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木下知威さんレクチャー

2020年の新年早々、授業へのゲストとして木下知威さんに来ていただきました。筆談でのインタビュー、Googleドキュメント上での学生との質疑の記録です。美術の制度や研究という営みが、木下さんにとってはサバイブの技法や感覚の配置と直結している。同業者として考えさせる視点でした。 


(照明を落とした講義室にて、伊藤と木下が筆談する紙を書画カメラで撮影し、それをプロジェクターで投影する。受講生はそれを見ることができる環境)

 

伊藤 (以下、筆談)みなさん、おはようございます。今日は木下知威さんがゲストとしていらしてくださっています。ですので、今日は基本的に声を使わないで授業をしたいと思います。

前半は、木下さんと私と対談という形ですすめていきますが、それは今やっているように筆談で行い、その様子を書画カメラで写してライブでみなさんにも見えるようにしていきます。

後半は、学生のみなさんからと木下さんのやりとりの時間にします。事前に、木下さんがGoogleドキュメントにやりとり用のファイルを作ってくださいました。さきほどプリントでお渡ししたサイトに入っていただき、対談中でもどんどん質問を書き込んでいってください。

それでは木下さん、今日はよろしくお願いいたします。

 

木下 木下です。よろしくお願いいたします。

 

伊藤 学生たちは、事前に「ひとりのサバイブ」(『知のスイッチ』岩波書店、2019所収)を読んでいます。この文章、名著だと思います。

 

木下 うれしいです。いろんな人が読んでくれました。

 

伊藤 まず確認ですが、木下さんは生まれつき聞こえないのでしょうか?

 

木下 そうです。

 

伊藤 補聴器はつけていませんか?

 

木下 止めました。

 

伊藤 ということは、もともと使ってた?

 

木下 ハイ、大学生のときに。大学にいたとき、補聴器が壊れて、で、いいチャンスなのでやめました。Audismにまみれている自分に気づきがあったかな?

 

伊藤 Audism、つまり聴力至上主義的な考えにまみれている状態から逃れる、ということは欠如を意味する「聴覚障害者」からポジティブな「ろう者」になったということ?

 

木下 そうですね、一般化すればそういえます。なので、ややレイヤーは重なっているかんじ…。

 

伊藤 でもちょっと違うのかな?

 

木下 もともとわたしは工学部の出身で、電子技術は人にとってよいものである、という価値観がありました。しかしそうでもないなというのも、そのとき感じました。

 

伊藤 木下さん、しゃべりますよね。これはろう者では一般的なこと?

 

木下 それは育った家庭によりますかね。

 

伊藤 木下さんの家族は聴こえる人だった?

 

木下 うん。家族は全員耳がきこえます。ですので、家族同士の会話もわかりません。よく何かに文句を言う家族がいても、それが全然わからなくて、そういう距離感ですね。

 

伊藤 性格も違って感じられそうですね。

 

木下 家族が読んだ本が家族で共有する本棚にあって、そこから好みは分かるんですが、会話から伺える部分がすごく少ない環境で育ちました。

 

伊藤 木下さんにとって、本を読むことや研究することそのものが、サバイブの技法になっていますね。

 

木下 本のジャンルが幅広かったので、雑多で、そこから自分なりの質をみきわめるトレーニングはしたと思う。

 

伊藤 「ひとりのサバイブ」で、雑木林を歩いているときに、独歩の統覚を「間借り」する感覚が生まれる、というエピドードがありますね。私の大好きなエピソードです。本などで得た「知識」と「感覚」は、木下さんにとってどうつながっているのでしょうか。私の場合、「知識」と「感覚」の関係は、木下さんより遠い気がします。

 

木下 「知識」と「感覚」がどうつながっているかは、Base とProfileに近いのかもしれません。たとえば円がBaseだとすると、半径、円弧、といったものがProfileに当たります。Profileを理解するには、Baseが何なのか分かっていないといけません。「半径」を理解するには「円」が何なのか、その定義が分かる必要があります。だから、知識に対応するのがBaseで、感覚に対応するのがProfileです[1]

 

伊藤 円がBaseで知識だ、というのは意外です。

 

木下 うまく説明しようとすると、わたしが聞こえる人の側に寄り添う必要があるかと考え、この例を出しました。

つまり、私がもっている感覚は、いわゆる世間や一般と異なるものではないかという生き方をしてきました。ですので、知識とは何かをよく考えて、そこから感覚を結びつけていくといったことです。でもこれは規範にしばれられているよね。

 

伊藤 よくわかりました。知識は世間一般と共有している確かなもので、感覚はそこから展開していく、より自由度の高い部分ということでしょうか。

 

木下 そんな感じです。自由度があるかはどうかな…。

 

伊藤 この授業、年末に西島玲那さんという中途失明の方がゲストで来てくれました。彼女はいつもVRを作ってそのなかにいると言っていた。見たいという気持ちにどうしても縛られていまい、その気持ちがむちゃくちゃ強いので「見える」ようになってきたと。もちろんVRは部分的には現実の空間と対応しているけど、彼女自身が作り出している部分もあるようです。たとえば、暗くて見えづらいとVR内に街灯を設置して明るくしちゃうらしい。

 

木下 伊藤さんと交換メールをなさっている人でしょう?お話を伺うと、VRというよりはそれをうごかすためのゲームエンジンでもあるかのようですね[2]

 

伊藤 「ひとりのサバイブ」の中で、「自分自身といる」と「群立」の話がありましたが、吃音の場合も、この二つの感覚があり、発話に大きな影響を与えます。群立に近いのは「ノる」という感覚です。自分の外にある音やタイミングにあわせる(=自分ですべてを制御しようとしない)とうまくしゃべれる人が多いです。木下さんは、何かに「ノる」という感覚はありますか?「独歩といっしょにいる」のは「ノる」に近いのかな。

 

木下 ええと、ノる感覚というのは、文を読むときでいえば、散文的な独歩の『武蔵野』だと、はぎれのいい感じのモードに体をそわせることですかね。もちろん、それ以外にも、尾崎紅葉『金色夜叉』のように人間くさい人物描写が魅力的であったりする。そういう、その書き手によって異なるモードを探しているということです。

 

伊藤 モードおもしろい!

 

木下 ふだんの生活でも、映画みているときとか、料理しているときとか、それぞれのシーンでノることはあるけれど、それは、モードを探しているということで説明できると思う。

 

伊藤 モードは、文のリズムそのものとは少し違うのかな?そもそも木下さんはどうやって読んでいるだろう。

 

木下 全然ちがうかなー…。

 

伊藤 たとえば、木下さんの書いた文の小見出しに「「ひとり」と「世界」のつながり」とあるけど、こういう強調のカギカッコはどうやって読んでいるんだろう。私は黙読でもアクセントつけたり、一拍置いて読む感があります。

 

木下 ああ、なるほど。

 文というのは、わたしにとってビジュアルなものです。こうして本を開いたときにいろんなものがある。パラグラフ、単語、構文、読点、句点…そういったもののトータルなものが、文のリズムをつくっている。

 

伊藤 おもしろいですね。速読法に似ているのかな?絵を見るのと少し似ていますか?

 

木下 絵は見る時間が自由に与えられているのが最大のストロングポイントだと思っていて、本もそれは共通していますね。いつでも読めて、いつでも止められる。けれど絵はオリジナリティの問題があるので、本よりは制限されていますかね。いつでも見られるわけではない、所有していなければ…。

 

伊藤 オリジナリティが時間に関係している。絵を所有したことはありますか?

 

木下 あります。でも結局、しまったままだったりして…。Museumで見ることによって絵の本当の力が出ているように思います。つまり、公共にさらされることでたくさんのコメントが聞けるから。

 

伊藤 横尾忠則さんが、名画には「目垢」(手垢じゃなく)がついていると言っていました。

木下さん自身は、百瀬文さんの作品(『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』2013)に出演されていますね。

 

木下 この作品に出るまでは、友人の付き合いが限定的でしたが、この作品でいろんな人がコメントするわけです。Twitterとかで。で、それを読んでいるうちに、自分から、見た人に「あなたはどう思いますか?」と聞いたりもするわけです。そうしていると、先ほどの「統覚の間借り」が起きる。なぜならその人が見たこと聞いたこと、つまり経験・体験ですね。それにノっているということだからです。

 

伊藤 面白いですね!「統覚の間借り」って芸術作品の鑑賞や批評の公共性とすごくリンクしているんですね。

 

木下 「統覚の間借り」は、フッサールの間主観性やライプニッツのモナドといった、人間の認識論をわたしなりに圧縮した言葉です。出版元の岩波書店からの注文が、「大学生に分かる言葉で書いてください」でしたので。依頼を頂いたとき、そういう条件でした。

 

伊藤 なるほど。それが「聴覚の間借り」でなくて「統覚の間借り」なのが面白いと思いました。

 

木下 わたしのばあい、聴覚=耳ではないので、Bodyそのものを耳のようにしている。そういうことはあるかな?

 

伊藤 なるほど、「Bodyそのものが耳」ということは、世界と自分の関係、自分の行為に対する世界のリアクション(たとえば、歩くと落ち葉のカサカサを感じる、というような)みたいな全体的なものでしょうか?

 

木下 自分が起こしている行為のほとんどはAttentionが向いていない。ですのでそこは意外とゆるいのかもしれません。

 

伊藤 自分の行為にAttentionが向かないのは、聞こえと関係しているのかな?

 

木下 Audismにまみれていたころは、あらゆるものに注意をせよ!というBodyでした。そこから、聞こえ方が変わって、あ、もっと神経を落ち着かせてもいいんだ、と分かって。

 

伊藤 なるほど!Audismと注意の配置が、関係しているんですね。ちょっと想像できる気がします。

 

木下 その時すでに20歳をすぎていたので、今思うと、それまでの時期は注意しすぎているがゆえに、照準をしぼりきれない。フォーカスできないということに気づいた。耳は常に開かれているし、360度オールレンジでしょ?それと同じことを要請される。

 

伊藤 本当にそうですね。あと、社会的にも、音は恥とつながっていますね。オナラとかゲップとかを禁止することで近代的主体が成立した、という経緯がありますから、自分が出しているかもしれない音を気にするというだけでも、注意コストがかかる、疲れるだろうなと思います。

 

木下 声を小さくするとか、食事するとき、ペチャクチャいわないようにするといったことは、家庭の中でよく言われました。ドアのしめかたとか。ああいうのは、音が恥にリンクしていると教えられた。ただ、その加減はしみついちゃっていますね。

 一方で、気にしないろう者もいるのかな?ろう者のカルチャーとして笑うときに机を強く叩くとかあるけど、マナーとしてはoutですね。

 

伊藤 目の見えない人がお店で商品を触るのをためらう(ためらわされる)のと似ていますね。

 

木下 寛容さが問われています。

 

伊藤 そろそろ学生の質問にも答えていきましょう。

 

(以下、Googleドキュメント上での質疑応答)

 

 (NI)本日はよろしくお願いします。どうして大学時代に敢えて音から離れる生き方を選択したのでしょうか?

 

(木下)補聴器というのがいわゆる、鎖のように私の自由を奪っていることに気づいて。例えば、道を走っている車の音は補聴器をしていればわかるんだけど、でもしていなくても、自然に脇道を歩くようにしたりなど、適宜振り返るとかそういったモードを獲得することによって、音から離れても大丈夫かなと思いました。

 

(NA)「知識→感覚」といったときの「感覚」とは、聴覚的なもののみを指すのでしょうか。また思考によって感覚を理解するといったとき、そこで理解される「感覚」は身体的なものなのでしょうか(なるとしたら、どうやって?)。

 

(木下)感覚はもちろん聴覚的なものをさすわけではないと考えています。両手を叩き合わせると触覚もありますし、音がするところは何らかの「有」があるのだということを基本に考えています。

 

(KI)木下さんは、時々声に出してお話しされますが、声を出すことは木下さんにとってどういう意味がありますか?

 

(木下)これはもう、ネイティブなもので・・・。日本語の口話教育を受けて育ってしまったので、口から声を出すことが自然なことになってしまっています。

ヘゲモニーとして、声が持っている力は大きい。声を出せば、周りがこっちに注意してくれる。そういった戦略的な判断も多分にあるのでしょう。

 

(YA)頭の中で考えるときや、文章を読むとき、夢を見るときなどにおいて、脳内に言葉の発音?を想像しますか。それとも視覚優位でしょうか?

 

(木下)夢の中で声はしています。幻想なんでしょうけど。

 

(NA)補聴器(audism)を手放したことによって、結果的に木下さんは「音」を獲得したのではないかと理解しましたが、合っていますか?また、その場合、audisimを手放す前後で、木下さんのなかで「音」というものはどのように変化しましたか。(communicationの在り方や、それが意味するものも大きく変わったのではないかと推察します。)

 

(木下)音を獲得したというよりは、audismにまみれていた時代とは別の方法を獲得したといった方が適切かなと思いました。

 

(NA)筆談の最中、木下さんは教室(「筆談」の外)をどのように経験していますか。こちらから伊藤さんとのやり取りを見ていると、筆談の最中、教室は感じられていない印象がありました。「360度の耳」は筆談のあいだも、教室(筆談の外の世界)に向けられていたのでしょうか。

 

(木下)筆談をしているときは伊藤さんの書かれている、まさに現れようとする言葉にほとんどの注意が向いていますので、みなさんがどうなさっているかは正直、感じ方があまり向いていない。

でも、さっき一人が教室を一旦出たのはわかりましたよ!戻ってきたけど。

 

(HA)パソコンで文字を打つ時や、マス目のある紙に文字を書く時、改行場所を勝手に決められてしまうことによって思考が歪められるような感覚はありますか?

 

(木下)日本語は縦書きも横書きもできるのと、子供の時からワープロを使っていたので、あまりそれはないかな・・・。手書きの方がダイレクトに思考をアウトプットできている気はする。

 

(NI)audismによって奪われる自由とは具体的にどういったことでしょうか?(視覚に関しては考えたことがあるのですが、聴覚に関しては考えたことがなかったので…)

 

(木下)聞こえないことが奪われる、でしょうか。聞こえないでいることが許容されない。例えば、耳はオールレンジだと言いましたけど、そうだと後ろから呼びかけられた時にわからないじゃないですか。だから、補聴器をつけなさいというのがAudismの論理なんですけどそうなると、私が世間一般に合わせないといけない。そこに自由が奪われていると思いました。

 

(YA)例えば怒るとき、声で表すならば、語気を強めたりなどしますが、文字で怒りなどの感情を表すことはありますか?

(木下)何いってんだよっ!!とか、語尾に「っ」や「!!」をつける?手書きならその描くスピードに怒りを持たせるなど・・・。

 

(NA)感覚(される世界)はかならず聴覚的なものを併せ持つのでしょうか。実際に感じられている諸感覚と(一段後で構成される)聴覚との関係を教えて欲しいです。

 

(木下)良くも悪くも、私は聴覚障害がわかった時に、補聴器をつけられました。また、高校の時に物理を履修していて、音が物理的にどういうものであるか、理解してしまっています。そういった知識(ベース)が、聴覚なるもの(プロファイル)を作ることができてしまっています。なので、聴覚的なものを併せ持っていると言えるでしょう。ただし、そのプロファイルがみなさんの思い描くものと同じかどうかは誰にも証明できないでしょう。例えば、モーツァルトのクラシックがこんな風に聴こえると彼の音楽のジャンルや当時の時代背景や、作曲のテクニックやらで理解し、そこから彼の音楽はこうなんだなとプロファイルを思い描けても、それが本当にそうかはわからない。

 

(KI)筆談していて、自分の思考の速度と合わなくてもどかしくなることはありますか?手話の方が速度が一致するとかありますか?それとも、それにあわせた思考の速度になるのでしょうか。

 

(木下)ああ、それすごくいい質問なんですけど、筆談は必然的に字数が限られる、つまり話すことに比べて遅いので、そこで言葉を圧縮した思考の仕方になります。

 

(木下)みなさんは文学部なの?他の学部もいるの?

文学部といっても、いろんな学科ありますよね。コース。

 

(ON)木下さんは建築をご専門とされているようですが、聴覚障害者にとって居心地のいいと感じる空間とそうでない空間の違いや特徴はありますでしょうか?また、空間の把握の方法に健常者の人と比べて違いはありますか?

 

(木下)空間に対する、気持ちよさは聴覚障害者の場合、ひらけた、ある程度、全体が見渡せるようなところが好まれますね。坂本一成の住居とか、パースペクティブが担保されている空間が好まれるかなという気はするのだけど。でも、これは本当に定義しうるものなのかなと。

 

(NA)哲学です。

 

(木下)障害と哲学の問題はとても興味があります。もちろん、それに応じた書籍も色々出ているのですけど、今関心があるのは、当事者が哲学書を読んで、そこにコメントを行い、アップデートされていく状況かな。

 

(KI)看護です。

 

(YA)教育心理です。

 

(NA)補聴器を外されたこともひとつあると思いますが、リスクを取ることと、自由になるということは繋がっていますか?そのつながりを意識されていますか?

 

(木下)そうですね、リスクよりもその時はまあ、色々やってみたい時期だったので失敗してもいいかなという気持ちでした。今同じことができるかはわからない部分があります。ただ、補聴器をつけるとどうしても音が入ってくる。そこに思考を乱されるので、補聴器をつけることのリスクがとてつもなく大きいですね。

 

(木下)まだ質問していない方もいらっしゃるようだけど、意見でもいいので考えたことがあればぜひお伺いしたいなと。

みなさんは私のような、ろう者にあった事があるんですか?公共交通とかでろう者を見たり、学校が同じだったりとか、近所にいたとかありませんか?

 

(KI)ろう者の女の子がユーチューブやってて、それよく見てました。高校生ですたぶん。

 

(木下)姉妹のやつですかね?

 

(KI)たぶん。3人組です。

 

(木下)それ私も見てる。

 

(HA)「ぬめぬめ」や「ぷるぷる」など、擬態語に説得力を感じますか?その場で即興的に擬態語を作り出すような感覚はありますか?

 

(木下)オノマトペは多分持ってると思う。ネイティブ日本語なので、その言葉が持っている感覚はわかります。CMやテレビの影響も大きいだろうな。広告のコピーを見ていて、そういう言葉が出てきて、ビジュアルで強調されることによって身についてしまう部分があります。

 

(TO)工学部建築学科です。前回の授業も併せて考えると、視覚障害の方には未知な空間が好まれ、聴覚障害の方には見通しの良い空間が好まれるのは、それぞれの感覚の裏返しのようで面白いなと思いました。

 

(木下)視覚障害の方はVRという言い方をしていて、なるほどと思ったんです。わかりやすかった。一方で、VRはすごく視覚優位なものでもあるということを改めて思いましたね。VRは身体を動かせば目の前の風景が変わっていく。けれども、聴覚をサポートしているわけではない。なので、VRは非常に、私にとって距離感をはかる事が難しいメディアだと感じている。

 

(TO)普段使用しているメディアは、どのような感じでしょうか?文字媒体がやはり多いのか、動画でも字幕つけてみるのかなど。。。

 

(木下)ああ。ユーチューブだと動画に字幕があるかどうか、自動で字幕出せるかどうかはいつも確認していますね。文字媒体が多いのはおっしゃる通りだと思う。

 

(伊藤)VRだと距離を測るのが難しいとはどういうことですか?

 

(木下)VRで距離を測るのが難しいというのは、それを装着した時に異次元、別の世界に飛べる感覚がほとんどない。テレビゲームの延長みたいな感じで、劇的なものではない。元の自分の身体が「ここ」にあるまま、ヴァーチャルの世界が侵入してくる感じ。ノレないですね。

 


[1] 「森」を例に補足すると、「木がたくさん集まっているところ」という言語としての認識と木が集まっている視覚的なイラストによってイメージによる認識がBaseである。いっぽう、その森を体験するときに「木」「土」「草」「虫」「石」「水たまり」「木漏れ日」といった森を構成するものを感覚(知覚)することがProfileである。つまり、Baseが言語・イメージといった知識の総体で、Profileが世界における感覚体験であり、これらのあいだを反復している。

[2] ここでいう「ゲームエンジン」とは「テレビゲームにおいて、視覚・聴覚イメージを出力するためのプログラム」のことである。西島さんが暗いところを明るくするために街灯を設置するというのは空間の明暗をコントロールすることであって、そこでは絶対的存在としての西島さん独自のゲームエンジンが開発されていると感じられたのである。

(2020/1/7東大本郷キャンパスにて)