sadakitiさんは吃音当事者の方。お父様のお葬式でお父様も吃音だったと知ったこと、浦和レッズの熱狂的なサポーターとして巻き込まれていくうちに吃音との関わり方が変わったこと、ライフストーリーの中で変化していく「吃音の厚み」のようなものを実感するインタビューでした。しゃべるときの手をひらひらさせる動きは、平井堅さんが歌ってる時のようなイメージだそうです。「始めて視た時『俺以外にいるんだ』って思いました」 。sadakitiさんのブログも吃音ネタが充実しています。
【Sadakitiさんプロフィール】
1968年生まれ。北海道在住。男。普通のサラリーマン。自分次第なんだなぁ~と浦和レッズから学びました。おすすめ映画は「LIFE!(主役ベン・スティラー)」
◎初対面は得意
伊藤 まず、Sadakitiさんというのは本名ではなくて、ニックネームですよね。どんなきっかけでついたんですか?
Sadakitt きっかけは、専門学校に行ったときに、自分と同じ苗字の人が三人いて、先生がつけてくれました。それが自分も気に入って使っています。
伊藤 なるほど。現在のご自身の吃音の状態は、どんなふうに分析されていますか?
Sadakiti どもりはあるんですけど、基本言いたいことは言えていて、それでどもってもまあ、しょうがないや、どもっちゃった、というレベルですね、今は。
伊藤 お聞きするかぎりでも、はっきりとは連発している様子はありませんね。
Sadakiti そうですね。連発はなくて、基本難発ですね。
伊藤 言い換えはされている感じですか?
Sadakiti 前は言い換えもしていましたけど、今は、まあ、助走っていう、前置きをつけることで言いたい言葉を言っているというのがほぼほぼですね。
伊藤 前置きっていうのは、「えーっと」とかですか。
Sadakiti 前に文章をつけちゃう感じですよね。そのときそのときでね、まずは最初にちょっとストレートに言おうとして、でも言えなかったら余計なのをつけて、ちょっと直すみたいな感じで、十年−二十年くらいいっているのかもしれないですね。
伊藤 このインタビューが始まってからも、結構つけてる感じはありますか?
Sadakiti うーん、今はまあ、リズムの方を使ってる感じですかね。
伊藤 リズムっていうのは?
Sadakiti 抑揚ですね。波みたいなので言うと、言いやすくなるんですよね。感情をこめて話すというか。
伊藤 丁寧にしゃべる、という感じですか?
Sadakiti 丁寧…なんですかね?まあ、だから「演じるように」という感じですよね。
伊藤 なるほど。こうやって対面でなく映像が見えているというビデオチャットのスタイルは、演じながら、あるいは抑揚をつけながらというしゃべり方にとっては、話しやすいですか?
Sadakiti 今は直接見られている感じもなくて、自分のほうも事前に質問をもらっているのを見ながらなので、ふだんよりは話しやすいのかもしれないですね。
伊藤 電話、対面、ビデオチャットだとどれが一番話しやすいですか?
Sadakiti 正直いって、相手によるような気がします。
伊藤 メディアよりも相手に依存するんですね。初対面だったり上司だったり、そういった関係性によって変わってくる感じですか?
Sadakiti そうですね。自分の場合は、初対面の人の方が、話しやすいです。
伊藤 そうですか!面白い〜。心理的には緊張しますよね。
Sadakiti ね、うーん、昔はそうだったかもしれないですが、浦和レッズとかで、知らない人と関わる経験を積んだ結果、初対面の人のほうが話しやすいような感じが自分はします。
伊藤 相手がだれであっても「初対面の人話すパターン」が使えるっていうことですかね。
Sadakiti そうかもしれないし、なんだろう、お互い何にも知らないから、何でも言えるという考えもあるのかもしれません。
伊藤 なるほど。逆に一番ハードルが高いのはだれですか?
Sadakiti やっぱり苦手な人ですかね(笑)
◎手をひらひら→朴訥→ひらひら→?
伊藤 小さいころから現在までの、吃音の状態の変化は、大きかったですか。
Sadakiti そうですね、やっぱり10代のほうが重かったように思います。難発だったと思います。
伊藤 その状態に対して、自分なりのしゃべり方を探すような工夫はしましたか?
Sadakiti 思い出すと、幼稚園の年長のころには自覚があったんですよね。そのときは正直、一切しゃべりませんでした。それで、小学校あがって、落ち着いたら言えるということが分かって、しゃべるようになりました。あとは日常会話だったら、無意識で随伴というか、手をひらひらさせながら話しているということを、よく人から言われていましたね。「なんで手をこうやってひらひらさせてるの?」って。
伊藤 手をひらひらさせていたんですね。それは両手ですか?
Sadakiti いや、両手なのか片手なのか…無意識ですね。
伊藤 なぜひらひらさせると話しやすいんですかね。
Sadakiti 随伴をすると出しやすくなるんですが、一般的には「やってはいけない」みたいなふうな感じですよね。
伊藤 随伴にもいろいろなパターンがありますよね。どこかを叩くようなキック系の方もいますけど、ひらひらはちょっと違いますよね。力を爆発させる感じではないですね。
Sadakiti 分散させて、緊張を緩和しているんだと思います。無意識のときは手をひらひらさせる感じなんですけど、演劇とか卒業式で一言ずつ話すようなときは、足とかでリズムをとって言う、という感じです。
伊藤 いまこうやってお話しているときは、体の動きは見えていないのですが、現在はもうしなくなったんですか。
Sadakiti いまも結構足を使ってるんです、実は。あぐら組んで話しているんですけど、足に力が入ったりとかは、正直してます。
伊藤 あ、動かさなくても、力を入れたりすれば効果があるんですね。
Sadakiti 何でしょうかね…そうですね。
伊藤 ブログの中では、「難発の恐怖で『力を常に抜く』を心掛けるようになって数十年。自分はいつも体が揺れています。」という書き込みがありました。でもその前は「ゆっくり朴訥と話す」方法だった、と。
Sadakiti そうですね。小学校の高学年とかは、本当にゆっくりと、ボソボソしゃべる感じだったように思います。
伊藤 ことばの学校などは通っていましたか。
Sadakiti いいえ、通っていませんでした。
伊藤 独自に工夫するなかで、朴訥としゃべるパターンを身につけたんですね。
Sadakiti そうですね。ゆっくり、落ち着きながら、言葉を切りながら話す、という方法ですね。
伊藤 「手をひらひらさせている時期」があって、そのあと小学校高学年になって、「朴訥としゃべる時期」があって、という流れですね。その変化はどうして起こったんですか?まわりの子に指摘されたからですか?
Sadakiti それもあるんでしょうし、ああ、こうやったら話せるんだ、というのが分かって、ということでしょうか。
伊藤 なるほど。そしてそのあと、また「手をひらひらさせる」しゃべり方に帰っていったという感じですよね。体を使う→使わない→使う、という流れです。再びからだを使う方法に帰ってくるときのきっかけは何かあったんですか。
Sadakiti たぶん純粋に話しやすかったんだと思います。
伊藤 ブログに「コントロールされた流暢な話し方」についての記述があって、とても面白かったです。これは具体的にはさっきの三段階のどこに対応した状況ですか?
Sadakiti 自分はまったく、あの、意識していないというか、しゃべれればいいと思っていたんですけれども、言友会を手伝うようになって、何年か前に来た女性の方が、全くどもらないんですけど、自分が表現できなくて、友達もできない、という話をされているのを聞いて、自分はどうなんだろうと思うようになりました。
伊藤 実際にご自分のことを振り返ってみるとどうですか。感情が出にくいしゃべり方になっているかも、という感じですか。
Sadakiti 今はとりあえずしゃべりたいことはしゃべれたほうがいい、ということをやっているので、自分のしゃべり方については8割方満足しているんですが、自分の話したい言葉のまわりに余計な言葉をつけているので、それは残念という感じがします。そうするんだったら、じっくり、いらない言葉はつけないで話したいなと、今はそういうふうに思うようになりました。
伊藤 それは自分の中の感情の高まりとかが言葉に乗らないという感じですか?
Sadakiti そうですね。自分はやっぱりちょっと、テンション上がるとどもりやすくなるので、結構いい年なので(笑)、ゆっくり話したいな、というのはありますね。
伊藤 ご家族と話すときはどうですか?タイミングを作るための言葉をつけないで話せるということはありますか。
Sadakiti いや、変わらないですね。奥さんには「マシンガントーク」って言われます(笑)。言いたい言葉のまわりにいろいろな言葉をつけて、さらに抑揚で言うので、結局言葉が多くなるし、早口になるんでしょうね。ちょっと何とかしたいです(笑)。だから40年前にやっていた、朴訥としたしゃべり方に今はあこがれますね。またもとに戻してみようとかなという気持ちはあります。
伊藤 朴訥としゃべりたいと思っても、すぐにはそうはいかないのはなぜですか。
Sadakiti 何だろう…言葉が出なくなる恐怖が消えていないのかもしれないですね。
伊藤 なるほど。今のしゃべりでとりあえずは安定しているから、手放したくないということですね。
◎親父の葬式
伊藤 娘さんが二人いらっしゃいますよね。そのお二人との関わり方についても伺いたいんですが、その前に、Sadakitiさん自身が子供のときは、ご家族はどのように関わっていらしたんですか。
Sadakiti うーん、結局吃音じゃないじゃん、とはぐらかされていた感じですね。小さいとき、幼稚園のときに一回たぶん相談してるんですけど、「そんなの分からないし気にしなくていいよ」みたいな感じでしたね。あと、よく覚えているのが、頭の回転にしゃべりがついていかないからそうなるんだ、もうちょっと大きくなったら治るんじゃないか、とも言われました。
伊藤 そう言われたときは、どんな受け止め方だったんですか。
Sadakiti そういうものなのかな、と思っていました。
伊藤 となると、Sadakitiさんとご両親との関わり方とはちょっと違う仕方で、娘さんの吃音と関わっていらっしゃいますね。
Sadakiti そうですね。結局だから親父は、自分が吃音だったことは、僕にも母さんにも言ってなかったんですよね。親父のお通夜で、おじさんたちが、親父がどもっていたこともあったよ、という話をしてくれたんです。
伊藤 なるほど。お父様のお葬式は、Sadakitiさんの吃音との関わり方にとって、大きな変化が起こったきっかけになっていそうですね。
Sadakiti 親父は53歳で亡くなって、そのとき自分は22歳だったのですが、それは自分のなかでものすごい大きなきっかけにはなりました。遺伝だったらしょうがないかな、と思えて、そこから自分の人生は大きく変わりました。遺伝は吃音だけじゃなく、乱視とかもそうですしね。それと同じものなんだ、と納得させることはできました。
伊藤 なるほど。遺伝だと知ったことで、悩みとしては相対化されたという感じですか?
Sadakiti そうですね。治らないのだから立ち向かうしかない、という感じですね。
伊藤 ブログに、お父様が亡くなったときに、泣きたいのに泣けなかったというお話が書かれていました。喜怒哀楽の感情を失っていることに気づいた、と。これは、そのときにいろいろな変化があったということとも関係しているんでしょうか?
Sadakiti いや、それまでの生活が、基本的にはどもらないようにやりすごすということを小中高とずっとやってきて、かつ、親父が死んで喪主でみんなの前でしゃべらなくちゃいけない状況で、そのせいだったのかもしれけど、笑えないし、泣けないし、というのは10代ずっとそうだったのかも、と思いましたね。
伊藤 それは心の中では泣きたい、悲しいという感情があるのに外に出ないという感じですか?
Sadakiti どうだったんだろうな…。親父が亡くなっているわけなので、やっぱりすごく悲しかったし、母さんと弟でどうやって生きていこうかと考えていましたね。
伊藤 なるほど。吃音に関していうと、そのお父様からの遺伝だと分かったということが、今度は娘さんたちとの関わりにも関係しているということでしょうか?
Sadakiti そうですね。大変申し訳ないけれど、娘たちにも遺伝として移っちゃったので、自分は何とかして、できるだけ吃音の苦しみを軽減させてあげたいと思って、言友会とか参加している感じです。
伊藤 娘さんたち自身は、今かなりオープンに吃音のことを話す環境にいるということですね。
Sadakiti そうですね。自分でも言いますし、長女の場合は小学校のときも中学校のときも自分で言ったり先生に言ってもらったりして、吃音の周知というか、「自分はこういう状況で、こう困っているので、こうしてもらいたい」という話を、一応するようになっています。
伊藤 それをすごく丁寧にやってらっしゃいますよね。たとえば授業中の発言のサインのルールについても、細く学校と相談されています。「(言えないから)最初から当てない、はしない」「小学校同様に『発話できない』のサインを決めて先生達と共有する」「手を挙げても『(発話できないで)当てないで』のサインを決める」など。
Sadakiti グーで手をあげたら、「答えは分かるけど発話できなさそうなので当てないで」、パーだったら「たぶん言えそうなので、当ててもいいですよ」という感じです。
伊藤 当てないでほしいけど答えは分かっていることを伝えられるのは、すごく大きいですよね。素晴らしいと思います。
Sadakiti そうですね。小学校でも中学校でもやっていただいています。
伊藤 ご兄弟でも吃音の出方や関わり方は違いますか?
Sadakiti 年齢や環境の違いもあるんですが、正直長女のほうが重たいです。次女は吃りを隠しながらでも何とかなってるので、配慮なんかいらないとう感じですね
伊藤 小さい頃から自分の吃音について話せる人が周りにいるというのは、かなり恵まれた環境ですよね。
Sadakiti 恵まれているかどうか分からないですが、とりあえず吃音持ちになっちゃったので、親としては何とかしたいという感じですね。
伊藤 奥様はどんな関わりをされていますか?
Sadakiti 自分と一緒になって、言友会だったり小学校への申し送りだったりとかをやってくれています。
伊藤 吃音は感覚や大変さがなかなか伝わりにくい部分があるかと思いますが、学校など当事者出ない人と関わるなかで、そのような経験はありませんでしたか?
Sadakiti 吃音についてカミングアウトしたこともありましたが、「あーそうなんだ」で終わることも多かったですね。結局配慮されない、みたいな。正直、言えるときもあるし、言えないときもあって、わかりづらいですからね。
伊藤 カミングアウトしたときは、配慮してほしいと言うために伝えたということですかね。
Sadakiti まあ、ケースバイケースですね。言われたからそうなんですよ、ということもあれば、どうしても電話は苦手なので外してほしいという意味で伝えこともありますし。基本的には本当にカミングアウトは、奥さんとつきあうときしかないように思いますね。
伊藤 そのときの奥さまの反応はどうだったんですか?
Sadakiti 「へー、分かんないや」みたいな感じでした(笑)
◎浦和レッズに巻き込まれているうちに…
伊藤 浦和レッズのサポーターとしての話もうかがっていいですか?前、埼玉に住んでいらしたんですよね。
Sadakiti 91年から99年に住んでいました。
伊藤 Jリーグ前ですね。すごいですね。
Sadakiti 90年くらいに、Jリーグが始まるという話になって、東京行ったことないし行ってみたいなと思っているときに転職が決まって、それで偶然会社が埼玉に社員寮があるところで。埼玉だから浦和レッズか、みたいな感じでレッズと関わるようになりました。サポーターに熱い人がいっぱいいて、またそこでいろんな経験をさせてもらって、いまでも付き合いが続いています。ありがたい話です。
伊藤 そのこともどこかで吃音とも関係しているんですか?
Sadakiti 10代のころは『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』(押見修造)の志乃ちゃんみたいに、仲のいい友達がなかなかできない状態でした。それが上京して、趣味でいろいろなつながりができて、二十代前半で、初めて青春させてもらったという感じでした。それがなかったら、今の自分じゃないですね。
伊藤 試合にはかなり通っていたんですか?
Sadakiti 昔なので、駒場スタジアムに寝泊まりしていました。試合が終わったら、すぐテント張ってまた列に並ぶ、みたいな感じでした。そういう人が100人くらいいました。最初の数年までは抽選がなくて、早いもの勝ちだったんですよね。日本中でそういうことが行われていました。
伊藤 すごいですね!泊まるとなると、共通の趣味を持つ人と蜜に関わることになりますよね。
Sadakiti 役割的にも、年齢順で、試合前に応援説明をやってくれと言われて、お客さんの前で毎週やっていくうちに、こうやっても大丈夫なんだ、どもっても気にされないんだ、という経験を積みましたね。そういうのがあって20代後半から30歳ころには、はかなり改善したと思います。
伊藤 応援のときは、かなりたくさんのサポーターを引っ張るような形だったんですね。
Sadakiti そうですね。引っ張るほうで期待されて、それもちょっと嬉しかったんですよね。「おまえはこっち側の人間なんだから、もうちょっとちゃんとやろうや」とか有名なサポーターに言われたりして、「ありがてー」みたいな感じでした(笑)
伊藤 大きい声を出していくなかで、また居場所ができて、改善していくというのは素晴らしいですね。
Sadakiti それは自信になりましたね。自信はやっぱり大事だと思うので、吃音改善にもかなり役割を果たしましたね。
伊藤 面白いですね。吃音の改善を目指していったわけではないのに、結果的に改善されたわけですね。
Sadakiti そうですね。巻き込まれて「あーれー」ってなってるうちに、なんかそうなっちまった、みたいな感じですね(笑)。ほんとになんか、そういうことってあるんですよね。
2018/9/20 ビデオチャットにて