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往復書簡③亜紗→玲那

西島玲那さま

こんにちは、伊藤亜紗です。
先日は、長丁場の対談2本、お疲れさまでした。
午前中に加藤秀幸さん、午後にチョン・ヒョナンさん。
玲那さんが正直に正直に話してくださったおかげで、二人からふだん聞いたことのないような話が引き出されていたように思います。
かなり濃密な対談で、わたしもまだ消化しきれていないのですが(消化するものでもないか…)、玲那さんといっしょに振り返ることができたら嬉しいです。

まずは加藤さん。
加藤さんは先天的に見えない方なので、玲那さんからすると近くて遠い存在なのではないかと思います。
玲那さんのVRの話がきっかけで生まれた対談でしたが、玲那さんはVRを「華やかにしていく」傾向があるけど、加藤さんは基本的に「必要な情報だけ呼び出す」断捨離・効率重視でしたね。
でも理由をさぐっていくと、玲那さんのVRには「となりの人と同じように見たい」そして「見えていたころを忘れたくない」という、社会的なものとアイデンティティ的なものが入り混じったモチベーションがあるということが分かりました。だから、能動的にVRを「つくっている」んじゃなくて、「気づいたらそうなってる」という受動的な感じになる。このあたりは、この前東大で話をきいたときには気がつかなかったことで、だいぶイメージが変わりました。

やっぱり「記憶する体」だなあ、と思いました。なんていうか、人の体がいまそのようになっているのには、そうなるに至った経緯があるのであって、はたからみると不合理に見えても、それは本人にとっては合理的なローカル・ルールなのだと思います。ちょっとずつ体液を分泌した果てに貝殻ができあがるように、その時間の厚みを感じるとき、あらゆる体が私には神々しく見えます。

対談の最後で、加藤さんが、「かつて見えたことを忘れないでほしい」と言っていましたね。それは合理性や効率といった価値判断を超えた玲那さんへのエールのように思いました。
「見えるように見たい」玲那さんの体は、確かに見ることにすごく執着しているともいえるけど、そしてその執着はもしかしたら何かをきっかけにして今後あっさりなくなっちゃったりするのかもしれないけれど、過去の時間の厚みが今の体を作っているということは、良い悪いではなく人を支えるよ、と。「記憶する体」の著者としては、加藤さんのひとことをそんなふうに解釈しました。

玲那さんは加藤さんとの対談いかがでしたか。
感想を聞かせてもらえるとうれしいです。
2020年2月1日
伊藤亜紗