レビー小体病(レビー小体型認知症)当事者の樋口直美さんにインタビューをしました。テーマは時間について。時間は生理的なものと社会的なものが交差する場所。前者が生まれたものを積み上げていく足し算方式なのに対して、後者は締め切り逆算型の引き算方式を要求する。足し算の答えと引き算の答えをいかに合わせるかが社会的に生きていくうえでは必要なわけだけど、そもそも引き算にはかなり無理がある。樋口さん曰く、答えがあわないのは自分に落ち度があるのではなく、「時間が盗まれている」。その手放し方が痛快でした。
インタビューしてみて、時間感覚は人によってかなりの差があることをあらためて実感しました。長文ですが、時間を可視化した清水淳子さん渾身のグラフィックレコーディングと合わせて、じっくりお読みください。
Interview & Text by ito asa / GraphicRecord by shimizu junko
樋口直美さんプロフィール
1962年生まれ。50歳でレビー小体型認知症と診断された。2015年に上梓した『私の脳で起こったこと――レビー小体型認知症からの復活』が、日本医学ジャーナリスト協会賞優秀賞を受賞。思考力自体には変化はないが、注意障害などさまざまな脳機能障害のほか、幻視、自律神経障害などがある。webマガジン「かんかん!」(医学書院)にて「誤作動する脳 レビー小体病の当事者研究」連載中。自分のサイトで講演動画や原稿などを公開している。
◎インタビューは昨日だと思っていた
樋口 漢字を書くのがとても苦手になったんですが、読むのも、変な時期がありましたね。「伊藤」の「伊」を「イ」と読んで、「藤」を「フジ」と読んで、「いふじさん、珍しい苗字だなあ」って。「仏」も「イム」にしか見えない時があって… 。今は、読む方はだいたい大丈夫なんですけど…。
伊藤 面白いですね…って私、連発しちゃうと思うんですけれど(笑)、この前にお会いしたのが森田真生さんとのトークイベントがあったときで、日付を確認したら10月18日で、今日からちょうど1ヶ月くらい前です。何月何日だったけ、ということをカレンダーで確認してみてやっと分かったんですが、逆に、ふだん「1ヶ月」をどのように感じているのか分からなくなる感じがありました。時間感覚って不思議だな、と。樋口さんはどんなふうにこの1ヶ月を感じますか。
樋口 この1ヶ月に何をしましたか、と言われても、ほとんど何も出てこないですね…。
伊藤 1ヶ月前にお会いした記憶はあるわけですよね。
樋口 それはもう詳細にあります。でも、伊藤さんとお会いしたのはいつですか、と聞かれても、最近だと思うけれども、1週間前なのか、3ヶ月前なのかと言われても分からないんですよね。
伊藤 つまり、1ヶ月前に会った人の記憶と、2日前に会った人の記憶が同じような感じということですか。
樋口 連載の中でも「霧の中」と書いたんですけれども、すごくうやむやで、自分で把握できない感じですね。2日前くらいだったら、そのほうが近いって感じますね。この一日二日だったら分かるけれど、そこから先と言われるといつだか分からないですね。
伊藤 記憶としては鮮明なのに、いつか分からないということですよね。
樋口 時間と記憶は切り離せないものだなと感じていて、記憶もあいまいになってしまうんですよね。伊藤さんとお会いした記憶を、取り出して来たら、ものすごく鮮明にいろいろ覚えているんですけど、取り出して来ないかぎりは、ないのと同じになってしまう。自分では、アルツハイマー型の記憶障害はないと思っていたんですが、最近とても記憶が抜けているんじゃないかと思うことがあります。
伊藤 「取り出そうと思えば取り出せる」というところも怪しくなっている感じですか?
樋口 いえ、名前とか場所とか、何かヒントがあれば取り出せます。でも時間からは取り出せないです。去年の1月に何がありましたか、と言われても何も出てこない。
伊藤 そもそも時間から記憶を取り出すのは難易度が高いかもしれないな、とも思います。連載に書かれていたように、写真がたくさんあって、それにロープがついていて、そのロープを手繰り寄せるという感じがよく分かります。だとすると、私が感じる想起の難しさと、樋口さんが抱えている難しさの決定的な違いはどこにあるのか、ということが気になります。もっとも、この難しさは樋口さんの書かれたものを読んで初めて気づいたもので、それまでは自分が「1ヶ月前」とうまくイメージできないことなんて考えてもみなかったのですが。
樋口 私は2013年に診断されて、2015年に講演をするようになったのですが、それまではただ家にいるだけで、時間って関係なかったんです。困ることがなかった。手帳も持っていないし、予定もないし、困ってなかった。でも最近よく勘違いすることがあります。このインタビューも昨日だと勘違いしていました。ちゃんとカレンダーに書いてあるのに勘違いして、夫に「今日はインタビューだ」と言ったら「明日だろ」と言われました。「えっ!」という感じでしたが。
伊藤 その勘違いはどうやって起こるんですか?
樋口 自分でも分からないです。今まではあまりこういうことはなかったんですが…。いつも朝起きたらまずカレンダーを見て、今日の日付を確認して、何の予定があるかをチェックします。
伊藤 日付を間違えたということなのか、それともあと何日、というカウントダウンがくるった、ということなんでしょうか。
樋口 カレンダーにバッテンをしていなかったからかもしれません。いつも、その日が終わったらバッテンをするんですけれども、それをし忘れていたかもしれません。
伊藤 今日の現在地がずれていたっていうことですね。
樋口 そうですね。
伊藤 私もスマホのカレンダーを見ていると、今日のところが自動的にマークされるから分かっているようなところがあるかもしれません。
樋口 「私もそうです、私も日付が分かりません」というのはよく言われます。たぶん、私は過去の記憶を、時間順に並べられないんだと思います。みんなバラバラになっていて、起こった順に並べなさいと言われても分からない。「なんとなくこれが新しいような気がするけれど」というのはあるんですが、時系列にならないですね。そういう感覚というのは、病気をする前にはなかったですね。
前もっていただいた質問のなかに、「大切なものは何ですか」というのがあって、なかなか浮かばなかったんですけど、でも考えていくと、大切なものというのは記憶と結びついているわけですよね。たとえば「大好きな人がくれたものだから大切」とか。記憶がうやむやになってしまうと、大切さもうやむやになっていくんです。そうなったらもう、この人が大切だという気持ちさえあれば、もう物はなくてもいいかな 、という感じかなと思います。アルバムがどさっとあるんですが、これはもうなくてもいいかな、と思ったんですよね。
伊藤 すごく逆説的で面白いですね。写真や物があったほうがいろいろなことを思い出すきっかけになりそうですが、むしろ必要ないと感じるんですね。
樋口 確かにそうなんですけど、数が多いと把握ができない、そしてどこかにしまってしまうと意識から消えてしまう、というのがあって。たとえば服がたんすの中に100枚入っているよりも、見えるところに2、3枚あったほうが使える、という感じがします。見えない100枚は、あってもないのと同じです。何が入っているのか自分では分からないし、だから自分で出してくることもできないし、それだったら3枚目の前にあったほうが、「あ、これが着れる」というふうになりますね。100枚が大切であっても使えないからなくてもいいや、ってなる感じですかね。
伊藤 わりと生きてるとたんすの中にたまりがちというか(笑)、毎日毎日放っておいても記憶というか、経験が増えていきますよね。
樋口 そのはずですよね。どこか知らないところからするする抜けていっている感じもします。自分がどこまで把握しているのかも分からないんですよね。自分では何かヒントがあればちゃんと記憶を出して来られるから問題ないと思っているけれども、実はそれは錯覚で、するするするする消滅しているのかもしれない、とも思います。
伊藤 生活のなかで消滅を実感することがあるんですね。
樋口 わたし以前は記憶力がいいほうで、本を一冊読んだら一章から順に要点を言えたんです。でも今は、楽しく読み終わったあと、じゃあ要点を言ってくださいって言われても、とっても面白かったという感情があって、中身の詳しいことって抜けているんですよね。よっぽど印象的な一文や重要な情報は覚えていますけれど、以前のように順序立てて整理されては残らないですね。
伊藤 情報の関係を把握するというところが分からなくなりがちなんでしょうか?
樋口 キャパシティが小さくなったという感じですね。
◎料理が楽しくない――「思いつく」とは?
伊藤 前もってお送りした質問への回答によると、料理がめんどくさくなった、と。
樋口 料理は、前は大好きだったんですけれども、今はめんどくさいですね。まずレシピが思い浮かばない。以前はレシピを考えるところから楽しかった。これとこれを組み合わせるとこうなる、とか。今はもう何も思い浮かばないので、「いつものを作るか」みたいな感じです。手順もとろいんですよね。パッ、パッ、パッ、っと行かない。一人でやっているとあまり気がつかないんですけれど、たまに実家に帰って妹が料理をしているのを見ると、目にも留まらぬ速さでやっている(笑)。私も以前はそうやってやっていたと思うんですが、今は見ているだけで目が回る感じです。なぜそんなに同時進行で、煮ながら、切りながら、焼きながら、洗いながら、できるのか。あと、妹が素麺を茹でたんですよ。それで、私が「タイマーがない、タイマーがない」と騒いだら、妹が「なぜタイマーがいるの?素麺がゆだるくらいの時間は分かるでしょ」って言われて、私には全然分からない、と思いました。1分の長さとか、5分の長さとか、私は全然分からないです。
伊藤 料理の話、面白いですね。
樋口 あと、匂いが分からないというも楽しくない原因だと思います。料理って、作っていて、匂いがふわーっと上がってきて、完成、というのが楽しいと思うんですが、匂いがしないと、どこまで焼けているのかも分からないし、美味しいのかも分からない。匂いがすれば、「これはいいぞ」とか「もうちょっと味を足そう」とか思えるんですが、それがない。機械的に作っているような感じです。タイマーで時間を測って、その通りやる。何の喜びもない。ロボットと同じ。楽しくないですね。疲れちゃう。夏ぐらいからあまり調子がよくないんですが、作っている最中で疲れてしまって、横になったりしています。
伊藤 最初のレシピの話をもう一度うかがいたいのですが、たとえば冷蔵庫に入っているものを見ても何も思いつかない、という感じですか?それとも何を食べたいのか分からないという感じですか?
樋口 わたし毎日買い物に行くんですよ。以前は違ったんですが、何日か分のだいたいの献立を考えて買う、ということができなくなってしまった。だから、とりあえずその日の分を買う。スーパーに行って、さんまが安いからさんまにしよう、とその日その日のことを考えています。
伊藤 スーパーに行って、メニューを考えるという感じなんですね。
樋口 そうですね。
伊藤 そこでもメニューが思いつきにくいということがありますか?
樋口 思いつきにくいですね。魚が安いから魚を焼こうとか、単純な料理が多いですね。
伊藤 なるほど。その時間って料理を作る楽しさの大事な部分ですよね。
樋口 そうですね。以前は楽しくて、大好きだったんですけど。
伊藤 それは、たとえば「今日は白菜を使おう」と思っても、メニューが自分の中で検索できないという感じなのか、白菜と他の食材を組み合わせたら何かができる、というようなイメージができにくいという感じですか。
樋口 検索はうまくできないし、組み合わせもあまり思いつかないですね。
伊藤 記憶の中から取り出す…「思いつく」ってどうやっているんですかね。「検索」って言っちゃいましたけど、検索かけているわけではないですもんね。
樋口 そうですね。でも以前なら、白菜を見たらばばばばってレシピが浮かんで、豚肉と白菜だ、みたいなことが浮かんだんですけどね。今は白菜を見ても、豚肉を見ても、何が浮かぶわけでもないですね。じゃあ、しょうがないから一緒に煮るか、みたいな。
伊藤 「思いつく」って単純な記憶そのものでもないし、何でしょうね。何かと何かが結びつくんですかね。
樋口 以前は創作料理みたいなのも好きで、毎日実験みたいなことをやっていて、いろいろ試して自分で感動していたんですけど、もうそういうのは皆無ですね。
伊藤 記憶には頑張って探してくる能動的な「思い出す」と、自発的に思い出される受け身の「思い出される」がありますよね。思いつくは「思い出される」に近いのかな…。でも思いつくときには、考えてはいるわけで単純な受け身とは違いますね。
買い物するあいだそのものは問題ないですか?レジに行って支払って、家に帰るまではスムーズですか。
樋口 そうですね。そこは問題ないですね。支払いはカードですし。でも料理をはじめると機械的な感じになって…。
伊藤 料理を作っているあいだにも、レシピを思いつくときと同じような、小さなひらめきがあって、それが楽しさにつながっていますね。その「思いつく」とか「ひらめく」という作用が弱くなっているのかな…
樋口 匂いがしたらもうちょっと「ここにこの香辛料を入れて見たらどうだろう」とひらめいたと思うんですけどね。テレビの中の料理と同じで、どうにも工夫のしようがないという感じです。頼りは色だけ。味も、分からないことはないんですが、微妙なところは分かりにくいですね。何でか分からないですが、汁物って味が分かりにくいんですよね。味噌汁はいまでも、自分で味見しても美味しいのか美味しくないのかよく分からなくて。
伊藤 その分からなさは、味は分かっているんだけど、前につくっていたのと同じか分からないということなのか、それとも味自体がよく分からないということですか?
樋口 味自体がよく分からないです。美味しいものを食べれば美味しいと思うんですが、自分が作ったものを食べて美味しいとは思わなくなった。だから人のために作りたいとも思わないですね。子供が家に来たときに、自分が作ったものを食べさせたくないと思っちゃいますね。
伊藤 話が戻ってしまいますが、食材を切ったりする作業は、問題ないですか。野菜を切ったりするときは、ひとつひとつ形が違うので、どうやって切ったらいいか工夫が必要だと思いますが。
樋口 いい加減になりましたね(笑)以前は切るのも好きで、キャベツの千切りなんかすごく楽しかったです。でもそれもあんまり楽しいという感じはなくなって、適当になりましたね。「細かさに挑戦しよう」とか「きれいさに挑戦しよう」とか、全然なくて「まあ切ればいいや」という感じ。
伊藤 リズムの感覚や、ひたすら切っていて楽しい、というような感じはありますか。
樋口 そういうのもあまりないかもしれませんね。
◎逆算には視点の移動が必要?
伊藤 あと、さっき話に出ていた段取りを考えるのが難しいということですね。
樋口 そうですね。以前は、何も考えなくても段取りができて、何もかもが同時に進んだんですけど、今は二つ同時でも難しいです。一個ずつやっていく。まずこれを洗おう、そのあとどうしようか、じゃあこれを切ろう、それで次は…みたいなひとつひとつ分けて考える。火にかけたらタイマーをつけて、鳴ったら止める。以前なら、ある時間までに何品もの料理が同時に進んでいて、全部が一斉にできて、熱々の状態で食べられたんです。いまはできたときにはみんな冷めている(笑)。最終的に出来上がりを想定して、逆算してやるのが難しいんです。とりあえず魚を焼こう、野菜を洗おう、とそのつど思いつきのような、段取りの悪い仕方で、一個ずつつぶしていくみたいな感じですね。
伊藤 段取りはとても興味があります。いろいろなことを同時にやるのは、かなり高度なことですよね。
樋口 逆算はほんとうに難しくて、出かけるときに、あるときから必ず遅刻するようになったんですよね。自分ではまだ時間があると思っているのに、その時間が実際にはなくて、なぜか遅刻する。だから、乗る電車の時間とそれに乗るために家を出る時間、家を出るために身支度をする時間、と全部書いています。それを見ながらでないと遅刻しちゃうんです。以前は、そんなことしなくても 、だいたい今日は何時の電車に乗ろう、というところだけ把握しておけばよかったんです。そこから逆算して、自然に準備ができた。でもそれがうまくいかないです。
白石 引き算が足し算になった感じですかね?引き算ができないから、足していく方式になった、というか。結果としてあまり変わらなくても、本人のなかではだいぶ違う気がする。
伊藤 家を出るまでのスケジュールをうかがっていいですか?
樋口 きょうは、9時になったら支度を始めようと思っていたんです。そして…9時50分くらいにここにつきました。ここまでは歩いて8分くらいです。
伊藤 ということは9時40分くらいに家を出たということですね。
樋口 あと、時間の計算をよく間違えるんです。何時に出る、というのを自分で計算するとよく間違えるんです。
伊藤 10分前、とかでも間違えますか。
樋口 間違えますね。何か勘違いしていたり。自分でもどうして間違えるか分からない。自分が信用できないので、だから紙に書いて行動します。
伊藤 どこで違ってきちゃうのかな…何か準備をし始めると、たとえばハンカチがないってなったときに、そのハンカチを探し始めてしまっていて、時間がないからハンカチを持って行くのは諦めよう、というような判断ができなくなってしまう、ということでしょうか。
樋口 それはないですね。ただ出がけになって、「窓閉めてない」とか何かが足りなくて慌てることはありますけど、時間のほうを優先して、ほっぽらかして出て行きますけどね。
伊藤 どこで時間がなくなっているんだろう…。連載に「時間が盗まれている」って書かれていましたけど、本当にどこいっちゃってるんでしょうね(笑)。焦っているわけですもんね。
樋口 焦りますね(笑)
伊藤 自分が思うより、やることに時間がかかっているのかな…
樋口 そういうのもあるかもしれないですね…。家にいると化粧をしなくて、出かけるときはするんですけど、だんだん時間がかかるようになってきましたね。「あれ、左右対称にならないぞ」とか(笑)。さいきん、化粧をするって難しいなと思います。
なんか、気が回らない、気がつかないということもあります。来週、岡山に行くことになっているんですが、出発の時間が通勤ラッシュにぶつかるということに直前になって気がつきました。ラッシュアワーに乗れないんですよね。それにぎりぎりになって気がつきました。岡山にお昼につくには何時に家を出ればいいかイメージしていませんでした。
伊藤 それもけっこう段取りっぽいですね。
連載の文章を拝読していると、頭では理解しているんだけど、感覚的に、あるいは身体的に理解できていない、というような場面がときどきありますよね。たとえば【上向きの矢印を見たとき】に、直進だということは頭ではわかるんだけど、体感できない、天井に行くように感じてしまう。そのあたりも気になっています。あの矢印は、子供も最初は分からなかったりしますが、いちど理解すると、だんだん体感レベルでもなじんできます。さっきの漢字の話にもつながりますね。
樋口 上向きの矢印は直進というのは学習したので見たら直進だと分かるんですけど、斜めだと、どこを指しているのか分からないです。それで上向きの矢印を傾けていって、「こっちかな」と想像します。斜めの矢印の先がさらにくるんと曲がっていたりすることもあって(笑)、もう、わけが分からないです。地面に書いてあったり、ポールから突き出ていたらいいなと思います。
清水 わたしはカーナビが苦手です。画面に表示されていることと、実際の空間をリンクさせながら車を動かすなんて、どれだけ高度なことをやっているんだ!とみんなに聞きたい(笑)
樋口 矢印も「私もわかりませんよ」と言われたことがあります。
伊藤 座標軸みたいな話なんですかね。時間的にも空間的にも、自分の今いる現在地から離れるのが難しい。逆算も、現在地をいったん離れて、10時なら10時という時間に一度立ったうえで、その視点から現在の自分立ち位置を測るわけですよね。二つの立ち位置に立たないといけない。【地図が回転できない】、というのも同じように自分の現在の視点に拘束されてしまうということのように思います。
樋口 なるほど。距離に関しても、あの信号まで何メートルかということを夫と話すとだいぶちがっている。夫が100メートルだという距離を私は50メートルだと感じる。距離も狂っているんだなと最近思いました。時間だけでなく空間的な距離もおかしいのかもしれません。
あと、さきほど子供の話が出ましたが、児童心理学が専門の方と話していたとき、子供も「明後日」というのが分からないんですって。「明日」は分かるけど「明後日」は分からない。時間がどう進むかというのを教えるのはとても難しくて、時間の形というのはひとりひとりみんなちがっている。丸としてとらえる人もいれば、直線としてとらえる人もいれば、三角とか四角でとらえている人もいるらしいです。
伊藤 樋口さんはどんな感じですか?
樋口 まっすぐだと思います。でもまっすぐだと思っていたんですが、ずっと考えてくと、もっとうねうねしていたり、くっついたり離れたりしているように思いますね。
伊藤 さきほどの視点の話とも関わるのですが、時間感覚ってそもそも自分の中にあるものなんでしょうか。自分ではないものの視点を借りて現在地を測ったり、交差点のように他の時間とくっつく場所があるのだとすると、【連載で書かれていたように】まさに時間は「網の目」のようなもので、いろいろな視点が交差するところに成立するものなのかな、と思ったりしました。
樋口 確かに、時間は定規のようにめもりがあってきっちり進んで行くものではないですね。あの網目のイメージは、森田真生さんが新聞のエッセイで重々帝網のことを書かれていて、それを読んだときに、これだと思ったんです。
伊藤 Twitterをかなりやられていますが、時間が網のように交わる感じはありますね。
樋口 Twitterはあまり時間感覚は意識してませんね。
伊藤 樋口さんの、まわりのものとの出会い方が気になります。さっき、白菜を見てもレシピが思い浮かばないという話がありましたが、Twitterでいいツイートを見た時や、人とであったときの感覚とどうつながっているのかな、と。
樋口 それは網とはちょっと違うかもしれません。子供はいま離れて住んでいるんですが、さいきん彼らを思い出すときに、ここ5年の彼らの記憶ではなく、小さくてよちよち歩いているときのことを鮮明に思い出す、ということがあります。認知症の方が昔に帰って、子供を迎えにいかなきゃと言い始めると聞いたので、それはこの延長線上にあるのかなと思ったりしたんですが。自分にとって心地よい記憶だけが残っていく感じです。自分が歳をとったからなのかもしれませんが。
伊藤 それが網の目の感じに近いですね。
樋口 そうですね。
伊藤 記憶というより思い出みたいなものでしょうか?
樋口 そうですね。自分を支えているものという感じですね。これくらいの歳になると、けっこう辛いことが多いんですよね。たとえば親の今後に対する不安とかがあって、そういうなかで子供が小さかったときの記憶がとても自分を支えてくれているなあという感じがあります。
伊藤 最初に記憶を洋服になぞらえて「見えているところに3着くらいあればいい」とおっしゃっていましたが、その子供が小さかったときの記憶はどこにあるんですかね?
樋口 それはタンスの中にはないですね。タンスの中にあるのは、子供が中学校、高校、大学と大きくなっていってからの記憶で、別に思い出さなくてもいいし、なくなってもいい記憶ですね。たくさんあって把握できないから、小さい可愛かった時の記憶だけあればいいや、という感じですかね。
◎文章を書くのは足し算、締め切りは引き算
伊藤 文章はどうやって書いているんですか?さきほどの段取りの話ともつながると思いますし、1日で書ききれない分量の場合に、昨日書いた分からどう書きつないでいくんですか?
樋口 構成を考えるのは、以前とくらべるとすごく苦手になった気がします。以前は構成は頭のなかでぱっぱっぱっと作れたんですが、今はそうはいかない。これについて書こうと思ってずっと考えていて、メモしたりもして、何となく形になってきたら書き始める、書きながら考える、という感じですね。書いているうちに思い浮かぶこと、思い出すことがあるので、それもまた加えていきます。それでぐちゃぐちゃのものができたら、だんだん削っていったり、入れ替えたりして、整えていきます。
伊藤 書いているときは、書きたいことを思い出すんですね。
樋口 そうですね。書いているうちにだんだん深まっていきますね。
伊藤 それは料理よりは楽しいですね。
樋口 そうですね。書くことは好きですね。ぐちゃぐちゃになっちゃったものを整理するのは苦しいんですけど、書いているときは楽しいですね。本当にいいのは、わーっと書きたいことが出てくるときです。出てきたときは、それをただ文字に置き換えれば、文章ができあがる感じがします。そういうふうにしたものは、ほとんど直しもいらないし、完璧な形で出てきます。今はほとんどないですが。
伊藤 そういうときは、現在進行形で書いている一文があって、脳内にはもう次の一文ができているという感じですよね。
樋口 そうですね。考えるというより、流れるように出てくる感じですね。
伊藤 それはけっこう足し算系ですね。締め切りは引き算だけど(笑)
樋口 締め切りは本当にダメですね(笑)いまの連載は、本当に締め切りがないのでやっていられるんですけど、以前「ヨミドクター」に二つ書いたときは(1、2)大変でした。
私はいつでも同じコンディションじゃないんですよね。雨が降る日は頭が痛いし、日によって今日はだめという日もあるし、毎日書けるわけじゃないんですよね。できる日は必ず書くんですけど、書いていても疲れてしまうし、そうするともう頭が動かない。肉体労働なら疲れてもいけますけど、書くことはできません。締め切りは地獄ですね(笑)。
伊藤 タイムリミットが決まっていること自体がだめなんですかね。
樋口 それが、たとえば「2ヶ月」というふうに決まっていて、2ヶ月あれば書けるだろうと信じて書くんですけど、なかなか思ったように書けない。そうするとそれ自体がストレスになりますね。疲れた脳で書かなくてはいけない。
伊藤 脳が疲れるというのはどういう感じですか?
樋口 すごい違和感があるんです。脳が炎症を起こして腫れている感じです。熱くはならないですが、不快です。とても苦しくて不快で、全身に倦怠感がきます。ひどいときは40℃の熱がある感じですね。横になるしかないです。
伊藤 それが脳だというのは、頭がぼうっとするのとは違うんですよね。
樋口 もっと苦しいです。頭痛とも違って、この病気になるまでは感じたことのなかった感覚ですね。熱があって、その病原が脳にあって、脳から毒が全身にまわっている感じですね。ふつうはそこまで行ってしまう前に休みます。でも締め切りがあったりすると止められなくて、結局寝込んじゃう。
伊藤 文章を書いていて、「この表現を使いたいな」とか「この言葉を使いたいな」というのがあらかじめあることはありますか。たとえばさっきの網の話は、最初は森田さんの文章で見つけて、これだ!と思ったわけですよね。締め切りとは違うけれど、その言葉もある種のゴールのようなものだと思うのですが、どうやってそこまでたどり着いたんですかね。
樋口 どうやってたどり着いたかな…。時間のことは四六時中考えていて、森田さんの文章を読んで、そこからまた考えて、文章にしていったんですよね。でも、やっぱり書いているうちに出てきますかね。そのほうが多いですね。
伊藤 それをゴールとして目指したわけではないんですね。
樋口 そうですね。ゴールではないですね。
白石 ずっと時間のことを考えているときは、脳が疲れることはないんですか?
樋口 それは疲れないですね。自由にあれこれ連想して考える分には疲れないですね。何かの目的に向かって集中していくと疲れます。何でもないとき言葉や表現が出てくるときはあって、それは「いつか原稿に使おう」とツイートしないで大事にとっておきます(笑)。
白石 そのあたりは料理と真逆ですね。文章は思いつくけど、料理は思いつかない。好きなことと嫌いなことの違いなんでしょうね。
伊藤 思いつく、っていうのは最高に楽しいですよね。やっぱり書くときは逆算してないですね。
樋口 楽しいことにしか脳が動かないですね。もともとそういう傾向はあって、嫌いなことはできないんですよね。その傾向が強まっている気がします。
白石 サラリーマン的な能力って逆算能力そのものなんですよね。「いま・ここ」ではなく、締め切りの時点にいる(笑)
樋口 サラリーマンすごいと思いますよ(笑)絶対できません。
◎ 時間感覚と体調の波――引き算は均質な時間を前提にしている
樋口 あと、計算もできなくなっているんですよね。逆算の計算じたいをよく間違えます。引き算ができないです。終了から50分前は何時何分か、とかをアナログ時計を見ながら針を動かして考えるんですが、間違えてしまいます。そのときは正しくても、それを違うふうに覚えてしまったりする。あれ、この時間だったのにと思ったら違っていた、というようなミスが多いですね。時間に関することはとても記憶に残りにくいです。朝、今日の日にちを確認しても、しばらくすると忘れてしまいます。
伊藤 お金の計算はどうですか?
樋口 お金の計算もよく間違えますね(笑)。ぜんぶクレジットカードにしていて、現金はめったに使いません。
時間に関しては、たとえば講演に行ったりすると、何時から始まるかが気になって何度も確認してしまいます。1時20分ですね、と言われても、またその時間が不安になってきて、何回も聞くので変な顔をされてしまう。あと、講演の時間も、70分です、とか言われても、しばらくすると分からなくなる。1時間なら分かりやすいですが、70分になると訳がわからないです。
伊藤 忘れるって、それについて考えないから忘れる、というのと、考えすぎて忘れる、というのがありますよね。たとえば講演70分の時間配分を考えたりすると、考えすぎて記憶が動いてしまい、分からなくなる、というようなこともあるように思うのですが。
樋口 そうではなくて、時間に関係する数字というのが頭に定着しないんですよね。
伊藤 誕生日の記憶はどうですか?
樋口 家族の誕生日は分かりますね。
清水 時間を理解するとき、たとえば出演時間を言葉で12時40分から13時20分までです、と言われると分からなくても、スケジュール表で目で見て示されると分かる、ということはありますか。
樋口 口で言われてもわからないので、自分でメモをとりますね。あとはタイマーをいつも持っています。時計だといつから話しはじめたかが分からなくなるので、デジタルのタイマーをストップウォッチとして使って、それを見ながら今何分話したかが分かるようにしておきます。
清水 私は音で言われると分からないんです。タイマーも数字で残り時間が示されても分からないので、アナログの円で視覚的に示されるもの、今全体のどこまでしゃべったのかが分かるものを使っています。形で分量を示されると、「あとちょっとだ」というのが分かります。
樋口 それはいいですね。タイマーも引き算は分からないので、「70」からスタートして、あと30分、あと20分と減っていくのは分からない。それよりも自分がいままでに何分話したのかが表示されるほうがいいです。
白石 長谷川式スケールも引き算ですね。100から7を順番に引いていって、認知症の度合いを計りますます。
伊藤 もうちょっと空間的な情報に置き換えられている引き算はどうですかね?たとえばカレーを食べているときに、ライスとカレーを同じタイミングで食べ終わりたいじゃないですか(笑)まわりの人と食べるペースを合わせたい、というのもありますよね。
樋口 そういう時間はあまり意識したことはないですね。まわりより早く食べてますね(笑)
伊藤 あるいは、信号がチカチカし始めたときに、渡るか渡らないか迷うときありますよね。この距離だといける、いやいけないというような、空間と時間をからめて逆算する感覚があるような気がするのですが。
樋口 この病気になってから、信号がチカチカしたら渡らないと決めました。以前は、黄色やチカチカは「行け」の合図だったんですが、今は、「止まれ」だと思うようにしています。危ないからです。何度か危ないと感じたので、いろいろルールを決めました。注意力が落ちるときがあるので、以前より無理しないようにしています。
伊藤 逆算って生活のなかで小さくいろいろやっていますね。ブレーキを踏むタイミングたっだり、人が前から来たときの避け方だったり、そのレベルではたくさんやっていますね。逆算というふうには意識していませんが…。それは原稿の締め切りとは何が違うのかなあ。瞬間的だということですかね。
樋口 締め切りが辛いのは疲れても休めないことですね。料理も段取りが悪くてうまくいかない。瞬間的なことではあまり苦労はないですね。
伊藤 逆算としてタイプが違いますね。
白石 逆算してたら、人とぶつかっちゃいますね(笑)それはたぶん逆算に入っていないんでしょうね。本来は、身体的な逆算と締め切り的な逆算って全然違うんだろうけど、ぼくらはあまりに自動的にやっているので、近いこととのように感じているのかもしれませんね。
清水 私も逆算苦手族なんですけど(笑)、締め切りのことを考えるときには、未来の自分をひねり出して意識をふっと締め切りのところに持って行かないとできません。がんばって、かなり意識的に逆算していますね。疲れているときはできないですね。日々の生活に流されて気づくと締め切りが明日になっていることがよくあります。
樋口 書く作業って、レンガを積み上げるのと違うから、「今日はここまで」とか「明日はここまで」とかがないですよね。今日は脳の調子がいいからたくさん書けるけど、明日は全然書けないかもしれない。自分の体調が予測できないから、計画の立てようがないんですよね。間に合うかと思っても、実際には間に合わない。
清水 私も体調がバラバラなので、カレンダーが月火水木金とならんでるけど、「今週月曜日短かったな」「金曜日でなんとか間に合った」みたいな感じがあります。
白石 今日も明日も同じだ、という前提で逆算ができているわけですよね。引き算は均等を前提にしている。でも体調の波があると、逆算ができくなっちゃう。
清水 生理痛があったりすると、一週間丸々消えてしまうことがありますね。
樋口 仕事をコンスタントにやることはできないですね。毎日やるけれども、できない日はできない。だから逆算もできないです。とにかく毎日やるしかない。
伊藤 樋口さんはその逆算できなさの度合いが大きいんでしょうね。誰でも体調の波はあって思い通りにならない感じはあるけれど、でもそれとは決定的に違うどうにもならなさがありますね。
樋口 前に森田真生さんと安田登さんの対談を聞きに行ったときに、森田さんが、便宜上「1、2、3」と並んでいるように考えているけれども、実際は1や2や3が一列に並んでいなくて、バラバラなところにあってもいいんだ、とおっしゃっていて、すごくハッとしましたね。私たちはメジャーのように均等に並んでいるように時間を感じているけれども、実際はそんなふうには並んでいないんですよね。でもそれでは社会生活を送る上で不便なので、定規みたいなものを想定して生きている。
伊藤 足し算は生理的だけど、引き算は社会的ですね。
清水 私、手帳を3ヶ月に一回くらいのペースで買い替えちゃうんですよ。お正月で新年がくる、みたいな社会的な約束とは別に、ドラマのシーズンみたいな感じで、今日から自分にとっては新しいシーズンだと思うと、買い替えたくなっちゃう。
樋口 私も、1月とか4月って生まれ変わるような気がしていたんですが、今はそういう感覚がなくなりましたね。
◎「時間が盗まれている」の諦め感
伊藤 でもさっきの社会的なできなさって、「自分が信じられない」というような自己不信の感覚になったり、自分を責めたりする感覚に陥りそうな気もするのですが、樋口さんはそうではないですよね。
樋口 自分を責めることはないですね。嫌だなと思うことは多々ありますが、どうしようもない。
伊藤 自分を責めているときは、自分で全部引き受ける前提があって、それができないということだと思うんですが、樋口さんはむしろ「どっかで時間が盗まれている」みたいな感覚になっているのがおもしろいなと思います。それはどこから来ているですかね?
樋口 体調のどうしようもない波というのは、長年のもので、抗いようがないんですよね。どうにもならない。苦しんでいたとは思うんですけれども、慣れないと生きていけないので、アジャストしたという感じですね。
伊藤 自分を責めるような時期もありましたか?
樋口 診断される前は、がんばればできるはずだ、というのはありましたね。ものすごく体がつらくても、根性で乗り切るぞというのがあったのですが、そうすればするほどうまくいかないので、散々痛い目にあって学習した、という感じです。
伊藤 時間が盗まれているというのは、そう解釈することにしたわけではなくて、実際にそう感じるということですよね。
樋口 そうですね。そう感じますね。自分で理由が分からないし、説明がつかないので、なんか盗まれているなあと感じますね。
白石 対処しようとするとまた症状になったりするけれど、そこで諦めたことが勝利ですね(笑)。
樋口 確かにアルツハイマー病の方でも、記憶できなくても、必死に覚えようとする方がいるんですよね。やめればいいのにって思っちゃうんですが(笑)私も抗っていたし、よく分かるんですけど、できないことはできない、というのが病気になって初めて分かりましたね。それまでは、巨人の星とかで育ってきたので(笑)、部活も水泳部で、忍耐と意志と努力と根性で突破できない壁はないと思っていたんですけど、そうじゃない。
伊藤 どこまで自分をコントロールできるのか、予定どおりパフォーマンスできるのか、といったところが、時間との関わり方に強く影響するわけですね。
樋口 一方で、講演なんかも、今日は無理だろうと思って這うようにして行くと、案外話せてしまう、ということがあります。元気はないんですけど、なんか話せちゃう。できるはずないと思っていたのにできちゃうことがあるのが不思議だな、と思います。そのあとはどっと疲れて動けなくなります。でも人前にいるあいだは大丈夫なんですよね。それで余計、「樋口さん何も問題ないじゃない」と思われてしまう。
伊藤 時間のことを考えていくと、社会的なものと生理的なもの複雑な関係が見えてきて面白いですね。社会的なものは引き算可能な均質な時間を前提にしているけど、生理的なものは足し算系で先が読めない。でも両者は単純に対立するものというわけでもなくて、社会的な場面に立つことで、仮の時間というか、自分でそうだと思っていた生理的状態とは違う状態にもなったりするわけですもんね。
(2018/11/14千葉県内のロイヤルホストにて)