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青木彬さん×西島玲那さん

異なる体の対談シリーズ第3弾、青木彬さんと西島玲那さんのzoom対談です。青木さんは昨年右足を切断。そこからの幻肢や義足という新しい伴侶ともに生活されているキュレーターです(青木さんが術後5日からつづっているnote。見えないけど常にVRを見ている西島さんとは、「ないけどある」という共通点からの出発です。

ところが実際に話してみると以外な共通点がざくざく。盲導犬と義足という「自分の一部のようで自分でないもの」がもつ思い通りにならなさ、だからこその信頼感、「設定」がもつ力、歴史や背景の関心、など最後はママ友のような親密なトークが展開しました。あっという間の夜更の2時間半でした。


青木彬さんプロフィール

インディペンデント・キュレーター。1989年東京生まれ。首都大学東京インダストリアルアートコース卒業。アートプロジェクトやオルタナティヴ・スペースをつくる実践を通し、日常生活でアートの思考や作品がいかに創造的な場を生み出せるかを模索している。

西島玲那さんプロフィール

1985年生まれ。15歳で網膜色素変成症を発症。19歳で失明。『記憶する体』出版後に伊藤と往復書簡を開始、視覚障害の方以外にもさまざまな体を持った方へのインタビューを開始。今回がその3回目。


◎靴下の穴

伊藤 玲那さんといろいろなタイプの体の人に話を聞こうという企画をすすめていまして、今回がその3回目になります。Zoomでやるのは初めてですが、視覚情報がなくて純粋に声だけだと、やっぱり情報量が減っちゃいますよね。

 

西島 そうですね。

 

伊藤 現時点で青木さんのことはどんなふうに見えていますか?

 

西島 …青のTシャツ

 

伊藤 結構適当ですね(笑)

 

西島 そうです、私の勝手で作っているんで(笑)。髪の毛は…ちょっとチャラいのでは?と思ってて(笑)

 

伊藤 なぜチャラいと思ったの?

 

西島 こんなに好青年でうまくいくはずないと思って(笑)。noteにあがっている文章を読んだときの印象と声の印象がぴったり一致してたんです。だから自分の中でどこかくずさないとバランスがとれなくて。最初は靴下の親指に穴をあけようと思ったんですけど、さすがにそれは違うなと思って、髪型を変えさせてもらいました(笑)。

 

青木 そんな設定があったとは…

 

伊藤 青木さんはこの中で一番立派なヘッドフォンしてますよ。

 

西島 その手があったか!

 

伊藤 文章と声からだと情報量が限られちゃうと思うのですが、でもこの状況下でできることもあると思うので、さぐりながらできたらと思います。

 青木さんのことは昨年の秋頃から気になっていました。もともと私が幻肢や幻肢痛に関心をもっていたこともあるのですが、それがアートと結びついているのが面白いな、と。いろいろな方に話をうかがっていて思うのですが、案外、趣味や職業を通じてつちかったスキルや知恵を、自分の障害や苦労とつきあうときに使っていく、ということが起こるように思います。そのスキルや知恵の転用に興味があります。

 

青木 ありがとうございます。よろしくお願いします。

 

伊藤 玲那さん、メールで高校生くらいのときから幻肢に興味を持っていたって書いてましたね。

 

西島 そうです。幻肢というより足を切断した方に興味がありました。きっかけは二つあります。一つは、長野五輪のときに切断された方のスキーの大回転を見たときに、なんてかっこいいんだ!と思ったんです。生まれて初めてあこがれたスポーツ選手でした。

 

伊藤 もともとスキー部ですもんね。

 

西島 そうです。モーグルとか、とにかくあぶないことがしたくて。当時はまだ小学生で、自分に目の病気があることはわかっていたけれどあまりピンときていなくて、もう、一目惚れでした。

 フォルムがかっこよかったんです。足がないという衝撃よりも、「美しい!」というほうが勝っちゃってました。スキーをすべるときに片足すべりもするんですけど、全然できないんですよ。片足すべりだと、内側のエッジも外側のエッジも効かせられるからいい練習になるんですけど、できなかったんです。そんなときに競技で、あれだけのパフォーマンスを見たら、かっこいい、と思ってそれで恋しちゃって、のちのちスキーの競技部に入るきっかけになったんです。

 もうひとつのきっかけは、高校生のときに目が悪くなって盲学校にうつったときに、障害のある人の国体に出る機会をもらったんですが、そこで初めて短距離を義足で走っている両足切断の人に会って。聴覚障害の女の子とその人と私で誰が一番早いのか競争したんですよ。当時の自分からすると、足があるから自分は余裕だと思っていたのに、引き離されて、その切断の人が勝ったんです。その完敗ぐあいにまた恋をしまして(笑)。義足じたいのカッコよさもあるんですけど、自分の足って何なんだろうなと思ったんです。視覚に障害はあるものの、それ以外はいたって健康で、予選は圧勝で勝ったはずなのに、負けてしまった。もう短距離なんてやらない、と思いました(笑)

 

伊藤 そんな大差だったんですね。

 

西島 そうです。やっぱり、侮ってたというのが一番の敗因だと思うんです。体の可能性をみくびっていたというか、自分のほうが足があるだけで優越感を持っていた。この二つのきっかけから、アスリートだけではなく、義足や車椅子で生活をしている世代の近い方への興味やあこがれがぐんぐん育ってきました。でも、ゲームを見たいことがあっても、なかなか見られなくて、雲の上の存在になっちゃってます。ほんとうは「足を触ってもいいですか」とか聞いたりしたいんですけどね。

 

伊藤 青木さんの足は触るとどんな感じですか?

 

青木 切断したところはすごく柔らかいんです。プリンとか煮こごりみたいな、本当にただ「肉の塊」という感じです。だんだんスリムになってきて、筋肉や肉が固まってくるらしいんですけど、ぼくはまだ、細くはなってきましたが、まだそんなに硬いという感じはないですね。

 

伊藤 断端ってどういう感情が生まれるんですか?私にはないので想像がつかないんですが…

 

青木 包帯がとれて、見たときに、すごく可愛いなと思いました(笑)。断端に顔を書きたくなって、実際に書いて写真をとったりしていました。自分の体なんですけど、見たことにないフォルムがついているから、ど根性ガエルのピョン吉みたいな、自分にすごく近いんだけど、隔たった存在、でもちょっと愛嬌がある感じ。友達に「可愛いでしょ」って写真を送ったらちょっとびっくりされました(笑)

 

西島 へえ〜(笑)

 

伊藤 変化としては大きかったと思うんですが、怖くはないんですか?

 

青木 ぼくの場合は全然怖いということはなかったです。ケースとしては稀なんだと思いますが、もともと人工関節という足のなかに金属を入れた状態で十二歳から生活をしていて、何回か手術を重ねて足がほとんど曲がらなくなっていたんです。歩くと痛みがあったりもしました。車椅子バスケをやっていたんですけど、人工関節で運動するとあぶないよって先輩にも言われた。それでバスケをやっているころに、切断の人を見ていて、当時の主治医に「いまから切断しちゃだめですか」って相談したこともありました。でも、その主治医は絶対に切らない派の方で、「いつでも切れるからつけておけ」と言われました。でもここ数年は毎日痛み止めを飲んだり、生活も無理をしていたので、切断することになったときにできることが増える感じだったんです。自転車が乗れるようになったり、痛みがなくなるとか、プラス要素が多くて、やっと次のステップに行ける、という感じでした。アップデートされる感覚でしたね。

 

伊藤 できるようになっていちばん嬉しかったことは何ですか?

 

青木 自転車は楽しかったですね。十二歳まではふつうに自転車に乗っていて、そこから十八年間くらい自転車に乗れなかったので。車椅子にもちょっと近いんですが、今まで自分が感じたことのない移動速度でした。さっきのモーグルの話じゃないですけど、ぼくも昔から危ないことが好きで(笑)、速いものとか、高いところとか、そういうのが好きだったから自転車はとても楽しかったです。

 

西島 いいな〜。

 

伊藤 義足で自転車に乗るのは普通のことなんですか?

 

青木 わりとするみたいですね。実際に乗っているユーザーがどのくらいいるか分からないですが、リハビリ施設にも自転車はありました。一応リハビリの過程のなかにも義足で自転車に乗るというのは入っています。あんまり、義足ユーザーで自転車に乗っているイメージはなかったですね。降りるとき、義足側では足をつけないんですよ。だから絶対左側に倒れないとダメですね。ペダルをこぐときも左足をかなり使っているみたいで疲れます。

 

伊藤 義足で自転車に乗ると、義足が自転車の一部になってしまいそうな気がするんですが…

 

青木 もう、完全にイメージはそうですね。義足で自転車に乗ると、義足と自転車は一体化しますね。

 

伊藤 つまり、義足がペダルに触れているところの感触が消えるということ?

 

青木 そうですね。自転車と一体になってますね。でかい義足みたいな感じですね(笑)。やっぱり機械の一部になる感じですね。

 

西島 ちょっと体験してみたい。

 

伊藤 どこまで一体化するんですかね。車の運転もされると言っていたけれど…

 

青木 車は左足でアクセルを踏んだりしていて、右はもう全然使わないんですよね。だからあんまりそういう感覚はないですね。だから、義足にあわせた乗り物を作ったら面白いだろうなと思っています。幸いまわりにはアーティストの人たちが多いので、義足でみんな遊びたがっていて、義足を拡張させる計画があって、でもあんまりいじると保険がきかなくとか言われています(笑)。

 僕の場合は義足が足である必要って全然なくて、もっと可能性があると思っています。今も膝から下の部分が剥き出しの状態で履いています。普通は健側と同じ肌色の外装をつけたりするんですが、ぼくは剥き出しがいいな、と。剥き出しにすると、膝のパーツでズボンを噛んでしまって1日でズボンがだめになったりしちゃう。今は半ズボンで過ごしています。

 

伊藤 ハイヒールとか履いたらどうなるんだろう…

 

青木 ハイヒール用のパーツとかがあるんです。足首の角度を変えて、ハイヒールが履けたりします。

 

◎新しい道に行くスイッチ

西島 noteを読ませてもらって、すごく面白かったんですけど、難しくて調べながら読んでいたら全然終わらなくて。哲学者の名前が出てきて、Wikipediaを開いて閉じてして半ベソかきながら読んでました(笑)。でも最初のほうを熟読したんですけど、そこに書いてあたった足のお骨はどうなったんですか?

 

青木 まだ決着がついてなくて、ずっと自宅の本棚に飾ってある状態なんですよね。

 

伊藤 本棚って微妙な位置ですね。

 

青木 単純に置き場所がなくなってきちゃって。

 

西島 最初から二つ目の記事にそのことがあって、本当に想像っておいつかないもんだなと思ったんです。切り離した部分をどうするんだろうということを考えていなかった自分にショックでした。お話が聞けると分かってから、幻肢ってどんな感じなんだろうということを考えながら読んでいました。足に必要以上に何かを巻いて1日過ごしてみたりとかしたんです。でもあくまで想像と妄想でしかなくて、全然追いつかないんだろうなということを、この二つ目の記事という早い段階で気づいてよかったなと思いました。何を聞いてもとんちんかんなんじゃないかなと思っていて。自分で自分の足があることは分かるんですけど、すぐ忘れちゃう。巻き付けたり重りをつけてみても、30分くらいたつとそれも忘れちゃう。足に犬を乗せていても寝られちゃう。そのくらい、自分の体の部位が存在していることって、どうやって気に留めたらいいか分かんないんですよ。持っている人があるということを感じるのは難しい。「ないものの存在」という言葉がよくnoteに出てきたんですけど、「ない」とうことを自覚させられる?のってすごく遠いのかなと思うと、切断がネガティブなことじゃなかったとおっしゃっていたけれど、つかめるようでつかめないことだなと思うんです。それで、人に何を分かってほしいと思いますか。

 

青木 ああ…自分でnoteを書いたり幻肢のことを考えているなかでは、今のところは、特にだれかに分かってもらいたいという欲求はたぶんあんまりなくて、これは自分の思考をアップデートできる材料なんじゃないかという欲望のほうが強いです。車椅子バスケットをやっているときからそうなんですけど、練習とかすごく好きだったんです。自分の体を100%信じて、というよりはちょっと他人事のようにして、教育するような、ルーティンを自分に染み込ませていくこととかが好きで。それによって本当にバスケがうまくなったりとか、自分の体の使い方が変わってくる。そういう体との付き合い方が昔から好きだったんです。幻肢痛についても、もともと好きだった書籍に書いてあって知っていたんですが、それが自分で体験できるということがうれしかった。幻肢痛について哲学者が語ったり、表現の比喩として使っている人はいるけど、だれも幻肢痛なんて経験したことがないわけじゃないですか。それを自分だけが体験できるのは、ものすごく強烈な体験だなと思って。

 

西島 それは、何だかすごい。「すごい」というとちょっと違うのかもしれないけれど。

 

伊藤 実際に体験してみてどうでしたか。哲学などで言われていることは違っていましたか?

 

青木 でもちょっと悔しいことに、それなりに研究されているな、と(笑)。当たり前なんですけどね。自分で、ちょっとした予備知識以上のものを深めるのはやめようと思って、純粋に自分が感じたことを書いてまとめていっていたんですけど、あとで読み返していくと、こういうことは哲学ではこういうふうに落とし込められているんだということが分かって、まだ自分がその範疇にいるというのはちょっと悔しい(笑)

 

伊藤 (笑)でも、noteを拝見して「へえ、そうなんだ」と思うことがたくさんありましたよ。たとえば幻肢って、足があったときの記憶が幻肢として感じられるんだ、という言い方がありますよね。記憶のとおりに足が動いてくれないから、脳が動くように命令を出し続けて、それが痛みにつながる、と。でも青木さんは、幻肢を環境に対するアフォーダンスとしてとらえていらっしゃいますよね。義足をはくと、幻肢が出てくる、と。それがすごく面白いなと思ったのですが、これって、玲那さんのVRと共通しているような気がしたんです。玲那さんのVRも見えていたときの記憶だけを見ているわけではなくて、たとえば暗いなと思ったら街灯が現れたりする。それは単純にVRを「作って」いるのではなくて、「こうだったらいいのにな」というところから逆算して、合理的かつ自動的に作られているんですよね。

 

青木 ぼくも西島さんのVRの記事を読ませていただいて、その感覚が近いところがあるんじゃないか、というところが気になりました。なぜぼくが自分の幻肢は単に自分の記憶じゃないんじゃないか、と書いたかというと、ぼくがリハビリしていた施設をかつて利用していた方で、ぼくと同じ義足を使っている方が、階段を一段ずつ上っていたらしいんです。ふつう、ぼくが今つかっているパーツは、膝に動力がないので、教科書上は不可能とされているんですね。ところがその人は、リハビリの専門家たちも、なんであんなことができるのか分からないっていうことができている。まだその方とはお会いできていないんですけど、何でその人が、「この義足で階段を上れる」っていうスイッチを自分に入れられたのか。絶対、新しい道に行くスイッチがあったんだと思うんですよ。スポーツとかでもそうだと思うんですが、人間が「これ、できる」と思う瞬間ってどうやってつかむんだろうということに興味があるんです。

noteにはけん玉の動画をあげています。ぼくはけん玉を趣味でやっているんですが、けん玉っていますごいことになっていて、剣先を下に向けて糸の上に乗せる、という技があるんです。口で説明していても、意味が分からない感じなんですけど(笑)、どうやって最初に「いける」と思って練習したんだろう、と思って。だって普通に考えたら、練習している姿がバカバカしすぎるじゃないですか(笑)。たぶん、その技を開発した人は「できる」と思った瞬間があったんだと思うし、その義足の人も「できそう」と思う瞬間があって、それで教科書どおりのやり方を超えていったんだと思うんです。もちろん、階段が上りたいという願望がその人にはあったかもしれないけれど、それって、ただ願望だけでできることではなくて、西島さんの街灯がポッと出てくるように、必然性がどこかにあったはずなんです。西島さんのVRに街灯が出てくるのが、すごく自然な感じがするんですよね。

 

西島 そうなのかなあ…。さいきん、見えなくなってだいぶ時間が経ってるということに気がついてきて。あれ、QRコードってそういえば見たことがないはずだし、液晶すら見たことないんですけど、わたしのなかのiPhoneはサクサクと画面を変えていくんです。高速でスワイプしてもちゃんとついてくる。私の中でもちゃんと未来に行ってて。QRコードの説明も確か聞いたことないんですけど、だいぶ正しかった、というのが最近分かって。何がどうなってその答えに行ったか分からないんですけど、たぶん見えている人たちからもらっているちょっとずつのヒントから構築されているんだと思うんです。見えている人たちとのズレが生じると、すごく悲しくなるんです。それで1分半くらいすると悔しくなってきて、自分の頭のなかでもそういった技術が構築されていくと、安心するんですよね。自分の精神的な安心を得るために、そういうものを自分で頭の中では見たいのかなあと思います。

 

伊藤 玲那さんも、ほかの目が見えない人がやらないこといっぱいやっていますよね。たとえば、人と話しているときに、その人がどういう姿勢なのか、頬杖をついているのか、といったことを正確に把握していますよね。そういったことができると思ったっていうのは、さっきのけん玉の話とけっこう近いと思うんですよね。でもそのときに「あ、こっち行けるかも」って思ってスイッチを押していったというよりは、見える人との差が生まれないようにしているうちにそうなっていた、という感じなんですかね。

 

西島 できる、やれる、やりたい、というスイッチを意識的に入れることもあるんですよ。セラフが引退したときはまさにそういうことが多かったです。ハーネスをつけないと決めてからは一度もつけていないんですが、お留守番をした経験がないから家に置いておくわけにもいかず、どうにか(ペットと同じようにリードで)いっしょに歩けないかなと思って、右手に杖、左手に犬とし出かけたら、杖だけのときよりもずっと速く行けるということが分かりました。もちろん(ハーネスをつけて)盲導犬として歩いているときのほうが圧倒的に速いんですけど、リードでもこれだけ安心感があるなら、踏切も渡れるはず、信号も渡れるはず、ガードレールで仕切られていなくても歩けるはず、とか、そういうことをいっぱい思いました。一般的にはハーネスじゃないと情報が伝わりにくいと言われているけれど、「でも、うちの子は特別なはず」という気持ちと(笑)、実際に左側に犬がいて自分が完成されるんですよ。犬がいないとまっすぐ歩けない。犬が左にいるっていうだけで、立っているときも、バランスがいい。ということは、ハーネスがなくても、この子といるほうが自分は安全に歩いたり、物を避けたり、危機を逃れられるはず。そういうスイッチがそのときは入りました。

でも、映像が出てくることとかは、スイッチとは関係ないですね。この前も友達と一つの飲み物をシェアしていたんですが、私が飲もうとしたタイミングでその人がとった、というのがなんか分かるんです。自分の中の映像も、私が飲もうとしたその瞬間に友達がかっさらっていった映像ができているんです。なんで分かるかは私にも分からないけど、私の中の座頭市が反応したんですよね(笑)

 

伊藤 スイッチを押してないけど、ふつう通らない道に入り込んでいるケースっていうのもあるということですね。面白いですね。「できると思う」って何なんですかね。

 

青木 義足もそうですが、現実世界では効率のいいものを作ったりすることが行われているけれども、西島さんがやっていることや、ぼくが幻肢を通して作り出したいものというのは、想像力の合理性みたいなものなんじゃないかなと思います。想像していたQRコードが実際のものに近かったというのは、人間の持っている想像力の合理性がうまく合致するみたいなことなのかなと。それって、意識している部分と、意識していないけれどうまく軌道修正してくれている部分があるのかなと思いました。それを、障害と言われている当事者が使いこなすタイミングって、現実世界の合理性を超えたところにある。リードで犬と歩いたほうが早く行けるという話で思い出したんですが、ぼくも義足のパーツの色とか気に入ってないんですよ。ぼくが使っているメーカーは、青っぽいパーツしか出さないんですけど、その青味がものすごく気に入っていなくて(笑)。でも、もし気に入った色をつけていたら、もっとうまく歩けるかもしれない(笑)。実は、そういうところから、義足というか、リハビリとかを考えていく可能性があっていいんじゃないかなと思っています。それでぼくは、パイプの部分が銀色ではなく黒がよかったので、カーボン製にする必要はないんだけど、カーボン製にしてもらいました。気に入った道具のほうが使いこなせるわけで、そういうのは、物の合理性ではなく想像力の合理性から考えていかないと解決できないんだな、と思いました。

 

伊藤 なるほど。そもそも「できる」って思うこと自体が、客観的な合理性じゃないですよね。本人のなかでは、「あと2ステップいけたらできる」みたいな感覚だったとしても、そのステップは客観的には存在していない。それは「信じる」の領域でとても面白いなと思います。

 最初にもお話したように、私は、障害や病を抱えている人が、趣味や仕事といった全然違うところでつちかった技術や発想を転用していくのが面白いなと思っているのですが、けん玉の人も、たとえばポッピングがすごくうまいとか、何か類推可能なものがあったんじゃないでしょうか。

 

◎自分の中での初期設定

青木 ぼくの父は、ぼくが二十歳のときに脳腫瘍で亡くなりました。父は演劇関係の裏方の仕事をしていたんですが、脳の患部を6−7センチ手術で摘出したあとに、自分の名前は出てこないのに一緒に仕事をしていた演出家の名前が出てくるんです。面白かったのは、病棟を上手と下手に分けていたんです(笑)。たぶん彼にとっては、現実を受け入れていく一番スマートなやり方として、舞台の上にいるという初期設定をしたんだと思うんです。別に舞台である必要はないんだけど、彼のなかではそっちが上手でこっちが下手で、ってなっていることが、あの空間にいるときに安心するやり方だったんだろうな、と。あれは本人しか通じない合理性だなと思いました。ぼくはそういう自分の中での初期設定みたいなものは、結構意識しているかもしれないですね。

 

西島 初期設定…

 

青木 それこそ、最初にぼくの声を聞いて、どういう人か思い浮かべるみたいなこととか、ちょっとどこかはずさないといけないこととか(笑)、靴下に穴開けようかどうしようか、みたいなことも、今日こうやって話すときに大事なことだったんじゃないかと思うんです。

 

西島 そうそう、そうなんです。正直ちょっと好青年っぽい声としゃべりかたじゃないですか(笑)。文体も、頭が良さそうだと思って、こっちもふだん調べもしないことを調べたりして。

 

青木 なんか恥ずかしいっすね(笑)

 

西島 喜んで対談をやりますと言ったものの、どうしようと思っていて、私が最近読んでいる本じゃとても追いつかないものがあるし、でも今日は結構準備万端だったんですよ。歌舞伎揚とか買ってきちゃったし、私、心に余裕がある、とか思って(笑)。そしたらうまくzoomに入れなくて慌てちゃって、自分の心を落ち着かせるために、申し訳ないけれど青木さんを若干くずすっていうことにしたんです(笑)。自分に近いものにしないとこれはまずいな、と。お話するのにちょうどいい距離に、自分で近づけているんです。

 

青木 面白い(笑)

 

伊藤 面白いですね。設定の力はめちゃくちゃ重要ですね。

 

◎幻肢が人を突き抜ける

伊藤「見えないけどある」っていう根本のところを二人は共有しているのかなと思うんですけど、私も最近よく、「見えているっていうことはそこにあるということではない」と感じます。Zoomで今日みたいにみなさんとお話できることは、とても嬉しいし楽なんですけれど、こんなにお互いの姿が見えているのにそこに「いる」という感じは全然しない。だから沈黙を埋めるように必死に話しちゃうし、ふだんやらないのに司会進行みたいなことしてる(笑)

 

青木 Zoomって沈黙が放送事故みたいな感じになりますよね。

 

伊藤 そこにいるかどうか不安で確かめようとしてしゃべってしまいますよね。

 

伊藤 この「見えている」ことが「いる」につながらない生活をしていると、結局「見えていないけどある」もののほうが強いなという気がししてくるんです。そっちの感性を研ぎ澄ませたい。青木さんが「渋谷も自分の庭」というふうに書かれていて、足がないからこそ遠くまで伸ばせるというのはすごく面白いなと思いました。

 

青木 西島さんは、自分の体が遠くまで伸びていたりしないんですか。

 

西島 盲導犬はそうです。自分の体の一部であり、取り外し可能なものでもある。セラフとよく旅行をしたんですが、部屋に入ってセラフを話してうろうろさせると、うろうろしたところから部屋ができていくんです。セラフが歩いたということは「通れる」ということだから、自分の映像でセラフの背中を見て、部屋の広さとか、ベットの位置だとか、窓の位置とかを把握する。もちろん環境音のようなそれ以外の情報をあるとは思うんですが、自分が一番エネルギーをかけてキャッチしようとしているのはセラフです。Bluetoothでつながっているんです。セラフを自由にさせることが、自分の視覚や手足を伸ばすことだなと思います。情報を正確にキャッチできます。外を歩くときは、セラフとハーネスでジョイントされているな、自分の体の一部だなと感じます。リードを持っているときは子供と手をつないでいる感覚で、むしろ子供より動かないので、一般的に想像されている犬のリードとは違うと思います。状態がいいときには、自分の右手がなくなってセラフの鼻先、眉間のあたりが一体になっているのを感じます。セラフが何かに気を取られていると、自分の手が持ってかれているから、「何があるの?」って引きつけられていく感じはあります。だから自分の左半身っていつも犬がいるので、自分の思い通りにいかなくていいものなんですよ。半分、犬のものなので。セラフが嫌だと言うと、「ああ、右半身だけでは行けないなあ、無理だし」みたいな気分になる。

 

青木 他のものをさわってもそういうふうに拡張することはあるんですか?

 

西島 ないです。犬独特です。杖はやっぱり杖だし、人はやっぱり人です。ただ、人の面白いところは、自分の目といっしょにしたくなっちゃうところ。亜紗先生とパン屋さんに行ったことがあるんですけど、亜紗先生が見たものは自分も見たつもりになってる。で、いざ食べるとなったら「あれ、思っていたのと形が違う」って(笑)。でもコンビニでおにぎりを買うときに、具の名前をひととおり言ってもらうと、何がどこにあるか分かるので自分で手を伸ばしてとれたりします。意識的にやったことはないけど、そういうふうになってます。

 

伊藤 セラフのときはセラフの目になっているわけではない、ということ?

 

西島 セラフの視線は低いので、そこから見た世界を想像しているわけではなくて、自分は自分の目で見て、セラフが何かに注意を向けたときには「何だろう、自分の映像にはないから、それを足さなきゃ」って思ってさぐったり、「セラフにしか見えない何かがいるのかな」と思ったり。目はセラフとは別なんです。セラフは手の延長で、それはセラフのミッションは「安全」と直結してるからだと思います。危険を確認するためには、目で確認したり耳で確認したりするのよりも、手で確認するほうが、圧倒的に正確ですよね。ただ自分でさわるということはあまりしたくなくて。自分で触るのもやだし、触って確認しなくちゃいけないから触るというのも嫌なんです。セラフが目で見てる危ないものを、「エアリー的に」触っている感じです。ポールが立ってるのか、車があるのか、人がいるのか、分からないけど、直接触るのが嫌だから、セラフを使ってエアリー的に触っています。

 

青木 ぼくの場合は、まだ、なのか分からないけれど、健康な足というところまでしか広がっていかないです。最初は、切断したほうの幻肢を50メートルぐらい伸ばせたら、50メートル先のことを感じられるんじゃないかとか思っていたけれど、なかなかそこまで自分で拡張することはできないです。断端を地面につけたら感覚が広がるとか、そういう妄想はしていたんですけど、そういうふうには感覚を広げられなくて、義足をつけても「足」になる感じで、足という限界を超えられないでいますね。

 

伊藤 でも、義足を履いて、義足を地面につけると、地面のことが分かるわけですよね。杖っぽい感じですかね。

 

青木 そうですね。

 

西島 どれくらいのものが分かるんですか。砂利や石が、デザインとして敷き詰められているのか、ただ積んであるだけなのか、とか。

 

青木 それはけっこうわかりますね。杖で地面を触っているのとほとんど同じで、砂利か、土か、コンクリか、規則的な模様なのかどうかということは読み取れます。

 

西島 デパートの入り口みたいなツルツルした床は、歩きづらかったり、重心が上手くとれなかったりしますか。

 

青木 路面の状況はダイレクトに影響を受けていて、すべりやすかったり、雨がふったあとだったり、濡れている床は、すごく不安定なので、全身でバランスをとらないといけない感じになります。そういうのもふつうに足で歩いていて読み解ける情報で。その足が実際の足の動きに置いていかれることはあります。切断してすぐの、義足を履いていない状態で電車に乗ったときに、目の前に立った人に、自分の幻肢がぶつかったんですよ。幻肢が目の前の立っている人を突き抜けていて(笑)。ぼくだけ一人でそわそわしちゃって。そうやって幻肢が実際の動きに置いてかれていることはありますね。

 

西島 去年の冬ぐらいから、セラフが引退しちゃって左側のバランスが悪くなっちゃったので、買い物に行くときにセラフの映像を作れるようにしたんですよ。スーパーに買い物とかに行っても、ハーネスとかはしていないけれど私にとっては左側にセラフがいるような感じにして、バランスをとっていたんです。なんか今日は物にぶつかりそうだな、とか、今日はなんかフワフワするなとか思ったときに左を見て、(イメージの)セラフがこちらを見たりすると、安心してまたバランスがよくなったりします。自分の場合は意図的にそういうことをして、自分の中の違和感を修正しようとしています。青木さんの話は、それとちょっと似ているのかな、と思ったりしています。セラフについては、触覚もたまにあるんです。太ももに当たったときの太ものの感じ、とかが。映像は最初はかなり半透明に近かったんですが、だんだんくっきり映るようになってくると、だんだんそういう触覚が伴ってくるようになりました。最近は、そういうことはないんですか?

 

青木 最近は外に出るときには義足を履くようになりました。義足を履いているときは、幻肢の動きは義足に同期しているんですよ。だから、義足をして座ると、幻肢もちゃんと曲がった状態で感じていたりします。そこがずれることは今はほとんどないですね。家の中では義足を外していて、たまに物にぶつかっていたり、ベッドを突き抜けていたりしますが、でもそれはもう驚かなくなりましたね。電車に乗ったときは、相手が人だったからびっくりしましたね。患者さんによっては、幻肢が人にぶつかって「ああ、ごめんなさい」って声がでちゃう人もいるらしいです。ぼくはまだそこまではないですが。

 

伊藤 人の体を突き抜けているときの感触はあるんですか?さっき玲那さんはセラフが太ももにぶつかっている感触があるって言っていましたが…

 

青木 人のときは、突き抜けているというか、接触している感じはあって。足の裏がその人に接地しているというより、突き抜けているから足の途中が、あったかいというかもぞもぞする感じでした。自分でもそれをどけられないし、どうしよう、みたいな。

 

西島 へえ〜!なんか透明人間みたい。

 

青木 でもそういう感じですね。その人とあわさっちゃってる、重なってる、みたいな。

 

伊藤 あったかいのかあ…。布団がちょと掛かっているみたいな感じですか?

 

青木 そうですね…布団というよりぬるま湯みたいな感じですかね。

 

西島 やっぱり人体を突き抜けている感じですね。

 

青木 物があたっているというより、体の重なっている部分が反応してるという感じです。そこの体の濃度が高くなってる、みたいな。

 

伊藤 何だそれ〜

 

西島 こんどお会いしたときに青木さんの幻肢を叩いたら「痛い!」ってなるんですかね。

 

青木 幻肢を触るという感じは、実は自分の中ではリアクションがなくて。切断する前の人工関節のときは、足があまり曲げられなかったら、電車のなかでも前に投げ出した状態になっちゃってたんです。態度の悪い若者みたいな感じに見えるので、わざと蹴飛ばされたりしてたんで(笑)、なるべく邪魔にならないように優先席に端っことかに座っていました。なので、そういう記憶と相まって、電車のなかで座っているというシチュエーションが自分の中でプレッシャーというか、ドキドキ感につながっていたのかなと思います。

 

伊藤 なるほど。触れないということは、輪郭がない、表面がないということですか?

 

青木 幻肢痛があった頃に、さすったりしたら変わるのかなと思ったんですけど、さすっている感覚は全然ないんです。でも。自分で幻肢痛を感じたりするときは、足の表面、ここが幻肢だという感覚はあるんだけど、それに対して自分がコンタクトは取れないんです。

 

◎義足/盲導犬との信頼関係

伊藤 なるほど。幻肢と会話は成立するんですか?

 

青木 あんまりこっちの言うことは聞いてくれないですね。特に義足のリハビリのときなどは、どっちかというと、相手の都合を利用して使っている感じですね。こっち側の都合でコントロールすることはできない存在ですね。

 

西島 分かるような、全然分からないような感じですね。もう少しで分かりそうな感じもするけれど…。やっぱり輪郭が分からないというのが、想像しにくいです。自分の足を意識しようとすると、つまっている中身のことよりも、境界になっている皮膚のことを考えやすいです。ふだんはもちろん意識していないから、どんなふうに自分の体を意識しているかって分かっていないなあと思うんですけど。意図して知ろうとすると離れて行っちゃうような感じがしますね。

 

青木 左手にセラフ君がいるという感じがすごく近いんじゃないかなと思っています。実際にいないんだけど、いるみたいなイメージを作り出すという感じが。しかもそのイメージって妄想ではなくて自分で経験したことと結びついていて、なおかつそのイメージってセラフ君の内側から作られているじゃないですか。幻肢も、自分で見て外側からイメージを付け足しているというよりは、体の内側からイメージを作っているという感じなんです。だから自分が意図的に外から作り出そうとしても、リアクションしてくれない。でも、もうちょっと全身でその環境の設定をすると、リアクションしてくれたりします。たとえばぼくが入院していて幻肢痛の感覚がいまより強かったときに、ベッドで横になって断端を上にあげると幻肢がしなったんですよ。それは、体が横になっていて、重力が下だよ、という環境が設定されているから幻肢がリアクションしてくれている。触るような直接的なコンタクトはとれないけど、相手の都合を受け入れてあげながら環境を整えてあげたりすると、コンタクトがとれる、という感じですかね。

 

伊藤 なるほど。幻肢を振ったりすることはできるんですか。

 

青木 振れないですね。振るほどスピード感のある動きはないですね。

 

伊藤 ということは、義足を履いていない状態で足を動かすと、幻肢はついてこれない?

 

青木 いまは断端が動かせるようになったので、「棒を振る」みたいな感じはありますね。でも、さっきお話したように幻肢がしなるような感じはないです。今は、義足をはずすと、幻肢は足先まである感じはなくて、棒のように感覚が伸びている感じなんです。だから、足先にある棒を振り回している感じです。それが、義足を履くと、ちゃんと足先まで「びゅん」って足が出てくる、みたいな感じなんです。

 

伊藤 けっこうこちらの都合を聞いてきた感じなんですかね。

 

青木 義足という環境と同期させると話ができる、という感じですね。

 

西島 面白い〜

 

伊藤 やっぱり義足と義手ってだいぶ違いますね。義足だと体重がかかってくるから、つっぱる動きが出てきますよね。前に、手が麻痺している人が、机などに手をついて体重をかけてつっぱりたい、それが安心には必要だ、と力説していたんです。そういう「つっぱる感」みたいなものが、幻肢そのものの状態や、幻肢との関係に与える変化がありそうだなと思っています。

 

青木 義足は、さっきのつっぱる感じも含めて、信頼関係だなと思っています。義足って信頼して乗ってあげないとだめで、怖がっちゃうとうまく歩けないんです。幻肢とかもそういうところがあるのかもしれません。こっちの都合を聞いてくれるものではないということを尊重してあげて、そのうえで存在を認めてつきあってあげる。盲導犬もそういう存在なんじゃないかな、という気がしています。

 

西島 すごく近いなと思います。信用していないと、そもそも彼にいのちをあずけるなんてことしなかったです。彼にも彼の都合と気分があるというのがむしろすごく良くて。事前に、行くところを言っておかないと行ってくれないんですよ。何度かやらかしたんですけど、「薬局に寄るよ」って言うのを忘れちゃってて、「あと薬局行って終わりだね」って言ったら「ぼくの予定にないですよ?」っていう顔をされて(笑)。最終的に、セラフが座り込んでストライキを起こしたんで、頼み込んで納得してもらって行ってもらったことがあります。それで結局納得してもらえず、行くのを諦めたこともあります。私が気がついていない私の体調不良を察して引き返したこともあります。私の中では彼はプロ意識が高いという設定があるんですけど(笑)、出かける前にも伸びをして準備体操したり、私が荷物を準備しているとそれをチェックしにくる。だから前もって話しておかないと、彼の都合があるので、うまくいかない。彼の体力と彼の気力が満タンじゃないと、緊急会議を開かなくちゃいけない。でも、それがむしろ、すごくよかったんです。

 

青木 すごいできる子ですね(笑)

 

西島 できる子なんです。

 

青木 ぼくの義足とかはもっとやんちゃかもしれない(笑)

 

伊藤 なんかママ友の会話みたい(笑)

 

青木 ぼくはもっと「ガンガン行っちゃおうぜ」みたいなテンションですね(笑)。最初、リハビリ施設で練習してたときに、ぼくはずっとヒップホップが好きだったんで、そういうBGMが頭の中で流れながら歩く練習をしていたんです。そうすると、全身で義足を信じて体をあずけないと、そういう力強い歩きはできない。全然、慎重じゃなかったんです。両手もぶらぶらせずに、ポケットに入れてたりした(笑)。すごく自然に近い状態で歩いていて、リハビリのストロークはそんなにないけど、もっと遠くを見て「向こうに歩いて行こうとか、そういう状態でやっていたんです。だから、今もいろいろな路面の状態のところを歩いているんですが、「よし、行くぞ!」「行っちゃうからね」みたいな感じで行きます。向こうも、わりとそれについてくるハードな子という感じですね。

 

伊藤 似てくるんですね。

 

西島 すごい面白い、それ(笑)。義足目線のnoteとか書かないんですか?

 

青木 確かに、聞いていてそう思いました。「ぼくの子」って言うのもアレだけど(笑)、なんかすごいハードにやってるなあって思いました。ガンガン使いたいという気持ちが強くて。あとぼくも義足を撫でたりしていたんですよ。まさにそれは出発の準備を一緒にするような感じで、すごく触って、どういう形か、どういう子かっていうのを把握してあげて、それで「よろしくね」みたいな付き合い方をしていました。

 

西島 名前とかついているんですか?

 

青木 名前ついてないですね。

 

西島 つけたほうがいいですよ、絶対!

 

青木 名前いいですね〜

 

西島 義足に相談ごととかしてみたいですもん(笑)

 

青木 いやうちの子はあんまり相談事乗らないかもしれない(笑)

 

西島 そっかあ。セラフはめちゃくちゃ聞き上手なんで。

 

伊藤 玲那さん、セラフ目線で文章を書いてましたよね。

 

西島 そうなんですよ。恋愛相談とかさせたいんですよ。義足の性別は?

 

青木 性別は絶対男の子だな…

 

伊藤 ダチって感じなんですね。

 

青木 そうですね。ダチって感じですね。

 

西島 弟っていう感じとも違うんですね。

 

青木 相棒って感じですね。相棒だから、ツーカーでやりとりができる感じですね。

 

伊藤 幻肢と義手と青木さんは三角関係にはならないんですか?

 

青木 関係的には3つあるイメージですね。義足と幻肢は違うから、ぼく、幻肢、義足という感じで、関係が遠くなる感じですね。義足とぼくが相棒なのは、ちょっと距離があるからかもしれないですね。幻肢とぼくはお互いの都合でやりとりしてるから、もうちょっとネチネチした関係なんだと思います。

 

西島 三角関係かあ…ややこしい(笑)

 

青木 義足のパーツはいろいろな名前がついているんです。名前というか、商品名かな。それがけっこうカッコ良かったりするんですよ。競技用のパーツだと「ニトロ」とか「チータ」とか、そういう速そうな、爆発力ありそうな名前がついているんです。

 

西島 うちのセラフは、いまレトリバーの姿をしてますけど、タヌキが化けてるんです(笑)。ちょっと勘違いして犬の姿をしているんですけど、たまにタヌキがでてくる。だから嘘もつくし、狸寝入りもするんだと思ってます。

 

伊藤 義足は一足で生きていくものなんですか?

 

青木 一応二本作っています。最初に作るのは仮義足で、練習用として作られるものです。二本目が本義足で、断端の形が決まったらそれに合わせて作ります。あとは壊れたときや、子供の場合は成長にあわせて作り直します。

 

◎よろしくママ友

伊藤 今日、話しはじめた最初は2人のあいだに距離があったけど、話していくうちにだんだん義足と盲導犬が混ざったものができあがってきた感じがありますね。

 

青木 ひとりで考えていると自分でも分からないことが多いから、今日はすごく楽しかったです。確かに義足を人格を持っているように扱っているなと思いました。車椅子バスケをやっているときもそうでしたが、自分が使うマシンに対する愛着みたいなものがありますね。車椅子と義足はぼくの中では扱いが近かったですね。

 

西島 楽器を使う人もそういうところがありますね。私も自分の持っているサックスに、男の子と女の子があったりします。見た目とかそういうのだけじゃない何かがありますね。でも犬はそもそもの性格とかもあるから、それを自分が受け入れ可能な形に変換しているんですよね。24時間ずっと、13年間一緒に暮らしている。トイレに入ってもお風呂に入っても外にいるし、寝るときも一緒です。彼が寝るよって言ったら寝ないと、彼が足をガンガンやってきたりするんです。

 

伊藤 玲那さんとセラフの関係って、側から見てもちょっとぞわぞわするんです。セラフがずーっと玲那さんの目を見てる。玲那さんのことをめちゃくちゃ信じてますよね。

 

西島 怖くて裏切れない。よく私がご主人って言われるんですけど、対等以上にちょっとセラフのほうが上なんですよ。私の理論なんですけ、やっぱり人間は我慢の許容が広いと思うんで、食事ひとつ取ったっていろいろな選択肢を選べる。でもセラフはそもそも選んで盲導犬になったわけじゃないし、選んで私のパートナーになったわけじゃないので、「これでよかったなあ」って思わせるにはどうしたらいいんだろう、みたいなところから始まっていて、そうしているうちに、セラフのほうが若干上になっていった。私が優位の活動があるときには、どこかでセラフにそれを補填していかないとバランスが悪い気がしてくる。それがあるから、私の人生はだいぶ豊かになったんです。セラフといると、自分にとってツイてないなということが、大したことじゃないように思えてくる。電車に乗り遅れても、過ぎていく電車をセラフと自分が同じ顔の動きで追っているのを感じたりすると、その絵はちょっと面白いなと思ったり、「チッ」って思わないで済むことがだいぶ多いです。そういう意味でとっても助けてもらっているんです。障害がある人って多かれ少なかれ思い通りにいかないこととの戦いがついてまわるので、それをストレス少なく感じさせてくてれる唯一の存在です。そういうことが、もしかしたら義足にもあるのかもしれないなって思うと、すごくシンパシーを感じています。

 

青木 そのコミュニケーション方法は、ぼくも義足に対してすごく思っていて。ぼくは義足を履くことになったとき、興味もあったからいろんなパーツを調べたし、論文を読んでみたりしたんです。だから義肢装具士やリハビリの専門家たちとわりと話ができるし、自分の義足のパーツ選びがスムーズでした。あとリハビリ施設に古い木でできた昔の義足が展示してあったりするのを見たりしたし、どこかの研修医が来たときに施設案内をしてもらっているのにぼくもついっていったりしていました。義足がどうできあがっているかといったことは、ふつうはリハビリのときにはあまり聞かされないけれど、この義足がどういう歴史を背負っていまここに来ているのか、ということを理解しようとしてあげないと、使いこなせない気がしたんですよね。そういう過程がリハビリに組み込まれていないのはもったいないなと思う。

ぼくは職業的にはキュレーターとして、アーティストと一緒に展覧会やプロジェクトを作ったりしているんですけど、アーティストのアトリエに行ったりするとその作品への理解が深まったりして、「この作品はこういう環境から生み出されているんだ」って納得する部分があって、そこから展覧会でもこういうふうにしよう、というアイディアが出たりする。それは義足も同じで、誰かが作っている創造物だから、その背景にどういうふうにふれるということは、義足に対してもそうだし、リハビリの専門家と患者もそうだなと思っています。雨上がりの日にリハビリ施設から外に出たときに、「これ、雨とか雪とかだったら大変だな」と思って。たぶんぼくが北海道の人だったらこのパーツは選ばなかったと思うんですね。どういう土地で生きているのか、その人がどういう生活のレベルを求めているのかということを、患者の側からリハビリの専門家に伝えていかないと、「歩きやすい義足を選べばいい」だけで終わっちゃうかもしれない。それはいろいろなところでコミュニケーションしていかなきゃいけないんだなと思います。

 

西島 すごい分かります、それ。やっぱり犬と人の訓練の関係がいつ始まったのかとか、なぜラブラドールやシェパードなのかとか、そういう歴史を見ていくと、何をさせたらセラフにとって我慢なのか、何をさせたら苦痛なのか、何をどう気がついてあげれば苦痛が楽しみになるのかとかが分かってくる。知っててよかった、と思うことがいっぱいあります。分かっていなかったら必要以上に苦しめていただろうな、と。義足のパーツを選ぶ話がありましたが、盲導犬を選ぶときにも、育成団体によって「これで盲導犬です」という指標にけっこうばらつきがあるんです。仕事に行く時だけ一緒なのか、ずっと一緒なのかで、誰に育ててもらうといいかが変わってくる。北海道だと毛足が長いと雪玉ができちゃうので犬種も変わってくる、とか。生き物と機械だけど、知ってさえいれば上手にもっと楽しく暮らせることがあります。

 

伊藤 さっき、思い通りにならないほうが信頼できるという話があったけれど、それにも通じる話ですね。義足や盲導犬がどういう歴史や背景を背負っているかとか、どういう別の選択肢の中でこれがここに存在するのかとか、知れば知るほど、それが自分の支配下にないものになっていく感じがありますね。生き物であれ、機械であれ、そういうふうになったときに信頼できるという感情につながっていったりするのが面白いですね。

 

西島 大事だからこそ自分の失敗をセラフのせいにしたくないというのが、信頼するっていうのの大前提にあります。階段を一回だけ一段踏み外しただけで、階段を降りるときの慎重さがガクッとかわっちゃったんです。だから、安全のために階段をえらばないんじゃなくて、セラフが怖かったんだなということを考えて階段を避ける。自分に起こるちょっとしたアンラッキーをセラフのせいだけにはしないということが、自分の生きるエネルギーみたいなものになっていて、生き物であれ機械であれ、自分の生命を支えるものは愛着があるので、未知の領域というか、別の何かエネルギー源みたいなものがないと、消化しきれなかったり乗り切れなかったりするのかなあと思う。セラフはもう盲導犬じゃないけど、いてくれるだけでいい、そばにいてくれることの意味はものすごく大きいものがあります。声を大にして言うことはどうかなと思うこともあるんですが、自分にとってはとてもいいことです。

 

青木 つきないですね。次はぜひぼくがやっている喫茶店にいらしてください。

 

西島 ぜひぜひ!今日はママ友ができた気分で嬉しいです。

 

青木 ほんとそうですね。面白い。こういう話はたぶん義足ユーザーでも通じないと思う(笑)。

 6月21日 21:00―23:30 Zoomにて