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森一也さん×チョン・ヒョナンさん

2021年1月、『記憶する体』に登場してくださったみなさんとのオフ会をzoomにて開催しました。参加してくださったメンバーの中から、森一也さんと鄭 堅桓(チョン ヒョナン)さんのスピンオフ対談が実現。他のメンバーもちょっとだけ参加しています。マシンを前にした戦略家・森さんと、戦いを手放して体に話しかけるチョンさん。タイトルは「沢蟹とアッパ」で。


森一也さんプロフィール

幻肢痛や体のいろんな痛みと脳の研究活動家(当事者サイド)

平成2年(17歳)バイク事故により左腕神経叢引抜き損傷で左腕半分と指が麻痺する。アメリカ留学から帰国後、IT系プロジェクトを遍歴し、ウェブデザイナーとして独立。26年目、左腕神経叢焼灼手術後、能動的な研究とリハビリをライフワークにし現在に至る。

 

鄭 堅桓(チョン ヒョナン)さんプロフィール

1970年千葉生まれの在日朝鮮人3世です。12年前に慢性炎症性脱髄性多発神経炎発症(CIDP)を発症。元看護師で現在は専業主夫です。在日で難病と障害者といった自分のダブルマイノリティーの特性を生かして時々病院や学校等で話をさせてもらっています。

 

◎痛みの信号をジャミングする/備わっちゃった

森 今年はなんか変な冬じゃないですか。気圧の下げが、1日空けて、2日下げるんですよ。僕の場合は2日前にその下げを感知するので、ずっと毎日が2日前なんです。だから痛みとしては10のうち8とか9が、もうかれこれ1ヶ月近く続いていてて、なかなかのグロッキーなんですよね。今日はちょっとあまりにもひどいので、午前中は病院で点滴を打ってもらって、とにかく寝てきて、それでちょっと復活して。でも脳が起きないんで、朝もなんかもう左足が手羽先みたいに固まって曲がってるんですよ。物理的に動かない。でもいまは読経して脳を起こしてきたので、たぶん大丈夫です。大丈夫であることを願います。

 

伊藤 なるほど…あんま無理しないようにしましょう。

 

森 大丈夫ですよ。 絶対、今日に合わせるつもりだったんで(笑)

 

伊藤 ありがとうございます。

 

西島 あの森さんに1つお伺いしたいことがあったんですけど…なんの万年筆をお使いなんですか?

 

森 えーとパイロットです。

 

(しばし西島×森の文房具トーク)

 

森 僕にとって「読むこと」は「書くこと」なんですよ。まあ丸写しは出来ないとしても 、摘録をすると、本に書かれたその人の痛みとかが、完璧にはわからないですけど、入ってくるものがあるんですよね。本当はここすごいのに読み飛ばしてるとかっていうのがあるんで、「あれ?」と思ったときには書くんです、とりあえず。そうすると、ちゃんと入ってくる。いや、『記憶する体』の摘録をやってるときね、非常にしんどかったですよ。皆さんの想いとか、何気なしにおっしゃってることかが、「やっぱりすげーな」という感じで。本に登場する皆さんと組手をしたいと思ってましたね。

 

伊藤 チョンさんは字は書くんですか?

 

チョン 僕は病気のせいで、鉛筆を持つと手がこわばるんです。太いものは大丈夫なのに、細いとこわばって、そしてそれが激烈に痛いんですよ。あと震えちゃう。だからあんまり書けないんです。パソコンだと、字は打てるんだけど、文章が浮かんでこないんですよね。だからメールとかいつも困っちゃう。下書きしています。

 

森  すごくわかります。チョンさんとは違うかもしれないですけど、ぼくはパソコンだと光にやられちゃうのか、情報量が多すぎて何も浮かばないんですよね。なので字を書くんですけど、鉛筆は細すぎて持てず、パーカーとかは太すぎで、パイロットに落ち着きました。亜紗先生も覚えておられるか分からないですけど、僕はマグカップくらいのものは震えずに持てるんです。なんだけど、お猪口を持った瞬間に全部こぼしちゃう。

 

伊藤 なぜ太いと持てて細いと震えちゃうんですかね。

 

森 三点確保なのかなと思っています。指や親指の付け根をコップにつけてバランスをとりますが、その三角形が小さくなると、力が入らなくなるんですよね。2016年に、頚椎をあけて神経を焼くドレッツという手術をしました。そのころよくシューティングペインというバーンと走る激痛があって、ちょくちょく気絶していたんで、これはまずいということになって。それで手に通じる神経を焼いたんですが、その真下に足の神経が走っているので、熱が移っちゃうんですよね。それで3か月後に、手と足にまるでずっと細かーい針のサボテンが触っているような感じが来て、机とかに手をつくとバーってなるんですよ。それでものが持てないし、足をつくと立てない。それはまだ猪俣氏に会う前ですよね 。

それで阪大に入院して、テストモンキーになって色々やってたんですけど、ちょうど3か月経ったときに、夜中に足が熱くなって、寝られないんですよ。飛び上がるぐらい熱い。足の裏が熱くて、徐々に左側の足の外側が同じような痛みになってたんです。

あのー、なんて言うんですかね、外からの刺激で、痛みの信号ジャミングするっていう考え方があったので、泣きながらダンスダンスレボリューションをやってました(笑)。それで、半年ぐらいでそのサボテンの痛みがなくなったんですよ。泣きながらこうやってずーっと毎日テーブルを叩いていました。で、そのサボテンの上を歩いているような感覚は取れたんですけど、夏になりますよね、そうすると夏は熱いし、冬はもう氷の針の上のような感じ、あれはまだ残っています。頚椎のCの6、7とT1のところの手に通じる神経を焼いたのですが、足にも影響が出て、玉砂利の上を歩いているような感じなんですよね。で、どこを踏んでいるかわからないので、年末の15日に階段からずたーっと14段落ちて、しこたま尾てい骨を打って、尾てい骨がちょっと曲がりました。その後もこういう気候が続いてるんで、胃液がジャバジャバ出て、とうとう痔になり、今おしりが呪われている状態ですよね。

 

伊藤 なるほど。チョンさん、いかがですか。そもそも痛みの話は、共有できるという前提で話さないほうがいいのだろうと思いますが。

 

チョン ぼくは今笑ってみんなと話してるんですけど、こうなるまで7年ぐらいかかっていて、やっぱり最初の頃の自分を思い出すと、相当狂っていたなって思います。でもなんで今こうなのかな、痛み自体は何も変わってないのに、と考えていくと、前回の『記憶する体』オフ会のときには、「添う」って言ったんですよね。でもあのあともう一回辞書で調べてみると「寄り添う」って「共感してそばから離れない」みたいな意味合いがあったんだけど、痛みなんか共感できないし、一緒にいてほしくもない(笑)。まあ職業病なのか、ついそういう言葉を使ってしまうんですが、あれこれまた考え始めてみると、なんか今森さんが言ったみたいに「むりくり体をこなしてる」っていうふうでも自分に関してはないんです。なんかもう「備わっちゃった」みたいな感じ。この病気によって得た痛みが自分の中でも備わって、一体化したんですよね、しっかりと。

前は追い出したくて、外に追いやりたい一心で薬試したりとか、痛み取るために何とかこうできないかっていうのがあったんだけど、なんかそこを抜けちゃったら、もう体の一部になって、今やなんだろう、うん、痛いのは痛いんだけど、うん、つらいんだよねえ(笑)。だから僕は、同じ病気だったり痛み抱えてる人の場で、痛みを必死になんとかしようとしている人の前で、「僕の痛みはいいんです」みたいなことを言うことになるので、なんかちょっとおかしいというか、この前のオフ会のときも「おかしなこと言ってんな、俺」ってちょっと思いながら話してたんです。でも実際そうなんだよな、やっぱり(笑)。

備わってない痛みに関しては、ダメなんです。手をぶつけて痛いのとか、歯が痛いのとか、対処できない。でも元々ある痛みに関しては、痛いは痛いんだけど、何だろう(笑)?

 

森 なんかわかりますよ、おっしゃってること。

 

チョン 寄り添ってはないなーって。 添え物ではないかな。『記憶する体』の森さんの章を読んでやっぱり思ったんですけど、何とかこう「無くす」っていうよりも痛みを外材化したり違うものに喩えたり何とかこう形を変えて向き合おうとしてるっていうのは、僕がナラティブで語るっていうのと共通してると思うんです。それが、「和らげる」っていうのが合ってるのかな…難しいですよね。何も変わってないわけなんだけど。

だから不思議なのは、僕は幻肢痛ではないけどものすごいしびれがあって、足にハイヒール履いてるみたいな感触がずっとあるんです。実際ハイヒールなんかないわけですよね、みんなと同じ平らな足なんだけど、でも歩くとおぼつかない。不思議な体だなあって改めて思います。何なんでしょうね、7年前の自分と出会ったら「お前ほんと頭おかしいよな」って言ってあげたい。でもあのときはそれが多分必要だったんだと思うんですよね、ちゃんと「狂う」っていうのが。

 

森 そうそうそうそう。ぼくも結局、これとどう向き合うとかという中で、とにかくもう考えを止めようとしました。それで、「動物になります」って言っておにぎりを持ってどっか行くわけですよ。あれはもうどうかしてる行動なんですよ。もうとにかく、人とか親とかの前で気を使いながら苦しみたくないと言うのがあったんですよね。「苦しみ放題」みたいな。「パケ放題」じゃないけど(笑)。苦しみ放題で「俺が苦しい」って言うことをちゃんとやっぱり言いたかった。でもまだ人と共有できる余裕もないんで、裸の大将じゃないけどおにぎりを持って、山の中に入って、寝て、魚を捕って、焼いて食って、とかっていうこともやってましたね。

 

チョン 森さんを偉いなと思うのは、ぼくは家族にもぶちまける感じでした。最初はすごい我慢していて、 それまでにやってきたこととかもあったので「自分が泣き言を言ってどうするんだ」みたいなのがあったんです。それをパートナーが見かねて「いや辛くなるのは当然だし」みたいなことを言ってくれて、それで一回ばーって感情をあらわにして。そこから、家ではすごくむきだしだったと思うんですよね。でもそれに対して、周りが「かわいそう」というような態度ではなかったんですよね。僕が痛みでもがいていて、病気で体がおかしくなって、何もできなくなっていても、「本当にそうなんですか」みたいな返しがあって、それがいつもこたえるっていうか(笑)。僕が頑張って抵抗してもとの体になってもう一回看護師として働きたいと思っても、家族は「それは無理だよね」って感じなんです。だからきちんと絶望できた。「頑張ればきっと元に戻れるんだからしっかりリハビリ頑張ってね」だとまた違ったんだと思うんですけど、うちの場合は逆だったのが良かったのかなと思います。前に戻れないんだっていうのをわからせてくれたんで、きっちり絶望させてくれて、それで生き直せた。痛みがあるから自分がしていたことが少しもできなくなるのかっていったらやっぱりそうではなかった、というのを少しずつ経験していったのがやっぱり一番大きかったと思うんですよね。

 

森 『記憶する体』のチョンさんの章を読ませていただいて、ご自宅の様子がありありとこうわかるような感じなんですよ。 同じくうちの母親も「そんなに辛いなら一緒に死んでやろうか」って言ってたんですよね。それで「なるほどな」と思いました。俺が死ぬとこの人も死ぬんだ、と。まあ多分生きるだろうけども 屍のように生きるんだろうな、と。それは食い止めなければいけないと思いました。それで、同情の「大丈夫」とかではなく、ある程度ほっといてくれたっていうのがあって。「野生化する前に帰っておいで」とか。山に行くと言っても樹海に行くくらいのレベルだったので、「人間って野生化するらしいよ」みたいな突き放し方だったんですよね。普通の人のように生きるのはもう無理なんだ、と。そこを潔く生きろよ、と。そう自分で思ったのが20代半ばかなあ。

日本にいてはちょっと潰れると思ったんで、アメリカに留学というか遊学していました。いろんな障害の人がやっぱり普通にPhDを持ってるわけですけれども、自分は学問以上の事をしなければいけない、と思いました。それで1年ちょっとで帰ってきて、日本で全部壊れた秩序をもう一度作ろうとしました。しっかり絶望しなければいけない、しっかり諦めないとダメだと。ガールフレンドができたりして、ああこの人なら結婚してもいいなみたいなところがあったんですけど、自分が父親なら手塩にかけて国家試験に受かり、看護師になった娘をやれない、って思ったんですよ。それはまあ本人達が決めることではあるんですが、もうこの痛みからして、何というか、うーん足手まといだろうと いう感覚がすごくあって。 逆からいうと、苦しみをちゃんとその表に出したい、いつかこれと刺し違えて死んでやる、みたいなレベルの感覚があり。あきらめるのも、未練があるあきらめではなくて、明らかにするあきらめなんですよね、明るい方のあきらめ。もう正直に、だめをこじらしたんだ俺は、と言うことで、じゃあ人生捨てようと、人間やめよう、と。

それで、チョンさんがこの前「こうやって笑って話してるけどめっちゃ痛いんだよね」という言葉を発せられた時に「わー」って思って。 1年365 日1秒たりとも痛くないときはなくて、「同じだ」と思いました。何だろう、ぼくは後遺症でチョンさんの場合はご病気なんだけど、ああやっぱり同じことばになっちゃうんだ、追い詰められた後に講演をされたり 人前でいろんなことを話される中で、「この人は乗り越えたんだ」とか思われながらも、そういう雰囲気のなかで自分を育てた、育て直したということはありますよね。

 

◎自然と家族

森 チョンさんは発症が2006年ですよね。人の前でしゃべれるようになるまで何年かかられましたか?

 

チョン 人前でしゃべれるようになったのは、7年ぐらいからですね。最初に病気になった時に保育園の時の恩師みたいな人に、実は私も難病を抱えて働いてるんだよ、7年かかるからって言われたんですよ。「10年」と言われたら普通なんだけど「7年」と言われたらなんかすごく信憑性がありますよね。その言葉を別にそれを意識していたわけじゃないんだけど、あとから年数をみたら7年でした。

痛みって、ものすごくパーソナルな個人的なものだと思うんですよね。やっぱり自分の痛みは他者にはわからないし、なんでわからないんだ、みたいなのが最初やっぱりすごく強かったですよ。周りが笑っているのが許せなかったです。だけど今思うと、一緒には苦しめないけど、その痛みに対してなんとかしようというアプローチは、僕の周辺、子供を含めて、あったんですよね。盗癖もしかしたらそうなのかもしれないし、僕の痛みに対して各々アプローチをしようとはしてたんだと思うんですよ。そんな中で「自分だけこんな辛い思いしてるんじゃないんだ」みたいなのがだんだんわかってくる。

下の子の盗癖は大変でしたね。始まりが保育園だったんだけど、一度おさまって小学校 4年から復活して、あとは過食があったと思うんです。その抱えてしまった痛みの回復の過程をまじまじと見てたら、それに影響を受けましたね。自分の子供なんだけど、客観視して「なるほどなー」って思いながら、多分なんか自分と重ねてたりもしてた。あとは亜紗さんが東大で誘ってくれたのも、大きかったと思います。改めて痛みってなんだろうなって考えた時に、僕はもう生まれた時から、在日っていうところをとれば、ずっと大丈夫じゃないところを大丈夫なふうに生きてきたっていう過程がだんだん見えてきた。痛みが自分の中でも色々分散できた。昔からずっと痛みがあった生き方をしてたわけで、そっちの痛み、こっちの痛み、あっちの痛み、みたいに分けたらこの病気の痛みがなんかすごいちっちゃい存在に思えたんですよね。だからなんか、「いてもいいよ」みたいなところに、その時考えがいたったんです。そうしたら、すごく楽になりました。

 

森 ああ、子供さん達に過食や盗癖のような、世の中で言うところのネガティブな感じが出たっていうことと、ご自分の痛みとそれに対する理解とかがリンクした、ということなんですかね。

 

チョン 家族もやっぱりいろんな痛みを抱えながら社会生活を営んでいるわけですよ。僕だけが病気になったから僕が1番つらいんだ、みたいなのはやっぱりちょっと通用しないよね。そこは天秤にかけられないっていうか、痛みの度合いっていうのを「誰が1番つらいのか」っていうのはちょっとおかしい。盗癖は、やったこと自体は許されることではないけれど、そこに至る経緯だったりその行為自体は僕は必要なことだったんじゃないかなと思うし、それをきちんと子供にも伝えてます。

あるとき、下の子が万引きしてたスーパーが工事で解体作業してたの見て泣いて帰ってきたんですよ。自分が万引きしたせいで潰れたんじゃないかって。その少し前にニュースで、万引きが多くって本屋さんが潰れたっていうニュースを見たらしくて。ほかにもテレビで万引きGメンとかが出てくると動悸がしたりとか、抱えたことで日々の生活の中で今までなかったような変化があるわけじゃないですか。最初はそれを表に出したくないっていうか、なきものにしたいっていう本人の思惑があるんだけど、そんなわけにはいかないですよね。ふたをしようものなら、やっぱりどこかで引き出しもまた出てくるわけなんで。それでその記憶を消すことよりも、その痛みとどう向き合っていくのかっていうところに向かっていく。テレビとか見てても「なんで自分がこんなことやっちゃったんだろう」の問いから「あの時どうしたんだろう」みたいな問いへと本人が変わっていって。

例えば運動会とかで親子レースみたいなのがあったりすると、自分は父親と走りたくてもできないわけですよね。それで帰ってくると「一緒に走りたかったなー」みたいなことを言って、その後に自分で泣いちゃうんですよ、ひどいこと言ったって。全然、当然なことなんですけどね。やっぱり家族は限界があるから外で吐き出せるように、いろんな事お願いしてたんです。テレビで病気が奇跡的に治るみたいなことをやっていたときにも、ふと僕に「アッパ(お父さん)には申し訳ないけど、奇跡は起こらんでいいと思ってる」って言うんです。なんで、って聞いたら「今がいいから」みたいな感じで。段階があって、見ていて面白かったんですよね。すごくよかったのは、長男も万引きだったんで、うちは家族で万引きの自助グループができるんですよ(笑)。食事中にそういう話が出て、その会話が面白くて。「覚えてないんだよね、あの時記憶がなくて、どうしてうろうろしちゃったんだろう」「あれ不思議だよね、気づいたらカバンいっぱいに入ってる」とかいう会話をしてて(笑)、ああ面白いなあと思って聞いてるんです。過去のいろんな辛い出来事って、忘れることがゴールではないから、子供たちもそう思ってくれたのがすごい良かったなあっていうのをまじまじ見て、そうしたらなんか自分がちっちゃいなーっていうふうに思えてきました。それが大きいと思います。

 

森 これはすごいことですね。僕は周りに人を寄せ付けなかったタイプなんですよね。人に気を使いながらまだ苦しむのかっていうのがあまりにも重すぎて、とにかく人から離れよう離れようという感覚があったんですけど、チョンさんの場合は既にご結婚されていて、お子さんもお持ちでっていうことで。やっぱりね、お子さんが「アッパがそのままで良い、奇跡は起こらなくていい」っていう風に言えるところまで、やっぱりアッパは成長はしてるんだろうなと思うんですうよ。本を読んで、一番腹が座ってるなあと思ったのは奥さんですよね。(摘録がしてあるノートのページをめくる)チョンさんの章は書いたページが多くてね(…) そうそう、この奥さんの「病気になって良かったね」「箔が付いてよかったね」という発言。これね、うちのおふくろも言ったんですよ。不思議だよね、なんでそんなふうに周りが言うんだろう、その言葉、どうかしてるんじゃないかって(笑)。「お前は学もなくどっかのいい大学に入ったわけでもなく、ぷらぷらぷらぷらしてるけど、なんか研究しててだんだん箔ついてきたじゃん」というようなことを、おふくろが言うんです。どっかに行ってしまう僕の背中を見てやっぱり苦しんでたんだろうなと思うんですよ。何もできない自分っていうかね。

僕は川と山があれば苦しみ放題だから、とにかく自然があると大丈夫なんですけどね(笑)。たぶん、僕なりにロゴスとピュシスのバランスを取りに行ってたと思うんですよ。そしたら、なぜ雨が降ると痛いんだっていうことに気づき出して。 すごく雨を嫌っていて、雨がザーザーと降ってくる鉄砲水が危ないので、とりあえずその川から上がって農道というか山道に入るんですよ。そしたら沢蟹が、もうここぞとばかりに移動するわけですね。クリスマス島のようなレベルで道が真っ赤になってるんですよ。それを見て「ああ、雨って生物に歓喜の行進を与えるんだ」と思って、その瞬間に雨が悪いわけじゃない、何が悪いんだろう、と。それで気圧に注目するようになりました。簡易の気圧計を自分で買って、値をノートにとっていくことで、やっぱり気圧が低いときに痛いんだ、ということが分かりました。じゃあ、気圧をサーフィンすればいいんだ、と。そのサーフィンの仕方はこれからどんどんわかっていくんだろうなとは思っていましたけど、20年近くかかったかな。

KIDSの猪俣一則さんが28年目の僕に会ったときに、目がもう飛んでいて、「こいつを助けてやらなきゃいけない」と思ったらしいんですよね。でもぼくからすれば「ようやく戦わせてくれるフィールドをくれる人が現れた」という感じだったんです。それまでは、 ただ戦場に出られないまま、ずうっとひとりで竹槍だけ構えた兵隊みたい気持ちだったんで「長かった!」って3回ぐらい言ったんですよね。今25年目ぐらいで畿央大学で幻肢痛緩和をやっている大住倫弘先生のところに来ようかなって言っている方がいるんですが、なんか治ることは諦めているんですよね。ちょっとでも後世に何かが残せれば僕はいいんだ、と。僕からしたら25年目くらいが夜明け前が一番暗いんですよね。今までも暗かったんだろうけど、いろんなことを知り勉強してだんだん整理がついたんだけど、まだ心がそれを受け入れて能動的にアプローチをするまでには至っていない、というのがすごくわかるんです。

必要な時間というのが絶対あるんですよね。部位の大きさとか症状によって変わってくると思うんですけど。僕も今年で31年目になるんですけど、思い出すと段階があって、10年目でもまだまだ能動的に何かをするっていうのはちょっとしんどい感じだったと思うんです。だから7、8年でもう能動的になっている人っていうのはすごい人だな、全部吐き出せたのかな、痛みは変わってないんだけど痛みの受け止め方が変わったんだろなと思うんです。

 

◎運転か対話か

伊藤 そのあたりの変化を身体感覚的にも伺いたいです。自分が痛みの塊になってる時って、たぶん外側から情報がほぼ入らないか、強引に入れないと入らない感じだと思うんですよね。自分の輪郭じたいが変わってしまう出来事というか。たとえば手が痺れているときにテーブルをさわると、テーブルを感じるんじゃなくて手を感じてしまうんじゃないかと思います。テーブルにたどり着けない、テーブルが遠くなってしまう、というか。それがどうやって外の世界に開かれたのか、最初に外の情報が入ってきたときのことを、覚えていらっしゃるならうかがいたいです。それと、痛みを経由することで、自分の輪郭みたいなものが前とどう変わったのか。この前のオフ会のときに、森さんが、電車の中で知らないおばちゃんの体も自分の体に感じることができるようになったとおっしゃっていて、輪郭の書き換えみたいなことを、意識的に起こしたり、あるいは自然にそうなったりしたんじゃないかと思うんです。

 

森 脳について勉強するまでは、なんで眠いのに眠れないんだと思っていたんですが、要は寝たら心肺の動きと何かあった時に戦うか逃げるかを決める原初的な部分だけが活動しているらしいんですよね。ゆえにすごく痛い。だから僕は逆を考え出したんです。星飛馬みたいなスポコン物の感覚で、痛かったらとにかくジャミングをかけろ、妨害電波だ。みたいな感じ。自分の中で情報戦をやっているような感じなんですよね。痛みという相手が編隊を組んで攻めてくるんだけど 、妨害電波を出すことによって相手の会話をさせない、みたいな。それでホーミーみたいな感じで声を出して唸って共鳴させていました。最初はただうなっていたのが読経をし始めたんですよ。それで写経をして覚えて体に入れて、30分ぐらい読経をしていたのが最初だったんです。

 

伊藤 声を出す時の、内側から感じる振動と、耳から聞こえる音がリンクするような感じですかね?

 

森 そうそう、自分のなかから「情報を回す」っていうんですかね。そうやってようやく外部との接触ができはじめました。だから「テーブルにたどり着く」っていうのは、やっぱり中からちょっと助けてあげないとダメで、「痛みがあるのに何でこれをやらなければいけないのか」というんじゃなくて、「痛いからやるんだ」みたいなこう考え方に変わっていったんです。それで眠ると痛いんだということがわかり、でも寝なくちゃいけないので、昼夜があるのなら俺が起きているのが昼で、俺が寝てるのが夜なんだ、そこに太陽が出ようが月が出ようが俺には関係がない、と言うような。ほぼどうかしている状態ですよね(笑)。そのどうかしている状態が非常に理解を助けるのに非常に良かったかなと思うんです。それ以降僕は引きこもりから出っぱなしになったんですよね。だんだんと面白くなって、だから面白がるっていうのがはじまりでしたね。

 

伊藤 チョンさんは、そのあたりは結構違い違う感じがしますね。チョンさんの仕組みはどうなってるんでしょうか。

 

チョン 神経痛って何でしょうね。森さんの箇所を読み直していて、森さんの場合は痛みが脳から送られてくるわけじゃないですか。でも僕は脳から痛み信号が送られてこないわけだからだから、痛み止めが効かないんですよ。痛み止めは脳を誤魔化す作用だから。だから神経痛って改めて考えると、僕は最初は身体中に痛みがまとわりついてる感じでしたね。本当は痛いのは一部分なんだけど、時折体に電気が走るみたいに痛いときをのぞけば、痺れが身体中にまとわりついていて、これを剥がしたいみたいな感覚がずっと何年も続いていました。あとはやっぱり前の体を知っているんで、一生これがまとわりつくのかって考えると、もうどうにもならない、やりきれない感じっていうのがありました。ずっと何かを意識して生きてるってことはないじゃないですか。歩くにしても、食べるにしても、意識して動かしてるわけじゃないですよね。それなのにずっと痛みにばかり意識がこう 向いちゃってる。だんだんそこが離れて行くようなことが起こったんだと思います。

さっき、森さんが、痛いからよっしゃがんばるぞっていう話をしていたけれど、ぼくにはそれがもう全くないんですよね。戦いモデルがなくて、試合放棄しちゃってる。痛みを、もうそこにあるものとして過ごしているっていう感じです。たださっきおっしゃっていたとおり、夜はやっぱり一番自分の体に向き合わないといけないんですよね。看護師の仕事をしていたときに、夜寝れないのが辛いっていう患者さんに、昼間に睡眠取れているからとりあえず大丈夫だよ、みたいなことを言っていたんですけど、やっぱり夜に寝られないっていうのがすごくつらい。 僕の場合は、痛みがあってそれができない。

前回、亜紗さんに体を動かして位置を変えると痛みに変化があるかって聞かれて、ないって答えたんですけど、よく考えたら足をクロスさせてますね。上向きで、右足を左足の上に載せてる。痛みが取れるとかじゃなくて、それがたぶん一番落ち着くんだと思うんですよね。あと最初の亜紗さんのインタビューで顔に痺れがあるって言った時に、それじゃあすごいうるさいねって表現してくれたんですが、そっか、ノイジーなのかって思ったら、あんまり嫌なものじゃなくなっちゃったんですよね。そのうるさいものをさらにうるさいものでかき消せばいいわけだから、音楽をガンガン聞いたりとすることはあります。あと足に関しては、場所によって激痛だったり何も感じなかったりっていうのがあるんで、だから本当に熱いもの触った時でも、皮膚が赤くなっているのを見てやっと火傷に気づいたりとか、あと熱いお風呂に入ると冷たく感じたりしますね。

 

森 あるある、それそれある。

 

チョン だからお風呂入るといつも「冷たい!」って言って入るんですよ。それがちょっと変なぐらいかな。体じゅうにまとわりついてた痛みの鎧がだんだん剥がれていたっていう感じですね。痛みの鎧にまとわりつかれていましたね、体も心も。  

 

森 きっとそうだと思いますよ。夜なんてもう孤独だし、みんな寝てるわけで、いびきとか聞こえるとなんかイラッときたりする(笑)。最初の頃は、精神的に言うと、生きたまま棺桶に入れられて埋められた、みたいな感覚がずっとあって。 しかしそれが関西人だから、つらい時にこそめちゃくちゃ面白いことを考えようとして自分で大喜利をしたりとか、テレビを見て笑ったりして。そうこうしているうちに、ふと痛いのを忘れてたって思う。でも痛いことは痛いですよ、ずっと。圧迫痛でしんどいしもう内臓まで疲れていて、昼間に寝られてるって言うけど、それはもうボコボコにボコられた後にどうしても2日3日に寝る、みたいなレベルの話なんですよね。

 

チョン 僕は今でも最初の頃と変わらず、痛い痛いって家でもずっと家だと言ってますね。あがいても何とも出来ないんで、だから戦うのはもうやめちゃいましたね。でも痛いんですよね。

 

森 僕、すごく闘ってますよねって誤解されるんだけど、実はこれ持久戦で。ずっと弾が飛んでこないように穴ぐらに隠れている兵隊さんみたいな感じで、それで 自分の調子がちょっといい感じになった瞬間に「突撃!」って出て行くんです。だから消耗戦でありゲリラ戦なんです。 

さいきんはスマホと連動するリストバンドをつけて、よく歩いています。『記憶する体』の大前光市さんの箇所を読んで、やっぱり義足をつけて歩いたということが大きいんじゃないかと思ったんですね。歩くことで大腿骨の付け根からエンドルフィンが出るというような話も聞いていたので。やってみて、自分の場合は5000歩歩くと6時間、1万歩歩くと12時間は痛みが抑制されるっていうのがわかってきたんです、まあ痛いんですがめちゃくちゃ。夏なんかは靴が履けないので、雪駄で歩いています。足を締められると痛いし、熱さでも痛いので。

 

伊藤 なるほど。そのあたりの研究の仕方や、ベースになっている身体観が、森さんとチョンさんでは少し違いそうですね。チョンさんは看護師として働いてらっしゃいましたが、そのときの経験は、いまの痛みとの付き合い方に影響していますか。

 

チョン 僕は看護師としては変わってる看護師なんです(笑)。内面的な関わりを重視するようなところをあえて選択していったので、切った貼ったみたいな所にはいなかった。要は「元気になりました。お世話になりました。ありがとうございます」って言われた経験がないんですよ、僕は。病気や何かしらの障害を抱えながら生きている人とかかわっていて、自分が病気になってから、そのときに関わった人ややりとりの場面が思い浮かぶことが多かったと思います。あと僕は最初治るって言われたんですよ。当初はほぼ寝たきりの状態で運ばれていって、トイレにも行けなくなったぐらいの状態で入院してたんですけど、それが座るところまで復活した時には、ちょっと嬉しかったんですよね。それで神経は使えば使うほど復活するから、これで動かしてなんとかやっていけば元どおりなるんだなって言われた。ところがなかなかそうはいかなくて、医者のトーンも「まあ家で歩ける程度ぐらいまでなれたんだからラッキーだよ」みたいな感じに変わってきて。そのときの落ち込み具合は半端なかったと思います。だから聞いていると、内面的な部分が大きくて痛みが増幅してたのか、痛みがあったから自分の気持ちもやられてたのか、その辺がちょっとよくわからなくなってきましたね。

脳と自分の体の関係を考えると、よく分からなくなってくるんですよね。右に歩きたいけど体は左に行っちゃってて、「脳はこれ分かってるのかな、これどうなってんの」って言いながら歩いているわけですよ。ぼくは普段、誰も絶対やってないことをやれって言われてるんですけど、それは何かというと、意識することなんです。歩くためにちゃんと足が上がってないからちゃんと足を上げて歩くように意識しなきゃいけないんだけど、「さあ足上げて」なんて意識しながら歩く人なんていないじゃないですか。それこそ余計歩きづらくて。そのあたりの体との対話が難しくて、昔はイライラしてたんですよね。お皿に乗っけたつもりが手前に置いちゃうということが結構あるんです。昔はイライラしてたんですが、最近は「なんでもっと上げてくれないの」って自分の体に聞いたりしています。意識してなくて体に聞いてる感じなんです。さっきコップの話がありましたけど、中身が1/3ぐらいだったら全然普通に持ち運べるんですけど、たまにちょっと多めにコーヒーなんか入れちゃうと、急に手がプルプルしだしちゃって、運ぶ時に「おいおいおいおいちょっと待ってください、お願いします」って言うんだけど(笑)、お願いすると余計震え出しちゃうから、じゃあ黙っておきます、みたいなやり取りを、よく人がいる前でもしています。

 

森 僕は会話というより、なんかもう機械的にギアを入れ替えるみたいなレベルですよね。 まあ時々「よいしょ!」って言わないとダメなときがあるんですけど、 会話ではないかなぁ。オートマじゃなくミッション運転をしている感じですかね。

 

チョン 森さんは真面目だな(笑)。 ぼくはなんかすごく不真面目で、『記憶する体』の韓国版で僕の体が「わがままな体」みたいな形で表現されていました。「自分の性格がわがままだから、体もわがままなんだよね、君」と思っています。だったらそうそう簡単には乗りこなさせてくれないよね、なおかつ病気にもなっちゃって、いうことで、どうしたらうまく乗りこなさせてくれるのかっていうのは、やっぱり体と相談しながらやっていかないとうまくいかない。調子にのって無理しちゃった時には、体がしっかりそこは具合悪くなってくれますよね(笑)。そう元気ではいてくれない。お前調子こいたなこの野郎、病気のくせに、みたいな。ちょっとこのぐらいで休んでおきやすみなさいよ、ということですね。

 

森 僕からすると、ちょうどいい量を見つけるには、『記憶する体』で吃音について話されていた柳川太希さんの振り子のイメージが近いですね。極端にやってみんて、真ん中はどこだろうと、と探していくんです。だから5000歩歩いてちょうど良かったというときには、次は一万歩歩いているんです。1万歩歩いて、そのあと2日間寝ちゃうということが分かったら、それは歩きすぎということなので、とどめを刺したいときとか、そのあと何も予定がないときは1万歩で、デスクワークがしたいとか何かを書きたいときは5000歩という風というふうに分かるわけです。そこで中道がわかります。

まあ無理は 必ずたたるんですけど、やっぱり1人耐久レースを一度やってみてというのはあるとしても、そこは体との対話なんですよね。動きとしては機械的なんだけどそのストラテジーを立てる時には体にお伺いを立ててる。今日こんな痛みだからこういう運動をするのがいいとか、今日はマジ痛なので寝ることにして悪夢の6本立てにしよう、とか。それを決めるのは唸った時にようやくわかるんですよね。唸っても手足が動かなかったらその日は寝る日です。やっぱりそれは体の問診というか、お伺いをたてているところはありますね。

チョンさんの場合には体が思ったところまで動かないとか、逆に動いちゃうということは、ストラテジーが立てにくいんじゃないかと思います。僕はもう分断されていて、 動かないのはわかっているけど、ストラテジーは立てられる。

 

チョン やっぱり最初はできなかったです。最初は、何で思い通りにならないんだろうって抵抗してましたよね。僕、外にいても突然足がバタついたりとかするんですけど、最初にそうなったときにパートナーが子供たちに「暴れだしたぞ、ダンシングマシーンだ、どこかスイッチ押せば治るかも」みたいな感じで笑いに変えてくれてたんです。それで、自分も少しずつ体とお話ができるようになったんだと思うんですよね。だから今も外でそうなっても、周りはびっくりするだろうけど、自分は平気で。体とお話ができるようになったというのも、周りのおかげだと思いますね、やっぱり。

 

伊藤 いま「いいね」マークが猪俣一則さんから入りました(笑)

 

猪俣 脳卒中系の方のような、感覚はあるけど自分の思いどおりに動かしにくい人は、暴れん坊でわんぱくな子供がとなりにいる感じですよね。逆に麻痺して動かない人は、おとなしい子供が横に居る感じ。麻痺の場合は、バックアップというか、「動け動け動け」と盛り立てるほうに進めばいいだけなんだけど、わんぱくな子の場合は、抑え込み過ぎたらまた反発するから、じゃあちょっと緩やかにしようかなと調整するところに会話が生まれていくのかなと思いました。さっき「いいね」したのは、チョンさんの家族が「大丈夫?」じゃなくて「ダンシングマシーンだ」って反応したのが、いい距離感で、本当の優しさだなという感じがしました。

 

チョン いや、一度でいいから手厚い看護を受けてみたいですね(笑)。「痛いところないですかあ?」とか。

 

森 僕の場合はひとりでそのボケとツッコミをやってたんですよね。ipodの中の写真にセリフをつける大喜利をやったりとか(笑)。非常に虚しいときもありますけど、今日は面白かったなという時もあって、笑いはサバイバル能力をすごくあげますね。そこは関西人でよかったなと思います。

 

チョン 僕も奥さんが関西出身だし関西の友達が多いから。そうやって言われると怒っちゃう人もいるだろうけど、僕の場合はいつも「あ、そっか」みたいになっちゃうところがあったんです。あとはその頃は体のイメージを持つようにしてましたよね。僕の体は先っちょがみんな断線してるから、情報量が多いと動きがとれなくなっちゃう、なるべく情報量は少なく動こう、というふうに。でもその意識は今はだいぶ弱い、というかなくなってきましたね。「備わって」きたので。

 

(2021/1/20 zoomにて)