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Nさん

隠れ吃音のNさんにインタビューしました。Nさんの吃音ポイントは、「話し始めるときの波の乗り方」。「えーっと」のような言葉(フィラー)を使うことが多いそうですが、そのときの感覚を「前置きの言葉をさぐりで出しておく」とおっしゃったときにはその表現にぞくぞくしてしまいました。こういう極私的な感覚を共有させてもらえるのは、じかに当事者にお話を聞く醍醐味ですね。


Nさん(大学院修士2年、男性)インタビュー

 ◎中学時代がピーク

伊藤 現在の吃音の状態はどのような感じですか?

 

N 難発が中心でときどき連発が入りますが、そこまで重くはないと思います。まわりの人も気づいていなくて、たまにどもっても「そういうこともあるんだ」くらいの感じだと思います。でも自分では意識して言い換えをやっています。

 

伊藤 ご家族はどうですか?

N 家族は気づいています。小学校高学年くらいのときに、しゃべりづらいなと思っていて、中学生のころが一番ひどかったんですが、そのころに「もうちょっと落ち着いてしゃべりなさい」と言われていました。「あれ?」という感じで、大学に入るときも、話し方の教室に通わされました。

 

伊藤 めずらしいですね。中学でピークが来たんですね。

 

N そうですね。嫌な思い出も中学に集中しています。たぶん高校生くらいになると、言い換えを無意識にできるようになってきて、大学くらいになるとそういう方法論のようなものが上達して、うまくできるようになって今はふつうに会話もできています。

 

伊藤 小学校のころはふつうにしゃべっていたんですか?

 

N そうですね。低学年のころはふつうにしゃべっていました。でも発音がうまくなくて、タ行やサ行の音がうまく出ないことがありました。小学校1年生になって検査があったときに指摘されて、ことばの教室に5年間くらい通っていました。ことばの教室では、ベロの体操のようなことをしていました。それは成果があって、終わってうれしかったことを覚えています。それで治って、1、2年後くらい、小学校高学年くらいのときに、吃音が出始めたような感じです。

 

伊藤 吃音が出始めて、気にせずしゃべっていましたか?それともしゃべるのを控える感じでしたか?

 

N だんだん内向的になっていきました(笑)。

 

伊藤 部活は何かしていましたか。

 

N 小、中、高とサッカーをやっていました。サッカーの試合中も、単語は言えるんですよ。「ヘイ」「パス」とかは言えるんです。でも「こっちに動いて」とかがあまり言えない(笑)。息があがっている状態がだめなのかなと思うんです。だから思い切り手をあげたりしてカバーしてましたね(笑)。体を使う、というのが一番最初の吃音をカバーするテクですね。

 

伊藤 音読はどうでしたか?

 

N 音読はほとんどどもりません。演劇とかコントみたいに、自分の頭の中に「これをいうぞ」と思っている状態が一番苦手なんです。あらかじめ固定された言葉があって、それをこの瞬間に言ってください、というのができない。でも音読は文章がもう書いてあって、それを読んでいけばいいので大丈夫ですね。

 

伊藤 なるほど。頭を経由していなければどもらないんですね。

 言い換えを身につけた瞬間のことは覚えていますか?

 

N うーん、覚えていないですね。最初は苦手だな、という感じがあって意識的に言い換えていたと思うんですが、もう無意識と意識の中間のような感じでやっているので…。たぶん言い換えのパターンがあって、いまはほとんど意識せずやっていますね。

 「おととい」が苦手なんですよ。なので「二日前」とか「○曜日」とかに言い換えています。タ行が途中に入ると苦手ですね。ア行も苦手なんですが、問題はその次に続く音ですね。ちゃんとは把握していませんが「ア行のあとにこの音がくるとダメ」というのがある気がします。敬語の「いただけますか」も苦手ですね。敬語は「こう言わなきゃ」というのが頭の中にあるから、言いにくのかもしれないです。ワから始まるのも苦手で、「わざと」とか言えないですね。

 

伊藤 なるほど。タ行とサ行ですね。二つ目の音がネックになりやすいということですね。

 

◎口が走っているところに言葉を乗せる

伊藤 でも今、「おととい」も「わざと」も言えましたね。何で言えたんですかね(笑)。絶対言い換えができないシチュエーションでプレッシャーが高かったと思うんですが。

 

N それが難しいんですよね(笑)。なぜでしょうかね…。会話の波みたいなのがあって、それに乗っけていくようなイメージなんですよね。相手と会話のキャッチボールをしていて、言葉をそのリズムの中に乗っけるときには言える感じがします。でも静かな状況で「おととい」と急に言うのが苦手なんです。最初のリズムをつける段階が苦手です。だから前置きしますね。「えーっと」とか「うーん」とか。それを言うと言えますね。

 

伊藤 自分で波を作る感じですね。

 

N そうですね。口が走っているというか。口が走っているところに言葉を乗っけていくイメージですね。

 

伊藤 それは会話で新しい話題をふるから難しいんですか?それとも純粋に音の問題ですか?

 

N 音ですね。あまり自分から話題を提供するようなことはしないで、流れの中で乗っける感じが多いですね。

 

伊藤 それは「頭の中に言葉を準備している状態」と関係していますか?

 

N 関係していますね。「言うぞ言うぞ」と思っていて言うのは苦手で、無意識に、吃音のことを忘れているような状態が一番しゃべりやすいです。

 

伊藤 でも準備していても、流れがあれば言えるんですね。

 

N そうですね。プレゼンも、最初の波を作っちゃえば、ほとんどどもらず最後まで行けますね。やっぱりリズムが重要ですね。名前、自己紹介がうまく行けば大丈夫です。自分の名前は言いやすいです。中学3年で生徒会をやって、自分の名前でどもったとき以外は、言えてます(笑)。

 

伊藤 よく覚えてますね(笑)。

 

Nそれはよく覚えてます。先生に「自分の名前を噛んでんじゃないよ」と言われて、「これは違うんだけどなあ」と思っていました(笑)。

 あとは、自分の声が聞こえない状態が苦手です。何十人もいる飲み会のようなざわざわしているところは、一番吃音が出ますね。

 

伊藤 相手に自分の声がとどかないことではなくて、自分の声が自分で聞こえないことが重要なんですね。

 

N まわりからわーっと音が入って来ちゃうんで、自分のリズムを作れない感覚がありますね。自分の声がはっきり聞こえる状態がいいですね。

 

伊藤 相手が自分の話にあまり興味がないときはどうですか。

 

N それも吃音が出る状況ですね(笑)

 

◎扉の錆びをとってから開ける

伊藤 言い換えについて、ほとんど無意識にやっているとおっしゃっていましたが、そのことをどう評価していますか?人によっては言い換えを嫌がりますよね。

 

N「本当の自分じゃない」ということですよね。ぼくはそういう感覚はないですね。言い換えも自分の一部としてとらえています。好きなサッカー選手で中川寛斗っていう選手がいるんですが、身長が155センチなんです。その選手が、「ちっちゃいからこそできるプレーがある」ということを言っていて、ぼくもそういう捉え方をしているところがあります。「吃音だからできる」という何かが自分の中にはっきりあるわけではないですが、言い換えているからこそできるコミュニケーションの仕方や間合いの取り方っていうのがあるんじゃないか、という希望的観測をしています(笑)。ネガティブな感じではないですね。

 

伊藤 予想としては、どんなプラスがありそうですかね。

 

N しゃべっていて、独特の空気感というか、独特の時間が流れていると言われることがあるんですよね(笑)。何と言うか…難しいですね。つきあっている彼女にもこの前言われたんですよね。ぼくはまだあまり分からないんですが、そういうのが出せていたらうれしいな、ぐらいの感じです。

 

伊藤 計算しているわけではないですもんね。

 

N たぶん、みんながしゃべっているときでも、急に音を出すのが苦手なので、前置きの言葉みたいなものをさぐりで出しておくんですよね。「今からしゃべるよ」という感じで「うーん」と考えこんだり。それが独特の間合いにつながっているのかもしれません。急にしゃべらないで、自分の土俵に引きずり込んでからしゃべるというのがあるので、それかもしれないです。ちょっと考えているふうの、若干思慮深い感じの雰囲気を出しているのかも(笑)。

 

伊藤 なるほど(笑)。フィラーですね。考えているふうで、じつは流れを作っていたんですね。

 

N はい(笑)。そうという前置きはしていると思います。「今からしゃべるよ」って自分の時間を作ってから言う。

 

伊藤 話の途中ではあまり「えっと」とかは出ていない印象がありますが、最初のところで出るんですね。

 

N ドアを開けるときの「失礼します」に近い感じですね。最初の雑談、アイスブレイク。

 

伊藤 なるほど。それは、もうちょっと分析すると、自分のためのアイスブレイクなのか、それとも場の空気のためのアイスブレイクなのか、どちらですか。

 

N 自分のためにやっていますね。場の空気までは考えていなくて、結果的にそうなっていけばいいなと思っていますね。

 三島由紀夫の『金閣寺』という小説で、主人公が吃音なんですが、最初のほうに吃音の描写があるんです。自分と外界のあいだに扉があって、それが錆びて開かない、みたいな★。それが自分の吃音の出にくさの描写に近くて、その錆びをいかに取るかなんです。それで「えーっと」と言うことで錆びをとって、それで「失礼します」(笑)。いきなり開けようとすると開かないので、錆びをとってる感じですね。

 

伊藤 なるほど。力技ではうまくいかないんですね。

 

N そうです。だからちょっと小細工をして開ける感じですね。吃音に関する小説はいろいろあると思うんですが、『金閣寺』の描写が一番しっくりきますね。扉を開けて一回コミュニケーションに入ってしまえば、あとはうまくいくんですけど、いくまでが問題ですね。

 

伊藤 「入っている状態」はどのくらい長く続きますか。自分の発言が終わったら、そのつど扉の外に押し出される感じですか。

 

N リズムに乗っているときは、そのまま中にいられます。でもいったん沈黙になってしまうと、またドアが閉じてしまって、また錆びをとって、みたいな感じですかね(笑)

 

伊藤 その中だと「言い換え」はどんな位置付けになるんでしょうか。

 

N 最近は無意識にやってしまっているので、あまり分からないですが…ちょっと遠回りするような感じ、ふつうの人がまっすぐ行くところを、回り道していく感じでしょうかね。

 

伊藤 なるほど。となると、言い換えは扉が閉まってしまうような絶望感や危機感とはちょっと違うということですね。

 

N そうですね。最初がやっぱりハードルですね。

 

◎吃音の解釈をつくる過程

伊藤 就活はどうでしたか。

 

N 最初は、できるだけしゃべらずにできる職業はないかなと思っていたんですが(笑)、人としゃべらずにできる仕事はほとんどないので、開き直りましたね。コンサル関係の仕事につく予定です。

 

伊藤 その開き直りの決断の重さはどのくらいだったんですか?ものすごい決心だったのか、たぶん大丈夫だろうという感じだったのか。

 

N 大学3年生くらいから、吃音は治らない、一生うまく付き合っていこうという考えにシフトしていきました。それまではいろいろ本を読んだりして治らないかなと思っていたんですが、3年くらい前から考えが変わって、その延長上に就職の決断もある感じです。「そこは考えずにやろう」「まいっか」というか。

 

伊藤 お話ししていても、人と話すのが嫌な人という感じがしません。

 

N そうですね、人と話すのは好きですね(笑)。

 

伊藤 就活の活動じだいはどうでしたか。

 

N 大きい会社でバリバリやっていくというイメージがあまり湧かなかったんですよね。それは吃音だからというより、吃音があって性格が内向きになったせいでそういう決断になったんだと思います。会社訪問もあまり大きい会社は行かなかったので、一対一でしゃべる機会が多くて、苦労はしませんでした。

 

伊藤 いま、ご自分のアイデンティティのなかに、吃音は入っていますか。

 

N めちゃくちゃ入っていますね。そうとう入っています。吃音だからこう、ということではなくて、吃音だからこういう本とか音楽とか芸術とかに触れて、それによってこういう性格になった、というのが大きいです。中学や高校のときに触れた本や音楽には本当に救われて、なかったらそのまま暗い人間だったかもしれません。吃音だからもうやってけねえや、みたいな。

 

伊藤 それはすごくいいですね。吃音とちゃんと向き合いつつ、でも吃音のせいにしていないというか。吃音との関係がちゃんと変化しているというか。

 

N 内向的な感じの本や音楽に触れていましたね。底抜けに明るい歌詞じゃなくて、「現実はどうしようもないけど明るくやっていこうぜ」的な(笑)。「こんなこともあるけどがんばりましょう」とか。中村文則という作家がいて、彼の話はめちゃくちゃ暗いんですが、暗い話を書くことで、その中に一筋の希望を見出すようなことが多いんですよね。そういうものをたくさん読んで来ました。本や音楽にはめちゃくちゃ影響されていますね。中村さんが「暗いことで迷惑をかけるのはもうやめた」みたいなことを言っていて、それをいいなと思って、採用してます(笑)

 吃音は、障害とかではなく、誰にでもある欠点のようなものの一部だ、という考えに変わってきましたね。昔は、「吃音がなければ自分は最強だ」みたいなのがあったんですが(笑)、最近はそんなこともないんだろうな、吃音がなかったとしても何かしらの悩みはあるし、たまたま自分はそれが吃音だった、という話なんですよね。そういう悩みは誰にでもあると開き直ってますね。本や音楽の力を借りて自分のなかで解釈を作ってきた感じですね。じゃないと厳しかったです。

 

伊藤 そういう姿勢は、とくに中学生や高校生の子にとっては、勇気づけられるものだと思いますよ。

 

N 親には中学生のときに「このまま大人になったらやばいよ」という感じで話をされて、そのときに「やばいのかなあ」と思ったんですが、たまたまそのときに本や音楽に触れたんで、いいように解釈できたんですよね。

 

伊藤 現実をつきつけられる経験も一方でありながら、それに対処していく方法をさぐっていたわけですね。

 

N 表現全般、お笑いも好きですね。あらかじめ決められたセリフがあって、それをしかるべきタイミングで言うということは自分にはできないので、あこがれのようなものもありました。中学生のときにサンドイッチマンがM1で優勝した頃で、好きでしたね。

 あとはお笑いはダイレクトですよね。吃音だと、どうしても「これはこうかな、どうかな」と内向的になるんですが、お笑いってボケやツッコミがあったときに瞬間的に笑えるんで、感情がダイレクトに表に出ますよね。いちいち「自分のリズムにひきこんでしゃべる」みたいなことがない(笑)。それがやっぱり気持ちいいのかもしれません。中で一度解釈する過程がなく、入力がすぐに出力になるシンプルさがリラックスできる感じがします。サッカーを見たりやったりするのも「点を決めたらうれしい」というダイレクトな感じがあって、お笑いに近いですね。

2017/10/3伊藤研究室にて


★三島由紀夫『金閣寺』の吃音の描写

 吃りは、いうまでもなく、私と外界とのあいだに一つの障碍を置いた。最初の音がうまく出ない。その最初の音が、私の内界と外界との間の扉の鍵のようなものであるのに、鍵がうまくあいたためしがない。一般の人は、自由に言葉をあやつることによって、内界と外界との間の戸をあけっぱなしにして、風とおしをよくしておくことができるのに、私にはそれがどうしてもできない。鍵が錆びついてしまっているのである。

 吃りが、最初の音を発するために焦りにあせっているあいだ、彼は内界の濃密な黐〔もち〕から身を引き離そうとじたばたしている小鳥にも似ている。やっと身を引き離したときには、もう遅い、なるほど外界の現実は、私がじたばたしているあいだ、手を休めて待っていてくれるように思われる場合もある。しかし待ってくれている現実はもう新鮮な現実ではない。私が手間をかけてやっと外界に達してみても、いつもそこには、瞬間に変色し、ずれてしまった、……そうしてそれだけが私にふさわしく思われる、鮮度の落ちた現実、半ば腐臭を放つ現実が、横たわっているばかりであった。(新潮文庫、6−7頁)