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柳川太希さん

柳川太希さんは、私と同じ美学が専門の大学院生。落語のような心地よい節回しで話してくれたのは、小中高とつづいた吃音の苦労と、吃音との関わり方をめぐるポジティブでユニークな試行錯誤。自動販売機の経営を任されていた中学時代体のエピソードや「花がしゃべってくれる」という言葉に惹かれてはじめたいけばなのことなど、豊かなライフストーリーを背景にした吃音の変化について語っていただきました。


柳川太希(やながわたいき)

1992年生まれ。大学院生(美学専攻、いけばなを研究)。

◎落語のような話し方
伊藤 まずはご連絡いただきありがとうございます。今日は、吃音のことや体のことについていろいろ教えていただきたいのですが、こんなふうにご自分のことについて話すのは初めてですか?それともよく話していますか?

柳川 そうですね、去年一昨年くらいから、自分の吃音について人に話せるようになってきたかな、という感じですね。それまでは、言わなかったし、言えなかった、というところが大きいかなと思っていまして。大きく分けて二つターニングポイントがあったかなと思うんですけれど、一つめが、学部の卒論で。ここに来るまでに社会イノベーション学科に所属していたなんていう話をしましたけれども、卒論は社会学で書きまして。「構造的差別」っていう差別理論について扱おうと思いまして、その「構造的差別」に着目しようと思った理由が吃音からは派生するところがありまして。「構造的差別」っていうのは、その、明確な意図を持った差別とは違って、意図しないところで発生してしまう差別、というような定義づけになっていまして。吃音なんていうものも、よく噛む人と吃音の人の差っていうのが曖昧だったりするというところから、こういった現象がほかの例にもあったりするんじゃないかなという関心から入っていきまして。それにあたって、インタビュー形式の調査方法を採用しまして、いろいろな人に「これに似たような事例はありますか」というような形でインタビューとかをするとかっていう形のなかで、自分の吃音というのはどういうものなのかというのを、そうですね、少しは、周りの人に言うような形で、というのが、まず一つめのきっかけでしたね。
で二つ目が、院に入ってM1のときに、総合ゼミという、美学の人に限らず美術史の人も集まって発表する場がありまして、そのときにちょっと内容は明確に覚えていないんですが、ある方が、障害か何かの話をちょっとされたと思うんですよね。で、あ、じゃ自分のことに即して何か言えることあるかなと発言したら、それに対してみんなが言ってくれて、なんていうことが一回ありまして。そのときに、自分こんなんなんですよ、と話したのが二つ目のきっかけで。それは意外と大きくて、それ以降は人に対して、自分は吃音なんですよ、なんていうのを、わりかし抵抗なく言えるようになってきたかな、っていうのが本当にここ2、3年くらいのことですね。

伊藤 人に話すときは、どういうタイミングで、どんなことを言うんですか。Sくん(共通の知人の大学院生)には、たとえば話していますか?

柳川 そうですね。Sさんには、たぶん、Hさん(共通の知人の先生)とかがいるところでその話が出たと思うんで、もうすでに知っていらっしゃると思うんですね。で、もし初対面の人と、というときだと、そうですね、日常会話だともうほとんど出なくなってきてるんで、もし聞かれれば、ふつうに答えるし、という形で、あえてそのことを最初に言う必要性はないのかなという気がしますね。『どもる体』の言葉に即して言うならば、それを言うことによってコミュニケーションを止めたり阻害したりなんていうことは逆ないほうがいいのかなと思うタイプなんで、別にそれがその人との会話のなかで、どもっているから、ちょっと聞きにくくてごめんなさい、というふうに言うことはあるにしても、円滑に会話が進んでいる以上は別に言わないかな、と、そういう感じです。

伊藤 なるほど。ということは、卒論を書く前は、特に人に言うことはなかったんですね。

柳川 そのころは、日常会話でもだいぶどもっていましたね。で、そのころはまだ全然自分が吃音なんですなんてことは、言えなかったですね。

伊藤 連発系だったんですか?

柳川 そのころは、連発の方が多かったですね。で、難発を防ぐために言い換えを無意識的に多用していた、というような感じかと思います。

伊藤 それは小学校のころから大学の学部まで同じような感じでしたか?

柳川 物心ついたとき、保育園の年中、年長のころから吃音の記憶はあって。私自身の二番目に古い記憶っていうのが、保育園の年中組で、みんなの前で立って何か話している状況で、みんなに笑われているというか、そういうような光景っていうのがパッと浮かびますね。そのころからやっぱり吃音そのものはあった。知能もだいぶ遅れていたみたいで、公立小学校でも入る前に知能検査とかあるみたいですよね、覚えてはいないですけれども。ひらがな読めていないのに加えて言葉も全然わかっていないみたいなところがあったみたいで。そんなところから始まり、小学校1年生のときに、学芸会でそうとうどもっちゃったみたいで、難発の先にある発声不能になっちゃったみたいで、そのこと自体は私は覚えていないんですけど、それで円形脱毛症にもなって、「これはマズい」と親は思ったらしく、荒川区出身なんですけど、同じ荒川区の小学校内にきこえとことばの教室っていう、リハビリ機関といっていいのか、そういったところがあって、そこに小学校1年生から3年生の終わりまでかな、通いまして。効果があったかないかで言うと、ま、大してないかなという感じなんですけれども(笑)、そのこと自体を忘れていられるという自分の性格っていうのが、ある程度今ここまで来れてる自分にすごく大きな作用をもたらしているんじゃないかな、というところはありますね。非常に楽観的、嫌なことを忘れられる性格というか(笑)。それは非常にラッキーなものですね。

伊藤 Sくんが「柳川くんは、落語みたいにしゃべるんですよね」って言っていて、それを聞いたときはどういう意味だろうと思っていたんですが、お会いしてみると、すごく納得感があります。節まわしというか、独特の心地よいリズムがありますよね。一定の調子で話すんじゃなくて、うねるような感じ、聞いていて引き込まれます。お話を聞いている、という感じです。

柳川 へー、そうですか。あまり自覚的じゃなくて、本に書いてあった言い方だと、リズムをつけることによって円滑にしゃべれるように、無意識的にしてきたかなっていうのはおそらくあるかもしれないな、とお話をうかがっていて思いました。自分ではこういうふうに話そうというのは考えたことがなかったので…

伊藤 すごくゆったりとたゆたいながら、引き込む感じですね。相手がちゃんと乗っかってくるのを待つ感じ、というか。

柳川 あ、それはすごく考えていますね。いただいた質問に「雑談と研究発表で話しやすいのはどっちですか」というのがあったんですが、雑談のほうが圧倒的に話しやすい、というのがあって。研究発表っていうのは、書いてあった原稿を読み上げるというのがまだどうしても苦手で、その言葉に縛られているという感覚がすごく強いですね。ふつうに会話しているのであれば、ほとんど何も考えずに、無意識的に言い換えとかをしつつうまく言えているんだけれども、原稿に縛られていると、「この言葉を言わなければいけない」というようなプレッシャーっていうのはまだありますね。本を拝読している最中に、音読とかのほうがいい、っていう方もいると読んで、「あー、そういう感覚なんだ」と、すごく参考になりました。音読モード、みたいな感じなんでしょうね、おそらく。そういうモードを作って話すとまったく問題ないんだ、と。

伊藤 私も音読は苦しかったので、そちらが楽というのは、未だに信じられないですね。そのあたりは人によって本当に違いますね。

◎一人称の統一
柳川 学会発表のときはどうされていましたか?

伊藤 学会発表のときは、確かに原稿を配るんですけど、すごく練習しましたね。

柳川 いまちょうど10月に発表があるんでどうしようかなと思っていまして、一字一句正確に読み上げるような方式にするか、その場で調整がきくくらいのアバウトな原稿みたいなものを作っておいて、自分で調整しながらしゃべったほうがいいのか、どうしようかなと思っているんですよね。まあ時間の制限がしっかりあるんで、後者のほうはちょっとリスキーかな、なんていうのを思いつつ…[補足:インタビュー後の学会当日では、原稿読み上げ形式を採用(前日にかなり練習しました)。ここ最近「な」がどもるので、「なのである」のような文章を減らすなど工夫しました。]


伊藤 私も最初の発表では、原稿配っているのに、言い換えとかした記憶があります。書いてあるのに、そのまま読まない(笑)。

柳川 言ったことと書いてあることが違う、ってなりますね(笑)

伊藤 ちょっと内容をかみくだいて説明してるんだよー、みたいな感じで言い換えるんですよ。「身体」を「私たちの体」って読んだり、「表象する」を「リプリゼントする」って読んだりするんです。言えなくて言い換えているんだけど、言い換えていることに整合性が感じられるように言い換えてましたね(笑)

柳川 ある程度それは場数を踏めばなんとかなってくると思いますか?

伊藤 そうだと思います。私も楽観的なほうですが、大学院生として2回目に学会発表したときは、緊張のあまり前日は軽いパニックを起こしてしまって、電車の中で急に手に力が入らなくなってカバンを落としちゃう、みたいなところまでなりました。でも実際に発表してみると、ふと原稿から顔をあげたら、みんなすごく聞いてくれてるんですよね。それが緊張が快感に変わる瞬間でした。場数をこなすうちにそういう瞬間がくるんじゃないかと思いますよ。

柳川 私が研究発表が苦手ということでお話したもうひとつの理由がそこで、自分ばっかりが一方的にしゃべっているという時間が意外と苦しかったりする、というのがありまして。「みんな、こんな話ちゃんと聞いてくれてるのかな」とか、いらんことを考えてしまうのは吃音の人は往々にしてそうかなと思うんですけれども、そういういらんことを考えてしまって、それもまた苦しいなというところはありますね。こうやって対面でお話しているときには、分からなかった瞬間に「ここ分からないよ」ってその場で言ってくれるけど、研究発表だとしゃべりっぱなしで、「この部分、大丈夫なのかな」なんて言うふうに思う不安を抱きながらもしゃべり続けなくちゃならないなんていう、まだ、なんか悩ましいところはありますね。

伊藤 それってもうちょっと噛み砕くとどういう感じなんですかね。相手が分かっていることが、なぜ、しゃべりやすさにつながるのか。単純に安心感とかはもちろんあると思うんですけど、自分がしゃべるということが成立するための条件がある、ということですよね。

柳川 おそらくそうだと思いますね。うーん…なんらかの形であらたまると、私自身ちょっと緊張する部分があるのかもしれないですね。配布資料を用意するなんていうのも、いまだに私にとってはちょっとあらたまる行為だったりするので、そういうことなくフラットに、自然な状態で話せるというのが、一番私にとっては話しやすいかなと思いますね。たぶんそういうところなんじゃないかな、という気がしております。

伊藤 フラットな状態というのは、自分が一方的に情報を提供する側、相手がキャッチする側、というふうに役割が固定されているのではなくて、一緒に場を作っているような感覚ですかね?

柳川 だと思いますね。相互作用じゃないですけれども、会話のキャッチボールが常にうまくいっているような状況であるほうが、私自身もリラックスして話せるし、おそらくそういうところなんじゃないかなっていうふうに思いますね。

伊藤 雑談は、そこにいるのが何人でもしゃべりやすさは変わらないですか?

柳川 大学に入ってからは関係なくなったかもしれないですね、飲み会に行きまくっていたので(笑)

伊藤 飲み会が好きなんですか?

柳川 好きになるようにした説もあります(笑)。もとが好きだった可能性もあるし、好きになるように努力したというのもちょっとあるかもしれないですね。やっぱり大学に入った時点では、日常会話でもだいぶどもっていたので、まずはそれをなんとかするために、いろんな人といろんな話をするという場数を踏まないと、と当時思っていたので、いろんなところに顔をだして、という感じでやっていたら、いつの間にか好きになっていました。酒が好きというより、飲み会のああいう場が好きという感じかもしれないですね。なので、今では二人であろうが、十人であろうと大丈夫ですね。でも当時は、大人数は苦手かもしれないですね、思い返すと。十人だと会話が2グループに分かれたりしますが、六人くらいだと1グループで、あと五人が自分の話を聞いていると思った瞬間どもっていた記憶があります、あの当時はおそらく。今は勢いに任せてしゃべっちゃえば何とかなるかなという感じで、人数は関係なく雑談は楽ですね。

伊藤 ゼミでの議論みたいな、研究発表と雑談の中間みたいな状況はどうですか。内容は雑談じゃないんだけど、みんなで話すような状況です。

柳川 それは全然大丈夫です。やっぱり原稿を読み上げるっていうのが、ダメっていう感じですね。

伊藤 大学ではサークルに入っていたんですか?

柳川 大学時代は、えっとまじめな方からいくと(笑)、政治経済研究会という部活があって、これはまじめですよね。ちょこちょこと勉強会をやったりして、わりと硬派な人が多かったので、お酒飲んで騒ぐということもなかったです。それから、バスケサークルですね。仲良い友達とやっていました。あとは飲みサー(笑)。それはガンガン飲んでガンガン酔っ払いましたみたいな感じでした。政治経済研究会のお硬い集まりがあると、このあと飲みたい、ってバランスとりたくなりますね(笑)。やっぱり下町育ちなので、まわりの人もガンガン飲む、倒れるまで飲むというのが、文化としてまだ残っているんでしょうね。

伊藤 サークルを掛け持ちしていると、キャラを使い分けている感じですか?

柳川 けっこう無意識的に使い分けていると思いますね。でも、それが引っかかり始めたのが学部3年くらいで、使い分けている自分がちょっと安定していない、ふらついているなと自覚するときがあったんですね。そのときに何がいけないのかなと考えているうちに、ひとつの原因が、一人称を多様に使い分けるこの日本語にまず問題があるっていうところをさぐりあて、じゃあすべての人にすべての人に「私」で統一しようと考えたのが学部4年のころですね。
その「私」を起点にして、いろいろ使い分ける分には全然問題ないんですけれども、以前だとやっぱり一人称の使い分けから自分がふらついていて、そっちだとちょっと自分自身がどこにいるのか分かりやすくなった、と思っていた時期があります。

伊藤 なるほど。一人称の問題は男性特有かもしれないですね。

柳川 「ぼく」「オレ」「私」、それから先輩に対してだと「自分」っていうのもありますからね。

伊藤 どれを使うかと、そのときのモードが連動してるんでしょうね。そのそれぞれと吃音の出方は関係していましたか。

柳川 ありました。先輩とか先生と話しているときは吃音がでやすいなというのがあったので、自分自身をどう称するかによって自分のモードが大きく変わっちゃっているんだろうなというのを当時思ったっていうところがありますね。なのですべて「私」に変えてからは、そういうことはあまり起きなくなったかなというのはありますね。

◎振り子の原理
伊藤 かなり戦略立てて動いていますね。

柳川 そうですね。そうせざるを得なかったというのが大きいんでしょうね。そういう性格だったというよりかは。もともと直感型だったかもしれないですけど、ちょっと考えて、というほうになったかもしれないですね。

伊藤 ものすごく楽観的かつ前向きですよね。でも想像すると、その楽観的かつ前向きな中にも、吃音が出ちゃったときなどに、残念だったり恥ずかしかったりする気持ちが入ってくるっていうのがあったんじゃないでしょうか。

柳川 それはいまだにありますね。それは逆に、そう思えなくなるほど鈍感になってはいけないかな、と一面では思っている気がします。っていうのは、どうなんでしょうね、吃音ってどうにもならない障害とは違って、ある程度なんとかなる障害だと自分自身で理解しているんですけれども、そうなってくると、その人自身がある程度がんばらなきゃならない。そうなると、どもったときに、あ、やっちゃった、と思うことは重要かなと思っているので。でも、敏感になりすぎるのも一方ではよくない。そうなるとやっぱり、いい感じで鈍感になりつつも、起こった現象に対して、スルーするのではなく向かいあうようになりたいなと今のところ考えています。

伊藤 その感じは、もっと連発がひどかったときと変わっていますか。

柳川 鈍感になる力が昔は弱かったですね。学部の2年のときに、『坂の上の雲』っていう、あの司馬遼太郎の小説を読んだときに、秋山兄弟の性格の違いが、すごく好対照で描かれていたりして、兄の好古は「人生単純明快であれ」なんていう言い方をしていて、オレの人生はこうだ、とすごくシンプルな感じで考える。一方で弟の真之の方はすごい繊細で文学的なセンスを持っていて、自分が立案した作戦でロシア兵が大量に亡くなってしまったということをすごく最期までくやんでいる、というところで好対照に描かれていて。その鈍感になる力っていうのを、この『坂の上の雲』からだいぶ教わった気がしまして、その単純明快であれというのとはちょっと違うんですが、敏感すぎるからうまくいかないこともあるんだ、っていう反対のものっていうのを作ることによって、うまくいくんじゃないかなと考え始めたのがそのころなんで。それ以前は、敏感すぎるほど敏感でしたね。いましゃべっている自分がいいのかどうなのか、っていうところがあったので、だんだんと鈍感になれてきているのかなという感じだと思います。

伊藤 鈍感さというのは、敏感さを消すという単純な話ではなく、もうひとつ別の力を持つという感じなんですね。

柳川 それを養ってきた感じはありますね。ちょうど学部2年のころの英語の授業の先生が、授業時間の半分くらいはどうでもいい話をする先生で(笑)、でもどうでもいいなかになかなかいいことを言うなと思いながら聞いていたタイプなんですけれども、振り子の原理の話をしていて。振り子を高いところからパッと放すともう一方のほうにいっちゃうから、真ん中のところに戻したいのであれば、ゆっくりゆっくり戻していくしかないんだよ、と。で、これは逆のほうに使えるなと思いまして、鈍感力というのを養うことによって、パッと手を放しさえすれば、もう一方のほうに行けるなと思いまして。これ振り幅が大きいほうがいいのかは置いておいて、両極端を作るというのが、当時の自分にとってはひとつの方法論としては役立つかなと思ったのが、『坂の上の雲』とその先生の話を通じてでした。いい意味でも悪い意味でも振り幅を大きくすれば何とかなるだろう、というふうには考えましたね。

伊藤 なるほど!おもしろいですね。「手を放す」っていうのがポイントですね。真ん中に持ってこようとコントロールしようとすると難しいけど、極を作って運動モデルで捉えることによって、おのずとバランスが取れてくるという感じですね。そうやって自分の中で吃音について研究していくなかで、別の吃音の人とかかわるという機会はありましたか。

柳川 これがないんですよね。さきほどお話したきこえとことばの教室に通っていたときなんかも、たぶん教室のプライバシーに対する配慮が行き届いていたんだとは思うんですけど、知り合う機会もなく、パッとすれ違ったとしてもその子がしゃべりに問題があるのか、聞こえに問題があるのか、分からないというところがありましたね。そんでもって、他の人の吃音の姿を見るというのが、いまだにちょっと(抵抗)あります。やっと去年今年くらいから、自分自身の吃音に対することには、メンタル面ではひと段落ついたかなと思っているんですけれども、じゃあ他の人のっていうときになると、見てて大丈夫かなという心配はありますね。昔の自分とかぶせてしまって、フラッシュバックが出てくるじゃないかと。フラッシュバックは中学の頃に結構ありまして、ちょっと怖いなというのがあります。

伊藤 中学のときのフラッシュバックというのは、自分がどもってしまった経験を思い出すということですか?

柳川 そうです。クラスみんなの前に立って話しているときに、保育園のとき光景が出てきたりとかしましたね。あるいはそれと似たような状況があったりすると、パッと出てきたりして。発作みたいな感じで動悸が激しくなったりして。高校に入ってからはほとんどなくなったかなというのはありますね。

伊藤 記憶として昔の自分がよみがえってしまうかもしれないから、吃音の人に会うのは怖いということですね。

柳川 そうですね。大丈夫だとは思うんですが、客観的に見る力、一定の距離を置いて見る力っていうのが今の自分にあるかどうかが分からないので、そこに対する心配っていうのはちょっとあります。

伊藤 なるほど。もし吃音を絵に描くとしたらどんな感じになりますか。

柳川 点線の円ですね。なんとなくぼんやりと描いて、認識はしているけれども、ビビッドには認識してないという、敏感すぎる自分から鈍感な自分を作り出すことによって、描かれていた円がちょっとぼんやりしてきたかな、という印象です。

伊藤 その円はどこに存在する感じですか?

柳川 まん真ん中、自分のまん真ん中です。やっぱり吃音をなしに自分の人生は語れない、じゃないですけど、それはあるんで、常に吃音とどう向き合ってきたかというのが、私の今までとほぼ重なり合うというところがあるんで。まん真ん中にあるんだけれども、線が薄くなってきたのが今の状況かなと思っています。

伊藤 今後どうなっていくと思っていますか?

柳川 うーん、向き合い続けるしかないんだろうな、というふうには思いますね。どうなるんでしょうね…私自身としては、吃音っていうものを、ある意味では授かって生まれてきたというふうに考えるのであれば、それを生かした形で社会に対して貢献していくようなものっていうのを、何かできたらなというふうには思っているんですけれど、今のところ、私が認識している範囲で、吃音とそうでない人の差異って、やっぱり敏感さだったり繊細さだったり、そういうふうなところなのかなというぐらいしか考えとしては思い至っていないんですけれど、これを機会に伊藤さんがどう思っていらっしゃるのかなというのを伺ってみたい次第なんですけれども…

伊藤 本当に吃音は多様ですよね。共通見解がないし、悩みも単純に吃音そのものの悩みじゃなくて、統合失調症のようなところまで行く人もいるし、悩むというのとは違う仕方で、言葉に誠実であるためのチェック機能みたいな感じで吃音を考えている人もいますよね。あとは当事者の集まりに参加したいという人もいれば、あまりそういうところには行きたくなくて、自分で付き合い方を探したいという人もいて、総合的ゆえに、いろいろな付き合い方ができるというのが、吃音のおもしろいところじゃないですかね。

柳川 なるほど。これほどいろいろな捉え方ができる障害というはないのかもしれませんね。あらためて本を拝読して、身体面でこういうふうになっているのか、と私自身整理されたな、みたいな感じがありまして。連発があって、それを防ぐために難発があって、確かに自分の人生振り返るとそんな感じだったな、と。

◎自分がどこにいるのか分からなくなった
柳川 3、4ヶ月前に、まったく別個に自分の吃音についてまとめたものを持ってきたので、よかったらご覧ください。

伊藤 ありがとうございます…(読む)
あ、また伺いたいことがいろいろ出てきたんですが(笑)、いまは、日常会話ではほとんどどもらない第三段階だけれど、ときどき第一段階まで戻されることがあるんですね。

柳川 さっきの振り子の原理かなと自分自身では理解していて、鈍感になった自分自身ではあるものの、やっぱりある瞬間に手が離れて振り子が逆までいっちゃう瞬間があるなと思いますね。

伊藤 なるほど。あと、小学校三年生のときに、自分がどこにいる人間なのかよくわからなくなった、とありますね。結構切実ですよね、三年生にとっては。

柳川 やっぱり、きこえとことばの教室に通っている時間も、出席扱いになっちゃうんですよね。何でいないのにいることになってるの、とかそういうことを思いましたし、籍を置いていた小学校には、普通学級とはまた違う、ダウン症の子とかが行く学級とかもあったりして、なんで自分はそっちじゃなくて普通学級なんだろう、と。知能も遅れていましたしね。ただ三年生くらいになると、それほど差はなくなってきましたけどね。あとは、クラスのみんなと先生やまわりの大人は分かってくれてたんですが、上級生にいじめられたというのも大きくて。「なんだそれは」とか言われて、そんなこと言われても、とか思いながら(笑)、そういうのもあったりして、自分がどこにいるのかっていうのがよくわからなくなった、っていうのがありましたね。
小学校三年生で、親であれ先生であれ、すごい近い人であっても、何か分かってくれてないんだな、というのはそのとき思ってしまいましたね。どう言えばいいんでしょうね…あ、ひとりぼっちなんだな、というのを悟ってしまった感じがあります。それで、小学校五年生のときに、父親につれられて吃音のある人の落語を見に行ったのですが「おじさんも昔そうだったんだ、がんばって」というようなことを笑いながら言われまして、今思えば悪意がないことは分かるんですが、やっと同じ悩みを持つ人に出会えたと思ったら、あれ、この人も違うんだ、となって、ほんとうに誰もいなくなったという感覚になりましたね。
ある意味で小学校三年生の時点で、親とは一定の距離を置いてしまった感じはあります。なので反抗期が小四から始まったんです。まわりの子からくらべると早かったんですね。吃音のことは自分でなんとかしたいというのがあったんで、親に感知されたくないというのは中学、高校とありましたね。自分でなんとかしなくちゃならない、親がどうこう言ってもどうにもならないもんだと思っていたんで。

伊藤 高校生のころは、どうでしたか。

柳川 高校一年のころかな、文理選択をするじゃないですか。そのときに、おまえはあんまりしゃべらなくていいような職業についたほうがいいんじゃないか、みたいなことを親が言ってきて、「はあ?放っとけよ」みたいな感じでたぶん反抗したんだと思うんですね(笑)そのころはやっぱりまだ日常会話でどもっていましたし、吃音のことをつつかれるのがすごく嫌だというのがあったんで、すごく敏感に反応して、反撃して、という感じでしたね。吃音に対する反撃のふしもたぶんあるんですよね、「こんなもんに自分の人生しばられずに生きていくんだ」という気概もあったと思うんです。あのころ思っていたのは、吃音だからといって、自分を劣った人間だと思うのではなくて、劣った人間だからこそ歯を食いしばってがんばんなくちゃいけないんだ、と。
いまだに私の吃音に対する考え方って、他の人とちょっと相容れない部分があると思うんですけれども、やっぱり劣っているがゆえに人の何倍もがんばらなくちゃならない、それでもってなんとか上にあがっていくんだ、という発想を一応いまだに持っているので、その発想が私をここまでがんばらせてきた原動力でもある。それを他の人と考えを共有していいのかどうなのか、というところでやっぱり心配ですし。高校のころはそんな感じで突っ張った感じで、自分で道を切り開いて決めていくという感じでしたね。

伊藤 小学校三年生のときに、自分の世界というか、自分を鍛えるモードができて、それが高校まで続いていたわけですね。

柳川 鍛えるモードができたのは、小学校五年か六年のころですね。同級生はみんなよくしてくれていて、すごくありがたかったんですけど、社会に出てこれがふつうだと思っちゃいけないというのは、誰かに言われたのか、自分で気づいたのか、とにかくそう思って、それでだれも知っている人がいないところでやってみようと思って、中学は越境したんです。
でもまあ、最初からハードパンチをくらいましてね(笑)。自己紹介で、みんなの前でしゃべって思いっきりどもって、みんなに笑われた、これはいいんだけれども、担任まで笑ったっていうのが傷つきましたね。こどものころ、何が一番傷ついたかって、大人に笑われたっていうことですよね。つらかったですね。

◎体が起点
伊藤 そうやって自分を鍛えて前向きに強く生きていくという柳川さんの姿勢のベースにあるものは何なんでしょうか。吃音以外の部分で、自分を肯定できる何かがあったのでしょうか。

柳川 これは生来の楽観主義でしょう(笑)何とかなるでしょう、みたいなのは性格としかいいようがないのかなと思いますね。まず、中高と経済的にもだいぶ苦しかった時期がありまして。もともと酒屋をやってる家だったんですけれども、廃業になってしまいまして、これからどうするんだみたいな感じでした。もともと野球をやっていたんですが、中二でお店をやめるタイミングで私も野球をやめまして、自動販売機の経営を任されました。酒屋だったんで、家の前に5台自動販売機がありまして、そのうち3台は自分たちでやるシステムで、それをお前がやれ、と(笑)。中二のときから毎日、学校から帰ってきたら、足りなくなった飲み物を補充して、卸問屋に仕入れにいき、なんてことをやってました。缶コーヒーだと自転車に四箱積んで、ペットボトルだと二つと缶コーヒー二箱、それを縛って、みたいな感じでした。そういったところでメンタル鍛えられたのかな、と思いますね。つらいときでも何とかなる、実際何とかなってきましたしね。

伊藤 中学生から大人扱いだったんですね。

柳川 中学三年からは週五で家族の食事作ってましたからね。それまでは、同居していた叔母と母が食事を作ってくれていたんですが、叔母が結婚して出ていくことになり、母が仕事しにいくとなったときに、私しか作る人がいなかったんですね(笑)

伊藤 ご両親に対して反抗もあったけれど、それは対等な関係であって、柳川さん自身も家族を運営する一員として役割をになっていたわけですよね。

柳川 それはありましたね。高校くらいになると、決定権は私にあるという感じでしたね(笑)早い段階で成長できたかなと思いますね。それは吃音にも心理的に良い影響を与えていそうですね。

伊藤 そのあたりは大きそうですね。その話を聞いて、いろいろ納得する感じがあります。振り子のように動きのなかでバランスをとっていくダイナミックで柔軟な発想は、家族の中で子供としてただ反抗して安定していたら出てこない気がします。

柳川 確かにそうかもしれませんね。自分にとって、変化がありながらも、起点となっていたのは自分の体なんですよね。むかしから心の面がだいぶ揺れ動いてしまっているという状態がずっと続いていたんで、気持ちを一つのところに据えるというのは、たぶん得意ではないと思うんですね。それに対して無意識的にがんばろうとしたのは、身体面を安定させるということだと思うんですね。「なんでそんなに運動してるの?」とかいまだに言われるんですけど、しないとたぶん不安になるんですね。いろんな運動をして、自分の身体を向き合うなかで、対話しているのかなと思いますね。身体を起点として、この身体がどうしようとしているのか、どうなろうとしているのかを、常に聞き取れる状態でありたい、なんていうのが、自分がいまだに運動している理由につながってくるのかな、と思いますね。

伊藤 運動しないで体がなまってくると、声が聞き取れなくなるという感じですか。

柳川 鈍る感じはありますね。鈍る前に、「運動しろ」という声が聞こえてくる感じがあります。三日走らないと、ちょっとおかしくなってきますね(笑)この夏休みは二日に一回はランニングしていますね。あとは水泳をやったり筋トレをやったりとかしています。たぶん昔から、連発のときに横隔膜があがっていることだったりを何となく自覚していたところがあると思うんですね。その意味で、どっしりと自分の体を据えたりするほうが大事なんじゃないかな、ということをどこかのタイミングで考えるようになった、あるいはそうしなきゃいけないと直感したか。自分にとっては身体が起点で、それだからこそ伊藤さんの本に共感するところはすごく大きかったのかなと思います。

伊藤 学会発表の前も走らないとですね(笑)私も大事な講演の前は、言う内容よりも体の準備のほうが重要ですね。ヨガに通ったりしています。乗り物を整備する感覚ですね。
 お酒を飲むことは体がほぐれますか。

柳川 本の中では飲み会だとどもりが出やすいという人がいましたが、あれは私にとっては意外で、私の場合には、飲んでいるときのほうが円滑にしゃべれますね。ある程度は勢いに任せている部分があるかと思いますが。最初のころを思うと、飲んでしゃべれる自分を無理やり作っていた側面もあるかもしれないですね。

◎花がしゃべってくれる
伊藤 研究内容はいけばなに関するものですが、いけばなとランニングはずいぶん距離がありますね。

柳川 おっしゃる通りだと思います(笑)

伊藤 花を生けているときはどういう感覚なんでしょうか?吃音と関係ないかもしれませんが…

柳川 いけばなを始めるきっかけが、実は吃音と関係していたんです。大学に入って、ちょっと新しいことをやってみたいなという漠然とした気持ちがあったときに、いけばなの先生をやっている叔母の家に遊びにいって、家の中のあらゆるところに花が生けてあったんですよね。いけばなをやっていることを知らなかったので、「へえーこんなことしていたんだ」「知らなかったの?」なんて話しているうちに、どこかのタイミングで叔母が「花がしゃべってくれる」っていったんですよね。

伊藤 それはすごい…

柳川 これが当時の私にはだいぶ響きまして。当時はふだんの会話でもどもるような状態で、うまくしゃべれないがゆえに、花でもって自分で表現するんだ、みたいなのがありましたね。今はあまりそういうのがなくなってしまいましたが(笑)。

伊藤 花がしゃべる感じは、実際わかるものなんですか?

柳川 それは毎回感じていますね。自分が出ますね、花に。私が研究している勅使河原蒼風も同じようなことを言っていますね。「花は生けたら花でなくなるのでなるのだ、花は生けたら人になるのだ」と。花が、その人自体を反映している、投影されている、なんていう考え方をしています。生けられた花を通じて自分自身を知るなんていうことがありまして、所産としての生花と私自身が表裏一体になっている、あるいは鏡像関係になっている、なんて言えると思います、美学的に言おうとすれば(笑)

伊藤 それはおもしろいですね。

柳川 叔母は、私よりも生けられた花を見てその人が分かったりするので、「あ、今日はこの人疲れているんだろうな」というのが分かったら、甘いものをさっと差し出す、みたいなことをする洞察力はありますね。コンディションがそのまま花に出るということがありますね。逆に「意外と元気じゃん」ということもありますし(笑)。

(2018/09/07 東工大伊藤研にて)