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チョン・ヒョナンさん×西島玲那さん

異なる体の対談シリーズ第2弾、西島玲那さんとチョン・ヒョナン さんの2万字対談です。それぞれ『記憶する体』のエピソード1と8に登場してくださっています。オフ会みたいな感じ?

すばらしい対談でした。私はこの1ヶ月半、だれと話すときも、どこにいるときも、ずーっとこの対談のことを考えていました。それでもなお、すでに200年分くらい生きているのではないかというふたりの人生の厚みに圧倒されたまま、まだ半分も消化できていない気がしています。

とくに後半に出てくる「信頼」の話は、私の大切な研究テーマのひとつになりました。次の本は「人の体に触れるとはどういうことか」をめぐる触覚論とコミュニケーション論が交叉するような内容なのですが、その中でも信頼について一章を割いて考えたいと思っています。

でも二人とも、まだこの対談は終わってないと感じている様子。次回がいつになるのか楽しみです。


鄭 堅桓(チョン ヒョナン)さんプロフィール
1970年千葉生まれの在日朝鮮人3世です。12年前に慢性炎症性脱髄性多発神経炎発症(CIDP)を発症。元看護師で現在は専業主夫です。在日で難病と障害者といった自分のダブルマイノリティーの特性を生かして時々病院や学校等で話をさせてもらっています。

西島玲那さんプロフィール

1985年生まれ。15歳で網膜色素変成症を発症。19歳で失明。『記憶する体』出版後に伊藤と往復書簡を開始、視覚障害の方以外にもさまざまな体を持った方へのインタビューを開始。今回がその1回目。

◎ 「何とかして欲しい痛み」から「じぶんで完結する痛み」
伊藤 『記憶する体』を出したときに、第1章に登場する玲那さんが、他の章の人にも興味をもってくれたのですが、その中でも特にチョンさんのお会いしたいというリクエストがありました。私としても、それは素晴らしい、よい組み合わせだと思って、さっそく今日の会をセットさせていただきました。無理に共通点を探さなくても、いろいろ探り合った結果、「おたがい、すごい違うね」で終わってもいいと思っています。というか、ふつうの会話だと違いの話は優劣の話に聞こえがちなので、気を使ってしまう場合もあると思うのですが、これはあくまで研究であって、お互いを傷つける場ではないので、それぞれの体や体験や感情を研究対象として、いい距離で、観察できたらいいなと思っています。

西島 よろしくお願いします。

チョンさん よろしくお願いします。

伊藤 今日の話をするためにチョンさんにメールしたら「すごい緊張してます」と言ってましたよね(笑)

チョン (笑)ふだんからいろいろな言葉探しをするなかで伊藤亜紗さんの書かれたものとか話したことを聞いたりしていて、今後ちがう障害の人が出会う場をつくるということを聞いて、すごくいいなと思っていたと思っていたんです。じぶんも、あえてごちゃまぜのところに自分を置いたところでどういうことが生まれるんだろう、みたいなことに興味を持っていたので、いいな、と。でもすごい遠い感じで思っていたので、まさか自分に話が来るとはまったく思っていなかった(笑)

西島 わりと早い段階で出てましたよ(笑)

チョン 基本的になんでもそうなんですけど、一番はやだな、と思っていて(笑)楽しみにしていたほうだったのに、ああ、俺か!という動揺です。

伊藤 玲那さんに今年ゲストで来ていただいた東大の授業、去年はチョンさんに来てもらったんです。そのときのお話がとても素晴らしかった。何が素晴らしいって、原稿を作ってきてくれたのに、それをいっさい読まなかったんです。

チョン 用意した言葉だと、妻、妻なんですけど、妻って言ってるとこそばゆくなってくる(笑)。まあ、一緒に住んでるお方に、読んだら面白くないって言われて。それで、いつも、終わりのところだけきちんと形をつくっておいて、そこに持っていく感じにしています。めんどくさいのかもしれないし。

伊藤 チョンさんはいつも、言葉よりも実態を大事にしますよね。言葉を常に探してらっしゃるんだけど、言葉に対する警戒心もある。人って、じぶんの状態をかっこよく言えちゃったときに、その言葉にだまされ始める、気持ち良くなっちゃいがちだと思うんです。でもチョンさんはそうならないようにしている、言葉で済まさないようにしてる。「妻」って言ったときの違和感とか、スルーしないですもんね(笑)授業のときも、そこにすごく感動しました。

西島 ぎくっとしましたね(笑)

伊藤 玲那さんも素晴らしいのよ(笑)。
二人は一見すると、体の状態としては共通点がないですよね。玲那さんは全盲の状態になって15年めで、まわりの情報をかなりビジュアライズして、VRのような世界のなかに生きている。チョンさんは目はふつうに見えていて、33歳のときにCIDP(慢性脱髄性多発性神経炎)という難病にかかっていま16年めに入りました。

西島 だいたい同期(笑)

チョン 同期ですね(笑)
一番大きい症状としては、痛み、痺れ、脱力感で、いまは赤ちゃん一人分くらい背負っている感じですね。具合が悪くなると、二人、三人、と重石が増える感じです。起き上がれなくなって、脱力感が出てくる感じですね。もうひとつ、これはいまかかっている病院の先生が使っていて、おもしろいからぼくも使っている表現なんですけど、常に瓦の屋根のうえを歩いている状態です。前はハイヒールを履いている感じ、と言っていたんですけど、瓦のところをずっと歩いている感じなので、すごく転倒しやすい。

西島 ただ下がボコボコしている感じじゃなくて、あぶなさを伴っている感じなんですか?

チョン そうです。常に安定感のないところを歩いている感じで、痺れがそうさせているんだと思います。あと、ぼくの場合は再発があるので、どのタイミングで入院したらいいのかが難しいんです。今回、2年半くらい頑張って、久しぶりに腰回りに激痛に近いくらいの痛みがきて、昨年末に入院しました。久しぶりに家族にもあたり散らしてしまってよくない状況だったので、本当はそこまで引っ張らなくてもいいんじゃないかなあ、と思いました。

伊藤 チョンさんは、状態が変化するというのが大きいですね。玲那さんは変化はありますか?眼振が出てきたと言っていましたね。

西島 そうなんです。眼振になるという予定もなかったんですけど、4年前くらいに、夫が気付いて。いまでは眼振があると、自分の見ている映像もばーっと揺れてしまって、すごく気持ちわるくなる。病院に行っても、「見えないんだからいいじゃない」と言われちゃうし、視覚障害の人でも眼振が出るのは多いみたいで、よくあることだ、で終わってします。亜紗先生が言うように、同じ「見えない」という状況でも人によって違います。あとあとから眼振が出る人は、気にならない人のほうが多いので、お医者さんが分かってくれないんです。変な言い方ですけど、目の写真とか撮って、病巣が出ていても、「見てるんです」とは言えないんです。じぶんのほんとうの不快感、不便さのところは言えなくて。病名は世界共通であっても、症状なんてバラバラなんですよね。見えなくなってけっこう経つのに、ほんとうは嘘ついているんじゃないかとか言われてしんどくなるのは嫌だなと思ってしまう。手術して治るとかだったら頑張るけど、そういうのもないですしね。眼振は基本的には朝が一番楽で、だんだん疲労とともに出やすくなるんです。好きな「書く」という動作が集中してできない、というストレスはやっぱりありますね。

伊藤 痛みはどうですか?

西島 痛みは前はストレスでありました。脱力もあって、膝が抜けて立てなくなったり。そういう症状を病院で言うと、精神安定剤とかを処方されてしまって。今年薬をやめたら楽になりました。飲んでいるのも、自分のなかではあまりしっくり来ていなくて、やめたいなあ、とはどこかで思っていたんですが、結構長く続けちゃって。やめるときは、そのときだけは副作用がどーんときてしんどかったです。イライラして当たっちゃうんで、一ヶ月間夫と別々で生活していました。抜くためだけの時間を作りました。まあ、そういうのはありますが、病気が原因で直接的に痛みが出るということはないです。瞬きの回数が減る、とか二次災害的なものがあるくらいですね。

伊藤 チョンさんは体調的にも変化があるし、病気との付き合い方も変化してきていますよね。最初の、「足を切ってくれ」と家族に頼んでいたころの、病気に飲み込まれていた時期から、痛みや痺れを観察したり面白がるような付き合いかたに変化してきていますよね。さいきんはまた変化していたりしますか。

チョン 痛み自体は変わらなくて、夏場は焚き火に足を突っ込んでいるような腫れたかんじ、冬は血流がなくなるので、足の指に針をずっとチクチクされているような感じです。とくにこの冬はしんどくて、腫れた感じとチクチクが同時に来ていて、腫れているんじゃないかと確認してしまうことがあります。痛くて寝れないので、睡眠不足になったりもしますしね。でも、伊藤先生とのやりとりもあったし、痛みというのをあらためてじぶんで追究して向き合っていくなかで、どうにかしてくれ、というのは今ないですね。それはなぜかって言ったら、ぼくの中の痛みはぼくで終わる、というのにちょっと安心したんです。誰かに伝染するわけでもないし、僕が死ねば僕の痛みは終わる。
だけど、ぼくが抱えているもうひとつの痛み、在日朝鮮人としてぼくがもっている、いろいろな差別だったり社会で起きている苦しみといったものは、次の、ぼくの子どもだったり他の子どもたちに残してしまう痛みなんですよね。ぼくはそっちのほうの痛みをなんとかしなくちゃと思ったときに、ぼくのなかの痛みというのは、あまり大したことじゃないなというふうに思えちゃったんですよね。
最初は「ぼくの痛みはこんなに痛いのに、なんで家族はわかってくれないんだ」というのは、ほんとうに常にあったんです。この痛みから逃れる方法が死ならそれでもいいと思っていた、でも、それに対してぼくのもう一人の人(妻)が、投げかけてくるんですよね。それでほんとうに痛みから逃れる方法になるのか、と。だったらその体と向き合うしかないよね、とじわじわやってくる感じで、考える時間になりましたね。病気をなんとかしてほしい、痛みをなんとかしてほしい、という気持ちは、今はほとんどない、と言っていいと思います。これ以上の手立てがないというのが分かっているので、考えがそっちのほうに向かなくなった、というのはありますね。
一方でさいきんは震えの薬が効いて、料理がしやすくなりましたね。それで採血のポージングをしていたら、娘に「なに無駄な努力してるの」ってからかわれちゃったんです。だからどっかで、「もしよくなったら」と期待する気持ちもあるのかもしれませんけどね。変なこと言ってるかもなあ(笑)

伊藤 どうにかしてくれ、という気持ちは、じぶんじゃない誰かを想定した思考回路ですよね。そのことと、痛みはじぶんで終わる、という感覚はどこかでつながっているんですかね。前にお話をうかがったときは、たぶんもうちょっと違うステージだったように思います。つまり、チョンさんの痛みが、周りの家族に、別の仕方で分有されている、と。痛みそのものは誰にも理解されないけれど、でもチョンさんの痛みに影響をうけて家族のそれぞれもそれぞれなりの痛みを経験している、と。それに比べると今はもうちょっと完結型の捉え方になっているのかな、と。

チョン そうですね、もうちょっと真ん中を丁寧に話すと、最初はやっぱり「じぶんの中の痛み」というか、痛みが他人に共有してもらえない、というもどかしさがありました。でもそれによって子どもがよくない行動に走ったり、パートナーはパートナーで今になって当時のことを聞いてみると、どう返していいか言葉が出なかった、と。それでチョン・ヒョナンという一人の人間が、あっちに行かないように、どうにかここに留めるためには、どういう言葉を投げればいいかずっと悩んでいたと言っていた。だから家族にはそれぞれに痛みがあったんだという気づきがあったときに、ぼくだけが痛みをかかえているわけじゃなくて、家族それぞれが痛みをかかえていて、そのなかで学校に行ったり働いたりしながらやっていっているのに、「俺だけ」みたいなのは何だろう、というのがガーンと来て、それから痛みの捉え方というのが変わりましたね。それは身近な人だから気づけたんですが、本来はいろいろな人がいろいろな痛みをかかえていて、たとえばぼくは医療者なので、むしろそういう人を対処して働いていたわけですよね。反省とかそういう感じではないですね。どう向き合ったらいいだろう、というのを考えたときに、そういうふうに変わったかなと思います。

伊藤 その感覚はいまでも続いているんですよね。

チョン そうです。考えるのが好きなんでしょうね(笑)。それで本を読んだり、人と話したりして、「何とかして欲しい痛み」から「じぶんで完結する痛み」になった、これはこれで置いておいてもいいかな、と思えるようになった。ただし、あがくよって(笑)苦しいものは苦しいので。でもそれはいまじぶんの体にあるものなので、それは置いておいてもいいかなっていうふうな存在になりましたね。

伊藤 置いておくっていう感じなんですね。

チョン そうですね。居てもいい、じゃないですね。嫌なやつだし(笑)

◎「なんで自分が」と思えるようになるまで
伊藤 玲那さん、同期としてどうですか。

西島 あー情けないなあと思いますね(笑)。自分に言い訳するならば、私には子どももいないし、私がいちばんわがままでいい環境で障害がある時間を過ごしているから、そうなのかなと思うんですが。でも、チョンさんが超えたであろうものを私はまだ全然思っていて、「なんで私なんだ」っていうのは、最近はちょっとは減ったけど、やっぱり思ってしまっていて。たまに若い子が「やりたいことが見つからない」とか言っているのを聞くと、「じゃあ代わってくれよ」と思ったりするのを止められなくて。口に出して言ったりはしないですけどね。そう思うことの罪悪感と、それを吐き出したい気持ちと、それを言って傷つく家族を目の前にすると、もう苦しくて苦しくて。同じように悔しがってほしいだけなんですっていうところが、人の気持ちだからコントロールできるものではないんだけど、痛みを感じてくれなくてもいいし、同じように見えなくなってほしいなんて思ってないけど、それとは一歩二歩離れたところの、どうしようもない、この……。
8割くらいはじぶんのせいでそっちに行けないと思うから苦しいんですけど、実際に同じような目にあっても超えている人もいるっていうのを、励ますつもりで言われても、私はそんなに劣っているのかっていう、そういものと常に隣り合わせなんですけど、辛うじて背中を向けていられるのが、心が正常でいる条件ではあるけれど、でも無視はできないし、どこかで、そういうものが完璧になくなっちゃたら、障害に甘えて生きている人になる、それは望んでいなくて、どこかでじぶんは嫌悪しているから…

伊藤 障害に対してじぶんが一番偏見があるって言っていたよね。

西島 そうです。偏見があるっていう言い方をこのまえはっきりしちゃったんですけど、それが見えない人と関わるようになった最初の第一印象でした。よく障害を受け入れるっていう言い方をするんですけど、その受け入れるというポジティブさというのが私にはピンとこないんですよ。乗り越えるというのも雑な気がするし。いまチョンさんがおっしゃったように、乗り越えたわけでも克服したわけでもなく「ある」んですよね。なのでそこから少し視点をずらしたり、ちょっと苦しいときは目を逸らしたり、避けようとしてみたり、そういうものでいたいというか。それをちょっと間違えると夫のことを傷つける。それでも一緒にいてくれるというのも分かっているのに、だからすごく情けなくて…少し話を聞いていてうらやましいという気持ちもありますけど、でもこの痛さは失礼かもしれないけど嫌だな(笑)

チョン 俺も嫌だ(笑)。乗り越えているわけでもないしね。医療系の場で話してほしいと言われたときに、「受容する」ってどういうことかと聞かれたんですよね。なぜかっていうと、医療の現場っていうのは、強制的に、望ましい患者像っていうのがあるんですよね。よくTVとかでも「弱音も吐かず、あの人はほんとうに立派でした」「最期まで我慢して」とかあるけれども、ぼくはあれがすごく嫌で。それはあなたにとって都合がいい患者さんでしょって。ほんとうはいろんな患者さんがいて、もちろん理論としては余命宣告された患者さんがどういうプロセスになるのかということは知っておかなくちゃいけないけれど、でもその型にすべての人がハマるのかっていったらそんなことはなくて、人間いろんな形で動いていく。ぼくはそこがやっぱり看護をやっていて面白いんです。のたうちまわりながらも、亡くなっていく人もいるけど、でもその人ののたうちっていうのはぼくにとっては生き様としては面白いなと思うしね。ぼくも決して病気に対して受け入れているわけではない。
よく「病気になってよかった」って言うじゃないですか。むかし小児がんの子どもたちのキャンプのドキュメンタリーを見たときに、子どもたちが「病気になっていろんなことを知れてよかったです」と言っていて。でも最後にマイクが入るか入らないかのところで「やっぱりならないで済むんならなりたくないよね」っていう声がぼそっと入っていて。そうだよな、って思ったんですよね。それがやっぱり本音だと思うんですよね。ぼくもならないで済むんならこんな病気なりたくなかったし。
ぼくは好んで「ダブルマイノリティ」という言い方をしていて、在日朝鮮人としての属性もあるので、さっき玲那さんも言っていたように、たとえば投票に行かない人がいたりすると、だったら投票権くれ、と思ったりします。そういう妬みというか、だったら私と代わって、みたいなものは、ちょっと物心ついたときからあった感情です。それであらためて家族というものを考えたときに、確かにうるさい娘がいたり、大戦争がおきたりするんですけど、でも「在日」というひとつのワードでうちの家族はつながる、つながるというのはちょっとおかしいのかもしれないけれど、一種の自助グループでもある。ぼくが「いちいちじぶんのこと説明しなくちゃいけなくてめんどくさいなあ」と言うと、「私にもそのこと言わせて」って言い合える。外には出せない感情をそこで出せるんです。ぼくらにとっては、これがあるから外に出られる。これがなかったら外に出るのはすごくしんどいんじゃないかなあ、ということを家族を見ていてすごく思います。玲那さんの話を聞いていて、汚いかはわからないけれど、素直な感情というのを出せるという意味では、何がいけないのかちっともわからなかったです(笑)。
ぼくは最初「なんで自分が」というところに落としこめられなかったんです。なんでかっていうと、ぼくはもともと精神科で働いていて、人権だなんだというところをベースにした病院にいたので、自分はそういうことを思っちゃいけないんじゃないか、頑張んなきゃいけないんじゃないかって思っていたんです。本当は、病気になったことで何かを課したくなかったのに、実は自分で課していたんです。その頑張りどころの先が見えなくて、何をどう頑張ったらいいのか分からなかった。その当時のことは覚えていないですけど、笑ってなかったですね。「大丈夫」しか言っていなかったと家族に言われました。たぶん鬱傾向にあったんじゃないかと思います。だいぶたって、何かの拍子にぼくが笑ったら、子どもに「あ、笑った」って言われました。そこで、さっき話したようなところに行って、だいぶ楽になりましたね。ほんとうはこういうことしたかったんだ、ほんとうはこういう未来像あったんだ、何で病気になったんだ、って言えるようになった。でもそう言ってたら「ほんとうにそうなのか?」ってまた思い始めて。変ですよね(笑)。問いが降りかかってくるというか。ほんとうに病気のせいで何もできないのか、ということが今度は立ちはだかる。

西島 それは、じつは全くいっしょです。最初15歳のときに視力がガクッとさがったときは、視力が残っているうちになんとかというタイムリミットがあったので、辛くなる隙がなかったんです。私の場合は、泣いたり怒ったりすることも無になることもなく、ずーっと走っていました。勉強したり、何かの機会をもらったら一生懸命やる、という感じでした。それと平行して、中学校の同級生がやっていることを横で見ながら、追いつかなきゃ、置いていかれないようにしなきゃ、と思っていいました。でもそのときは、それで本当にじぶんが何を期待しているかということに気づいていなくて。それで爆発したんですよ。何でわたしなんだ、こんなにやりたいこともたくさんあるのに、って。爆発するきっかけは、じぶんが何に向かって必死になっているかに気がついちゃったからなんです。それは、褒められたかったんです。頑張ったねって、そう言われたかっただけなんですよ。必死だよっていうことを認めてもらいたい。

伊藤 この人に認めてもらいたい、というのはあった?


西島 いちばんは家族です、やっぱり。でもあだとなって、同級生からも一部そうだったんですけど、「うらやましい」とすら言われることがあって。そういうふうに思われるようにやってきたでしょ、とまで言われたときに、何も返せなくて。怒ることも違うなってなっちゃったんですよ。確かにそうなんですよ。普通に扱ってもらいたいがゆえに、ニコニコやってきたんだけど、どこかで分かってもらいたいというのは都合がいい考え方なのかもってそのときはすごく思って。でもそういうふうに思ったことを言うのが、友情だというつもりで相手は言ったんだろうけど、「見えないから得してるよね」とか「玲那はあんまり苦しそうじゃないじゃん」とか言われる。でもそれは自分がやってきたことで、そこに怒りをぶつけてはいけない、それが正義だ、そういう宿命をこなしてこそ、というのがありました。
学生のときはそうやって自分にとって都合が悪いほど健常者の扱いをうけていたんだけど、でも社会人になったときに、こんどは真逆で、目が見えない、障害あるというだけで、会ってももらえない、チャンスももらえないという状況でした。それを誰にも言えなかった。それは見えないせいじゃないんじゃない、ということをじぶんで思うのと、人から言われるのは全然違うことなので、チョンさんのようにじぶんでじぶんに問うということは、わたしにとってもすごく大事なことでした。じぶんで問いかけたクエスチョンについては、淡々と、とりあえずこれでやってみよう、とストレートに行ける。でも周りの人から「それは玲那がそうしたかったんでしょ」とか、「〇〇もこうしているよ」とか、アドバイスの気持ちで言ってもらっているのが分かっているときはもう、缶に詰められているようでした。逃げ場もないし、吐き出しようもない。
社会人になったら実力だ、と思っていて、期待値がどんどん膨らんでいたんです。お金を貯めて、また自分の好きな勉強をやろうと、目が悪くなった高校生のときから、そこに賭けていた。だから、仕事につけない、面接にも呼んでもらえない、履歴書も受け取ってもらえない、結果を出したとしてもどこかで鼻で笑っているのが見える、そういった経験があって、自分でとうとうパンドラの箱をパカっと開けちゃった(笑)。そのときに「何で私なんだよー!」っていう、飽和状態になっちゃって。そのときは、私はチョンさんと反対で、反省反省反省、後悔後悔後悔でした。「なんであんなに平気なふりをしたんだろう」とか、「なんで平気だって勘違いできたんだろう」とか、そういう振り返ることばっかりになっちゃった。今を待ってられなくなっちゃって、自分の気持ちに正直になればなるほど、コントロールが効かなくなって、それから7年8年はすごくしんどかったですね。

伊藤 パンドラの箱を開けたのはいつごろですか?

西島 何度か開けているんですけど(笑)、決定的だったのは20代前半ですかね。セラフをもらう直前とかは大きかったかな。19歳で失明しちゃって、自分が書いた文字も見られなくなり、字があったのに、個性があったのに、点字になっちゃった、とかの悲しさ、寂しさもあって。セラフをもらう少し前に、学校の盲の人が「見えなくて得した」と言っていたことを笑って受け流せなくなって。自分とは関係ないやって思えなくなっちゃって。そういう余裕がなくなっちゃった頃ですね。それでセラフが来てくれて、少し自分のなかで、自分ばっかりにベクトルを向けなくて済む、というきっかけができた。セラフが格好よく生きるということに生きがいを感じて、ずっと行くんですけど、そういうのがあったおかげで、自分に向いていた矢印を少し外せるようになった。
でも自分ありきのセラフという現状も出てくるので、セラフまで不条理な思いをしてしまったときは、申し訳ないという気持ちもあるけど、それ以上に悔しくて、情けなくて。それが前より増長しちゃって、すごく自分の力でセラフと二人でやっていきたい、ということにプライドを持ちたかったし、それを生きがいにするしか、そのときはなかった。
きっかけはいろいろあるんですが、やっぱり二十歳くらいのときですね。まわりの同じくらいの歳の子がいろいろなことをできるようになるですよ。免許をとったりとか、バイトを始めたりとか。そういうものとは無縁だと、もうちょっと前の私は割り切れていたのに、みんなが大人になって、自分で自分の場所を開拓していて、そのなかで喧嘩したり仲良くなったり、くっついたり離れたりっていうひとつひとつが、すごく羨ましくて。やっぱり自分は特定の人との密度は濃いけど、でも絶対数が少ない。そういうものの劣等感とか、その時期はすごく激しかったですね。
だから人に分かったように言われるというのが、反発したくなるというか、ふだん思っていない苦しみまで掘り返したくなる(笑)。そういうところがすごくあります。そういうところから早く抜けたいとずっと思います。
でもさっきチョンさんもおっしゃっていたんですけど、亜紗先生としゃべって、ぬけかけたんですよ。お話をするきっかけで、上手に整理できるようなったことが多くて、これを逃したらこのチャンスはしばらくないぞと思って(笑)、長くかかわっていてもらいたい、というふうに命綱のように思っていたんです、極端な話。ここがチャンスで、この苦しいのを抜けたら、きっと、楽になるというよりは、もっと上手に、自分を自分に、あるいは自分を夫に、プレゼンできるんじゃないかと。はっきり抜けた先の景色がチラチラ見えているだけに、もうちょっと関わっていて欲しい。飽きられたくないんです(笑)

伊藤 今日、聞いた話ぜんぶ初耳(笑)。

◎信じる、証
伊藤「じぶんに問いかける」って言ったときに、それはじぶんとの対話なので、じぶんをうまく二つに分けたりとか、じぶんのなかで相手をつくったりするということがあるんじゃないかと思うんですよね。チョンさんの場合だと、「痛い」ということや、「在日朝鮮人である」というが、対話の相手になるのかなと思うんです。一方で「見えない」場合には、どうなるのか。それぞれで、対話のスタイルみたいなものが、違うんじゃないかと思うんですよね。

チョン 玲那さんの話を聞いていて、なんかすごくうなずける、心が動くことがたくさんあって、どう返したらいいかなといま考えていたんですけど、ぼくは亜紗さんの『記憶する体』を、今回しゃべるにあたってもう一回読み直してみたんですが、あえて共通項を見つけてみると、みんな、人と違うふうになったことで、ふだん意識しなくていいことを意識するようになった人たちなんですよね。そうなると、そうじゃない人と必ずズレが出てくる。そのズレを生きていくなかで、コミュニケーションするにあたってももどかしさが生まれたり、決めつけられたりする。それがぼくの場合は、在日朝鮮人として生まれたことで、物心ついたときからあるんですよね。小学校のときからのいじめや差別の経験というのが、すごく大きく自分のウェイトを占めてると思うんです。
もともとぼくは、日本での通称があって、「やすもと・けんかん」という、思いっきり日本ぽくない、みんながざわつくような名前だったんです。なので自己紹介というのがすごく嫌で。緊張する場面なんです。それともうひとつ、チョン・ヒョナン(鄭堅桓)という名前も、勝手に日本読みされて「てい・けんかん」と読む人もいて、いろんなふうに自分を分散させられてしまう。ぼくらの中にも自分の出自を恨む人もいます。それは差別があるなかでそういう人がいるのは当然だと思うのですが、ぼくはどっちかっていうと「なんでそれがいけないの?」「なぜ自分の存在がだめなんですか」というのが常にありました。
それでこれは妻に言われたんですが、ぼくは基本的に人を信じていないんです。こう言うと友達とかに誤解されちゃうかもしれないんですが、ぼくは人に対する信がすごく薄いから、自分で何とかサバイブしなきゃいけないと思っていた。でもひとりでは無理なわけですよ。受験するにあたっても大人の助けが必要だし、だからそれをどう切り抜けていくのかっていうときに、嘘をついたりとか、いろいろなことをしました。さっき出たバイトにしたって、朝鮮名ではバイトできないから、あえて日本名を使わなきゃいけないときに、地域が狭くて、親が商売をやっているから、すぐわかるわけですよ。そうするといろいろ勘ぐってくる人とかもいると、そこで後ろめたさが生まれてくる。なぜ自分はここで嘘ついていなきゃいけないのかって。
それが嫌で、ぼくは大学のときに、本名に変えたんです。すごくそういうズレのなかで、他人から決め付けられたこととか、イメージとかを意識してきた。いまでも「難病っぽく見えないよね」とか「痛そうに見えないよね」とか、「ぽさ」ならまだいいんだけど、「障害者らしくないよね」とか「らしさ」を突きつけられる。それは朝鮮人であることについてもそうで。
ぼくはずっと「証」が欲しかったんです。たとえば今のようにヘイトが溢れる状況のときに電車に乗れば、すごくざわつくようなことがある。玲那さんの東大でのレクチャーで、杖をもって外に出た時のまわりのノイズの話があったけど、あれにすごく心が動きました。ノイズに負けちゃうと、もう二度と外に出られなくなる、だからノイズがあるけど出ていかなくちゃいけない。ぼくもそうで、目の前にそういう対象がいて、そういう人がヘイト的なことを言っているときに、ぼくがぼくであることの証が欲しい、と思っていた。その先に病気になったときに、妻が「病気になってよかったよね」と言ったんです。いろいろなことをやる糧として箔がついてよかったじゃない、と。

西島 へえ!それをおっしゃったのはいつごろなんですか?

チョン すぐです(笑)。

西島 ほんとですか!見ようによってはすごく残酷な言葉ですよね。

チョン 1ヶ月くらい最初に入院して、治療が始まって、結果的に、思ったよりよくならなかったんですよ。痺れがあるし、痛いし、握力がないしで。それでちょっと落ち込んでいるときに、妻が見舞いにきて、「よかったね」って。「そっか、そうだよな」みたいになったのは覚えていますね。でもその証も、見た目には分からなくて、また説明しなければならないというしんどさがあって。だからさっきの玲那さんの話はうなずけることがたくさんありました。
 ただぼくの場合はけっこう爆発してるかな(笑)。人に対する信がないから、ここでもし本音を打ち明けてその人と離れたとしても、あまり未練がないというか。だから話さなければいけないときは、ここがしんどいんだよ、とか話しますね。とかくまわりに「インクルーシブ」だ「多様性」だ言う人たちがいるんですけど、そういう人たちほど、たとえば「なんで帰化しないの」とか言ってくるですよね(笑)。善意ある、うすーい理解者のほうが、はっきり言って超イラつきます(笑)。思いっきり無理解で、差別主義者で、ぶつかってくる連中よりも、イラつき度が違う。同じであることを前提に、みんな来るんで、それに対してぼくが「違う」というのをぶつけたときに、潮が引いていく。結局みんな同質的なものを求めてくるんですよね。「同じ人間」とか。その潮の引き方を、「ああ、人って面白いな」と遠くから見ている。だからそういう執着心っていうのが、あまりない。だから友達が本当に少ないけど、そのことにあまり情けなさとか、寂しさを感じないという、ちょっと変なところがあるのかな。
 だからたぶん、亜紗さんとの出会いは、東大でのある取組(「こまば当事者カレッジ」)なんですけど、ほんとうはあまり外に出たくなかったんです。こういう世の中だし、あまり自分を曝け出したくなかったというのが本音で。でもなんかいろいろ人前でしゃべるというのがあって、痛みに対しての表現が乏しいというのがあったんで、講師に亜紗さんの名前があって、これはめっちゃただで勉強できると思ったのと、もうひとつは、目立ちたかった、というのがあります。いま「目立つ」というのが自分のなかの課題としてあって。

西島 あー分かります。あんまり言えないんだけど

チョン ECDというラッパーが、なぜみんな無力さとか、自分には力がないって言うんだろう、だけどみんなその人のなかには力があって、だからぼくはぼくの力でがんばってやるから、みたいな問いかけを亡くなる前に残していて。ぼくはそれがずっと残っていて、ほかの障害者でいろいろなことをやっている人のようにはできないけど、やっぱりぼくにはぼくなりのやり方があるはずだ、だったらまず最初に目立たなきゃって思った。だから、どこに言っても手をあげよう、そうしたら誰かが拾ってくれるでしょう、というズルさもあって(笑)。まわりがずっと背中を押していたところで、やっと自分が動いたのかなと思ってます。妻とは、無職で何もない状態で結婚したんですが、おもしろいことするんでしょ、とは言われていて、病気になってやっとおもしろくなってきたかな、という感じですね。

西島 でも劇薬ができて、病気が仮に治ったとしても、チョンさんは面白い(笑)。ただただ面白いです。私は面白い人になりたい(笑)私は面白がられたいんだ、というところに気づいてから、ちょっと楽になったんです。

伊藤 チョンさんのどのへんが面白い?

西島 なんか人の心を掴むわりに突き放すし(笑)。最初、痛みのプロになってしまえばいいのに、って人ごとながら思ったんです。分かりやすく実在する痛みと一緒に暮らしているけど、分かりづらい痛みと暮らしていらしている人もいますよね。みんな痛みを持っているよね、という雑な言い方はしたくないけれど、もしかしたらチョンさんはそれを一番自分の体で体現しやすいのでは、と思ったんです。こんなに痛い思いをしている人はたぶんいないのでは、と思う。チョンと話をしたり話を聞いたりすることで、ただ痛い痛いと言っているだけじゃない状態になるのではないか、大袈裟にいえばカウンセリングなんだけど、そういう責任関係とは違う、「ああ、この痛み分かる」と思いつつもそこにのめり込みすぎず、ちょっとエンタメ的にいろんな人の痛みが分かる、そのくらいチョンさんは心が暖かい人なのでは、と最初思ったんだけど、そうでもないっぽい(笑)。
ミステリアスとはちょっと違う意味で掴みどころがないところがすごく面白くて。簡単につかめちゃうものほど飽きてしまうことはないので、チョンさんにいろんなことを振ってみたくなる。「育休どう思いますか」とか「マラソンの靴どう思いますか」とか(笑)。みんな、個人の意見って、言うようで言わないじゃないですか。どっかで誰かが言っていたり、どっかで誰かが思ってることを言ったりする、責任感があるふりをした無責任な感想みたいなものを見る機会が圧倒的に多いなかで、チョンさんは最後まで分からない、期待通りに面白いものを見せてくれる人である気がします。とにかく雑然と、いろいろ聞いてみたい。不快にならない予想を裏切る人だなあ、というところに興味をそそられます。

◎病気によって封印された
チョン ぼくは頭の命令に対して体が思うように動かないんですよ。右に行きたいのに右に行かなかったり、歩きたいときに立ち止まっちゃったりするんですけど、それで落ち込んでいるときに、家族が、スイッチ押せば治るかも、と言ってきたりとか。今日も、滑舌が悪いので、横文字を読む練習をしていたら、「それ病気のせいにしたらいいじゃん」って娘にバカにするように言われたりとか(笑)。なんかそういう、笑ってなきゃやってられないよね、というか、家族が笑いにしてくれたところはあります。自分で問いは問うんだけど、やっぱりまわりの環境が問わせてくれる環境であった、と思います。
 ぼく、ここ7、8年までは、なぜか除夜の鐘が鳴った瞬間に一気に気持ちが沈んでいたんですよ。一日すぎたくらいのとき。それで妻の実家である神戸に行って、誰とも会いたくない、シャットアウトしたい気分になってしまう。それがなぜか1月から3月くらいまで続くんですが、最近は、安心して引きこもらせてくれる。無理に外に追いやることもなく。よく泣いていたけれど、それで落ちこんでいても、「当然でしょ」という感じだった。病気になって、何でかしらないけれど、一人で何でもこなさなくちゃいけないというのがあったけれど、よくよく考えたら共働きの中で他人の手を借りながら子育てもしてきたし、別に病気になったから助けを求めちゃいけないわけじゃないというのに気づかされましたね。人前で話すというのが大きかったです。理解してほしいというより、淡々と自分の話をして聞いてくれた、というその空間が、逆によかったっていうのがありますね。
 ぼく、本当は、マグマのような怒りを抱えている人なんです。いろいろなことに対してね。ぼくもその怒りに対して、体を使ってそれを表現して、世の中にあらがってきた。発言権がないので、自分たちのことは自分たちで可視化していくしかないんです。在日朝鮮人である、ということは今日も意識していて、そのうえで話さなくちゃいけない。いまある自分はいろいろな人があるなかで自分がいるんで、何か違う形で次の世代に残していかなきゃいけない、ちゃんと話さなきゃいけない、という思いがあるなかで、体が使えなくなってしまった。
ぼくは「病気によって封印された」って言われるんですよ。怒りを体で表現していたのが、もうちょっと違う形で表現する方法があるんじゃないよ、それだけじゃ身がもたないよって。世の中のためにもらないし、これ以上おかしなことにならないように、封印されたんだよって。
去年、こどもといっしょに朝鮮学校の阪神教育闘争(1948)についてのドキュメンタリーを観に行ったときに、たまたま帰りにちょっと変な(ヘイト)に出くわして、ああ病気でよかったって思ったんですよ。たぶん、病気じゃなかったら向かっていっちゃってた。元気だったら我慢できなくて殴っちゃったと思う。そのとき、病気になってよかったなってつくづく思ったんです。だから、そのマグマのような怒りをほかにどうやって表現したらいいかなというときに、なぜか笑って話せるようになってしまった。こうなんだああなんだと怒りをぶつけるのではなくて、淡々と自分のことを話すという手法に、自然となってしまって。

西島 私にとっては結婚が大きかったです。それまでは、さっきチョンさんが「浅い理解者」と言っていた人がくれるような、無責任な優しさで生きているんだって思っていたんです、ずっと。責任がないから優しくできるんだって。町で会って、声をかけてくれて、手を貸してくれる、でもそのあとその人が無事に家についたかとか、目的地についたかとか、知らないわけですよね。だから、ばったり遭遇したり優しくしてもらう機会は、回数でいえばすごく多いけど、フラットに人と関わって、好きだの嫌いだの、という人数はすごく少なくて、でも蜜に関わる人は多くて。この三つのなかで、私が生き残るうえで一番重要な人間関係はどれだって思ったときに、ばったり町であった人が一番、実際のところは、自分の生活を救ってくれているはずだと思うんです。自分のあぶないときに「あぶない!」と引っ張ってくれたりとかね。なので、その方たちに対して、同じ障害がある人でも、怒る人もいっぱいいると聞くんですけど、

(伊藤 電話中)

西島 でもチョンさんは冷たい人オーラがちょっと出てますよね。

チョン あ、そう感じてもらえたのは嬉しいな。

西島 言ったら怒られるんじゃないかなと思ってました(笑)

チョン ぼくはどっちかに見られるので、両方を感じてもらえるのはすごく嬉しい。

西島 温度差があるわけじゃないんですけど、あったかい色が塗ってある画面があるとすると、シュッと冷たい色が入るというか(笑)。気を抜いたらいけない感じがあります。

チョン そんなに鬼じゃないですよ(笑)

西島 全体の雰囲気が柔らかければ柔らかいほど、そういうのって際立つ気がする

伊藤 (帰ってきて)そう、過去になんかしてそう(笑)

チョン でもぼく言えないこともいっぱいあるからなあ(笑)。子供のころからどうせ焼肉屋しかないんでしょって思っていて、好き勝手生きていた。でも高校のときにある先生に「ほんとうはやりたいことがあるのに不良ぶってるんでしょ」と見透かしたように言われて、それで大学に入ったんです。それで在日朝鮮人の人たちの集まりに参加するようになって、それで本当に本心でつきあえるようになったんです。大学は工学部でバカにされるんで、哲学書とか難しい本を読まされていくうちに、先輩から「ヒョナン、お前将来どうするんだ」と聞かれました。先輩は、「日本の人で在日の運動をしてくれる人おるやろ。あの人たちは何であんなことしてくれるんだろ思う?」と。ぼくが「在日朝鮮人のためにやってくれてるんじゃないですか」と言ったら「お前それは気持ち悪いやろ」って。「そうじゃなくて、自分ごととして捉えていて、自分のことしてやっている。それがその人を突き動かしているんだ」って。「じゃあお前は、在日として、どう、自分のために生きていくんだ」と聞いてきたんです。それで、そのときに青い芝の会やハンセン病の会のなかに在日の人がいたりとか、被曝者のなかにいたりとか、いろいろこの国の見えない歴史のなかに自分たちがいるというのを知ったとき、その世界に入ろうと思った。それで工学部だったのに、全然別の道に行っちゃったんです。
 先輩が、面接してくれる会社、入社できる会社、などの一覧を持ってきてくれたんですが、それが全部バツ、どこもダメなんです。俺は、学歴は裏切らないと思って東大に入ったのに、結局ダメじゃん、みたいな感じで壊れていく先輩たちとか、同級生を見てきて、よく分からないから、殴り倒して黙らせていた(笑)。そういう青春映画みたいな時代をすぎて、とりあえず社会に出てみる、泥水すすっても、自殺しないで生きていく、ということをみんなに言ったのを覚えています。自分は殺されずに生き残った。だからできることがあるんじゃないかと。生きよう、と思いました。だからほんとに好き勝手生きてきたんです(笑)。それが封印されてよかった。

西島 いまの話も込みで、最初の話にかえると、「病気になってよかったね」という奥さんの言葉は全然残酷じゃなかったんですね。

◎結婚後の「委ねる怖さ」
伊藤 玲那さんは、浅くつきあってくれる人が実は生きていくうえで大事だったっていう話をさっきしてたけれど、それは結婚する前の話ですよね。結婚してから今までは、そのあたりの感じ方はどうでしたか。

西島 私は信じたくても信じちゃいけないという意味も込めて、無責任な優しさに頼らざるをえないということに、諦めをもっていました。それで結婚して3年くらいは、夫を傷つけまくっていました。傷つけに傷つけて、ひとつ大きいのは、私が本当のところで夫を信用していないということでした。もし自分のほうが大変になったら・・(いなくなっちゃうのではないか)という極論も含めて、どこかで覚悟していなきゃいけない、という思いがあった。夫になってくれた人がほんとうに自分によりそって生きてくれるかどうかは、信じたらダメ、と自分がそれに一番ストッパーをかけていることが安心・安全だったんです。どこかで信用しきらない、ということが安全、という思いそのものが、夫をすごく傷つけたし、それに付随するいろんなことが、大きな揉め事を引き起こしたと思っています。どんな言葉を言ってもらっても、それによりかからない自分は何なんだろうかとも思うんです。響くんです、すごく。でも怖くてそっちに飛び込めない。その度が過ぎちゃったときに、その3年間は取り戻せないんですけど、もう引き返せないところまで来たときに、ああもうやめよう、生き残る、ということを考えるのは、と思いました。
さっき、チョンさんが生き残りだとおっしゃったじゃないですか。見えなくて最初に思ったのは、「私は死ぬ確率があがった」ということでした。生き残るっていうゲームをすることになっちゃったんだ、と思った。人が気づかなければ、危険から逃げられないかもしれないし、向こうが殺そうと思ってナイフをもったら、私は確実にやられるだろうな、だったり、自分がホームで足を踏み外したら死んじゃうかもしれないし、死ななくても生きているのがつらい状況に簡単になるだろう、と思っていて。最初はそういう分かりやすい生き残りの感覚から、お金がなくて生活ができないような惨めな生き方をしていかなくちゃいけないところまで、自分が自分を殺すというところまで、15歳のときに真剣に考えていました。
いま思えば15歳なんてJKですよね。タピオカ飲んで写真撮っている年頃の子が、私は私がやりたいと思うことをするだけで、死に近づくんだ、ということを真剣に考えていた。そしてそれが自分でカッコいいと思っていたんです。「もし私が見えなくなったら家から出ないよ」っていう意見を聞くと、すごく嬉しかったんです。私は違うぞ、って思えるから。
そういう「生き残る」「生き残り」という言葉は、自分にとっては力でもあったけど、いざ自分の人生を共有し、あずけるという、セラフにはできることが、人間、夫に対してはできない。好きで好きで選んだのに、それができない自分が今度は嫌で。カッコよくて気に入っていたはずなのに。その、自分のVR上に出てくる人の、姿、形、何もかもが、無責任な優しさの人でも、ちょっと余計なこと言っちゃうだけで、本当はすごくいい人なんじゃないかって思っていたものが、気を抜いたら曇ってしまう、そんなふうに思っていました。結婚というのは、私のなかではすごーく大きかったです。すぐには自分自身を変えられない情けなさとみっともなさ、でも夫にしてみたらそんなことどうでもいい。それにあまりに時間がかかりすぎでした(笑)。もしものときに助けてくれるものを持ち続けなければいけないと思っていた。
 声をかけてくれる人に委ねるときには、だまされる覚悟で委ねるんです。お金とられるかもしれないし、変なところに連れていかれるかもしれないし、晒されるかもしれない、そういうことを全部置いて信じるだけど、そうなったとて自分の責任だと思ってやるから、ちっちゃなちっちゃおおごとなんです。そういうことをうだうだ考えるのが好きなんですけど、自分がうまくやってきた成功体験のひとつだから、それが本当に大事なものを傷つけてしまったな、という後悔があります。つきつめていくと自分の見栄のため、うまくやってきたっていう自信、かっこつけにしがみつきたいだけなんですけど、そういうみっともない3年間を過ごしました。結婚してから、自分が自分で変わったなと思う実感を一番得てるかもしれないですね。セラフと暮らすようになってからの変化は、セラフに変えられたという感じがものすごくあるんですよ。でも自分で本当に意識して変わらなくちゃいけないんだ、というところから、なかなか変われなくて嫌気がさしたりとか、そういうのは本当に結婚してからですね。

伊藤 いま結婚して何年目ですか。

西島 4年目です。

伊藤 じゃあ変化が起こって、次のステージに入ったという感じですね。

西島 もう信頼を取り戻すのが課題かな。

チョン 信頼か…。

西島 気持ちがあっても、それが伴っていないことをし過ぎちゃったし、そこから大きく裏切るようなことをたくさんしてしまったから、やっぱり自分がいくら変わったという自覚が多少あったとしても、でもそれは痛みの感覚と同じで、ほかの人にも実感できるものじゃない。それが実感できるようにするためには、時間と、何かがかかるのは仕方ないだろうとは頭では思っているんですけどね。でもダメなんです〜(笑)

2020年1月22日 伊藤研究室にて