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naoさん

naoさんは10代のときにダイエットをきっかけに摂食障害に。家庭や学業が思い通りにならないなか、体だけがやっただけ成果を返してくれる、支配可能な相手だった。ところが30代になって、とつぜん体が逆襲を開始。naoさんは心と体の関係を「妻を支配下に置いてきたDV夫」と「それに耐えられなくなった妻」にたとえます。共通の目的を見出せない他人になってしまった体=妻とどうやって関係を結ぶのか?摂食障害が体との関係の結び方の問題であることを教えてくれた、深く濃密なインタビューです。ものすごく面白かったです。


naoさんプロフィール

名古屋在住。6年前に大きく身体を壊してから、身体と自分との関係を改めて見つめなおすようになった。現在は仕事の傍らヨガや映像演技を通して見失った身体との関係を模索しつづけている。

 

 

◎体ってチョロいんだ、と思っちゃった

伊藤 ずっと名古屋にお住まいなんですか?

 

nao 生まれは奈良ですね。小学校低学年くらいから名古屋にいて、大学で京都に行き、就職で東京に行って、また14年くらいまえに名古屋に戻ってきました。

 

伊藤 どこが一番住みやすいですか?

 

nao 京都ですかね。建物の高さが揃っていて、山と川が見渡せて、道の幅も狭くて、サイズ感が落ち着きますね。

 

伊藤 名古屋はかなり都会ですよね。

 

nao そうですね。東京はもう無理でしたね(笑)。都心の真ん中に住んでいたので、夜になるとビジネスマンが散っていっちゃって、残される感じがつらかったですね。洗練された感じはするんですけど、隙間がない感じでしたね。汚れがないっていうか、雑な感じがないっていうか。

 

伊藤 ほんとですね。ということは、名古屋にいらっしゃる頃にダイエットを始めたっていうことですかね。

 

nao そうですね。思う存分しゃべっちゃっていいんですかね?

 

伊藤 ぜひ(笑)

 

nao 整合性がない感じになっちゃうと思うんですけど

 

伊藤 大丈夫です。

 

nao 奈良にいたんですけど、弟と妹がいて、弟が生まれつきの病気だったんです。助からないので、病院のために家族で名古屋に引っ越して。父親だけ単身赴任で奈良に残りました。母親も弟につきそって病院にいつづけていて、妹と私の父方の祖母の三人暮らしでずっといて、転校生だし、心細さと父母のいない家族を支えなきゃという責任感で一杯でした。そのストレスに加えて、高校受験でめちゃくちゃがんばって、高校に入ったとたんに燃え尽きたんですよ。結局第一志望に入れなかったんですけど、そういうときに、すがるよりどころみたいなもので、気軽にダイエットをはじめました。彼氏がちょうどできたというのもあったんですけど、なんとなく、自分の価値みたいなもの、あ、これなら自分でも自分をコントロールできるな、と。やったらやった分だけの成果がでるものが欲しかったんです。受験もそうじゃなかったし、家族もそうじゃなかったし、けっこうのめり込んじゃいました。

 

伊藤 ぽっちゃりしていたときの体重は覚えてますか?

 

nao 覚えています。55kgくらいだったと思います。

 

伊藤 となると、ぽっちゃりっていってもたぶん標準体型の範囲内ですよね。

 

nao たぶんそうなんでしょうね。でもそのときはすごい太ってると思ってましたね。

 

伊藤 運動もやられていたんですか?

 

nao 高校に入って剣道部に入りました。でも、剣道が下手で、マネージャーに移って、そこで彼氏もできて、剣道じゃないほうをがんばりだしちゃって(笑)。そのあいだに母が父と別れて、妹をつれて母が出ていくのに、私もついていきました。そういう中での高校1年生でした。

 

伊藤 めちゃくちゃ変化があって、自分の場所を見失いそうですね…

 

nao そのころは、気力はすごくあるんですよね、若いし。そのエネルギーを持て余しちゃって、ぜんぶダイエットのほうにそそぐことで、他のことのうまくいかない部分をカバーしていたような感じですね。

 

伊藤 成果が出るもの、という感じだったんですね。

 

nao はい。出るから余計タチが悪いんです。

 

伊藤 かなり計画的にやっていたんですか?

 

nao はい。すごい計画的にやってました。1日ほうれん草ひと束だけ、というのを何ヶ月もやっていて、おもしろいほど体重が減っていく。こんなに体ってチョロいんだ、という感じでした。いままでコンプレックスだらけで、家族のなかでは太っていると言われていたんですよね。勉強はがんばっても受験に落ちたりする、剣道もそうだし、家族もそうだけど、ダイエットに関しては、「これはおもしろいな」と思って。体は、こんなに近いっていうか、自分が訴えかければそのように応えてくれるものって他にないな、という感じでした。

 

伊藤 なるほど。体重は1日何回くらい量るんですか?

 

nao 朝と晩に量っていましたね。そんなに変わらないんですけど、さいごは利尿剤まで飲んでいました。あとあと、そういう経験をした人と話すと、みんな同じことやってたみたいなんですけど。

 

伊藤 同じような経験をした人とはどこで出会ったんですか?

 

nao 出会いは20代後半くらいになってからです。私のこの状態っていうのは、いままでひとりでどうしようどうしようと思っていたけど、同じような経験をしている人とつながれば、何か変わるかもしれない、と思ったんです。そのころは、「病気」という扱いが嫌になっていたんです。病気じゃなくって、そういうひとつのあり方として、もうちょっと前向きに受け止められたらいいなと思っていたんです。単なる不健康じゃなくて、食に対するこだわりという誰にでもあるものが、それがちょっとネガティブな表現になっているだけで、そんなに悪くはないものかもしれない、と思い始めていました。それは1人で思っているより、同じような経験をした人とつながったほうがいいかもしれない、と思って、自助グループみたいなところに関わりはじめたんです。でもそんなに深く関わったわけではありませんでした。

 

伊藤 10代のダイエットしているときは、やばい、病気だ、という感覚が自分の認識としてはあったんですか?

 

nao そうですね。病気という感覚はありつつも、それに対してそんなに拒否感はなかったです。むしろまわりに治そうとされたら困るな、というのもどこかであって。病気という名前はついているけど、自己表現みたいな感覚がありましたね。

 

伊藤 メールで、「おいしい」という感覚のなかに罪悪感があるって書かれてましたよね。何に対する罪悪感なんですかね。

 

nao 罪悪感はありましたね。食べることは「やっちゃいけないこと」なんですよね。それをやぶって食べるから、悪い感じはありましたね。

 

伊藤 なるほど。体重をコントロールする計画があって、食べることによってそれが狂うかもしれない、それを太ってしまうという「恐怖」と感じるのなら分かるんですが、なぜ「恐怖」ではなく「罪悪感」になるんですかね。

 

nao 恐怖といえば恐怖にもつながるのかもしれないんですが、自分を甘やかしている感じがしましたね。「甘やかすのはいいよ、でもあとで知らないよ」というメッセージを自分になげかけているんですよね。

 

伊藤 食べているのは、心が食べているんですかね。それとも体が食べているんですかね。

 

nao 頭ですね。

 

伊藤 それは〇〇カロリー摂取してる、みたいな感じということですか?

 

nao はい。全部頭ですね。それはいまでもそうです。これ食べたらお腹によくないな、とか。これならお腹にやさしいだろう、と。内容は違うけど、今でも頭で食べていますね。体で食べるということはないですね。ダイエットを始めた15-6歳のときから、体で食べている感じはないですね。

 

伊藤 栄養や健康について勉強して、その知識をもとに食べるということですか?

 

nao 勉強ってほどではないですけど、情報収集みたいな感じですね。それについて自分なりに考えたり、問いかけをするわけではないんですけど、やたらめったら情報を集めて、その情報に踊らされているわけで、勉強とは違う感じでしたけど、情報っていう鎧を着込んでいる感じでした。

 

伊藤 鎧を着た状態で、まわりの人が食べているのを見ると、どういうふうに見えるんですか?

 

nao …まず、すごく好ましいですよね。好ましく見えます。

 

伊藤 好ましい?そうなんだ。

 

nao やだ、とかではなくて。なんかすごく原始的な感じ、裏表がない感じがする。私にとって食べることって「裏」なんですよね。隠すようなことなんです。あるとき思ったんですけど、食べるところを人に見られたくないんですよ。今はある程度コントロールできていて、今日は人と食べる日と分かってれば、そういうモードで切り替えることは多少できるんですけど、基本的には1人で食べたいですね。

 

伊藤 それはダイエットをしてからですか?食べ方が汚いから、とかではなくて、食べることそのものを人から見られたくないわけですよね…

 

nao 食べる行為が、それぐらい自分の根本的な欲求とつながっているんだと思います。食べるっていう中には社会性もそなわっていると思うんですけど、私にとってはトイレにいくのと同じ、根本的な欲求を出している姿なので、人に見られたくないんです。快楽に直結していて、唯一すごく五感がはたらく時間という感じです。

 

伊藤 その根本的な欲求っていうのは、食欲ではないんですよね?

 

nao 食欲じゃないですね。

 

伊藤 裸を見られているみたいな感じですかね?

 

nao そうですね…裸になっていると思うんですよね。

 

伊藤 五感が解放されているというのは、最近の感覚ですか?

 

nao 最近ですね。最近、ごはん食べているときはこんなに感覚が敏感になっているんだなと思いました。昔はそこまで考えていなくて、なんか1人で食べていないとストレスがたまるなと思っていたんです。

 

伊藤 五感が解放されるというのは、具体的には食べたものの匂いとか、食感とかですか?

 

nao そうですね。匂いとか食感とか音とか。あと見ているものとかですね。先鋭化する感じですね。

 

伊藤 なんでですかね。

 

nao すごく内にこもってる感覚もあるんですけどね。自分の欲求をみたしているわけだから。自分そのものになっている感じがするんですよね。人間全般そうだと思うんですが、何かベールでつつむじゃないですか、人とかかわったりするときに。それを全部とっぱらうことができている瞬間だから、生身の自分がいる感じなんですよね。生身の自分がいるから、外に対しても、子供心に帰るじゃないけど、いろんな壁が取りさられているような感じがします。

 

伊藤 なるほど。それって食べているものの種類や、美味しさや、好みにあってる度合いで、変わりますか。

 

nao 変わるかもしれないですね。そう思ったことあります。自分で選んで、基本的に自分で好きなものを食べるんですけど、人と食べているときに、同じものを食べていると、違和感がなかったんです。人と食べているという感じが、けっこう薄まっていました。人と食べているものが一緒だと楽なんですよね。こんなに安心感があるのか、と思ったことを覚えています。

 

伊藤 おもしろいですね。ちなみにそのとき食べていたものはなんですか?

 

nao アイスクリームでした。片手で歩きながら食べるようなものでした。歩きながら食べていても、緊張が半減するんです。

 

伊藤 まわりに通行人がいる状態なのに、大丈夫だったんですね。

 

nao 全然ちがいました。注意が分散しているからかな…。じっと向かい合って食べるのが苦手なのかもしれないです。

 

伊藤 微妙にシチュエーションによって変わるんですね。

 

nao 変わりますね。でもなんであんなに同じものを食べていると安心するのかな…

 

伊藤 自分が食べていることに対して迷いがあったりしますか?これ食べていいのかな、みたいな。

 

nao それはもうないですね。

 

伊藤 なるほど。

 

nao 一番嫌なのは、私だけ食べていて、相手が食べていないという状態ですね。やっぱり排泄行為に近い感じがするんですよね。

 

伊藤 それは食べ物がどこからきたかによって変わりますか?友達がくれたものかどうか、とか。

 

nao それはあります。人からもらうのがすごく苦手です。私のタイミング、私の食べたいもの、というのが明確にあるので、よく人からもらっても、「あ、いまもらってもなあ」とか持て余すんですよね。置いておくのもしんどい。

 

◎体の逆襲

伊藤 やっぱりベースにあるのは、コントロールしたい、思ったとおりに物事が進んで、成果がみえてほしい、というところなんですかね。

 

nao ただそれが30代に入ってからダメになっちゃって。そんな調子で元気に動きまわってたんですけど、倒れたんです。いまも痩せているんですけど、当時はもっと痩せていて、とにかく元気で、いまから思えば気力だけで動いていたんです。働きまくり、ほとんど食べないし、偏食でってやってたら、ある日倒れたんですよ。シェアハウスに住み始めたばっかりだったんですけど、夜中に家でひとりで倒れました。倒れたといっても精神的なものでなんですけど。でもふたをあけたら医者がびっくりしちゃって。入院して、栄養治療みたいな形になって。普通は栄養治療くらいじゃ入院できないんですけど、知り合いがやっている病院で、特別ベッドが空いていて、希望して入りました。その時点で感覚が変わっていて、20代10代だったらぜったい入院したくないって言ったと思うんですよね。でももう観念して、たぶんそのころから意識的に、止まらないとこれだめだな、と思ったんです。

あまりにも体がしんどくって、一夜にして体が変わりました。それまで体が何にも言わなかったのに、「もうやれません」って。体が変わって心がびっくりしている感じでした。

 

伊藤 それは具体的にはベッドから起きられないという形ですか?どういう体の言い方だったんですか?

 

nao そうですね、ベッドから起き上がれないのはまさにそうだし、体が鉛みたいに重たくて、トイレに行くのもしんどいし、浮遊感があったり、過呼吸もよくありました。いままでだまっていた体が謎のメッセージをいっきに大合唱しはじめて、びっくりするじゃないですか(笑)。その瞬間、覚えています。それまでがんばりすぎていて、仕事しながら学校にも通いはじめていたんです。しかも転職期間中で、前の職場のひきつぎをしながら、新しい職場も慣れていこうとしていて、さらにシェアハウスに住み始めたばかりで。まえの職場もちょっと変わった方がいて、ストーカーのようなものを受けていたんです。よく考えたらすごいのがいっぱいそろっていたんですけど、そのときはなんでそうなったのか分からなくて、とまどったんです。

 学校に通って資格をとって、「あ〜、ほんとにこんどこそはちょっと休憩しよう」と思ったんです。家に帰って。そしたらブレーカーみたいなのがガコンと落ちるイメージがふっとわいて。それで、なんかけっこうだるいな、と思って。疲れたんだなあと思っていたら、その日を境に次の日からです。そのあとふらっふらになっちゃって。それで夜中に倒れて。看護師さんが私に「あなたもう30歳超えたからだよ」って言ったんですよ(笑)。32-3歳だったんですけど、そのときは「そんなことで?」と思って、そしたら「もう無理は効かないのよ」って言われました。そこから6年くらいは、ほんとにリハビリみたいな感じでした。

 

伊藤 体のブレーカーが落ちたときは、手前で休もうかなとは思っていたんですね。

 

nao 何回もたぶん思ったと思うんですけど、休まなかったんですよ、ずっと。ずっと10代からですね。

 

伊藤 休みが怖い、休み方が分からない、みたいな感じですか?

 

nao そうですね、休むってなんだろう、っていう感じですね。思い出せないんですよね。ぼうっとするとか、休むっていう感覚が、ほんとうに思い出せない。「これ終わったら休もう」みたいなことを頭で考えることはあるんですけど、いざ終わってみたらすぐ次のにとりかかっている。

 

伊藤 それってまわりの人から見ると、「しっかりしてる」「がんばりやさん」みたいに言われるタイプということですかね。

 

nao 言われますね。いろいろ任せられますよね。任されて、そのまま流されていっちゃうんですよね。本当にだめだったらやらないんですけど、どっか自分でもそれでいいと思っているところがあると、言われるままに、じゃあやろう、じゃあやろう、って。切れ目ないメロディをずっと奏でている感じで、メロディって次につながっていて、休めないじゃないですか。そんな感じのイメージだったので、休むっていることがよく分からなかったんです。

 

伊藤 そのときは、10代のときの、「病気だとしても治されたら困る」みたいな、表現としての病的な状態というとらえかたは残っていたんですか?

 

nao 20代までは残ってたんですけど、30代のガンっと来てからは、かえって慌てちゃって、「誰でもいいから早く治してくれ」っていう感じでしたね。気持ちいいくらい変わりましたね。怖くて。体が怖くて。すごい怖い。いつどうなるか分からない体になっちゃって。いきなり息止まるし。いきなりふわふわするし。いきなり鉛みたいになるし。これはもう体の逆襲だわ、ちょっと誰か助けて、と思っていろんなところに行ってみたり、ネットで調べたり、本を読みあさったりして、検査もうけたんですけど、異常なしで。神経系なんだろうなとだいたい当たりがついて。すごく悲観的になって倒れてから1、2年は本当にどん底でした。

まわりがあまり右往左往しなかったのが、今思えばありがたかったかなと思います。新しい職場も、上司にあたる人が、在宅でできる働き方でいいと言ってくれたり、「何それ大丈夫⁈」みたいな感じではなく、「そんなこともあるんだね〜」という感じで。私は重病で、人生どうなっちゃうんだろうと思っているのに、まわりがけっこう「みんないろいろあるからね」という感じだったんですよね。

 

伊藤 そのときは「大変さをわかってほしい」とは思わなかったんですか。

 

nao 思いましたね。 すごい病気なのにって。

 

伊藤 わかりにくいですもんね。血が出ていたり、手術が必要というわけではないから。

 

nao 見た目じゃわからないから、孤独感はありましたね。いま私こういうふうにしているけど実はけっこうしんどいんです、みたいな。3年か4年経ってきて、そういう自分のあり方がいやだなあと思いつつ受け入れられるようになってきて、似たような感覚をもっている人がちらっと現れたりしました。でもやっぱり一緒ではなくて。この感覚は私にしか分からない、というのはみんなそうなんですよね。みんな、体と心中するんだな、と思いました。

 

伊藤 体と心中?

 

◎DV夫と妻

nao 私はやっぱりDV夫なんですよね。被害者が体というのはすごく思います。そこが私の中では当たり前だったんですけど、みんなはちがうんだ、もっと一体感?があるというか…そんなに理解不能なものではないのかな、と。今までは、黙らせて、支配して、管理して、それが今度は翻弄されて。そんな関係ってみんながみんなそうじゃないんだ、ということを知りました。

 

伊藤 逆に体ってまわりの人からも見られていますよね。内側感じる体との関係もあるけど、外側から教えられる関係もあると思います。たとえば、写真を撮ると自分の姿を客観的に確認することになると思いますが、抵抗感があったりしますか?

 

nao 写真は…ダイエットする前はすごくコンプレックスだったんですけど、ダイエットし始めたあとは、全然抵抗がなくなりました。外からどう見られるかは、もう感覚が麻痺している気がします。

ひとつ印象に残っていることがあって。高校のとき、ダイエットをはじめようとしている矢先に、制服着て電車に乗っていたんですよ。それまで自意識過剰で、人からどう見られるかをすごく気にしていたんです。前にガングロギャルが3人座っていて、自分は1人で、見る場所がないからこっちのほうを一心に見てるんですよね。つくづく自分の、人の目を気にするこういう感覚がなくなればいいのに、と思いました。もっと全然違うことで頭の中がいっぱいになっちゃえば、人からどう見られるかなんて気にせずに済むのにな、ってすごく強く思ったんです。そのあとも、その瞬間のことをときどき思い出すんですけど、それが体とさよならした瞬間のような気がしていて。

それまでは外から見られることをすごく意識していて、体の感覚に対してももっと仲良くやっていたんですけど、体が他人になったというか、他人を意識するのが嫌なあまり、体を分離させて他人にしちゃったんですよね。それで、こいつを支配する、という形になった。そこでずっとやってるから、もはや本当の他人からどう見られるかはどうでもよくなってるんだと思います。そのあとダイエットをして、「叶っちゃったな」と思いました。体を管理することで頭がいっぱいだから、もう誰がどうしようが何を言ってこようが、麻痺していたんですよね。

今は別の形ですけど、やっぱり他者が体で。そんな自分ももう慣れちゃったので整理してとらえられてるとは思うんですけど、体はやっぱり他人で、今度は復讐を受けて「ごめんなさいごめんなさい」ってしてる感じ(笑)。でもやっぱり「ごめんなさい、じゃあこれはどうですか」ってやっても、体が「違う」って言ってそっぽを向いている感じで。やっぱり他の人や世界とのあいだに、体っていう大きい他人が立ちはだかっている。

 

伊藤 体が他人ということは、好きとか嫌いとか感じることもない、ということですか?

 

nao そうですね…好き嫌いよりももっとギクシャクしてる感じがしています。こういう風にしたらどういう反応返って来るんだろう、みたいな感じですね。 あ、全然違うの返ってきたな、とか。 

 

伊藤 それはお薬を飲んだりする、ということですか?

 

nao 体を良くしたいな、健康になりたいなって思ってやってることが裏目に出たりですね。 「今日は雨だから静かにしてた方が良いのかな、きっとだるくなるぞ」と思ったらやたら元気になったり、「今日は晴れだから天気いっぱい動いて体を健康に持っていこう」と思ったらものすごいしんどくなっちゃったり。 なんで?っていうタイミングでそういう反応が返ってきたりするんです。 

 

伊藤 なるほど。そもそも体の変化がすごく激しいってことですよね。

 

nao それはそうですね。変化に対して多分過敏でもあると思う。昔も多分波はあったと思うんです。でも体が声を上げたものに対して気づいてなくて。いまは声が聞こえるぐらいに気持ちが落ちて、さざなみ程度でも聞こえるようになったのかなっていうふうに思ってます。

 

伊藤 今日は外出するぞって思って外出したら、外出先でぐったりしちゃったりするわけですよね。そういう時はどうするんですか。

 

nao いろいろですね。薬飲んでみたり、横になってみたり、でもなんかもう大丈夫大丈夫って思いながら過ごしてるうちにだんだんだんだん凪になっていたりとか。でも「あーよかった」と思ったらダメだったりとか。何かそういう事を何年も経験してるうちに、こうならなきゃダメだって思ったり考えたりすることで体を説得してるなって思って。何とか私のこと聞いてよ、みたいにしていて、そのこと自体が、ちょっと違う次元なのかなって思ったりします。 いまだにやっぱり過去の管理型みたいなアプローチの仕方してるけど、もうそこじゃない次元で体が反応してる。

 

伊藤 日記書いたりとかするんですか。管理するとき、どんなふうに計画を立てるんですか。

 

nao 今はもう管理って言っても文章とかメモを取るほどのこまかい管理はないので、朝起きてヨガしたり体操したり、夜寝る前にもヨガしたり、朝昼晩だいたいこれぐらいのタンパク質をとって、とか仕事はだいたいこのくらい、とか…。夜は9時半には寝ます。

 

伊藤 けっこうしっかり計画がありますね。入浴とかはどうですか。

 

nao 入浴は家に帰ったらすぐに入ります。でも15分以内とかにしてます。

 

伊藤 時間を決めてるんですね。

 

nao そうですね、そうなんですよね、決めてから動くんです。それが管理っていうことですよね。

 

伊藤 だらしない時間とかはないんですかね。「こうやるつもりだったけど、まあいっか」みたいな。

 

nao ないですね。ダイエットを始める前はそういう子で、ぼんやりしていて、結構だらっとした時間が多い子だったと思うんです。 でも「やればできる」を獲得しちゃったっていうか。うまくいかなくなっても、そのやり方を手放せないんですよね。 

 

伊藤 例えば今うしろに絵がかかっていますよね。あの絵を細かく見ていくとフランスの紳士みたいな人のメガネが昔っぽかったり、細かくみていくといろんな発見がありますよね。そういう細部を細かく見ていくと、だんだんぼーっとしてきて結構時間がたっちゃったりすると思うんですが、そういう時間が日常のなかにあったりしますか。

 

nao 絵に関しては…ないですね。なんとなくぼーっと引き込まれるっていうのはないです。興味関心が集まっているもの、食べ物とかが立体化していて、ほかのものが平面になっているっていうか。エネルギーの配分がうまくいってないです。

 

伊藤 だからこそ食べ物を食べているときに五感がすごく開くんですかね。

 

nao ああ、そうですね。そういう事かもしれないですね。だから食べ物を食べているときに人から電話がきたりしたら絶対嫌ですね。全部切りたい、みたいに思う。でも絵が立体的に見える人ならきっと、絵を見ているときは誰にも話しかけられたくないと思ってじっと見るだろうし、それに近いのかなあ。

 

伊藤 ちなみに最近一番美味しかった食べ物、良かった食事は何ですか?

 

nao えっと…。 まあまあ美味しいなあって思ったのは、ローソンのタンパク質が10gとれるクッキーですね。お菓子でカルシウム乳酸菌タンパク質がとれるんですけど、ナチュラルローソンのコーナーが好きで、毎回入れ替わる度にチェックしてます。そのクッキーは、ほのかな甘みがして、小麦粉じゃない感じして、しっとりしてて美味しいです。 いつも「まあまあ美味しい」が最上級で、より美味しいものがきっとこの世にあるはずだと思うとワクワクします。もちろん、自分の手のとどく範囲でやってて、すごいグルメでもないし、開拓もしないんですけど。

 

伊藤 クッキーは家で食べるんですか?タンパク質ってお腹いっぱいになりません?

 

nao 食事の後にデザートみたいにして、普通に開けて食べてます。おかしなんで、ちょっとしか分量もないし。

 

伊藤 タンパク質をとるように心がけているんですか?

 

nao 3年位前に胃腸障害になっちゃって。自律神経の乱れから来てるっていうのは結局一緒なんですけど、ひどくならないようにするにはどうしたらいいかっていうのを考えた時に、 結局臓器って全部タンパク質でできているわけじゃないですか。で、そのタンパク質を今まであまりにもとらな過ぎたので、これをちゃんと取って体を作っていけば、症状は一緒でもでもそれに耐える体になったらいいなと思ったんです。それで運動をしながらタンパク質をとるようにやってはいるんですけど、これもまた体重が増えなくて、「そんなことで今さら答えてやんねーよ」みたいな答えがかえってくる(笑)

 

伊藤 体、けっこうツンツンしてるんですね(笑)。でも、一応反応が返ってくるってことですよね。

 

nao それは私が勝手に捏造してるメッセージですね(笑)無視ですね。「あ、そう」みたいな。DV夫の中には、妻に申し訳ないことしたと思う人もいると思うのですが、どうしたらもっと言うことを聞いてくれるかなぁっていう下心があって、状況を理解しているようで理解できてない男もいる。たぶん、そういうパターンなんですよね。やっぱり自分の心は、体がどうしたらまた元のように聞き分け良くなってくれるかなと思ってる。病院にいくと、そんなにそれを自分の中に取り込みすぎるなって言われるんですけど、私は罪悪感があるもんだから、体に対して気にするなと言われても、やっぱり気にするし、怖いし…。

 

伊藤 マッサージするとかクリームを塗るとか、物理的なアプローチを体にすることはありますか?

 

nao しますけど、なんかキョトンとしてますね。「何やってんの」って感じ(笑) 

 

伊藤 それは体を触っても物体を触っているみたいってことですか?

 

nao はい。DVされてた妻が「何今さら花買ってきたんだよ」っていう感じなんですよ(笑) 。「今さらあなたがそれやったってわかってるし」みたいな感じを受けます。

 

伊藤 なるほど。マッサージ屋さんとか美容師さんとか、他の人に体をさわられるのはどうですか?

 

nao 人に何かしてもらっときの方が気持ちがいいです。自分がやるより人がやった方が気持ち良いですね。

 

伊藤 他人のほうが許しているんですね。

 

nao そうですね。なんなら赤の他人でも受け入れていると思うんですよね。美容師さんとかでもすごいきもちいいなと思います。

 

伊藤 それは体が感じているわけですもんね。

 

nao そうですね。 

 

伊藤 ヨガはどうですか?

 

nao もう10年以上やってて、柔らかくはなったんですが、気持ちいいかというとそれほどでもないですね。ヨガって自分でやることじゃないですか。だから「何かやってるな」みたいな感じですね。

 

伊藤 電車の中みたいな、周りの人が自分の体大事に扱ってくれてないときはどうですか?足を踏まれてたりとか…。

 

nao 腹立ちますね(笑)。腹立つけど、頭で腹立ってる感じですね。DV夫も、自分のつれあいが、他の人にいじわるされていたらイラッとすると思うんですよね。

 

伊藤 なるほど(笑)

 

◎踊り方を忘れたムカデ

伊藤 心と体のほかに、 もう一つ「頭」っていうのも登場しますよね。これはダイエットをしてる時にいろんな情報を取り入れたりする役割だったと思いますが…

 

nao はい、司令塔みたいな感じですね。

 

伊藤 頭は心と体のあいだで中立なんですか?

 

nao やや心よりですかね。私の頭はご都合主義で。体が壊れるまでは本当に心の言うことしか聞かなくて、こうやって頑張ればいいみたいな感じで、心がそれにのっとって安心したりやる気出したりして、体のことは無視でいいみたいな感じだったんですけど、体が壊れてからは慌てて情報を集めてきて「おそらくあなたの体の場合はこういう声を出しているかもね」みたいな。ちょっとお役所みたいな感じですね(笑)。

責任は取らないけど言うこと言ってくるという感じで。まあ頭は騒がしいですね。ちょっとしたことでも、こうじゃないああじゃない、これはもしかしてこうなんじゃないかとか。「あなたががっかりしないように、こうしたほうがいいよ」とか、「あなたのやる気が出るようにこうしといた方がいいよ」とか、心を守るつもりで頭はおしゃべりなんですけど、体はそれで疲れる。頭がおしゃべりだから心が疲れちゃったりするのかなぁ、あるいは体の方がひょっとしてそれに疲れちゃうのかなとか時々思います。

 

伊藤 シンプルに言うと、体の声が聞こえない、というのが今の状態なんですかね。

 

nao みんな「もっと体の声を聞いて」とか言いますよね。あれが完全にファンタジーで。何のことを言っているのかよく分からないんですよね。ほんとうに教えてほしいです、どこから聞こえるのか。

 

伊藤 たしかによくよく考えると「体の声」ってよく分からないですね…。 私は吃音があって思春期とかはコントロールしなきゃっていうのがあったと思うんですけど、最初から負けが決まっている感じで、体が先にいっちゃうんですよね。そういう意味ではちょうどnaoさんの逆で、ものすごいカカア天下かもしれないです(笑)。

ただ、私にとって体は思い通りにはならない存在だけど、「他人」ではないですね。「ああ、この言葉言ってください」ってものすごくゴマすったりしてるし(笑)。naoさんの「体は他人」っていうのは、いちばん私の想像を超えているポイントかもしれないですね。

 

nao 共通項がないんですよね。友達でも夫婦でも、他人じゃなかったら共通項ってあるじゃないですか。そういう重なりがなくなっちゃった。 共通の目的もないし、共通の趣味もないんです(笑)。

 

伊藤 体は心にとっての乗り物ではないんですか?

 

nao 乗り物ではないですね。乗るには、今の体ははかなすぎますね。ちょっと距離を置かれて遠巻きに見てる誰か、みたいな感じですかね。私が体に対して押し付けてきた無理難題って、何千何万個もあるわけじゃないですか。その命令が思い起こせばもう何十年分もあるわけで、それに体は必死の思いで耐えてきたな、っていうのもわかるので、はかないですね。もう飽き飽きしてるっていうのもなんかわかる。でもどうしたらいいかわかんない。

私は何か幻想を抱いているんですかね。一般の人っていう言い方もよくないかもしれないですけど、大部分の人は体が他人とも思わずに生きていて、私のように、どうにかしてまた体と出会いたい、と思っているわけではないのかな…。人生をやっているっていう共通の目的に向かって生きていこうとしているのに、片方がもうやる気をなくしているというか、ことごとく右に行こうとすると左に行くような感じだと、だんだん目標も覚束なくなってくるんですよね。夫婦でも向かい合っちゃうとうまくいかないじゃないですか。あんな感じで、ずっと向かい合っていて、その間にも時間は経っていくよね、みたいな感じで。だからもう一回同じ目的を持てば、一緒に向かっていくこともできるのかな、でももう私の体っていうパートナーは、ちょっと離れてこっちを見ているだけで、一緒の方向を向こうとはしてくれないのかな、と。それが私だけの感覚なのか、少なからずみんなそういう感覚を持っているのか、分からないんですよね。調子が悪い人に話を聞いても「まあ、そんなもんか」という感じで、安心して一緒に歩んでいる感じがするんです。「夫婦で今日喧嘩しちゃったけど、まあ、このまま家族として一緒にやっていくことは言うまでもない」っていう感じなんでうしょうね。

生きていくっていうことは何なのか自分なりに掘り下げたら腑に落ちると思うんでしょうけど、ずっとどこかでそれを見失ったままなんですよね。ダイエットするころまでは明確にそれがあったんですけど、いまはどこかで迷子なんですよね。だから管理しようという意識がよけい強くなっちゃう。

 

伊藤 『記憶する体』に登場していただいた森さんという方が、長いこと幻肢痛と一緒に生活をされていて、VRで痛みが消えたときの経験を話してくださったんですが、彼は関西に住んでいて頻繁にはVRができないので、VRの記憶がなくならないようにいろんな努力をしているんですよね。でも彼の努力は、努力してVR内の手と同一化して痛みを感じなくなることではなくて、努力しなくても、つまり意識しなくても、手が痛みを感じなくなるということなんですよね。「意識しない」ということがかなってはじめて「自分の手」になる、というか。そのあたりがnaoさんと似ているなと思いました。

 

nao 踊り方を忘れたムカデの話ってありますよね。「すごく上手に踊るね」って言われて、そういえばどうやって踊っているんだろうって思ったら踊れなくなった、という話。あんな感じで、頑張って研究してどんな素晴らしい踊りをしてたかを再現できるようにしたとしても、それがゴールじゃないんですよね。食べ物もそうで、ダイエットをする前の、自然に「お腹すいた〜」って思って食べていたころには、戻りたくても戻れないんですよ。意識するっていうのは…一回そっちに行くとなかなか戻れないですね…。 どこかで目的が舞い込んできたら、自然と、意識しなくてもやっていけるのかな、と思うんですけどね。 

 

伊藤 いまはお仕事はそんなに追い詰めるような忙しさではないんですよね。

 

nao 経理なんですけど、好きなタイミングでできるっていうので、渡りに船で、そういう状態でもやらせてくれるならやりますみたいな感じでやっています。頭の世界ですよね。

元々映画が大好きで 体調崩してから余計、最初は体が動かなかったので、テレビばっかり見ていて。ドラマや映画を観ているうちにこういう作品作りに関われたらいいな、と思うようになりました。言葉で何かを言われるよりも、そういうもののほうが深層にとどく、その力はすごいなと思って。それでちょこちょこ、自分の体の許す範囲で、自主製作映画の端役をやらせてもらったりとかしています。でも何か怪しい役ばっかりなんですよね(笑)。

 

伊藤 それは新しいですね!やってみてどうですか?

 

nao おもしろいですね。自分じゃないものになれるっていうのが、不思議とそういう時は体が何も言って来ないんですよね。違う存在になってる。

 

伊藤 へえ〜。吃音の人も演劇をやる人が多いんですよね。体との関係を結び直すことと演じることって何か関係しているのかもしれないですね。

 

nao やっぱり「ほかの人を生きる」っていう目的があるからですかね。情緒まで決めてくれる(笑)自分で考えなくていいんです。

 

@2022/5/31 名古屋駅近くの喫茶店にて