ダンス、映像、とそれぞれの表現分野で活動する森田さんと石田さん。それぞれ個別にインタビューをさせていただいたことはありましたが、対談は今回が初めてとなりました。 「私たちは接触から離れてしまうと、見た目の違いというところに注目してしまいがちなんですが、接触するともうちょっと違うところに注目できるかなと思っています」という森田さんの言葉は、手の倫理を考えるうえでも非常にに大きなヒントを与えてくれました。
森田かずよさんプロフィール(以前のインタビューはこちら)
1977年大阪府生まれ 。義足の女優・ダンサーとして活動。二分脊椎症・先天性奇形・側湾症を持って生まれる。18歳より表現の世界へ。表現の可能性を日々楽しく考えながら、義足の女優&ダンサーとして活動。「PerformanceFor All People.CONVEY」主宰。ダンススタジオP’spot14を含めたNPOピースポット・ワンフォー理事長。循環プロジェクト、奈良県障害者芸術祭ソロダンス「アルクアシタ」、ニットキャップシアター、ヨコハマパラトリエンナーレ、ファウストの恋人、庭劇団ペニノ、SLOWMOVEMENT他出演多数。子どもや障害のある人へのダンスワークショップ講師やコーディネートも行う。第11回北九州&アジア全国洋舞コンクールバリアフリー部門チャレンジャー賞(1位)受賞。⇨公式サイト
石田智哉さんプロフィール(以前のインタビューはこちら)
1997年東京生まれ。立教大学で映像制作系のゼミに所属し、卒業制作としてしょうがい者と表現活動をテーマにしたドキュメンタリー映画『へんしんっ!』を製作する。同作で「第42回ぴあフィルムフェスティバル(PFF)」のコンペティション部門「PFFアワード2020」のグランプリを受賞。現在は、しょうがい者が芸術活動をすることでの、身体観やしょうがい観の変化に関心を持ち、同大学院で学んでいる。
◎映像/ダンス それぞれの動機
伊藤 お二人は完全に初対面なんですか。
森田 初対面です。Twitterで伊藤さんとの石田さんへのインタビュー記事のことを拝見して、それからフォローするようになりました。ですので本当に最近です。
石田 ぼくは長津結一郎さんの『舞台上の障害者――境界から生まれる表現』(九州大学出版会、2018)で森田さんのことを読んで、ダンスをされていて、すごいなと思いました。
伊藤 お二人の接点のひとつはダンスですよね。今日はどんなふうに進めますか?
森田 事前に伊藤さんからいただいた質問のことや、石田さんの映画『へんしんっ!』も拝見したので、そのこともうかがいたいなと思っています。
伊藤 いいですね。では森田さんから映画の感想をうかがうところから初めてよいですか?
森田 けっこう知っている人がたくさん出ていました(笑)。いわゆる障害があってダンスをしている人となると、この世界はコミュニティが狭いんですよね。伊藤さんの質問とも近いことなんですが、なぜ映画を撮ろうとしたのか、特に自分を被写体にしたということがすごく見ていて面白いなと思って、そこを知りたいです。自分で作品を作る、撮る、という視点になりがちなのに、なぜ自分が入ろうと思ったのか。自分が知ろうとすることと見ている人が知ろうとすることが交わるときがあって、それが面白いなと思いました。
石田 そもそもこの映画を撮ろうと思った理由は、ぼくが障害があって表現活動をしている人のことを全然知らなかったので、それを知りたいなというところからです。最初は、目が見えない人やろう者にインタビューをしていたんです。知らなかったことが知れて、その話は面白かったんですけど、それを作品にしていったときに、壮大になりすぎる、大きなテーマになっちゃうなと思って。編集を重ねていきながら、制作スタッフや指導教授と仮編集したものを見てやりとりしていったんですが、自分がこの映像作品を作ることの強みは何かということを考えていったときに、自分が被写体として出たほうが、作品としても面白くなるし、作品全体を貫く1つの線ができて、見る側にとっても見やすくなる、とアドバイスしてもらって、それでどんどん編集の構成が変わっていきました。最初は出たくなかったんです(笑)
伊藤 最初はなぜ出たくなかったんですか?
石田 出たくなかったというか、企画段階では、表現している人の話で構成を考えていたので。
伊藤 森田さんは映像に撮られるという経験はしょっちゅうあると思うんですけど、自分で撮る経験もありますか?
森田 コロナになって、自分も映像発信をしなくちゃいけない、とどこかで思っていたんです。自粛期間に入ってしまうと、私たちみたいな者は、何もできなくなってしまう。ちょっと自宅でおどっている映像をネットにあげていたりしました。本当にちょっとだけですけど。
伊藤 おお〜やってみてどうでしたか?
森田 自粛期間に、障害のある方のYouTuberがすごく増えたと思います。私は、編集ということをどこまでするか、したいか、というところですごく迷いました。わたしはダンサーなので、あまり細やかに編集することが好きじゃなかったんです。どちらかというと、まるのままの体が見えるほうが好みなので。もっと他に伝えたいことがあったら、意図して編集することもできると思うんですけど、いまの自分ではそう思えなかったので、ノー編集のものを出しています。
伊藤 面白いですね。編集、石田さんはけっこうやっていますよね。まわりのスタッフや先生といっしょに評価しながら編集をしているんですか?
石田 作品に関していうと、テロップをつけたり、ナレーションで説明したりすることを減らしています。テロップは、名前と引用している公演だけ。言葉によって、見え方が誘導されてしまうことがないほうがいいなと思っていました。さぐりさぐりで見てもらえる感じにしたいな、と思っていました。あとは、自分の身体のパーツについて、この前の対談でも話したとおり、手が雄弁に語っているところがあって、手をアップにする部分を多くしています。手話や点字を読む手も出てきて、手がよく出てくる作品ですね。
伊藤 確かに編集ってすごく繊細な問題ですよね。自分に対して反省的な意識が働きます。頭で考える価値観が入ってきて、それを素の体にどの程度反映させるか。つきつめても面白いし、逆につきつめないという選択肢もありますね。
石田 逆にどうして森田さんがなぜダンスというジャンルを選択したのかが気になります。
森田 不純な動機なんです(笑)。もともとお芝居をやっていて、今も両方をやっているんですが、ダンスは私の体からほど遠いものだと思っていました。高校生くらいのときにミュージカルへの憧れが強かったんですが、障害がある身体っていうものが、自分ができる/できない以前に、社会的に拒否される経験が多くて。だから純粋にやりたいという気持ちというより、社会を変えたいという気持ちが最初は強かったと思います。お芝居を初めてからは、意外と私みたいな体を受け入れてくれる場所があったので、そこから踊ることを始めました。ダンスは、砂連尾理さんとの出会いがとても大きかったです。石田さんの映画で流れていた劇団ティクバ+循環プロジェクトの一番最初のもの(2008?)に、私、出てるんです。最初はジャズダンスのような形があるダンスをやっていたんですが、それは健常者の体との比較にしかならない。そのもどかしさがすごくあったときに循環プロジェクトをやったので、180度違っていて。砂連尾さんがやっていることは究極だなと思うところはあるんですが。
◎接触的な関係/視覚的な関係
伊藤 前に石田さんは、介助する人との関係が本当に人によって違っていて、その一対一の関係がダンスに近いと教えてくれました。森田さんの場合には、ダンスに期待していることは何なんでしょうか。他の体との関係なのか、もうちょっと別のところにあるのか。
森田 いま、接触することにセンシティブになっているじゃないですか。そうなったときに私はけっこう接触型だなということを実感しています。人の体があって、それでダンスを作っているという喜びみたいなものがけっこうあります。もちろんソロの作品も作っていますが、やはり人と関わりなから踊りたいという気持ちが強いです。それが断たれている状態がとてももどかしいです。
私たちは接触から離れてしまうと、やはり見た目の違いというところに注目してしまいがちなんですが、接触するともうちょっと違うところに注目できるかなと思っています。そうすると、境界というところも、もうちょっと違うふうにとらえられるのではないかと思っています。
伊藤 面白いですね。石田さんは、いかがですか。接触的な関係で関わるときと視覚的な関係で関わるときでは、同じ人でもけっこう別人に見えますよね。
石田 近づくと体の境界が変わるというのは、分かるような気がします。それこそ砂連尾さんと手のダンスをやったときに、自分の手の指が砂連尾さんを介することで広がった感じがあって、それはダンスの力なんだろうなと思いました。手のダンスを何人かの人とやっていて、その人との手のコンタクトをやっても、また違う感じがありました。リハーサルで佐久間新さんというダンサーと、「はじめまして」と挨拶したあとにすぐ手のダンスをやったんですけど、それもまた違う感じがして。不思議ですよね。
伊藤 なるほど…どんな感じなんですかね。手が大きくなるんじゃなくて、体が広がる感じですか?解放されるような感じですかね?
石田 なんか解かれている感じはありますね…。そこへの持っていき方が人によって違うのが面白いです。砂連尾さんは、なんか…するどさがありますね。
森田 するどさ、分かりますね。初めての人とやるときって、ふつうは緊張するじゃないですか。でも砂連尾さんは、隙を突くみたいな感じがありますね。
伊藤 なるほど。それが効いてくるわけですね。
石田 ずらされている感じがして、追いかけたくなりますね(笑)
伊藤 まんまと追いかけたくなるんですね(笑)
森田さんにとって、手はどのようなパーツですか?
森田 私にとっても手は重要です。でもなかなか手だけにフォーカスをすることはしないかもしれないです。ついつい体を使っちゃう。
伊藤 どこで接触することが多いですか?
森田 腕とか、肩とかですね。背中が弱いから、背中を避けてしまうんです。何かにもたれる、重心を委ねるときに、腕や肩でもたれる。
伊藤 重心をあずけながら感じるということですね。生活の中では、介助者さんは入るんですか?
森田 わたしは医療介護だけが入ります。導尿用カテーテルをひとりでするのが出来ないので。一応、まだ母に頼っていて、母がいないときは訪問看護を使ったりします。
伊藤 なるほど。となると、お二人の生活の中での他の体との接触の量というのは、ちょっと違いそうですね。
森田 違いますね。私は生活介護ではないので。でもカテーテルも大変です。人によってすごく違いがあって…。うまく行けば5分で行けますが、初めての人だと40分とかかかりますね。分かりにくいらしいんですよね、体が曲がっているので。分かっちゃうと大丈夫、と言われるんですけどね。だから看護師さんが絵を描いてくれたりしたんですけどそれでもだめで、母がビデオを撮ってくれたものを携帯に入れてそれを見せたりしています。
伊藤 具体的にどういう作業をするんですか。
森田 尿道に管を入れるんです。自分で尿を出せるんですが、全部を出し切ることができないんです。それが逆流して腎臓を痛めてしまうんで、一日に2回出さなくちゃいけないんです。脊椎を損傷の人した人なんかも同じだと思うのですが、手が使えたら自分でできるんですけど、私は側湾がきつすぎて、届かないんです、まったく。なので、尿路変更するか、カテーテルを入れるかしなくちゃいけなかったんですが、尿路変更は圧迫があってできないので、カテーテルになりました。でも日本では親族以外は、基本的には医療従事者、つまり看護師や医者じゃないとやってはいけないので、そこが面倒臭いところです。
伊藤 カテーテルをすると、スッキリ感はあるんですか。
森田 感覚としてはふつうにトイレにいってもスッキリ感はあるんですが、残りが分からないんですよね。
伊藤 なるほど。それを取るために管を入れるのが大変ということですね。
森田 そうです。場所とか、座り方が変わってしまうだけで、見え方も違ってしまうみたいで。看護師さんをとても悩ませています。
◎作りながら変わっていくこと
伊藤 ちょっとセンシティブな質問かもしれないんですが、さきほど、いわゆる障害があって表現をしている人は、ほとんど友達どうしでつながっている、というお話がありました。その人たちどうしは、お互いに「わかるわかる」という感じなのでしょうか。というのは、表現というのはその人の価値観が強く出てくるものだと思うし、障害という枠をとっぱらって表現一般で考えたら、かなり違うタイプのことをしている人がいると思うんですよね。自分の私生活をさらけだす私小説みたいな表現をする人もいれば、もっと社会派の表現もあって、みな表現の定義が違うと思う。障害があって表現をしている人たちの中で、そういう違いのようなものを感じますか?
森田 そうですね…私は演劇やダンスの業界の人なので、ダンサーは、その人がどういう体かということでかなり表現が変わってくると思います。車椅子に乗っているのかどうかとか、義足か義足じゃないかとかで、やり方が変わるんじゃないかな。あとは、どういうことをやってきたか、とか。たとえば大前光市さんのように、バレエをやってきた人が事故にあったケースもあるし、育ってきた環境も影響を与えますね。
伊藤 なるほど。石田さんは映画のなかで、さまざまなタイプの人にお話を聞いたと思いますが、そのあたりどうでしたか。
石田 インタビューを聞いていて、確かに障害の当事者ということを全面に出して主張するというのもひとつの方法なんだろうなと思うし、メディアでもそういうものがあると思うのですが、あまり障害についてが全面に出ていると、ぼくはちょっと受け入れがたいというか、そこまでやっちゃっていいのかなという気がします。距離の取り方が分からなくなる感じがあって。『へんしんっ!』に関していえば、日常生活のことも少しは撮っているんですが、自分の障害について、そこまでさらけだしていないので。障害があることによって生じている問題を扱っているというよりは、どちらかというと、自分の身体を使って、なぜそういう表現をしたのかという方に僕自身は興味があります。後、脚本を書いたりするときは、障害者じゃない人が主人公の脚本を書いたりします。
森田 映画のなかで、「がんばっている」じゃなくてやっていることに対して評価して欲しい、という話があって、すごく共感しました。障害があるというワードは、どうしても出てくるし、出さないと分からないと言われちゃうこともある。作品だけを見てほしいのに、その前段階で障害者であることに触れてしまうと、そこだけに目が行ってしまう。
伊藤 作品を発表したときに、自分としてしっくりくる感想や、逆に受けとめがたい感想があると思うんですが、記憶に残っているものはありますか?
森田 ダンスの世界にいると、障害じゃなくて、作品として、評価をもらえるから嬉しいです。《アルクアシタ》(2011)という作品を作ったときには、カプカプの鈴木励滋さんからしっかりした公演評をいただいたことがあって、それは障害ということではなく歩き方をモチーフにした作品だったので、そのことをちゃんと書いてくださいました。作品に勇気づけられた、ライフワークとしてこの作品を大切にしたほうがいい、と言われて、それは私にとってはとても大きかったですね。
伊藤 ダンスであることはかなり大きいと思いますか?
森田 DANCE BOXとご一緒することが多くて、あの場所ではあまり障害ということを言われないことのほうが多かったんですよね。反対に他の、特に私は障害のある人のイベントなどに出演することも多いので、そこでは障害があることがメインとなります。ただ、障害はすべてではないけど、障害者であることの経験から、身体的、感覚的差異を元に作品を製作しているところはあるかもしれません。
石田 今回、賞をいただいた、ぴあフィルムフェスティバルは、障害ということより、ぼく自身が作りなからどんどん変わっていくという構成に対するコメントが多くて、大森立嗣監督が最終審査員でプレゼンターだったんですが、映画とか、ダンスとかを作るということはに「がんばる」というのとは違うレベルにあること、ぼくがそれを楽しんでいることが伝わってきたというコメントをいただいて、嬉しかったです。単純に作ることの楽しさを伝えたい、というのがあったので。
伊藤 表現や芸術の世界って、人が変化する、変わっていくということが肯定されているのがいいですよね。鑑賞する側も作品を通して、自分の価値観が変わるような経験をするし、作る側もそうだと思います。それなのに「障害」という言葉が最初に入ると、変化ではなくレッテル、固定されたものとしての先入観を作ってしまいますよね。どういう変化が起きているのか、鑑賞する側もどういう変化を経験しているのか、というのが、お互いに分かり合えるといいですよね。
石田 93分の作品だったので、人によって見ているところが違っていました。最後のパフォーマンスが印象に残ったという人も多かったですが、ろう者とのやりとりが手話通訳を介して成り立っていること、皆さんと一堂に介しての対話での聞き手の視線の動きに関心をもつ人もいたりとか、人によって注目ポイントがちがっていました。
森田 私は石田さんが車椅子からおりるところも好きでした。めちゃくちゃいろいろな指示を出しながらおりるのが面白かったです。
石田 おろし方を知らない人におろしてもらう感じだったので、めちゃくちゃ指示を出しましたね。
◎自分の後ろ姿を見たい
伊藤 お二人のもうひとつの共通点として、表現をしながら研究もされているということがありますね。森田さんはどんな状態ですか?
森田 いま修士二年目で、修論が佳境に入っています。まさに、障害のあるダンサーが作品を作ることでどう変化していくか、どういうことを考えながら作っているかを研究しようと思っていたんですが、その前提作業として、障害のある人の表現の歴史とか、障害をどうとらえているかについて整理するのにすごくページを割いてしまい、たぶんちがう論文ができあがってしまう気がします(笑)。なので、もうちょっと今後続けられたら本来やりたかったことや、自分の表現のこと、特に砂連尾さんとの出会いや、長津さんが本に書いてくれたことは、すごく自分が変わった経験だったので、あれについてもうちょっと自分の目線から考えてみたいなと思っています。
伊藤 研究テーマも石田さんと近そうですね。
石田 ぼくは障害当事者の人の表現活動がテーマで、自分の体のとらえ方とか、障害のとらえ方がどう変わるかについて考えています。
森田 めちゃくちゃ似てますね(笑)
伊藤 共同研究したほうがいいんじゃない?(笑)
石田 いますごく気になっているのは、そもそも自分が障害者なんだっていうことを気付くプロセスはどうなっているのか、ということで。あまり研究でもないんですよね。見えない人が見えないことをどう知るのか、聞こえない人が聞こえないことをどう知るのか、ということが気になっています。ぼくの場合は、まわりの人は歩いているのに自分は歩けないこと、歩くことでの世界の感じ方があることを他者の言葉や動きを見ることで分かったけど、見えない人や聞こえない人はどうとらえていくんだろう、と思って。言葉で親が伝えるのかな。
伊藤 以前、森田さんも、自分の体なのにイメージをするのが難しかった、とおっしゃっていましたよね。理科室にあるような人体模型を見ても、自分の体とは違うし、もっと複雑なつくりをしている、と。
森田 わたしはマネキンのような人形を作ってもらうことでわかりました。露骨が三本ないなど骨格変形があるので、ふつうの人とは体が違いすぎるんですよね。ある時、後ろ姿や、横からの姿とかを見たくてしょうがなくなったんですよね。今考えると、3Dプリンタとかいろいろな方法があったなと思うんですけど、そこで人形作家さんと人形を作ることになりました。後ろや横や、腕をあげたら体がどうなるのかとか、そういったことを純粋に知りたかった。ふつうだったら人体模型でだいたいの体が想像つくけど、私たちはそれどころじゃないから…(笑)
伊藤 石田さんは自分の後ろ姿は気になりますか?
石田 確かに、そう言われると気になるな、と今ふと思いました(笑)
森田 映像に撮ることで、視覚的には少し違うけれども、わかりますよね。
石田 側湾とかはわかるけど、立体的にとらえられないんですよね。
森田 そうそう、よくわかります、それ!
石田 あとはモーションキャプチャという方法もありますね。
森田 一度YCAMでモーションキャプチャをやろうとしたんですけど、あれ自体が健常の体を想定していて、私の身体ではありえない動きをするという、変なバグり方をしたんですよね。それで結局わかりませんでした。
伊藤 立体的に自分の体をわかりたいってどういう感覚なんですかね。
森田 私は最終的に人形を作ったけど、完成品を見ると、それは自分じゃなくなっちゃったんですよね。人形作家さんの腕がすごくて、別の生命がやどってしまったという感じなんですよね。作品としての力が強すぎて、形はいっしょでも自分を投影できなかったんです。それはできてみて不思議な経験でした。作っているときはそうでもなかったのですが。モデルとしてじっとしているのは本当に大変な作業で。しかもヌードですしね。三日くらいそれをやってフラフラになって体調を壊しました。
モーションキャプチャをして、データ上で勝手に動いたらそれはそれで気持ち悪いのかもしれないですが。
伊藤 完全に自分の分身ができたら、ちょっと嬉しいなという感じはありますか?
森田 漫画家さんとかポーズとかを考えるときに使うモデル人形ってあるじゃないですか。ああいう感覚に近いかもしれません。同じポーズをしたとして、どう見えるか、というのを知りたいですね。
伊藤 まだ体が未知だという感じがあるんですね。
森田 そうですね、未知ですね。いまも、片一方だけ足を折り曲げて座ってるんですが、これってどうやって座って、どこに重心を置いているんだろうとふと考えると、よく分からないんですよね(笑)。
伊藤 無意識にできちゃってるけど、理解しているわけじゃないんですね。
森田 あらためて考えると「あれ?」って思いますね。
伊藤 左右差もありますしね。
石田さんはご自身の体の未知数具合はどのくらいですか。
石田 背中の曲がり具合、ねじれ具合は、言葉では言われるけど、実際どういうふうにねじれているかわからないし、鏡でも見えないし、結構未知ですね(笑)。座る位置に関しても、クッションである程度、固めちゃっているんですけど、体重が右側に少し寄っているくらいしか、捉えられていないですね。
森田 聞いてもいいですか?車椅子用のクッションって、けっこうデコボコしていると思いますが、どういう基準で作るんですか?私は義足を作るときに、自分の感覚をけっこう大事にしたんですね。足先の角度がちょっとずれただけで体が振られるということがあって。クッションもたぶん、少し角度が違っただけで、目線や顔の向きが変わってしまいそうな気がするんです。その判断は、自分で感覚をもって判断するものなのか、第三者が見て判断するのか、どっちなんでしょうか。
石田 感覚が多いと思います。クッションに関して言えば、おしりがある程度の時間、座っていて痛くないか、呼吸がしやすいかどうか、といったことが重要です。映画に出ている車椅子は首のクッションがちゃんとしているんで、移動しているときの振動があっても頭がずれないという意味もあります。頭から首を支えてくれないと、けっこう揺れちゃってバランスを崩すんですよね。
体の感覚については、気道がうまく確保できるかどうか、肺に空気を入りやすいか、とかが重要ですね。あまり硬いクッションだと、息がしにくいんです。車椅子が完成するまで、けっこう時間がかかりました。
伊藤 なるほど。呼吸は大きそうですね。
最後に教えてほしいのですが、今後の活動の計画のなかで、コラボレーションをしたい人はいますか?
森田 誰だろう…それこそ石田さんとやってみたいです(笑)。あと、石田さんの映画で面白かったのが、目の見えない人と聞こえない人と同時にやっているシーンで。肢体不自由の人と出会う機会は多かったけど、視覚障害や聴覚障害の人と関わる機会は少なかったので、やってみたいですね。
石田 ダンスを、振り付けや演出をしながら撮影してみたいなと思います。こういうシチュエーションを用意するので踊ってください、とか、こういうイメージでやってくださいと言葉で説明したりして、動いてもらってみたい。森田さんともやってみたいです(笑)。あとぼくも、視覚障害、聴覚障害、肢体不自由の方にも、今回の映画では座談会を組むことはしたけれど、演出や振り付けをするというところまでは行っていないので、劇映画みたいなものに近いことをできたらいいなと思います。
森田 もうちょっとお互いの領域が侵略できたらいいな、と思いました。映画の中ではフォーマルな演劇やダンスをやっている感じだったので、もっと訳がわからなくなってもいいんじゃないかな、と。
伊藤 石田さんはふだんから介助者に細かい指示を出しているので、振り付けや演出の能力は凄く磨かれていそうな気がしますね。それを逆に森田さんが超えていく…(笑)
森田 どう解釈するかですよね。
伊藤 前にお話ししたときも、人から何らかの動作をしてほしいと言われたときに、それを自分の体だったらどうやるんだろう、と解釈してやっている、とおっしゃっていましたよね。楽しみです。
2020/10/21 Zoomにて