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成嶋セルジオ正章さん

写真展の会場で声をかけてくださったセルジオさん。目が見えにくい社員としてカメラメーカーで働いていらっしゃるといいます。福祉系の開発の仕事も考えたけど「使命感でやっていけるのかい?」との声が聞こえて現職に。セルジオさんのなかにいろんなセルジオさんの声が行き交っている様子も見えて、その迷いや悩みも含めて素敵なインタビューになりました。


成嶋セルジオ正章さんプロフィール

社会福祉士、防災士、ペットセーバー

キヤノンマーケティングジャパン株式会社 カメラマーケティング部門所属
販売戦略立案・商品企画 担当

静岡県御殿場市出身
小学校入学時に目が悪い事が分かる。
中学・高校は東京の筑波大学附属視覚特別支援学校で過ごす。この時にカメラと出会い写真を始める。
大学は福祉系に進み、障害者の就労支援を専攻。研究は移動制約者(視覚障害者)が行きたい時に行きたい場所に行く為の支援機器開発。現在も会社員の傍ら、機器開発・商品化を目標に法人化し継続中。
大学卒業後は、高校時代にカメラ・写真を通して感じた感動を伝えて行きたいと考えカメラメーカーへ入社。

◎カメラとの出会い

セルジオ 今引越し先を探していて。

 

伊藤 なるほど。職場は品川ですよね。便利で選び放題だから逆に迷っちゃいそうですね。

 

セルジオ ドアtoドアで1時間ぐらいがいいなと思ってます。結構夜も残業しちゃう部署なので。

 

伊藤 大変そうですね。

 

セルジオ カメラの部署の中で一番ハードと言われる部署なんで…(笑)

 

伊藤 どんなお仕事をされているんですか?

 

セルジオ 僕がいるのは販売会社のマーケティングジャパンのカメラの企画の部隊なんですけど、予実管理をしたり、カメラやカメラ関連の販売施策を考えたり、商品企画をしたりする部署にいます

 

伊藤 会社の頭脳というか、責任もあり、動き方もダイナミックな部署ですね。

 

セルジオ 責任も結構伴いますけど、¥結構でも楽しいですね。 同期はみんな営業とかやってるんですけど、目のこともあって企画部門に配属してくれて。「カメラが好きです」って言って入ってて、「人事とかならちょっと考えますけど、それ以外のカメラでないところならやめるかもしれません」ぐらいの気持ちで面接をしたら、企画部門に行かしてくれて。

 

伊藤 どうですか?結構向いてるなって感じありますか?

 

セルジオ 向いてるとは思わないです(笑)。僕は数学とかが苦手だったんで、理系的な考え方が一切できないんですよね。仕事では計算しまくらなきゃいけないし、日々Excelとにらめっこなんで。Excelも苦手だし、でかい赤ちゃんが一人いるみたいな感じですね(笑)。

 

伊藤 (笑)

 

セルジオ 定量的に提示して判断しなきゃいけないんですけど、僕はどちらかと言えば定性的な方の人間なんで、無理無理無理っていう(笑)。僕は感覚とかで物事をいろいろ決めてきたので、「数字で言って」って言われて、「これぐらい」って答えていつも笑われてます。でも面白い部署ですし、人数も少ないんで、何でも言い合えて、目のことも理解してくださって。僕の勤めている会社は、人を見る力はすごいあるなと思っていて。最初は「合わないかも」と個人的には思ってたんですけど、でもやっていける範囲内で当てはめてくれてるのかな、すごいな人事の人、と今は思ってますね。

 

伊藤 会社に入られて今何年目になりますか?

 

セルジオ いま2年目ですね。来年3年目です。

 

伊藤 だんだん慣れてきたころですかね。

 

セルジオ そうですね、「やっと」慣れたって感じです。普通、今の部署はキャリアで言うと10年目ぐらいの人が配属される部署なので、初めて若い人が来た感じなんですよね。研修プログラムとかも一切ない部署なんです。とりあえずやってみようということで、経験ゼロの人間が交渉とかをしていって、やっとそれがわかり始めた感じですね。

 

伊藤 なるほど。そもそものカメラとの出会いについて伺ってよいですか?

 

セルジオ カメラに触れた原体験みたいなところからさかのぼると、そんなに目が悪くなってない小学校低学年とか、幼稚園保育園生ぐらいのときに、両親が使っていたコンパクトデジタルカメラですかね。 例えば動物園とかでも、親が子供たち撮るんじゃなくて、自分で撮りに行ったりとか、あとは小学校低学年のときはまだしっかり見えて、自転車で1人で遊びに行けたりしてたので、そのときにそのカメラを持って風景とか撮ったり、遊んでる様子とかを撮ったりしていました。そういう原体験みたいなのがあったんですけど、そこから視力が一気に落ちてきて、カメラとかそういう状況じゃない、まずは生きるか死ぬかみたいな状況でした。 小学校6年生のときに地元の盲学校に行って、でも地元の盲学校があまり将来がなさそうな感じだったんです。静岡の沼津の盲学校だったんですけど、その次の進路は静岡の県のほうの盲学校の中学部高等部に行くか、もうそのまま専攻科に行く、みたいな感じだったんです。そのときは、それに結構ネガティブな印象があって、しっかり勉強したいなと思いました。それで、東京の筑波大学付属の盲学校に中学から入りました。

 

伊藤 そこから寮生活ですか?

 

セルジオ はい。中高と寮でずっと過ごしていて。そのときは運動部で部活をやってたんです。

 

伊藤 何の運動をやっていたんですか?

 

セルジオ グランドソフトボールっていう視覚障害の野球と、フロアバレーボールをずっとやってましたね。そのときは全然写真とかっていう感じはなく、高校生になっても1日6時間とか7時間、部活をやって、自主練して、という生活でしたね。土曜の午前が部活だったんですけど、土曜の午後、結構元気な状態で、あったまってて「何するっ?」てなって。街に出るしかなくて、手帳があったんで美術館とか動物園とか行き放題だったんです。それでいろいろ回ってたときに、何か自己表現したいなとふと思いました。絵を描こうかと思ったんですけど、絵のセンスがない。彫刻もやってみたんですけど、楽しいけど疲れるな、あんまり向かないかもしれない、ってなったときに、部活の顧問の先生から写真を趣味でやってるんだという話を聞き、写真っていう選択肢もあるなと思って。写真はシャッターを切るだけだし、ボタン押すだけだし、何とかなるかもしれない、と思って、家にあった古いデジタルカメラとかを引っ張り出してみて撮り始めました。普段見えてない世界が、写真としてアウトプットされていくのが楽しくて。 これだ自分に合うの、って思いました。それで親に交渉してカメラを買ってもらいました。両親は比較的やりたいことをやらせてくれるタイプで、全盲になる可能性もあるよと言われた時期だったんで、「見えてるうちに何かやらせとくか」みたいな感覚だったんでしょうけど、カメラを買い与えてくれて。そこからどっぷり沼にはまりました。ファインダー越しにも、ちょっと見えるんです。ファインダーの像面が二、三センチぐらいの距離なんで、普段の遠くを見る視力じゃなくて近づけて見る視力的に一番良かった、見えやすかった、というのもありました。

 

伊藤 なるほど。ちょうど見えやすいところにファインダーがあるということですね。就活をするときには、やっぱり写真関係が第1志望っていう感じだったんですか?

 

セルジオ いや、全くでした。写真は好きだったんですけど、大学で、視覚障害の人の移動支援のデバイスを作ってていて。白杖の上につけて振動で、道案内をするデバイスを作ってたんです。だからモビリティの研究をしたいと思っていました。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ なので、モビリティ系受けて、結果も良かったんですけど、なんか、「この先40年ぐらい使命感で仕事するのかい?」と、どこかのセルジオが問いかけてきたんです。それで、病んじゃいそうだなとか、疲れそうだなとか、いつか楽しくないときが来るんだろうな、とふとわれに返ったんです。それでキヤノンマーケティングジャパンに受かり、どうするセルジオという会議が行われ、写真楽しそうだし、「こっちでどうにかする方が何とかなるんじゃない?」と思いました。あと、視覚障害があっても写真を楽しむ文化を作りたいと思ってたので、今までやってなかったことちょっとやってみようかな、ゼロから作ってる方が楽しいかな、と思って今の会社に入ったって感じですね。

 

伊藤 使命感だけでは何十年もやっていけないっていうのは、どういうことですかね。

 

セルジオ なんか、疲れちゃうんだろうなっていうのと、飽き性な部分もあるんです。写真は今まで飽きずに続けられたんですよね。あと、移動とかの方は誰かがやってくれるかもしれないな、自分がやらなくてもいいのかな、という感じもありました。結構軽いノリですね。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ 実はもうちょっといろんな理由もあって、僕が高校生のときに写真を始めるきっかけになった先生っていうのが、大学卒業してすぐ盲学校に来た先生だったんですね。その先生が、視覚障害のことが全く分からないので、分かろうとしてぶつかってきてくれる、人間的に素敵な先生だったんです。その先生が使っていたのがキヤノンで、僕もそのときキャノンのカメラを買ってもらったんです。産休育休で来た先生だったので2年間しかいっしょにいられなくて、この先生に恩返しがしたいなっていう思いが結構強かったんです。もしその先生が今も写真を続けてくれたら、そしてメーカーを変えずにいてくれたら、僕がカメラに関わることでいつか気づいてくれるんじゃないかな、とかその製品を世の中に出す仕事をするので、自分が産んだ子じゃないですけど、そう使ってくれるんじゃないのかとか、そういう訳がわかんない思いで選んだっていうのが一番大きいですね。

 

伊藤 そっか…もう行くこと決まってた感じですね。

 

セルジオ いろんな伏線があって、結局一途、みたいな感じですね。その先生に出会ってなかったら、本当今の自分はいないんじゃないかと思える人ですね。いい意味で人生を狂わせてくれた人ですね(笑)。

 

伊藤 素敵な話ですね。

すみません、ちょっと話をもどして、見え方の確認もしたいんですけど、小学校のときは見えていて、そのときは見えなくなるかもしれないっていうのはわかっていたんですか?

 

セルジオ 小学校の頃は病名は分かっていませんでした。小学校に入るタイミングの検診で「弱視だよ」「病院行きな」って言われたらしく、そこから病院を転々としてるんですけど、分からず。小学校5年生のときに今の主治医に出会い、やっと確定診断になって、病名が6年生のときについた感じですね。黄斑ジストロフィーという病気で、目の黄斑の部分の細胞が上手に発達しなかったり、欠けているみたいです。成長してくと、その部分が、広がるかもしれないし、伸びないのかもしれないらしいです。

 

伊藤 だから全盲になるかもしれない、ということなんですね。

 

セルジオ でも「20歳とか18歳ぐらいの視力がほとんど固定になるから大丈夫さあ〜」って言ってます。

 

伊藤 盲学校に入るときは今と比べて見えていましたか?

 

セルジオ 全然見えてました。遠くはだいぶ鮮明だった記憶はありますね。自転車とか漕いでも全然対応できましたね。

 

伊藤 なるほど。現在の見え方は…

 

セルジオ 遠くの建物は認識できます。人は、6mぐらいに入ると、輪郭でわかります。すごい仲いい人とかだと、それより遠くても、歩き方とか体の動かし方の癖で、この人かっていうのは理解できる感じですかね。

 

伊藤 表情はどうですか?

 

セルジオ 今の1メートルくらいの距離だとわかります。もう少し離れたり、もう一歩二歩下がると、分かりにくくなります。

 

伊藤 なるほど。スマホとかデスクトップのパソコンとかは、普通に使いますか?

 

セルジオ 普通に使ってます。大体、どこにどのアプリ入れてる、みたいなのを決めて、フォルダリングしたりしてますね。

 

伊藤 使いやすいように整理してるんですね。

 

セルジオ 自分の中で整理して、全てを記憶できないんですけど、大体これはここみたいなので決めてる感じですね。

 

伊藤 そうすると、視野の一部が欠けてる、みたいなふうには見えないわけですよね。

 

セルジオ 視野は、周囲がぼわっとしてますね。中心は見えてるんですけど、大体、顔の横に手を当てたときの外側、あとは上下の鼻と眉に手を当てたときの上下側は何かぼんやりしてる感じです。完璧に真っ暗ってわけじゃなくてぼわっとしてる感じですかね。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ 常に無意識がここにある感じ。

 

伊藤 へえ、無意識。

 

セルジオ はい。 意識してる無意識みたいな塀がここにある感じですね。ゾーンに入るじゃないですけど、集中したときに、全く見えなくなる感じと近いのかなと思います。意識を向ければ、目も動いてるんで見えるようになっていくみたいな感覚なんですかね。

 

伊藤 まわりがぼうっとしているから邪魔だ、みたいな感じではないってことですか。

 

セルジオ 邪魔だって感じではないんですね。うん。ここがなんかぼわっとしてるおかげで中心がフォーカスされてる感じもありつつ…いい塩梅には今なってきましたね。昔はちょっと厄介だなと思ってましたけど、最近は上手に使いこなすというか。

 

伊藤 昔の厄介のときってどういう感じだったんですか?

 

セルジオ すぐ角に肩をぶつけちゃうとか、足引っかけちゃうとか、机の角とか。あと曲がり角とかで人とよくぶつかってたりとか。最近はそういうのもなく、多分それに体が適応してきますね。

 

伊藤 視界として捉えていなくても、記憶とか体の身のこなしの調節でうまくいってる感じですかね。 

 

セルジオ そうですね。あとは、一点を見てると周りがぼやっとしてる感じなんですけど、無意識に目を上下に左右に動かして、1枚の大きな絵を脳内で生成してくれてるので、全く見えてないっていう感覚はなくて、「あるな」っていうのはわかる感じですかね。

 

伊藤 その状態で写真を見ると、どうなるんでしょうか。写真を見るときはまずスマホで見ますか、それとも印刷して見ますか?

 

セルジオ どっちもあるんですけど、印刷して見るときは、結構大きめにして、距離を置いて見て、近づけてみてっていうのを繰り返して全体を捉えていく感じですかね。 あとはなめるように状況を捉えて、みたいな。 

 

伊藤 写真の全体が最初にぱっとわかるっていう感じではないってことですかね。

 

セルジオ そうですね。

 

伊藤 それって意識的に目を動かしてるんですかね。

 

セルジオ 何かを見たいときとか見なきゃいけないときは、意識的に動かしてますね。多分普段の生活とか、日常動作の中だと、そういう感覚はなく、勝手にやってくれてる感じですかね。

 

◎蓄積していく疲れ

伊藤 なるほど。目の動きって、おっしゃる通り意識的な部分と無意識的な部分があって、意識的にやる量が多いと結構疲れたりするのかなと思いますが…

 

セルジオ 疲れます。試験とかでは意識的に動かさなきゃいけないし、会社で仕事やってるときも、パワポとかを結構読まなきゃいけないですね。全体を、こう見る。読み飛ばしちゃうと、結構な損失になるかもしれない(笑)。しっかり見ようとすると1日かなり疲れたりしますね。夕方とか疲れてくると見えなくなるし、1週間通しても蓄積されていくと見えなくなります。今日は月曜日なので、ベストコンディションで亜紗先生に会えて良かったです(笑)。

 

伊藤 (笑)。金曜日とかはちょっとやばいんですね。

 

セルジオ 見えてる感覚は多分一緒なんですけど、体の疲れもあるし目の疲れもあるんで、メモリーがほとんど機能しなくなるんで、ぶつかったり転んだりします。あとは視力的にもちょっと落ちてるんで、月曜日にこのぐらいの距離で見えてるもののが、火曜日はちょっと近づかなきゃいけない、ということもあります。

 

伊藤 なるほど…

 

セルジオ なんで、朝起きたときに一番最初にスマホ見て、「今日これぐらいなのかな」って確認する感じですね。「今日ちゃんと寝てなかったかも。疲れ取れてないかも」みたいなのがわかりますね。

 

伊藤 そういうのもあって、1ヶ月に1回地元に帰ったりして、疲れをとるってすごい大事なんですね。

 

セルジオ あと週末とかに東京にいると、写真展を回ったりとか写真家さんに挨拶行ったりとか、ほぼ仕事じゃんみたいな感じになるので、それから意図的に断つ感じもありますね。

 

伊藤 写真を見るときに、目が見えない人、見えにくい人、見える人で写真に対する距離感とか、見え方とか違うなって思うことはありますか。

 

セルジオ 結構ありますね。見えている人たちは、全体をちゃんと細かく捉えようとしすぎちゃう部分があるように思います。盲学校の友達を、会社のギャラリーとか、外の写真展とかちょっと連れ回したときは、弱視の人だったらある程度見えてるところからしか判断しないので、写真の本質をいく感じがあって面白いなと思います。

 

伊藤 なるほど。見えると、どんどん細部に入っていって確認作業になってっちゃう傾向がありますね。

 

セルジオ この前のうちのギャラリーでやっていた展示も、見えてる人たちと見えていない人が来ていて、面白い発見がいっぱいあったなと思います。

 

伊藤 なるほど。視覚障害って言っても、人によってものすごく違うと思うんですけれども、セルジオさん自身も、多分全盲の人とは相当違いますよね。その辺ってどういうふうに捉えてらっしゃいますか。盲学校だと多分いろんな人がいると思いますが…

 

セルジオ 違うっていうのは思ってはいるんですけど、でも違わないじゃんっていうのが多分根底にあって。あとは視覚障害っていう、マイノリティじゃないですけど、くくられてるおかげで、仲間感がありますね。全く見えない人も、僕みたいな見えてる人もいるけど、仲間じゃん、みたいな感じで、見え方なんてどうでも良くない? 結局、誰も自分の見え方なんてわからないし、わかろうとすることはできるけどわからないんだから、どうだってよくない?みたいな感じで結構仲良くなりますね。 

 

伊藤 なるほど、そういう感じなんですね。

 

セルジオ あと、全盲の人と、弱視で僕みたいに見えてる人と、日常生活の、つらさとか苦労感みたいなのは全然違うんですけど、でも大変じゃんっていうので仲良くなれる。違いはあるようでないような気もするし、明確にある気もするし。

 

伊藤 盲学校時代の友達と愚痴を言い合ったりするんですか?

 

セルジオ ありますね。僕、大学から見えてる世界に出て、大学は世田谷の日本大学の文理学部に行ったんです。久しぶりに見えてる世界に飛び出したので、ギャップがあって。でもそのときは、ある程度勉強をして、学生ノリでやってれば4年間終わって。そのときは視覚障害があるっていうのが結構武器になったので、何かプロジェクトやってみようとか、もの作りやってみよう、となりましたね。新しい他の学生たちにはない視点っていう意味で武器にすごくできた。苦労感はなかったわけじゃないですけど、気がついたら4年間終わっていました。社会人なり、この2年で写真とかカメラっていう見える世界に行ったが故かもしれないですけど、「この感覚わからないんだ」っていうようなことにも結構ぶつかりつつあって、そういった愚痴とかを言ってますね。みんな一般企業行く人が多いので、「なんで見えてる人って…」みたいな。

 

伊藤 なるほど。何かそういうときのあるあるネタみたいなものがあったりするんですか?

 

セルジオ 会社でフロアのお引っ越しとかがあるんですけど、建物の作りは一緒で、トイレの位置なんかも男子トイレは建物の左側で、みたいのがあるんですけど、微妙に作りが各階で数センチ単位で変わってて。そういうのが変わってたりすると、「なんかさ、壁に肩ぶつかるよね」とかいう話をしたりしますね。

 

伊藤 めちゃくちゃ繊細ですね。全盲の人だと、例えば歩数を数えたりするけど、そういうことはしないんですよね?

 

セルジオ 僕はそういうのは全くせず、体のいつも通りの感じでやってて、なんかぶつかる、いつも右につけてる腕時計がなんか壁にぶつかる、とか。急いでるわけじゃないのにそういうことが起こるんです。たまに元のフロアで会議したりすると、そういうことがないので、多分、数センチ単位で違うんだろうと思います。あとは部屋の作りとか、「何でみんなフリーアドレスがいいって言うんだろう」とか、「何でみんな椅子引いたままどっか行っちゃうんだろう」とか。

 

伊藤 確かに…

 

セルジオ そういったことを飲みながら愚痴言ったりしてますね。

 

伊藤 見える人はその数センチは気づいてないですよね。すごいですね、そこまで体に記憶が残されているんですね。それだけ注意して歩いてるってことなんですかね。

 

セルジオ その注意したのが、体のどこかに「ここは注意しろよ」っていうのが埋め込まれていってるんだと思います。

 

伊藤 実家とかに帰るとスルスル動けるんですか?

 

セルジオ 結構、家族が物を動かしたりすると、ちょっとわけわかんなくて。1ヶ月に1回しか帰らないんで、基本わけわかんないんですよ。 「あれ、ここに置いてたのにどこ行った?」みたいなのが結構ありますね、っていうかそれしかないですね(笑)、結構繊細なんだなと。

 

伊藤 そうですね。

 

セルジオ 繊細すぎてちょっと嫌になるときもありますし。

 

伊藤 そうですか。どんなときに嫌だとかんじるんですか?

 

セルジオ 服の肌触りとか、表現しづらいんですけど、この質感絶対無理だなとか、机とか会社にあるものとかこれ無理だなとか、自分には多分合わないなっていう…

 

伊藤 居心地が悪いということですか?

 

セルジオ 居心地が悪いし、刺激が強すぎるときもあったりしますね。

 

伊藤 でも会社にある机とかってどっちかというと、ニュートラルなデザインですよね。

 

セルジオ ニュートラルな感じなんですけど、多分ニュートラルって言われてるラインと僕の刺激の受容のラインが微妙にうまくいってないときに、なんかやだな、ここで何か書きたくないな、とか思いますね。ペンをやるとカリカリしちゃうな、とか。

 

伊藤 好き嫌いっていうよりも、何かをするときに邪魔になる情報があるっていう感じですか?

 

セルジオ 邪魔になるなとかっていう感じですね。服も、意識しちゃうんで、何かしようとか思うときに、なるべく素材や肌触りが自分になじみがいいものを選ぶようにはしてますね。他のことに集中できるように、何か着てるってことを忘れられるようにしたいですね。

 

伊藤 それは見え方と関係してるんですかね。

 

セルジオ そうなり始めたのは、見えづらくなって、いろいろ気にかけ始めたときからだったんで、何かあるのかなと思ってますね。覚えなきゃ、見なきゃってなったときに、余計なことや刺激があると上手に受け取れなくなっちゃうときが昔あったんで、自分の中で基準をクリアしたものを身につけています。

 

伊藤 かなり頭のメモリーみたいなものを使わなきゃいけない場面があるから、余計なものを排除していく感じですね。

 

セルジオ そうですね。服とかもできれば、朝とか選びたくないんです。朝の一番最初の選択に服を選ぶっていうのをしたくないんで、前日にかけておく。朝の選択を一つ減らすみたいな作業をしていて、そうしないと、僕の場合はですけど、夕方とかになると結構疲れちゃう。

 

伊藤 そっか、その瞬間だけじゃなくて、その累積疲労みたいなやつがきいてくるわけですね。

 

セルジオ 多分、見えてる人だと選択しなくてもいいようなことを考えたり、メモリーに入れるか入れないかみたいなことを頭のどっかでやってくれてるんで、そのおかげで結構疲れますね。

 

伊藤 そうですね。 それは、気が付かなかった違いです。

 

◎まわりの目

伊藤 さっきここに来る間に、街をあるくときに東京と静岡で違いがあるという話になりましたけど、それもやっぱり選択の違いみたいなことがあるんでしょうか。

 

セルジオ 選択の違いで言うと、僕は東京にいる方が街をひとりで歩いてるときに選択する回数は少ないかなと思います。誰かに見られてる感もないですし、みんな自分のことしか考えてないでくれてるんで、人のことを気にせず過ごせる。例えば白杖ついてなくて、横断歩道とかで人とぶつかっても「すみません」ってお互いなるじゃないですか。

 

伊藤 はい。

 

セルジオ でも地元だとそんなことなくて、「おい前見て歩けよ」みたいに言われちゃうんです。だから、何かあったときのために白杖を持ち、でも白杖を持つと、また持ったでいろんな視線があり、いろいろなことを言われ…

 

伊藤 難しいですね。

 

セルジオ なので、選択の回数的には、人の目がある分、減らしたいけど増えますね。

 

伊藤 ぶつかったりしたときに、いや見えてないんですって言うためには白杖があった方がいいけど、あると見えませんっていうことをアピールしちゃうから…

 

セルジオ 注目を集めちゃう、じゃないですけど。なおかつ、「ちょっとどいてあげよう」っていうような、本来の役割に通じるような注目を集めるときもあれば、いい注目じゃない注目のされ方をしてるなっていうときもありますね。「あいつ」みたいな。そういうのを感じると、ちょっと「うっ」ってなりますね。

 

伊藤 そうとう嫌な気分になりますね、それは。

 

セルジオ 僕は小学校6年生の頃、家から盲学校まで40分ぐらい離れたところに電車で通ってたんですけど、そのときも「税金の無駄遣いが」とか「くそがきが」とか、結構ガーガー言われましたね。

 

伊藤 子供にそんなこと言うんだ…

 

セルジオ 高校生になっても遊び半分でポンと押してきたりとか、白杖にわざとぶつかってきたりとか、結構白杖も折れたりしました。そういったことがあったので、地元は好きだけど結構嫌いな部分もありますね。大学通学のときも行き帰りは白杖を使うようにしてたんですけど、電車乗ってるときとかも、結構言われたりしましたね。電車の中でスマホで朝のニュースを確認したりすると「おまえ見えてるじゃねえか」とか。 それは東京でもあると思いますけど、そういうのを結構あからさまに言われたりして。

 

伊藤 そう言われたときはどう対応するんですか。

 

セルジオ なんかもう無理だな、というときは何もリアクションしないときもあります。どうぞ言うだけ言ってくださいっていうか。逆にこの人は説明したらいけそうな感じかなっていうときは、「いや弱視って言って、視覚障害って全員が見えないわけじゃなくて…」って優しく説明をして場を収めるときと、もうその2択ですかね。誰かが助けてくれるっていう選択肢はないですね。なので、「すいません」っていう感じですかね。今でも全然そんな感じなので、使わなきゃいけないのはわかるけど、多少転んで怪我する方がマシかなと思いつつ、持たないですね。だいぶ理解は広まってると思うんですけど、さすがに。でもまだ上の方の50代60代70代ぐらいの人たちの層が、結構きつめ、偏ってる人たちがいるので。

 

伊藤 そうですか…。ちょっと立ち入った質問になっちゃうんですけど、セルジオさん自身は障害ってどういうふうに捉えてるんでしょうか。たとえば、知人の全盲の方の中には、自分のなかにある障害者に対する差別意識に苦しんでいた人もいます。親戚とか周りの街中の人とかにいろいろ言われて、それに対して反発を覚えるからこそ、障害っていうものに対してすごい、ネガティブな印象持ってしまっている自分に気づいて苦しい、と。

 

セルジオ もちろん僕の中の理想的なセルジオがいるとしたら、障害があるとは見られたくないし、できれば、障害がないふうに振る舞いたいっていう自分はいるんです。そういう自分でいるときもあれば、でももうこの目を取って変えるわけにもいかない、現実どうにもならない、しゃあなくね?って受け入れてもいる。あとは、こうやって見えづらくなってからの出会いの方が僕は多かったですし、就職のタイミングとかで、盲学校に行ってなかったら違う自分でいられたのかなとか考えてたんですけど、多分今が正解と思うことしかできないんだろうな、と。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ 目が悪くなったからこそ写真にも出会えたし、今の仲間がいて、友達がいて、経験があって。見えてる世界にいた選択肢があったとしても、多分、別のことをしてるだろうし、それをしてその自分に納得できてるかは分からないですよね。だから今の経験とか、そういったのをひっくるめたら、大きなプラスなんじゃね?っていう感じですかね。もちろん、本当に見えていればって思う瞬間も今でも結構ありますけど。なんか考えても無駄かなって最近思い始めてます。受け入れるとはまた別の視点ですね。結論としては、見えてる自分でいるのが一番なのかもしれないけど、今までのいろんな経験とかを考えれば、ベターかな。

 

伊藤 なるほど、そうですね。

 

セルジオ もし目が悪くなってなかったから亜紗さんのこと知らないですし、こうやって話すってこともないと思うと、いい意味で、最近は「ラッキー」だと思うようにしています。ラッキーですね。それゆえにできる経験の方が多分多かったですし、いろんな感覚とかも磨かれていく部分もありますし。ま、その分だけいろんなつらい経験もしなきゃいけなかったりもあると思うんですけど。

 

伊藤 比べられないですね。ある意味、良い部分もあるし、ネガティブな部分もあるし、そのでこぼこがあるけど、それの平均取ると、良かったかなという感じですかね。

 

セルジオ 赤点じゃないなっていう人生を今まで送れていますね。中学校入るまではもうどん底でしたけど、中学校入ってからは、結構プラスになることが多くて、今は結構プラスなので。本当に平均とったら、赤点じゃなきゃいいかなっていう、感じですね。もちろん見えてればっていう選択肢もありますし、個人的には障害があると思われたくないという側面もあるんで、見えてる人っぽく過ごそう、っていう意識はします。今は見えてる世界で働いてるので、それっぽく順応しようと意識はしてますね。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ もちろん近づけて見るのが自分的にはベストかもしれないですけど、会社で周りの人がずっと見えてる中で、1人だけいかにも視覚障害者みたいになってるのも、なんか自分的にはうまく受容できなくて。なので、一見すると見えてるんじゃね? ていうふうに思われる範囲内でやって、あとはその「見えない」を補っていく。なので会社で働いてる人たちからは、視覚障害があるとは思えないと言われちゃうわけですし、今言われてるのが個人的には「よしよし」というか、「それでいいんだぞ」と思ってはいます。結構つらい部分もありますけど、そんなもんなのかなと。

 

伊藤 会社のみんなはそもそもセルジオさんが弱視であることを知らないっていうことですか?

 

セルジオ いや、カメラの企画とかのチームの人は全員に伝わってるはずです。

 

伊藤 知っているけど、そうは見えないということですね。

 

セルジオ はい。

 

伊藤 逆に他の部署の人と関わったり、違う会社の人と話すときには別にわざわざ言ったりとかはしない、ということですか?

 

セルジオ そこもなんか僕の中では考えて、結構選択してる部分なんですけど…「初めまして」ってお会いしたときに、この人とはこれから何回も会う可能性があるなっていう人には、ちゃんと目の事言って、何かご迷惑をおかけするかもしれませんって伝えるんですよ。逆に、多分二、三回でこのご縁がなくなるだろう、会わなくなるだろうなっていう人には一切言わず、どうもセルジオですっていう感じで、いかにも普通の人っていう応対をしますね。大学生のときから、そういう感じだったので、友達から「お前結構クレバーな奴だな」と言われましたね。「お前、自己紹介を分けてるだろう。」「分けてるよ。」って(笑)。

 

伊藤 逆にセルジオさんから目の話をされたら、この関係はちょっと長く続くなって期待できるということですね(笑)

 

セルジオ 大学の友達とか面白がってましたね。 あ、こいつ、あいつとの関係1回で終わらせるつもりだ、みたいな(笑)。

 

伊藤 ちなみにセルジオさんって、ルーツが何か海外にあるんですか?

 

セルジオ 母親が日系ブラジル人で、僕の祖父が福島からブラジルに移民した一世なんです。母親が日本に戻ってきて、日本人の父と出会い、セルジオっていう名前がつきました。セルジオっていう名前は僕の母親の妹の旦那さんがセルジオって名前なんです。向こうの文化で、もし子供が幼いときに両親が亡くなったら、名前をもらった家族に育ててもらうようです。第2の家族みたいな感じですね。それで、僕はそのセルジオおじさんから名前をもらったんで、幸いそんなこともなかったですけど、もし本当に僕が小学校入る前とかに両親が不慮の事故で亡くなったら、その家族に育てられた感じですかね。

 

伊藤 へえ、セルジオおじさんに会うことはありますか?

 

セルジオ 数年に1回行く感じですかね。コロナの前に行ったのが最後で最近は行けてないですけど。

 

伊藤 セルジオさんのなかでもブラジルとは心の繋がりはある感じですか?

 

セルジオ ある感じですね。向こうに行くと白杖ついていても、みんな声かけてくれて、日本とはまた違った感じですね。日本だと「助けてあげるか」とか、「やってあげるか」というか使命感に駆られて声かけてくれる人の方が多いんですけど、向こうはそんなことなく「おまえどこ行くんだよ」みたいに声かけてくる。「いやちょっと駅まで」って答えると、「駅とか行く感じじゃないんだけどちょっと一緒に行くわ」みたいな感じで、気がついたら連れていってくれたりします。それで誘拐されちゃったりもあるんですけどね。横に母親がいても声かけてくるんですよね。「お前に話しかけてるんだよ」みたいな。そういう部分があるから、バリアフリーがほぼゼロでもやってける人がいるんだなとは思います。でもブラジルに住みたいとは思わなくて、日本の方が体が合うというか…それで結局日本にいるんですけど。

 

伊藤 仕事では「セルジオさん」と呼ばれますか?

 

セルジオ 呼ばれます。

 

伊藤 何かインパクトがありますよね(笑)。

 

セルジオ 一応「成嶋セルジオ正章」っていう名前なんですけど、長いですし、全部言っても覚えてもらえるのはセルジオぐらいなんで、「セルジオです」って自己紹介してます。

 

伊藤 ギャラリーでお会いしたとき、自己紹介がすごく面白かった印象があって。なんか「セルジオ」が入ってくるんですよね。弱視っていうのも入ってくるんですけど、なんか「セルジオ」の方がデカく入ってくるんですよね。

 

セルジオ それを売りにして日々仕事してます(笑)。上の世代だとサッカーのセルジオとかもあるので、こういうちょっとポテっとした見た目なんで、「サッカーできないんですよ」とか言うと覚えてもらえる。なんか本当に名前に助けられてる人生です(笑)。

 

◎記憶は映像じゃない

セルジオ 今の仕事をしてて、パワポとか結構ガッツリ作らなきゃいけないんですよ。ビジュアルでプレゼンしなきゃいけない。僕、ビジュアルに落とし込むのが苦手で、盲学校とか全部言葉で刷り込まれてきたんで、ビジュアルで落とし込んでって言われたときに、どうしたらいいんだろうっていうことに最近はずっと悩んでますね。

 

伊藤 ビジュアルがうまくできないっていうのは、具体的にどういうことですか?例えば写真を入れるみたいなことですか?

 

セルジオ グラフにしたりとか、ワークフローを落とし込んだりというときに、結構言語先行で考えちゃうので、頭の中で形にできないんですよね。言葉が箇条書きされてくイメージなんで、これを形にしてって言われたときに、どういう形にするの?ってなっちゃいます。ノートとかも全部言葉なので、図式とかで表さないんですよね。先輩のノートと見ると、いろんな図とかが書いてあって「すげえ」と思うんですけど。

 

伊藤 でも文章でだらだらじゃなくて、箇条書きなんですよね。

 

セルジオ 頭の中でもそういうふうに整理してるので、言語ベースになったものを、視覚化というか、構造化というか、それが難しくて、壁にぶつかってますね。「もっと一目で伝えられるだろう」って言われたときに、「一目?」ってなりますね。その感覚がつかめないのがコンプレックスですね。だから「もっと見えてたら」って思うときはありますけど。

 

伊藤 なるほど。でも見え方によって情報の整理の仕方が違うというのは、興味深いですね。

 

セルジオ 箇条書きにしたものをカテゴライズぐらいはするんですけど、カテゴライズして、カテゴリーの引き出しにしまってる感じですね。その引き出しから取り出してくることはできるんですけど、取り出して、何か形に落とし込むとか、ちょっと結構苦手で。

 

伊藤 カテゴリーに分けてっていうのは、どういうことですか?場合分けっていうことですか?

 

セルジオ 場合分けとか、何について考えたのか、みたいので。学問ごとに分けたりとか、考えているときの気分ごとに分けたりとか。落ち込んでるときにワーッて出てきたものを箇条書きにして、これはもっとポジティブなときにも役立つだろうなっていうときには、ポジティブな方に頭の中で入れて、これはネガティブすぎるから記憶したらちょっと自分に悪いと思ってDeleteじゃないけどゴミ箱に入れたり、みたいなことも結構ありますね。

 

伊藤 なるほど。記憶が結構整理されてますね。

 

セルジオ 整理されてるので、街とかを歩いていて、この香りはここだ、みたいに急に結びつくことがありますね。手触りとかも、ここで触れたかもしれないみたいなことが出てきますね。でも、それがビジュアルに落とし込めない。それなんで、僕は絵とか書けないんですよ。彫刻とかもできない。写真は、あるものを写すことしかできないんで、僕は作品的な作り込んだ写真を一切取らなくて、街の中とか歩いていって、偶発的にあるものを切り取っていく写真しか撮れないんです。

 

伊藤 記憶自体もあんまり映像じゃないということですか?

 

セルジオ 映像じゃないです。

 

伊藤 ああ、そうなんだ。

 

セルジオ この前、写真をやってる若手との宅飲みをして、ひたすら記憶とか写真について喋ったんですけど、まわりの人は、写真のシャッターを切ったときに、その記憶が自分の頭の中の写真フォルダーとしてあるみたいなんです。でも僕は一切そうじゃなくて、シャッターを切ったときの温度感だったり香りだったり音だったりっていうのを記憶しているので、ビジュアルは別にどうでもいいんですよ。

 

伊藤 へえ、面白いですね。

 

セルジオ 撮った写真はぶっちゃけどうでもよくて、そっちが記憶されて、写真を見たときに、その音とか香りとかが全部戻ってくる。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ だから、写真が、記憶を思い出すトリガーみたいになってて、それが僕の中の写真なんです。

 

伊藤 ははあ、なるほど。逆に写真を撮ることによって、そのときのことを思い出せるというか、呼び出せるようになるという感じですね。

 

セルジオ そうです。

 

伊藤 そうなんだ。それが、気温とか…

 

セルジオ 温度だったり香りだったり会話だったり…

 

伊藤 そっちがもうセルジオさんにとって記憶の大事な部分ってことですよね。香りは私はあんまり思い出せないですけど、食べ物みたいな明確な匂いがあるものじゃなくても残るっていうことですね。

 

セルジオ 僕の中では音の次に多分香りが記憶のトリガーになることが多いです。食べ物とかじゃなくて、もっと曖昧な、その人独特の香りだったり、人間っぽい香りだったり、あとは香水とかもありますし。

 

伊藤 それは、写真を見た瞬間によみがえるという感じですか?

 

セルジオ そうですね。写真なんですけど、動いてる感じになるというか、そこにいろんな情報が付加されるみたいな感じですね。

 

伊藤 なるほど、写真をとった現場を思い出すということですね。

 

セルジオ どういう現場で、大体いつだったか、誰と行ったか、どういう会話をしたか、その街の香りがどうだったか、とかを思い出します。他の人たちは一切思い出さないって言ってたんで、「なんで写真撮ってんの」って感じでした。

 

伊藤 すごい面白いですね。そうなると「ビジュアルに落とし込む」じゃないですよね。ビジュアルから生まれるものが重要で、ビジュアルがゴールじゃないってことですよね。

 

セルジオ ゴールじゃないですね。ビジュアルがゴールの写真とか、作り込まれたものを見てても、何も思わなくて。綺麗だなとしか思えなくて。逆にスナップとか、人間のありありとした様子を表現してる写真を見ると、結構心も動きますし、その場に行った感じになれる、というのが結構大きいです。

 

伊藤 音とかを録音したりとかすることはないんですか?

 

セルジオ それはやらないです。録音しても多分その音は100%じゃないので、リアルじゃないかなとか感じてるところがあるので。何かを100%止めておきたいとかはないので、何かトリガーが引かれたときに記憶されるので十分になるんです。それ以上の録音したものとなると多分キャパ超えちゃうんで。

 

伊藤 逆に、写真をとっていない1日の記憶はどういうふうに記憶されるんですか?

 

セルジオ 会話ですね。会話のその日、一言一句まではいかないんですけど、大体これぐらいの時間にこういう会話お話をしたなとか、覚えていますね。

 

伊藤 映像じゃないんですね。

 

セルジオ 映像じゃないですね、全く。何か注目しなきゃってなったときの会話が、断片的に残されてる感じですね、1日をギュッとしたら。

 

伊藤 なるほど。

 

セルジオ なので、1日何をしたか絵を描いてくださいみたいなのは無理です。あとは、例えば「朝ご飯何食べましたか」って言われたときに、朝ご飯の写真みたいな映像が出てこなくて、味とか、香りとか食感とかは鮮明に出てくるんです。ビジュアルは出てこないですね。

 

伊藤 そうかあ…見え方だけ伺うと、見えてる人とそんなに差がないのかなって最初は思ったんですけど、記憶の話を聞くと、だいぶ情報処理が違う感じがしますね。

 

セルジオ それが、結構、今ギャップですね。見えてる人たちと、いい方向にそのギャップが働くときもあれば、資料作成とかね、うまく働かないときもあるんですけど。

 

伊藤 一見するとわからない部分だから、話を聞いて、非常になるほどと思いました。

 

セルジオ 記憶絡みで、夢もビジュアルで見ないんで、感覚とか肌触りとかが鮮明に思い出されていくような夢しか見なくて。世の中でいう悪夢っていうところに分けられる夢がコンクリートに体を擦りつけてる感覚が伝わってくる夢で。多分、目が悪くなり始めて、自分の体の動かし方がわからないときに、いろいろ転んだりぶつかったりしてる感覚が最悪のものとして、記憶されてるんだと思うんですけど。ジャリジャリジャリって擦れていく夢です。

 

伊藤 痛い…全身ですか?

 

セルジオ 夢でも痛いんですよ。本当に全身です。

 

伊藤 うわー

 

セルジオ 人形を壁にガーッてやってるような感じで自分が擦り付けられてく。本当に疲れてたりすると、そういう夢を見ます。夢も基本的に感覚なので肌触りとか香りを思い出すイメージが多いですね。

 

伊藤 元々視覚がメインじゃなかったんですかね。

 

セルジオ 小学校に入るころに目が悪いよって言われたんですけど、実はそのちょっと前ぐらいから、両親に話聞くと、保育園とかの頃からよく転んでたし、外が眩しいってよく言ってたし、そういうことだったんじゃないの?って言われてます。本当に人より怪我する子だったみたいで。割と転んでもどんどんいくタイプでしたけどね。

 

伊藤 だから多分日常生活でも、視覚以外を相当使ってるってことですよね。

 

セルジオ 逆に見えてる世界というか、見える人がどう見てるのかちょっと気になるなと思いますね。会社で働いていて、「何を見てるんだこの人たち?」って思うことの方が多いんで。

 

伊藤 なまじ見えてらっしゃるから、見えている中の違いがいっそうわかりにくいですもんね。パワポとかもセルジオさんにとっては合理性がないから、わざわざ分かりにくい形にしなくちゃいけないわけですからね。

 

セルジオ パワポ見るっていう感覚がないですね。読んじゃうんで。読んじゃうと、頭の中で箇条書きになるんです。必要そうな情報だけリストに入れている。

 

伊藤 なるほど、「見る」っていうのは読まなくてもいい情報が入っているっていうことですね。例えば何かを決定しなきゃいけないときに、案ABCDを出して、それぞれのいいとこと良くないところを表にしたりしますよね。ああいう表って第一に全部うまっていることが重要で、最終的にBとCが競ったときにちゃんと読んで検討するということはありえても、最初から全部しっかり読んで検討することは想定されていないかもしれないですね。

 

セルジオ そういうことも結構言われます。とりあえず出すことが大事、埋めることが大事って言われると、難しいなあと思ってしまいますね。全く違う文化圏にいる感じですね。刺激にはなっていますけど。

  

2024/12/16@東京科学大学大岡山キャンパスにて