野口体操という「力を抜くメソッド」を長年実践されてきた新井さんが、ALSという筋力を失う病とともに、今、どのように生活してらっしゃるのか。教えてくださったのは、関節の可動域を保っておくことによって、出力ではなく入力を高めるという新たな動きの世界でした。動くとは何なのか。驚きの連続のインタビューでした。
新井英夫さんプロフィール
自然にならい“力を抜く”身体メソッド「野口体操」を創始者野口三千三氏に学び、深い影響を受ける。演劇活動を経て独学でダンスへ。国内外での舞台活動と共に、障害の有無に関わらず幅広い対象に向けた身体表現&非言語コミュニケーションのワークショップ「ほぐす・つながる・つくる」を、教育・福祉・社会包摂に関わる現場で実施。2022年夏にALS(筋萎縮性側索硬化症)の診断を受ける。現在、病と障害に向き合いつつ”当事者”と”支援者”の両域の視座を融け合わせた新たな活動や発信を続けている。
◎誤診でもいいじゃん
伊藤 こんにちは。先日はWSに参加させていただきありがとうございます。
新井 ありがとうございました。
伊藤 今日はご体調いかがですか?
新井 やや疲れてますけど大丈夫だと思います。
伊藤 活動できる時間が限られているなか、このインタビューのために貴重な時間を割いてくださりありがとうございます。
新井 いや、これは大事にしたい時間ですから、大丈夫です。
伊藤 よろしくお願いします。最初に事実の確認のようなことなのですが、最初にALSの診断がおりる前に「なんか変だな」って思われた時があったと思うんですね。その時から、現在までの体の状態の変化について教えていただけますか?
新井 2021年の夏ぐらいから秋ぐらいにかけて、そのころはまだコロナで家にいる時間も多くて、朝ジョギングしていたんですよ。そういうときに、なんか足が上がらないなぁとか、なんか今まで普通にできてた動きができないなっていう自覚があって。それからだんだんとものすごく足が特に疲れやすくなって、階段をちょっと昇っても疲れるとか、そんなことがあったんですよ。だけども、まあそれを10月11月ぐらいまでは、「ちょっと疲れてるのかな?」ぐらいな感じでごまかしごまかしやっていたんです。でも12月になって、いよいよ「ちょっと調子おかしいよね。なんかこれ病気なんじゃないかな」と思って、近所の内科に行ったんですよ。というのは、内蔵系の疾患で、ちょっと筋肉が動きにくくなるとか疲れやすくなるのがあるっていうのを知って、母親の家系に糖尿病の人が多かったし、フリーランスで健康診断もあまりやっていなかったりするので、まず内科に行きました。
それで血液系や(トル)内臓疾患の問題はないけれども、血液検査をしたら、CK(クレアチンキナーゼ)値が通常の10倍くらい飛び抜けて出ていたんです。これは、例えばフルマラソンでランナーが走った翌日に上がったりする数値なんで、体の中で急速に筋肉が壊れているということを表している、と。で、ここはいわゆる神経系の病気の可能性、ちょっと厄介な病気の可能性があるから、脳神経内科という専門医の診察を受けた方がいいというアドバイスを受けて、年が明けて2022年の1月に東大の脳神経内科の外来に紹介状書いてもらって行ったんですよね。そこでもまあ、検査しましょうとか様子見ましょうという感じで、いきなりALSとは言われなくて。なんかちょっと神経の病気ですかね?ぐらいだったんです。ALSっていうのは、実はバイオマーカーがないって言われている病気なんですね。
伊藤 なるほど、そうなんですね。これがあればALSという指標がないんですね。
新井「ウイルスがあったらこの病気だ」とか、「癌細胞が見つかったから癌だ」とかといった形ではないんです。なので、似たような病気で、確定的な病気の可能性をババ抜きのようにどんどん引いていって、最後に残ってったら、「ああ、他の病気の可能性がつぶれたから、この病気はALSだ」みたいな感じになるんです。決め手を医者もドカッと言えない病気なんですよ。
決め手のカードを引いていくために、針筋電っていう針を筋肉に刺して筋肉のピクつき、つまり電気信号を検出するというのをやったんですが、実はこの筋肉がピクつくというのが神経のバグで、ALS特有の症状なんです。実際、ピクつきの症状は前の年の夏からあったんですよね。それで医者も怪しいな、とALSも視野にいれながら診察していたと思います。で、初めは足だけの不具合だったんだけど、料理をしていて片手で中華鍋が持てなくなったんですよ。2リットルのペットボトルも片手で持てなくなって、料理中に「あれ?手も力入んなくなってなってるな」と思って2月に医者に伝えたら、来月すぐ検査入院してください、と言われました。2022年のえっと、3月14日から2週間くらい入院して、いろいろな検査をして、その結果が「ALSの可能性が高い」という診断でした。その時は入院中に僕もスマホで検索して、医者の言うこととかを何となくつぎはぎしていくと、これはもう多分ALSだなって思ったんですよ。ALSじゃないといいなと思いつつ、まあこれはALSなんだろう、と。それで医者の説明を聞いてるうちに、半ば覚悟というか現実みたいなものは見えてきて。もちろん絶望もしましたけれどもね。
伊藤 なるほど…。
新井 その後も何度か呼ばれて通院するんですけど、医者は何にもやることないんですよ、この病気に。
伊藤 打つ手がないということ?
新井 治療法がないから、簡単に言うとね。なおかつ東大の医者は確定診断はまだ出せないよって言い出して、もう少し様子を見て、もう一回、ことによると、念のため検査入院になるかもみたいなことを言ってて。その時にどうしても生き急いでしまう性格の私は、「うーん、なんか待ってらんない」って思っちゃいました笑。
それで医者って本当に頼りにならないなと思って、日本ALS協会に電話をしました。それで、こんな宙ぶらりんの状況なんですけどって話したら、非常に現実的なアドバイスをもらって。ALSが確定していない段階でも、可能性が出たんだったら、一刻も早く、確定診断をくれる医者にセカンドオピニオンを変えたほうがいいだろう、と。
伊藤 なぜですか?
新井 確定診断をもらうと、難病の制度につながれるんです。例えば、介護保険を使って車椅子が必要になったらレンタルができたりとか、いろんな制度が使えるようになるんで、先手先手で確定診断出してもらって制度につながっちゃった方がいいですよ、と。
伊藤 なるほど。
新井 そこで、日本ALS協会の方に、僕は今までパフォーミングアーツに関わってきた人間で、舞台もそうだけど、ワークショップなんていうのもやっていて、これをできる限り続けたい、と相談しました。そういうライフプランみたいなことも総合的に一緒にクリエイトしてくれるようなお医者さんはいないか、ディレクションしてくれるお医者さんはいないか、って言ったら、今僕が主治医になってもらっている先生を紹介してもらえました。その先生のところに行ったら、「よっしゃわかった」ということで、確定診断を出す方向でいこう、となりました。
その先生の言葉で面白かったのが、「誤診だとしたら誤診でもいいじゃん」と。誰も損しないし、誤診だったらラッキーってことでとりあえずやろう、って言ってくれて。東大病院の医者は「誤診だけはしたくないので」って言ったことを僕は覚えていて、この医者って間違えたくないんだなって思ったんです。でも今の主治医の先生は誤診だったら新井さん、それはラッキーだし問題ないから先に進めようっていうのでやってくれて。で、2022年の7月か8月頭ぐらいに確定診断がつきました。
伊藤 なるほど…。医者としてのプライドなのか、科学的な正確さの追求なのか分かりませんが、誤診を避けようとするあまり、患者さんにとってのベストな選択という現実的な解から離れていってしまう。何か非常に示唆的ですね。
新井 診断がついたことで書類も出て、即区役所に難病の手続きに行って。9月ぐらいからもう介護保険で車椅子借りたり、すぐ電動車椅子を借りたり、ALSに関する治療に関してはお金があまりかからない状況になりました。
伊藤 ということは、自覚症状があってから診断まで約一年ってことですね。ものすごく早いですね。
新井 そう。ただね、これは無茶早の方で、自覚症状があってから確定診断まで二年とか三年かかっちゃう人がザラらしいです。
伊藤 あの、すみません、こうやってお話しするときって、例えば私、今こうやって手を動かしながらしゃべっていますけど、新井さんはいま手を大きくは動かせない状況でしゃべっていますよね。
新井 手がね、今ね、手首から先はこうやって動くんですけど、上がらないんですよ。画面から切れちゃってるけど、まあ多少動いてると思います、喋りながら。
◎マリオネットの体――体を入力装置にする
伊藤 確定診断がついた頃は車椅子をすぐに使っていらしたんですか?
新井 2022年の9月、10月までは杖をついて歩いてました。11月くらいまではひょっとするとできていたかもしれない。あくまで補助的に手動の車椅子を使い始めたんだけど、手動の車椅子は圧倒的に自由を奪われるので、大嫌いだったんですよ、僕は。手が疲れちゃうとあまりこげないから、介助者が押してくれないと動けないんです。介助者に押してって言わないと動かないし、止めてって言わないと止まんないし。それを言うのがすごく億劫になってきて、だんだん遠慮するようになるわけですよ。思った通りにやってくれないと喧嘩になったりとかして。なんかもう自分がどんどんちっちゃくなってっちゃう感じがしました。体の機能だけじゃなくて心のサイズみたいなものも我慢するようになっちゃったんですよ。初めて電動車椅子乗った時のことを今でも覚えていて、「あーなんかこっちから夕日が照ってきた」と思って。電動車椅子で自分で振り返って見た時に、なんか泣けてきちゃって。ここ数ヶ月、こういうことできなかったなって思いました。
伊藤 私の知り合いの筋ジスの方の話を思い出しました。その方は小学校の頃は手動の車椅子だったんだけど、中学に入って電動車椅子に変わったんですが、その時に何が嬉しかったかっていうと、「止まれる」ってことだと。それまでは目的地まで運ばれるだけだったんだけど、そうやって夕日とかちょっとしたお花とか何か気になるものがあった時に、電動車椅子だと止まれるっていうのはすごい革命だったっておっしゃっていたんですよね。移動できればいい、という話じゃないんですよね。
新井 そうなの。直線的にAからBの移動じゃなくて寄り道できるっていうのがむっちゃ自由だなと思ったんですよ。
伊藤 なるほど。2022年の年末ぐらいからは電動車椅子に移行したっていうことですかね。
新井 手動の車椅子を借りていたのは2022年の秋ぐらいからなんだけど、電動車椅子が来たらすぐそれにしちゃった、という感じです。
伊藤 体調面での変化はどうでしたか。段階のようなものはありましたか?
新井 筋肉でいうと、まず足がダメになって、2022年の冬に電動車椅子に切り替えたんだけど、そこからもしつこくね、歩行器を使ってリハビリ的に歩く練習はしていたんですよ。というのは、なるべく行動の自由を担保したいって意地張ってるので、電動車椅子に乗ってても、自分で立って2、3歩歩けてくるっと座れると、トイレが一人でできるわけですよね。外出先でもトイレ介助がいらない。電動車いすから電車の座席に乗り移るとかもできる。そうなるとちょっと歩ける自分っていうのをどこまで引っ張れるかっていうのが、結構僕の中での勝負で。2023年の秋くらいまでは、歩行器で休み休み100歩くらいは歩けてた。
伊藤 そうですか。
新井 で今年2024年になってから、それが休み休み50歩とか、休み休み30歩、ってどんどん減っていって、歩行器に捕まる腕の筋力もなくなっちゃって、春くらいまで家の中で歩くことにしてたんだけど、30歩ぐらい歩いたら、もしこのまま転倒して骨折したらもっとダメージ大きいなって判断で、やめることにしました。発症から二年半ぐらいは粘ってたのかな。
伊藤 なるほど。
新井 手は今年になってかなりやばくなってきて。今年のお正月までは、お箸でおせち料理を食べた記憶があるんだけど、2月3月ぐらいから箸のコントロールができなくなって、そのあと食事も全介助になったんですよ。
伊藤 あの体が動かないっていうことを、経験したことがないので、もうちょっと分かりたいなと思っているんですけど、しびれているときみたいに、命令を出しても言うことを聞かないという感じなのでしょうか?
新井 命令を出しても言うことを聞かないっていうのが、まず一番。力が入らない。動かそうと思ってもこう上げようと思っても上がらない。だけど、今僕は肘掛けに肘をついたってこのついている感覚ははっきりとある。運動機能は失われていくけれども、全ての皮膚感覚や、たとえば関節が痛いとか、筋肉はなくなってはいるけれども、腱とかそういう中身の感覚みたいなものはそのまんまあるわけですよ。
伊藤 なるほど。っていうことは、これは自分の体だという感覚はあるわけですよね。
新井 あります。だから感覚の輪郭ははっきりとある。自分の体がどの位置にあるか、とかは分かる。ただ動かなくなった分、面白いのが、今までだったら無視してたようなむちゃくちゃちっちゃなセンサーが働いちゃう。例えば、ベッドで寝てる時に足先にちょっとタオルが置いてあるのが小指に引っかかってるなとかっていうのが、前だったら意識に上る前にスッと足をよけたりしてたと思うんですけど。今はそれができないから、そういうちっちゃい不快な刺激が解決できず長く続くのでものすごく感覚の意識に上がってくる。ますます感覚過敏になったりとかして。
伊藤 よく寝るときに体の位置をミリ単位で調整するなんていう話を聞きますね。
新井 もうその戦いですよね、ヘルパーさんと。戦いっていうか、笑っちゃうんだけど、自分が夜寝てる間、自分の体の実況中継をし続ける俺は何?みたいな(笑)。
伊藤 実況中継っていうのは、「もうちょっとこここうして」みたいなことですか?
新井 そうそうそう、はい、じゃあ右手を左に開いて、その時に脇の下に空気が通るような感じで。左手は、あー、ただ持たないで、肘と手首を浮かすように持って、はい、下ろす時もそっと、とか。こういうのを、勘のいいヘルパーさんは、「はい、肘上げて」だけで通じるんだけど、初めての人だとそうはいかない。たとえば昨日の夜もあったんだけど、僕が腕を上に上げてっていうときに、万歳みたいな状態で寝ているとき腕を引っ張ってほしかったんです。でも介助者にとっては、上っていうと天井向きの方向で。上っていう言葉ひとつでも全然通じないわ、と思いました。
伊藤 そうか…難しいですね。感覚が敏感になるのは、筋肉が動かないからですか?
新井 動かしていないから、運動してる感覚みたいなところで、自分の脳みそのメモリーを使ってないわけですよね。だけど、感覚器が動いていて、蚊が止まったな、とか、タオルがちょっと触れてるなとか、座っているズボンの皺が二本、左のケツの下に寄ってるなとか、そういう体のつぶやきが聞こえてきちゃう。
伊藤 ああ、「聞こえてきちゃう」っていう感じなんですね。
新井 いろんな音が鳴ってたら、つまり、自分が一生懸命自由に動けてたら、スタジオの中でバンドの練習してるみたいで、ドカジャカドカジャカするその音を自分は聴いてるんだけど、いまの体は誰もいない音楽室みたいな感じだから、ハエが飛んでる音も聴こえちゃうんです。
伊藤 それは単純にすっごいストレスですよね。イライラするっていう感じであっていますか。
新井 不快なものの場合はやっぱりイライラします。取り除きたくても取り除けない。人に伝えないとそれが起こらない。その面倒臭さはすごく感じているけれど、余裕のあるときは、どうやって表現するかみたいなところで、それを楽しめていますね。
伊藤 この前のワークショップでも、新井さんが伝えるときの比喩の使い方がとても印象的でした。例えば実際に、水が入った袋を参加者に持たせて、今日はこの水袋みたいなるんです、と伝えたり、大きなビニールの膜を用意して、みんなでそれで遊んで体験してもらって、それに自分を合わせていこう、と伝えたり。私は比喩ってすごく情報量が多くて、違う体の人を理解するときにもすごく手掛かりになるなあと思っているんです。そう考えていくと、新井さんの今の体、あるいは段階を経て変わってきた体を何かにたとえるとすると、何になりますか?
新井 なんかこう、図体のでかいピノキオみたいな感じなのかな。
伊藤 ピノキオ?
新井 幸いにして、いわゆる可動域ってまだ保ててるんですよ。肩とか股関節とかも比較的柔らかいから、扱う人がうまく扱ってくれると、まだいろんな動きができる。
伊藤 人から操作される余地がまだ大きい、ということですね。マリオネットみたいな感じですか?
新井 そうそう、マリオネットみたいな感じ。
伊藤 なるほど、面白いですね。
新井 しかも動かされたがり屋のマリオネットみたいな感じ(笑)。
伊藤 笑。動かされるのが楽しいということですか?
新井 楽しい。できれば上手な人に動かしてほしいんだけども、壊れないように大事に扱いつつも、でも、いわゆる介護の目的的な動きから外れて、ちょっと手を面白く動かしてもらうとか、そういうのをやってもらった時に自分が踊ってた時に近いような感覚になって、心にも体にもとてもいい影響がある気がしているんですね。
伊藤 この前のワークショップでも、お花作るときに学生さんがちょっと新井さんの手を動かしていて、それがすごい楽しかったっておっしゃっていましたよね。
新井 うん。そうそう。
伊藤 生活の中でも、介護の目的からはずれた動きをすることってあるんですか?
新井 例えば、あの、ヘルパーさん、ちょっと来てもらえる?(この日来ていたヘルパーさんが登場)腕を持ってもらっていい?たとえばリハビリ的に言うと、この腕を回す(大縄を回すように腕を回す)んだけど、「平泳ぎ、平泳ぎ、背泳ぎ背泳ぎ」「阿波踊り、阿波踊り」みたいに歌いながらリズムをとって、遊びを入れてもらいます。
伊藤 なるほど~確かに可動域はすごく大きいですね。
新井 ちょっと前までは自分がなんとか立って歩けるっていうのがこの病気に対しての自分がやれることの一つだったんですけど、今はほとんど野口体操のような、僕がやっていた動きができなくなったときに、野口体操のストレッチに類するようなものがあって。開脚とかヤンキー座りみたいな座り方をするとか、でんぐり返しみたいな形でさかさにぐるっとなるとか。ああいうのは今でもやってるんですよ。っていうのは、この間のワークショップで、袋に入れた水を持ってもらったけど、水って流れて動きやすい。流れて動きやすいっていうことは、なんていうのかな、外からの力を受け止めて、メディアになれるわけですよ。コンクリートだと動かないけど、水だとちょっと押されたら動く。揺れる。自分の体や心の状態をなるべくそういうふうに保ってみようっていう僕なりの実験があって。能動的には自分はもう動けなくなったけれども、関節の可動域を保っておくことによって、ちょっと押されたら動かしやすい新井で居続けてみよう、と。それは介護されやすさにも通じるかもしれないし、そこに遊びの余地を生んでいく可能性にもなるんじゃないかなって。
伊藤 すごいですね。すごく面白いです。
新井 体の硬い人は介護しやすい、なんて嫌なこというヘルパーさんもいてね。関節が固まってくれたほうが、パタンパタンと板のようにひっくり返しやすいから。僕はえーちくしょう、と思ってグニャグニャでいてやろうと思ったんです笑。
伊藤 野口体操と新井さんの今の体の関係がすごく気になっています。野口体操は体を水袋だと想定しますが、それはやっぱりマリオネットとイコールではないんですかね
新井 うーん、まあイコールに近いっちゃ近いですよね。水っていうのは骨がないじゃないですか。だから揺れる構造体ではあるんだけれども、揺れる構造体の中にさらに骨も浮かんでるとか考える。骨っていうのは固いもの、剛体であるっていうイメージを持っちゃいがちだけども、いや、その剛体すらも水の袋の中に浮いているっていうのが人間の実態なんじゃないか、と野口体操は考える。そういった時に、僕の中ではマリオネット的な関節ぶらぶらっていう動きと、水袋が揺れるってことがそんなに矛盾しないっていうか。
今でもトイレに立たせてもらう時に、介助者にグッと持ってもらってちょっと立位を取ってるんですよ。僕は立てないけど、骨と骨を重ねてもらって積み木を積み重ねるみたいにしていくと、一瞬立てるんですよね、筋力なくても。それは僕にとってはとても気持ちいい瞬間ですね。
伊藤 関節ゆらゆらっていうことは、外から来た力に対してどう反応するかということだと思うですが、それが何で大事なのかということも伺いたいです。もちろん、ずっと野口体操をやっていらしたから、それに近い状態を保ちたいということもあると思うんですけど、どうしてその状態が素敵なのか。もしかしたら野口体操を始めるきっかけの話になるのかもしれないですが、その状態が持っているポテンシャルってどのあたりにありますか?
新井 例えばね、体力測定って出力測定じゃないですか。どれだけ握力があるかとか、どれだけ速く走れるかとか。でも柔らかいっていう言葉を言い換えると、入力度合いが高いみたいなことだと思うんです。僕は出力はもう今後強めることはできないんだけれども、入力はアップさせることができるんじゃないなと。入力にフォーカスした世界っていうのは、今までの経験からしてみると、体を入力装置として世界への触角みたいなふうに使っていったら、そこから案外面白がれるんじゃないかって思ってて。それが僕の希望というか、この病気の楽しみ方ですね。もちろん、入力して自分がなくなっちゃうっていう意味ではなくて、自分自身は意識や脳の働きはあるっていう前提でなんだけれども。
伊藤 なるほど…考えてもみませんでした。その入力具合というのは、具体的には、たとえば介助者さんの介助スタイルとか力加減とか動かし方とか、そういうことですよね。
新井 それも受け入れたりするし、もしくは受け入れるけれども全部オッケーってわけじゃなくて、嫌なものには嫌とは言うんですけどね。入力っていう言葉を人の助けっていう言葉に置き換えると、それなしでは生きられないわけですよ。で、その時に相手にお任せのオーダーメイドのヘルパーの技みたいなことだけで僕が扱われちゃうと、どんどんどんどん自分が小さくなっちゃう気がして。俺の関節はこうやって動くし、あなたに動かしてもらいたい。その中で、じゃあどうやって俺のことを立たせてくれる?みたいな問いかけをして、そこで一緒に僕を立たせるっていうダンスを作ってみてよ、みたいな感じ。
伊藤 うんうん。
新井 それがうまくいった時に、向こうもこいつややこしいこと言ってきたけど、あ、なるほど、こんな私も立たせたことのない立たせ方で新井を立たせたわ、なんてニッコリしてくれたり、俺も「いや、あんたうまい」とかって言って気持ちいいなって感じになるし、二人で抱擁してトイレに移るまでの、十秒間立ってる間に、なんかお互いに成功体験みたいなのがあったりするんですよね。
伊藤 確かに介助する側、関わる側からすると、板みたいに固い体だったら物体みたいに対象化して扱っちゃうけど、新井さんみたいに関節が入力度が高くて柔らかいと、なんか問いかけられている感じがしそうですよね。ちょっと押しただけでこんなに反応があるんだ、みたいなことがあると、慎重になるだろし、一方で探索がすすんで、こうやったらどうなんだろう?みたいにいろいろ試したりもしそうです。
◎重さの流れで動く
新井 (画面外に向かって)参入したかったらどうぞ
板坂記代子 傍からすみません。パートナーである私が最初の介助者だったわけなんですけど、たまたま私も長年この人から習って野口体操をやってきていて、そういう意味では共通の言語を持っていたっていうところがあると思います。その中で、その重さをどう扱うか、この人の重さもそうだし、私の重さとどう立ち上がるか、どうすべるかとか、とにかくこの重さの移動ってことを研究したなっていう感じはあります。今よりももうちょっと前の段階ですけども、トイレ一つするのにも、どうやって傾いたら楽にお尻が浮くかとか、研究したのは、楽しかったし、役に立ってますね。今やっている身体介助は昔からの野口体操の稽古の続きなんです。
新井 この人がよく言ってたのはね、昔よく二人で稽古をしてたんですよ。野口体操からダンスを作るための稽古をしてたんだけど、そういう時に、あまり形としての振り付けみたいなことを考えてなくて、どうやって自分の体が傾いて重力とどう関係してまた元に戻るか、例えば、それを相手と接触しながらやったらどうなるかとか。まあ、一部コンタクトインプロヴィゼーションのアイデアと重なるところもあるんだけど、そういうことを随分やってたんですよね。
伊藤 なるほど。
新井 振り付けっていうのが、決められてあることじゃなくて、例えば手と手をくっつけたまま動くっていうようなちょっとしたルールを決めて、お互いの体を感じるみたいなことで、何かクリエイトできないかってことを考えていて。その時の経験と、ぐにゃぐにゃの筋肉のない新井をどう立たせるか、ぼくもどう気持ちよく立つか、みたいなことは、体験として遠くなかったんですよね。
伊藤 重さを扱うっていうのは、野口体操を知らない私の言葉に翻訳すると、重心っていうことですかね。
新井 えっとね、これは本当に翻訳しろっていうのが難しいんだけど、ちょうど私、「翻訳できない わたしの言葉」っていう展覧会(東京都現代美術館)に参加してたじゃないですか。で、野口体操の野口先生は、体を、視覚優位ではなくて、内蔵感覚で捉え直すんだってことをよく言ってたんですよ。目でもってこういう形があるっていうんじゃなくて、「お腹が痛い」とか「お腹がいっぱいだ」とか「おしっこが溜まっている」とか。まあ、それは本当に胃腸の内臓だけど、それだけじゃなくて「腕がだるい」とか、「足が重い」とか「体が軽い」とか、中身の感覚。それをひっくるめて内蔵感覚って言っていたんですけど、そんな感じっていうのを、どうしたら伝えられるかなって思って、まさに水袋を美術館にいっぱい置いたんです。記代子さんが裁縫をしてかわいい袋を作ってくれて、それでみんながお腹の上にそれ乗っけてゆらゆらしてくださいっていうのをやったんです。自分も揺れる液体なんだってことをどっかで感じたことは皆さんあるはずなんだけど、やっぱり出力優位で自分の体を考えちゃうと、筋肉が頑張っている時だけが自分の体の存在感みたいになっちゃうと、なかなかこの感じは伝わりにくいよね。
伊藤 自分の体の重さを感じることはまだ想像できる気がするんですけど、相手の重さを扱うっていうのがちょっと想像つかないです…
新井 赤ちゃんを抱っこするときのポジションとか、あるじゃないですか。体に抱き寄せて、一体になっちゃうと、意外と重さがあっても、体って一つになれるじゃないですか。
伊藤 確かに同じキログラム数でも、人間と米袋では抱っこする感覚が全然違いますもんね。
新井 そうそう、コンクリートだともっと違いますよね。
板坂 すいません、私もういなくなりますけど、今も電動車椅子の力を借りて、ちょっとずつ姿勢を変えたりしてたんだと思うんですけども、これも一つの、重さのちょうどいいところ、重心がうまく地球に乗って自分も楽な姿勢というのを、ずっと探し続けているという状況だと思うんです。なかなか伝わりづらいんだけど、私たちがもう自然にやってるようなところを、この人は常にこう動きながら、見つけようとしている。本当は野口体操なんて言わなくても、常にやっていることだと思います。それを二人で立つというときに、それを探すというのが非常に面白い体験で。
新井 もう一個だけちょっと説明的になっちゃうけど、動きっていう漢字があるじゃないですか。あれって重さの力って書くじゃないですか。
伊藤 はい。
新井 動けない体って言ったときに、何が足りなくて動けないのかというと「筋肉」と答えてしまう人がすごく多いと思うんですね。で、筋肉がなかったら動けないのはALSの患者として本当に実感しているんだけれども、体の中が液体的に緩んでいれば、きっかけを他からもらって、中身は流動体にしとけばニョロ〜ンとユラ〜ンと動くことはできるわけです。
伊藤 そうですね。
新井 重さの流れが動きの元だから。川が流れるとか、風が吹くとか、筋肉がないものも動く、地球上では。人間の体でも同じことが起こってるはずなので、筋肉が働かなくても中が流れるようにいられるってことが、僕の中でもうひとつ、他力として動きを作る望みみたいなものだったりするんです。
伊藤 なるほど。自分の中にも流れがあるということですね。
新井 だから筋肉ムキムキのヘルパーさんは、僕は苦手なことが多いですね。自分の体を守るために筋トレする方が多いのはわかる。しかしこっちの重さの流れとか受け止めてくれないでブーンとぶん回して持っていかれちゃうと危ない。力づくだと感覚も鈍くなる。
伊藤 そうすると、逆に理想的な介助者ってどんな方ですか?
新井 やってる人も楽な体の使い方でもって、僕のことを動かしてくれたりする人かな。
伊藤 なるほど。能動受動みたいなのが固定されてないっていうか…
新井 そうそうそう。そうなの。能動受動が固定していなくて、どっちがやってるかわかんなくなっちゃう、みたいな。
伊藤 それは、なんというか、すごく上手に人に動かされるというのは、気持ちよさそうでもありますね。
新井 気持ちいいんですよ。だからきっとサーフィンなんかやっててね。気持ち良さそうにしてる人っていったようなあの状況なんじゃないかなと思って。全ての動きを能動的に作ってるわけじゃないんだけど、波っていう動きに自分が乗っかって、超バランス取りながら動いていく、みたいなああいう気持ち良さに近いのかなって。
伊藤 なるほど。一方で、そういう状態の体とちょっと違う角度の質問になっちゃうかもしれないんですけど、体のパーツによって筋肉の量が違ってきてると思うんですよね。最初は足が動かなくなって、だんだん手が動きにくくなっていう話があったと思うんですけど、そういう体の部位によって違いというか、それぞれの部位にする距離感みたいなものの違いはありますか?たとえば以前インタビューした方で、片足が先天的にほとんど動かなくて、もう片方の足はちょっとだけ体重を支えられる方がいるんですね。で、その方はその全く動かない方の足は杖と同じぐらいでかなり他人っぽいっていうふうにおっしゃっていて。逆にちょっとでも立てる方の足は、すごい仲間感があるみたいな風におっしゃっていたんです。体の部位によって、頼っている度合いが違うんですよね。
新井 意のままに動かせるところっていうのは、僕は今本当に首から上になっちゃったかな。こういうところは、動かせるから、僕の場合はそんなに意識しない。逆に動かないところのほうが、「わー、なんか今もちょっと足がじんじんしびれてきたな」とか、「肘とかもちょっと当たってるところが動かせないと、あ、痛くなってきちゃった」とか。痛みとか不快感の方で動かない部位は声を上げてくることが多いかな。
伊藤 なんとかしてくれみたいなメッセージが来るってことですね。
新井 いろいろ苦情を訴えてくるんだけど、脳みそさんから「わかりました。じゃあちょっと足痛くないようにしますよ」とか「そこちょっと動かして血行よくしますよ」とかできないもんだから。それだけ上がってきて「申し訳ない」って言う。で、ヘルパーさんに言って、「あのちょっと足もんで」とか言うわけだけど、それも他人任せだから。ヘルパーさんも家事援助も頼むわけですよ。ご飯とか洗濯とかも頼んだりしてます。忙しそうだなぁと思うと、ちょっと今言うの遠慮しとこうかなとかって、自分の体の声を後回しにしたりとかして。
伊藤 あーなるほど。うーん。
新井 排泄なんかもそうよ。おしっこも自分で立ってできないから尿瓶を使ってるんですけど、もう手で持てなくなっちゃったから、これも相手任せだし。大きい方のポータブルトイレなんで完全に相手まかせだし。このタイミングも、昔は、自分が行きたい時にさっと行ってスッと出してまた戻ってきた。今は「膀胱さん直腸さん悪いねぇ」っていう時ありますね。
伊藤 なるほど…逆に他の人の体も自分の体になっていくような感覚はあったりしますか?
新井 これはね、僕の性格もあるんだけどね…中にはヘルパーなんぞ顎で使っちゃえばいいんだ、みたいに言う人もいるんだけど、僕はあんまり得意じゃないんですよ、そういうの。「はい、おしことって。」「はい、飯。」みたいな短い言葉で全部自分のコマンドを伝えて、意のままにやってもらうように「しつける」じゃないけど、そういう方向の人もいる。だけど今のところ僕はヘルパーさんに助けてもらう経験がまだ一年ぐらいっていうのもあって、「すいません、お願いしまーす」とか「いいですかあ?」みたいな感じで基本はやってるんですよ。イライラして早口で捲し立てて言っちゃってる時は僕も不機嫌だし、向こうもすごい焦ってきちゃってるし。あ、他人を完全に自分の意のままに使うだけの方向はあんまり自分に合わないなと思って。だからあんまり自分の体の延長、手足に即なって、とは言いにくい。
ただ、最近思うのは、すごく気持ちいいヘルパーさんとの関係って、ヘルパーさん側が僕の体への想像力をすごく持ってるんですよね。例えば今こういう状態で一時間ぐらいいるから、右手が今しびれてるに違いない、みたいなことを分かってくれる人。僕が例えば「あ、ちょっと今おしっこしたいんですけど」って言ったら、なぜかついでに右手もマッサージしてくれる人がいるわけですよ。「なんで分かるの?」と聞くと、「まあそういうもんでしょう」とか返ってくる。
伊藤 よく、おしっこやうんちが出ると介助している方もすっきりする、なんて言いますもんね。
新井 あの、そういうフェチな人いますよ(笑)。鼻くそとか耳クソどれだけ取るか、とか。お年寄りとかお風呂に入れてた時は、へそのゴマをオイルで溶かしてすぽっと抜くんだって。それが私の趣味です、という人が私のヘルパーさんの中にいます。
伊藤 気持ちいいんでしょうね。最後にちょっとセンシティブな今後のことについて伺いたいのですが、ALSの患者さんはみなさん人工呼吸器をつけるのかどうかっていうことを非常に悩まれると思います。先日のワークショップでは新井さん自身はまだ決めていないとのことですが、そういうことは、どこか相談できるところはあるのでしょうか?
新井 話題が出るっていうことだけで言うと、医者との間では頻繁に出ます。うちは主治医と訪問医という二種類のお医者さんに関わっているんですが、主治医は一ヶ月から数ヶ月に一度くらいしか会わないんだけど、訪問医の方とは二週間に一度ぐらいの頻度で会います。近所のかかりつけで往診で来てくれるお医者さんみたいな感じなんです。この人たちの方が「新井さん、気管切開しますか?しませんか?早く決めてください」と言ってくるんです。例えば僕が呼吸苦しくなったっていう時に連絡が行って担当するのは主治医ではなく近所の訪問医なんですよ。で、彼らにとっては緊急になった時に気管切開をしていいものか、しないままほっとくべきなのかっていうのを僕や家族が意思表示してないと、応急処置できないから、早くしてくれっていう言い方です。「知ったこっちゃないよ」ってそういうときは思うんだけど、「もし明日倒れたらやってください、でも一ヶ月先は気持ちが変わるかもしれない。またそのとき話すから」って感じですね。主治医に関しては、切開するしないの問題にかんしてはあまり性急には答えを求めないですね。ときおりそういう話はするけれども、あんまり出てこないですね。ALSとともにどう生きるかという生き方全般に寄りそった相談が多い。
伊藤 気管切開をするというのは、「今日からしましょう」と計画してやるものではなくて、倒れたりしたときに緊急でするようなものなのですね。
新井 それはね、二つあって、緊急時にもうそのまま処置しないと死んじゃうって場合に、まあ四の五の言わず、医者はやった方がいいって判断をする。だけど、そうじゃなくて、だんだんと呼吸が弱まってきている場合は、前もって「このままだと半年後に自発呼吸がなくなる可能性があるからどうします?」みたいな話になる。そういう場合は結構事前に選択を迫られて決めると思います。そこで気管切開して延命しないって言った場合は、その残りの半年なりの間っていうのは、医者はモルヒネなどによる緩和ケア的なことをやるみたいなんだけど、そこがALSの場合、どの程度どういう仕組みでやっていくのかっていうのは、そんなにね、オープンに語られてないんですよ。
伊藤 なるほど。
新井 ALSの場合呼吸筋不全が死につながります。延命の手段としては、まず気管切開をして人工呼吸器の装着が必要、そうなると24時間見守りをしてくれるヘルパーさんもしくは家族が必要、視線入力で文字盤を使って気管切開で声が出なくてもコミュニケーションはなんとかできる、しかし最終的には目の筋肉も動かなくなって閉じ込め状態になることもある、閉じ込め状態になっても「殺人」になるので他人は人工呼吸器を外すことができない、環境が整っていれば五年生きた十年生きた、みたいな話は調べればネット上では出てくる。でも気管切開をしないで天寿を全うされるっていうことを選んだ方の情報はあまり見つからない。非常に不均衡なんですよね。
伊藤 そうですよね。直接当事者の方とコミュニケーションをとる機会はありますか?
新井 あります。この間、東京と現代美術館で展示をやったときに、当事者の方が二人見にきてくださいました。お二人とも気管切開された大先輩の方。これまたね、面白いんだけど、気管切開をした人で、情報発信している人は、ほぼ百パーセントに近く、気管切開を勧める。で気管切開をした人の中でも後悔をしている人も間違いなくいるっていうのはヘルパーさんからは聞くんだけれども、だけれども、そういう人は表には出てこない。
伊藤 うーん、そうなりますよね。
新井 気管切開をしていて、マスコミにも出たりとか、公の場で発信したりしている人は、これまた微妙なんだけど、治療法の一環として気管切開があるんだっていう言い方をする。間違ってないんですけどね。っていうのは、呼吸が苦しくなってきた、そのときに緊急に迫られなくても前もって気管切開をしちゃえば、呼吸の苦しさからは逃れられるわけですから。その方が楽だし、いろんな手段や制度を使えば、今は長生きとか延命できるよっていう話になるんです。でもその方たちはたいがい大変恵まれたヘルパーさんや、ヘルパーさんのネットワークを構築する努力もされているけれども、そういう能力や環境があるわけです。比較的人口密集地に住んでいたりとかね。
伊藤 なるほど。この前、東京に住んでいてさえヘルパーさんのやりくり大変だっておっしゃってましたもんね。
新井 あの…世の中の流れとしてこっちが絶対正しいみたいにはふり切らないで、ここはみんなが迷ったり思考したりする場所を残してほしいなと僕は思いますけどね。あんまり僕自身がALS代表になっちゃったりとか、難病の人の生きやすさのために社会を改善していこうとかって旗振り役になっちゃったりとか、そういうふうには自分は正直言うとあまり向いていないと思っていて。自分としてはなるべく自分らしく生きたいだけだったりするんです。なるべく表現や発信も続けたい。ま、その結果、他の人にいい影響があるんだったらいいけど、積極的に悪い影響は出したくない、くらいの気持ちなんです。でも障害福祉の問題を障害福祉の中だけで考えちゃうと、すごく狭くなっちゃうと思うんですよね。どんな障害や困難や苦痛があっても生き続けるのが善であるとか、生かし続けるのが善であるっていうのも単純に答えの出せる問題ではないと自分がそうなって感じます。かといって安楽死に振ったら、いまこの国では危ないと思うし、安易な制度化には私は反対です。制度やルールで一括して決めることはできない。すべて個別案件。だからこそ一人一人の顔が見える関係づくりが大事だと思うんです。いのちとどう向き合うか、そこに幅広い意味でのアートや表現の役割があると最近よく考えます。そこにこう、もうちょっとその人、その人のパーソナルな面白がっている部分とか、美しいと思っている部分とか、他人にとっては些細なことでもその人が大切にしている部分とか、そういう代替不可能なその人らしさが見えてくるっていうのが、僕は自分がずっと関わってきたこの表現の世界の面白みであり希望かなと思っています。
2024/9/18 zoomにて