼んでいたそうだ。家を質に入れて渡航費100,000ペソ(約25万円)を確保し、ツーリストビザで入国。70,000ペソを両親に渡し、自分で持っていたのは30,000ペソのみ。マカオに迎えてくれる家族がいないので、まずは香港へ。「冒険だったよ」と言いながら彼女が語ったのは、フィリピンの入国管理局で3時間質問攻めにされたこと。無事に香港に渡航したあとは、団体にまじって行動。この団体は香港で日用品などを買ってフィリピンで売る仕事をしていたのだが、それがヒントになり、6ヶ月後、彼女もマカオでソーセージなどをオンラインで売って生き延びることになる。お金はいつも節約していた。マカオでは仕事が終わるといつも子供とはビデオ通話でコミュニケーションしていた。

マカオで5年たったころ、コロナがやってきて仕事がなくなる。ネットワークで仕事を紹介してもらっていたそうで、マスコット着ぐるみの仕事からバーテンダーまでいろいろやった。食べ物を買うお金もなく、送金もできずにいた。コロナ禍では政府によるアユーダがあったが、「この家にはOFWがいるから」と優先順位を下げられてしまい、女性の子供達の手には渡らなかったとのこと。

マカオの住処は相部屋で眠れなかった。昼はマッサージやマニュキュアの仕事をし、夜はバーで働いてて大変だったが、エージェンシーにplacement feeを8000パタカ(約14万円)を支払っているのでやめられなかった。2019年6月に父親が死去し、10日間の休暇。その後香港の民主化デモが起こり、客が減少(客は香港から来ていた)。と思ったらコロナがやってきてますます客がいなくなった。バーのキッチンでは中国人のスタッフが国に帰ってしまい、仕事が全部女性にまわってきて「私を殺したいのか?」と思ったがマネージャーは英語ができず、交渉もできない(と言いながら中国語のモノマネ)。いやならやめろと言われた。Labor departmentは協力的だと聞いていたので、申し立てをした。会社に手紙を書いてくれた。ベトナムやインドネシアのco-workerから、どうやったのかと質問ぜめに。その後ビザを取得しにいったときに(ワクチンを打たないと罰金なので、ワクチンを打ってその日の午後にビザをとりにいった)、なぜLabor departmentに申し立てをしたか聞かれたが、それは私たちの権利である。

帰国することになったが隔離がまた冒険で。1日の食べ物がチキン1本だけなのだそうだ(a piece of chikenと言いながらみんなで爆笑)。帰国してからはOWWAによるreintegration programがある。マカオでは自分のスペースがなかったので、帰国して自分の家をリフォームした。

海外で働いて家族の価値を実感した、とも。帰国したら娘は17歳でボーイフレンドもできていた。7年たって、子供達との関係はバリアがあると感じるようになってしまった。ハグしようとすると、拒むわけではないけれど、恥ずかしがる。料理も彼女の作ったものは好きではなく、おばあちゃんが作ったものを好む。悲しすぎる・・失った時間と引き換えに彼女は子供たちに送金をしている(という話をしながらフィリピン人たちは大爆笑)。

食べ物にも困るような彼女の経験は「壮絶」なのだが、とにかく印象的だったのは、そういうことを話すときのフィリピンの人たちの様式(スタイル)だった。席につくなりトイレットペーパーを渡されて、「泣く準備」を始めるのだが、悲惨な話をするときほどみんな大爆笑する。冗談を交えていたりしなくても、言い方でみんな笑う。完全に涙に暮れてしまうことがない。この「泣き笑い」スタイルがフィリピンのケア技法の基本である気がする(のちに、洪水が来たら泳ぐ、障害のことも笑う、と聞いた)。

写真はマカオに行っていた女性が作ってくれたアドボ。子供たちが彼女の味を食べない、と聞いていたからいっそう胸がつまる気になる。鶏肉とゆで卵を酢、醤油、八角?で煮たもので、意識したことなかったけど、わたしも以前よく作っていた料理だった。

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ランチはショッピングモールにてミンダナオ料理。アーティスト一家と日本語が堪能な研究者に合流していただく。フィリピンは障害者が買い物をするときにはディスカウントされると聞いておどろく。

その後、靴工場をリノベして作られたおしゃれなCubao Expoへ。その一角にあるsilingan cafeに入る。反ドゥテルテ的な内容のzineがたくさん売っていていくつか購入。Cubao Expoのとなりにはスーパーがあり、お金を下ろしたついでにIさんの導きでSafe Guardという石鹸を3つ購入。Iさんによればフィリピンの人たちは、体を清潔にする意識が高く、ボクサーもよくシャワーを浴びていただとのこと。その清潔のお供がこの石鹸で、Iさん的には「これこそフィリピンの香り」。

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今日はこのあとバギオを目指す。人によって4時間でつくともいや5時間かかるともいう北部の高原の街。

途中、夕食に立ち寄った食堂で、パヤタスでもみかけたホウキを購入。癖っ毛でかわいい。途中、日光のいろは坂もかくあというヘアピンカーブ連続の山道で酔ってしまい、車を止めてもらう。すかさず同行していたフィリピン人のスタッフが、すっきりする香りの香水の小瓶を持たせてくれて、気分を落ち着かせてくれた。香りで酔い止めなんて、理にかなってる。ちなみにこのバギオは山道ケノンロードの工事(1901-)には、日本人労働力が使われたそうだ。つまり120年ほど前にここに移住してきた日本人がすでにいたとのこと。バギオは今も日系人が多いらしい。また戦争中は山下財宝が埋められたとの話も。

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7/13午後 ケソン市 パヤタス

パンソルをあとにして北上、パヤタスへ。パヤタスにはダンプ・サイト(廃棄物処分場)があり、廃棄物を拾いながら生活している人たちがそのまわりにスラムを形成している街、と聞いていた。ゴミ山からメタンガスが出るためスモーキー・バレーとも呼ばれ、2000年にはついに崩落事故が起こり、400人とも800人とも言われる人が犠牲になったそうだ。かつては匂いも酷かったようだが、今は匂いもなく、道も舗装されている。

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実際に行ってみて初めて理解したのは、廃棄物を拾うとは結局ゴミを分別するということだということだった。パヤタスの街に通じる大通り沿いには、タイヤのゴムや、鉄くずや、電線などを扱う「専門店」が並んでいる。分別なしに捨てられているゴミの山から、ゴム屋はゴムを拾い、鉄くず屋は鉄くずを拾い、それを束ねて自分の店に並べる。客はそれを買っていってリサイクルする。

分別に「加工」が加わる場合もある。たとえば、端切れからラグマットを作っている工場を見せてもらった。YシャツではなくTシャツに使うような伸縮性のある布の端切れを短冊状に切り、それを長方形の布ではさんで「中綿」がわりにして、抑えのミシンをザーとかけていく、というスタイル。短冊を並べるのは女性の仕事(妊婦の女性や子供もいた)で床に座って作業をし、抑えのミシンをかけるのは男性の仕事。他にも、短冊の布を編んだマットも作られていて、お店で売られていたものを一枚購入した。

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金物や繊維だけでなく、食べ物もリサイクルされていると聞いたことがある。つまり、残飯を拾って、それを洗って売る店もあるそうだ。日本も明治時代に深川など中小工場が密集していた地域には残飯屋があり、労働者の食糧になっていたり、戦後にも進駐軍の残飯で作った残飯シチューがあったと聞く。

さてこの日の訪問先は、パヤタスのカトリック教会(Mother of Divine Providence Parish)。①教会の中で食事を作って提供するFeeding、②才能のある子を発掘して就学支援をするScholarship、③無料診療を提供するMedicineの3つが、この教会の活動の3つの柱だ。説明してくれた女性が私たちを見るなりやたら「common」と言うと思ったらそれは「公文」のことであった。30-40名の子供が算数を学んでいるらしい。放っておけば家計を支えるためにダンプ・サイトに送られてしまう子供に、奨学金を出して学校に行かせている。その子たちに会う機会があったけど、文字通り目がかがやいていた。

20240830211529.jpeg診療所も見せていただいた。20年前の設備だけどレントゲン室があったり、薬もそろっていて、日本の町医者のような印象。運営は寄付で賄われているとのこと。ダイオキシンやタバコの健康被害が多いそうだ。コロナのときは、消費期限の切れそうなワクチンがただで配られたとのこと。

繰り返し語られたのは「holisticなケア」ということだ。まず第一には個人と共同体(社会)を同時に見る「全体的なケア」という意味だ。だがもうひとつ、「聖なる」という意味もある(ということを初めて知った!)。そもそもholisticの語源は、ギリシャ語の「ホロス(holos)」で、ホロスの派生語には、「全体」「聖なる」「癒やし」「健康」といった言葉があるそうだ。「全体」と「聖なる」と「健康」がつながっていたなんて面白い。

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20240830214750.jpeg最後にパヤタスのバランガイキャプテンを表敬訪問。テクノロジーの話。ダンプサイトの中で何が起こっているかわからないから調査が必要だと。バランガイキャプテンは司法権も持っているから、机の上には裁判で使うような木製のハンマーが。

遅めのランチは、子供たちのあこがれ、ジョリビーへ。パンソルのフィーディングでも配られていた。お店の中では誕生日会?も開かれていた。甘いパスタにフライドチキン。いかにもジャンクで体には良くなさそうだけど予想以上のうまさ・・癖になるのわかる。

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午後の残りの時間はIさんがおすすめの本屋Solidaridadに連れて行ってもらう。閉店5時、ちょっと遅れてしまうかもしれないけど、開けといてくれる?と電話でお願いしつつ。混んだ道を車で急ぐ。フィリピンの国民的作家シオニル・ホセが1964年に開いたお店。ケアに関連しそうな本を5−6冊買い込む。店内には川端康成とホセが映った写真もあった。店頭には、ヒゲがぼうぼうの招き猫も・・

20240916113016.jpeg20240916113950.jpeg買い物後は、海沿いにあるリサール公園へ。リサールとは独立運動の英雄ホセ・リサールのこと。公園は日比谷公園のような雰囲気で、さまざまな遺物や碑文、銅像、洞窟などを通じて、リサールの人生とフィリピンの公式の歴史を知ることができる。夕暮れのなか、話のうまいガイドさんをその場でやとって公園内を散策する。

リサールはヨーロッパで医学や社会学を学びつつ、「人権宣言」をタガログ語に翻訳、帰国して小説『ノリ・メ・タンヘレ』(1887)を出版、これがスペインから反植民地的だとされて日本に逃れ、臼井勢似子と恋愛関係に(と、ガイドさんが強調してた)。渡欧を経て1892年に帰国、「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン同盟)」を結成しようとしていたが、ミンダナオ島に流刑。その後スペイン軍医になるが、「ラ・リガ・フィリピナ」のメンバーだったアンドレス・ボニファシオが作った秘密結社カプナタンが独立闘争を開始したため、バルセロナで逮捕。1896年に銃殺刑。辞世の句『ミ・ウルティモ・アディオス』は公園内に各国語&点字で碑文になっていた。カプナタンの独立闘争は、結局うまくいかず、フィリピンはスペインからアメリカ合衆国へ2,000万ドルで割譲されてしまう。

20240916115939.jpeg20240916120002.jpegもちろんこれはあくまで「公式の歴史」であって、Iさんが教えてくれた『キリスト受難詩と革命』などを読むと、「ヨーロッパで学んだ知識人たちが革命を導いた」という見解とはまた違う「下からの革命」の様子が見えてくるのではあるけれど、そもそも国名からして「フェリペ2世」に由来するこの国にとって、自国の歴史を語ることの難しさとその重みを感じるツアーだった。

公園の裏にはパシグ川(ピリピーノ語で「砂の堤防」という意味)が流れており、大量のウキクサ(ヒヤシンス)が流れていた。対岸には中華街が見えた。