料理家の高山なおみさんが、子どもの頃に吃音があったと知り、インタビューの機会をいただきました。キーワードは「一体化」。教科書の音読では「感じてないのに言う」ことに違和感があったけど、それが犬であっても、山であっても、自分のことのようにありありと感じられたものについて話すときには吃音がでない。「言葉の出処を頭でなく体にする」という、高山さんならではの吃音との付き合い方について丁寧に言葉にしてくださいました。鼻や舌に信頼を置く身体感覚が、そのまま高山さんの世界との付き合い方や料理・文筆のお仕事にもつながっています。
そして、なんとお手製のお昼ごはんもいただいてしまいました!メニューは、野ぶき煮(実山椒)、かぶの塩もみサラダ(玉ねぎドレッシング)、ちらし寿司(ハモの照り焼き、いり卵、じゃこ、たらこ、空豆、ごま:写真)、すじコンときのこの炊き込みご飯(しいたけ、舞茸、わけぎ、実山椒、紅しょうが)、ワカメともち麩のすまし汁。野山みたいなちらし寿司の美しさに、ぽーっとなってしまいました。
高山なおみさんプロフィール
◎声が出ないから言わないことにしてた
伊藤 小さい頃に言葉が出るのが遅かったり、吃音があったこと、ご本で拝読しました。最初に教えていただきたいのですが、現在の吃音の状態はどのような感じですか。人によって吃音の定義や感じ方は違うので、表面的にはどもっていなくても、実は…みたいなものもあれば教えてください。
高山 大勢人がいるところにいると、四面楚歌のような気分になってしまいますが、目の前にいる人は表情が見えるので、こうしてふつうにしゃべれています。こういうふうにしゃべれるようになったのは、わりと最近なんです。四十歳すぎてからもまだちょっと自信がなくて、五十歳すぎてようやく開けてきたきた感じですね。気持ちのことなんですよね。神戸に来たらますます開けて、買い物で知らない人たちに会っても、すごくにこやかにいろいろ聞いたりすることができるようになりました。そういうことって、いままで東京にいたときはなかったんです。閉じていたというか。今がいちばん吃音解放してますね(笑)。
ふだんは忘れているけれど、吃音だという意識はありますね。ときどきつまるし、口を開けたまま「あ」が出てこなくてポカンとなって遅れるとか、そんなときもあります。吃音ということを、きっと大事にしている、なくしたくないというふうに、どこか、無意識かもしれないけど、思っているんだと思います。吃音のおかげで今の自分がある、という気持ちが基本的にはあります。
伊藤 四十歳すぎたころの変化というのは、はっきり境界線が引けるような変化だったんですか。
高山 2002年まで東京の吉祥寺にあったKuuKuuというレストランでシェフをしていました。そのときに、お客さんに料理の説明をしなくちゃいけなくて、オーナーに言われてパーティの人たちの前に立たされて。それはものすごく苦痛でした。出てこないんです。もう、小学生のころのように「あ、あ、あ」となってしまって。当時は、どもらないように声を止めるというのをしていました。伊藤さんの記事を読んで、そういうのは「難発」と言うことを知りましたが、小学生で吃音があったときには、それをしていたと思うんです。声を発さなければ、どもりだということが分からないから…
伊藤 それはちょっと難発とも違うかもしれませんね。難発は言いたいのに言えないという状態ですが、高山さんはむしろ言わないようにしていた、という感じですか。
高山 それも混ざっている感じですね。出てこないから言わないことにする、という感じ。人と違っている自分を見せたくないというのがKuuKuuの頃にもあった。料理の説明は、まさに小学生のころの「発表」ですよね(笑)。大人になってまで、なんで無理やりこんなことしなきゃいけないの、という感じでした。
KuuKuuの上にはトムズボックスという絵本屋さんがあったので、絵本作家や編集者がよく集まっていたんです。そういうときにも、料理の説明をさせられて、声が詰まって、しどろもどろでした。でも、私の大好きな絵本作家の木葉井悦子さんが、「高山さん格好よかったです、ますます好きになりました」って言っていたって人づてに聞いたんです。そうやって、好きな人に褒められる頻度が増えて、料理も褒められて、料理家の仕事をするようになって。『日々ごはん』という日記の本を出しているのですが、そのなかで毎日のことを、見ている間にも変化する空の色や、それにつながる気持ちのこと、その日に作ったごはんのことを正直に、できるだけ正確に、人体実験みたいに自分を観察して書けば書くほど共感してくださって、ファンの方から感謝のハガキをいただいたりしました。しゃべれるようになったのは、そういったことで自信がついたせいだと思います。ちょっとくらいどもってもいいか、くらいに思えるようになりました。
伊藤 なるほど。さきほどの「声が出ないから言わないことにする」というのは、今でもありますか。
高山 今はないですね。今は言い換えをしていますね。微妙な言い換えをしたり、「えっと」と言ってから話しはじめたり。
伊藤 話すためにみなさんいろいろテクを発明されていますよね。そのテクが本当に人それぞれ違っていて、もしかしたら何かを発明しさえすればいいのかもしれません。「客観的にそのテクが有効かどうか」ではなくて、「自分にとってはこれが効く」という感覚が重要というか。
高山 おまじないみたいなものですね。おもしろいな。
◎一体になったことは話せる
高山『どもるどだっく』というのは、双子の兄がつけた私のあだ名で、自分がどもりだという意識がないころに見えていた世界を描いた絵本です。その頃には、この世って食べ物はおいしいし、景色はきれいだし、猫はかわいくてたまらないし、なんていいところなんだろうと感じていた。そういう記憶があるから、私はやっていけているような気がするんですよ。自分がここにいる、この世界にいる、ということの強い自信がそこにあるんだと思います。
それから家族がとても良かったです。母がのんきで大らかで明るい人だったし、祖母もいつも一緒にいてくれて、私が変だということを一言も言わないんですよね。小学校2、3年から祖母とことばの教室に一緒に通っていたんですが、学校を早びきした孫とふたりきりでいられることを祖母が楽しんでいた。
学校ではどんどん硬くなっていく感じでした。自分の名前がとにかく言えないんですよね。「た」も言いにくいし「な」も言いにくい。違う名前だったらよかったのにと、ずっと思ってました。「さ」行と「は」行が得意で、あとは全部ダメみたいな感じだったと思います。
伊藤 ご本のなかで、子どものころに発明された吃音対処方について書かれていましたね。「自分の気持ちにぴったりな音とか、響きとかを探しながら話すと、けっこうどもらずにすんだ」(『ココアどこわたしはゴマだれ』p. 89)と。この「ぴったり」を探すというと対処法はとても新鮮でした。なぜなら私の場合は、言いたい言葉(たとえば「いのち」)があっても、どもりそうだなと感じたら似た意味の別の言葉(たとえば「生命」)に言いかえる習慣があって、どちらかというと飲み込んだ言葉(「いのち」)のほうが本当の言葉だという感じだするからです。そして、つねに「言いたい言葉」と「口から出た言葉」のずれを観測しつづけている感じがあります。高山さんの「ぴったりな音や響きを探す」とはどういうことなのか、その仕組みを詳しくうかがいたいです。
高山 今日は私、すべて包み隠さず話そうと思うんですが、本の中で、表現として文章化しようとするとそうなるんだけど、実は少し違うということがあります。「ぴったり」も実はもっと細かくあるんです。性格的なこともあると思うんですが、私はもともと「みんなと同じでなくちゃいけない」「こうしなきゃいけない」ということに反発したくなる心があるんですね。窮屈なのがいやなんです。もっと自由にやりたいのにって。学校の授業では正しい答えを言わないとならないから、「みんな何で心にもないことを言うんだろう」「何でウソを言うんだろう」って思っていました。国語の本読みも、自分では思ってないのに、感じてないのに、その言葉のまま読まされるということの変な感じがすごくありました。
はじめて国語で発表したときは、犬の話についてでした。その捨て犬のことがありありと、毛ざわりとかまで分かったんです。ひとりぼっちの犬で、アカという名前だったんですが、その犬のことが大好きで。ぼた山が出てくるんですが、そのボタ山の土が赤いような気がしたり、挿絵がないのに絵が見えるんですよね。それで、すごく言いたくなったんだと思うんです。心臓が口から出そうになってドキドキしているのが分かったんですが、発表しました。毛が硬かったはず、とか、もっと赤い、とか、言ったんです。「かたい」の「か」なんてどうやって言ったのか分からないけど…もしかしたらものすごく吃音がでていたかもしれないですね、今思うと。
伊藤 犬がどんな犬かありありと分かったら言えた、というのは面白いですね。学校では、音読をするときによく「感情移入して読みなさい」とか言われます。でも高山さんはそれをウソっぽいと感じていたわけですよね。ところが高山さんは、その犬に対しては、感情移入とは違う何かを通してなりきっていて、だからこそ言えたわけですよね。「ぴったり」のニュアンスを知りたいです。
高山 たぶんその犬と「ぴったり」になっていたんだと思います。「変身」って伊藤さんのご本(『目の見えない人は 世界をどう見ているのか』)にも書かれていましたが、私、変身が得意なんですよ。たぶん犬に重なっていたんだと思います。そのときは、だから自分の毛の感じを言おうとしていました。こどもの頃から、からだの内側のことがとても得意だったんです。人にこういうことを言われると、こういう気持ちになるとか、熱くなる、冷たくなるとか、お腹のこの辺がぽこぽこするみたいな、そういうことにとっても自信があったんだと思うんですよね。
伊藤 それっていわゆる「感情」ともちょっと違いますよね。
高山 心ととっても近いことだと思うんだけど、「楽しい」「悲しい」といったことよりもっと体の実感というか、言葉で表せない細かなことですね。
◎何でも口に入れ、匂いをかぎ…
高山 こどものころ、何でも口にいれていたというのもそうだと思います。口に入れたり、匂いをかいで確かめたり、何か「中に入れたい」というのがありました。まず匂いをかいで、鼻のあたりで感じます。それがだんだん広がって、というのを…このあたりのセンサーはすごいことになっていると思います。
伊藤 実演していただいてもいいですか(笑)。ここにホオズキのドライフルーツがあるのですが…。
高山 いいですよ(笑)。(――実演――)いま、鼻で息を吸いながら食べてますね。種がすごいです…美味しいです。匂いを嗅いでから食べたと思うんですけど。匂いは、いつも、かならず嗅いでいます。やっちゃダメなところでは我慢してますが(笑)。
伊藤 ありがとうございます。でも、そういった物を食べるときに鼻や口のあたりで感じることと、犬について発表できたというエピソードがつながる、というのがやっぱり不思議です。
高山 いま話していてそんな気がしました。「ぴったり」ということは、声や音も、気持ちがいい音だなとか、もっと聞いていたいなとか、今、聞こえている雨の水の音とかも、たぶん、そういったものを体に入れようとするんじゃないかなと思うんです。一体になりたがるというか。そうじゃないものには耳をふさぐ、シャッターを下ろすんだと思います。もしかすると、とても珍しい病気かもしれません(笑)。本人は困ってないのでいいのですけど、一つのことに夢中になっていくのが得意で、そうすると他のことが見えなくなる。
この間、気がついたんです。これは初めて人に話すんですが、吃音のせいもあって、しゃべり始めるときに言葉が出ないというコンプレックスがあったから、私はしゃべり方が一方的なのかもしれないと。伊藤さんの本を読んでいたら、目が見える人は相手の口元を何となく見ながら、自分が話しはじめるタイミングをはかっていると書いてありましたが、私はそんなことしていないです。唐突な感じで、わーっとしゃべっちゃって、とっても失礼な感じになってしまう。そのことをよく夫に注意されていました。でも必死なんですよね。「いつ出てくるか分からない、今しかない、言わせて」って(笑)。そんな感じで会話に割り込んでしまうんです。
伊藤 ご本(『ココアどこ わたしはゴマだれ』)にも書かれていましたね。飲み会で話題を持っていっちゃうってご主人に怒られる話。
高山 その本は、夫と私の生い立ちや、仕事、生きることにまつわる夫婦の対話をまとめたもので、吃音の話もよく出てきます。怒られたときの話はエッセイのなかに書きましたね。私の方では悪気はまったくないんですけどね。あと、自我が強すぎるということもセットになっていて、「これから自分だけが知っている面白いことを言うから、みんな聞いてくれ」ってどこかで思ってるんです。ひどい話なんですが(笑)。それがたぶん『どもるどだっく』の女の子なんです。
伊藤 人が話すときって、前にも話したことのある話を今の文脈にあわせて話す、という場合と、まったく初めての内容を話す、という場合、二つあると思います。そのそれぞれで、話しやすさが違ったりしますか。
高山 吃音に関係ないかもしれないけれど、整理した状態でしゃべるというのはしたくないと思っています。そういうのは嫌いですね。だからいつも、その場で感じたことを、その場の空気に乗せてしゃべりたい。脳みそではない場所を使っているんだと思うんです。そういえば、それで吃音が治ったのですね、私は。
伊藤 さっきの「ぴったり」や「一体化」の話というのは、そういうことかなと思ったんです。仮にどこかでした話であっても、もう一度感じ直すというか、初めてその話をするかのように感じているのかな、と。
高山 はい。ウソはつけないですね。昔にあったことがまた蘇ってきて話すということはあるけど、そのときには二回目だということを忘れてますね(笑)。いつも初めて。犬について発表したときも、ものすごく感じていて、いまこれを言わないと消えちゃうから、みたいなことに突き動かされていたんでしょう。それで、溢れてくる勢いを、声とか、言葉にして伝えられたということが自信になっているんですよね。
伊藤 面白いですね。一体化できたものについては、自分のことになるから、感じることができて、話せるんですね。
高山 そうですね。中に入れてる感じですね。そうでしょうね。今は仕事がそういうことにつながっているんだと思います。形は違うけれど、料理も文筆も絵本も、体の中で起こる感覚を表していくことなので同じです。
◎レシピが生まれる瞬間
高山 伊藤さんのご本を読んでいたら、目の見えない人は耳で見ることをしている、という話があって、私もいっしょだ、と思いました。音楽を聴いて映像が見えることは、よくありますよね。それと似た感じなのですが、あるアンティーク屋さんで、フランスの古いお皿が窓際に積み重なっているのを見たとき、そこにどんな料理が乗っていたのかが見えたことがありました。窓からの薄日が真っ白なお皿に射していて、でっぷり太ったフランス人のお母さんがスープをよそっている姿や、スープにはどんな切り方の、どんな具が入っていて…というようなことが見えた。目に見えないものを、ただ想像しているんですけどね。それって目が見えない人の見え方に似ていますか?
伊藤 面白いですね!目の見えない世界と、高山さんの「鼻ベロ」の世界が意外に近かったんですね。
高山 そういうのに力を借りて、レシピができることがよくあります。「鼻ベロ料理家」というのは、夫がつけてくれたのですが、目に見えるもの、表層的なものだけを信じるのではなくて、その向こうにあるものにいつも興味がわくんです。奥にあるもの、向こうにあるもの、ですね。人の声でもそうで、声を通して伝わってくる、震えとか、内側にあるものにひじょうに興味がある。
伊藤 目の見えない人と接していると、物理的に同じ空間にいても違う世界を見ていて、それが面白いなと思うのですが、高山さんはその状態をずっと感じて育ってらしたんですね。
高山 そうなんでしょうか。とにかくそこに興味が湧きます。逆に表面的なもの…テレビなんかをたまに見ても、「あ、そうなんだ」という感じで、私、よく分からないんです。現実感が薄いのかもしれません。見たくないものを入れないようにしていることも、吃音が直ったことと関係しているのかもしれないですね。
◎電話でのぶりっ子しゃべり
伊藤 一方で、『ココアどこ わたしはゴマだれ』のなかで、中学生時代に、いちばん上のお兄さんの友達からかかってきた電話に出たときの話を書かれていましたね。思わず可愛らしい女の子のふりをして甘ったるい声でしゃべったらどもらなかった、と(42頁)。この「ぶりっ子しゃべり演技」みたいなものは、逆に、現実感がないもの、距離があるものの力を借りるという戦略だったんだろうと思います。
高山 これはね、たぶん、電話で相手の姿が見えなかったからだと思います。この頃は電話は基本的にかけられないし、しゃべるのが苦手だったはずなのに、なんか電話がかかってきて、不意に出たんです。たぶん、その人の声そのものと対話をしてたんでしょうね。相手がちょっと、年下の私のことをかわいいと思ってくれているみたいな感じの声で、それでそんなふうになっていったんじゃないかな。「おにいちゃんいまいないのぉ」とか甘いしゃべり方で(笑)。
伊藤 とっさにそれが出てきたんですね。
高山 その子になったんじゃないですか。変身したんでしょうね。演じるっていうよりは。こどもの頃に、お人形を描いたりしますよね。絵本『ほんとだもん』にも出てきますが、フリルのワンピースを着た女の子を描いて、切り抜いて遊んだりしていました。たぶんこういう子に憧れがあって、なっていたんじゃないか、と今思いました。
伊藤 なるほど。面白いですね。吃音が出ない戦略として、身を持って感じることから出発するやり方と、自分ではない別のキャラクターになる演技的なやり方は、全然別のものだと思っていました。でも演技の先にある、より強い一体化のレベルでは、二つは同じことなんですね。教科書に出ていた犬の話と同じで、描いた女の子も、高山さんにとっては感情移入や演技の対象ではなくて、高山さんにとってはありありと、自分のこととして感じられている。感情移入ならぬ身体移入というか。ここが高山さんならではの身体感覚ですね。
高山 そうですね。確かにそうですね…。ぶりっ子は、とても「世の中的」ですよね。流行りのものだとか、ワンピースはこういうのを着ているとかわいい、しゃべり方はこういうのがかわいい、みたいな評価だとか。そういうのも知ってるんですよね。本当はずっと、みんなと同じようにしたかったのかもしれない。でも、したいのにできなくて、でもそのときは何かできたんですよ(笑)。電話を切ったときに、姉に「あんた変だった、気持ち悪かった」と言われました。そうとういつもと違ったんでしょうね。
伊藤 相手の声の力も大きいですね。ぶりっ子にさせてくれる声、みたいな。
高山 気持ち悪いですね、今思うと(笑)。
伊藤 でも言葉の内容ではなくて、声だったり音だったり響きと対話している、という感覚が面白いですね。音に動かされてる感じがしますね。
高山 そうですね。耳なんですかね。
伊藤 他にも別の人格みたいなのが出てくることはありますか。
高山 そうですね…。大人になったので、ちゃんとしなくちゃいけないとき、社会的にふるまわなくちゃいけないときは、ふりをしますね。落としたものを食べないとか、なんでも匂いを嗅がないとか(笑)。
◎自分をゆるがすものをしのぐための発明
高山 でもいつも、何かの真似をしたり、装っているんでしょうね。いつも物語を作っている、という感じがあります。自分ってこういう人、私が生きている場所はこういうところ、こういうのが好き、というお話のようなものを作っている感じが。河合隼雄さんが「人には物語が必要だ」とおっしゃっていたと思うんですが、そうしないと生きていけないんだと思うんです。自分の居場所、世界のなかでのあり方を、みなさん、多かれ少なかれ作っているんじゃないでしょうか。私はちょっと極端なところがあると思いますが。
伊藤 高山さんが料理家になられたことは、その物語の中ではどんな位置付けになるのですか。もともとは染織の仕事をイメージされていたとのことなので、本来のストーリーとはちょっと違うストーリーを描くことになったのだと思うんのですが。
高山 あっ、そういうストーリーとはちょっと違うんだと思います。もっと感覚的なことというか。吃音のような自分の存在をゆるがすものに対して、それをしのぐための発明をしたという物語を作った。料理家のしごとはこれしか選択肢がなかったからこうなったんだと思います。できないことを断っていったからです。世の料理家さんには、本も作って、テレビに出て、商品を作って…と、たくさんのことができる人もいますが、私は毎日人と会うのも苦手だし、朝決まった時間に起きるのもの苦手だし。できない、したくないことがいろいろあって、それを全部やらないようにしたら、「高山なおみ」という輪郭がくっきりしたんだと思います。自分では普通ですが、こういう変な人は他にはいないから、料理界に残れた。ただそれだけのことだと思います。
伊藤 なるほど。しのぐための発明、というのは面白いですね。
文章を書く機会も多いと思いますが、書き言葉と話し言葉の違いを感じられることはありますか。たとえば書き言葉は、表現を吟味しながら話せますが、話しているとどんどん流れて行くし、言いやすい言葉を選ばされる感じになりますよね。
高山 そうですね。書き言葉だと、言葉がもつ響きを考えるのが大好きです。どの言葉を選んで、どこに句読点を打つか。視覚的なことでも、ひらがなにするか、漢字にするか、など、ずーっと遊んでいられますね。
伊藤 書いていても、読んだときの響きを考えているんですね。
高山 読んだときというより、言葉のイメージというか、言葉そのものが持つ響きですね。たとえば漢字よりもひらがなの方がいまの心に近い感じだな、とか、ここはカタカナじゃないな、とか、考えていますね。自分の感覚にあってるかどうか、いつも一体化しようとしてるんじゃないでしょうか。話すときも、なるべくそれに近づけようとしていますね。ただ、書く時のほうが視覚的ですね。
伊藤 そうやって表現を磨き、言葉を丁寧に扱われるということは、言葉に対する道具としての信頼感があるのかな、と思います。吃音の人は、言葉や話すことについて考えざるを得ないから、それに苦しめられている一方で、逆に強い信頼感もあるような気がします。
高山 そうですね。夫に出会ったことで私はとても変わったと思います。初めて吃音のことを肯定してくれた人だったんです。「言葉の仕事をするようになったのは、言葉に苦しめられて、こだわってきたおかげなんじゃないか」というようなことを言ってくれてたんです。まさにそうで、一般の人は、きっとそれほど言葉について考えなくても済むんじゃないでしょうか。
そもそも私は、双子だったせいもあるかもしれませんが、三つになっても言葉が出てこなかったそうです。赤ん坊が言葉を話すようになるのは、対象が自分と違うものであることを意識することから始まる、と本で読んだことがあります。私は、「違うもの」と気づくまでの期間が人より長くて、どうしてもその境地に帰ることを求めたがる、というか。言葉にしたくない病(笑)。名前をつけなくてもいいほど、世界とひとつになっていて、充足感がある状態に戻りたいという…だから、どもることで「名づける」こと、つまり言葉に反抗していたのかもしれない。あと、双子で生まれたことも、「ひとつになる」とか「一体化」に関係がある気がします。母のお腹のなかでいつも一緒にいたわけですから。
伊藤 『どもるどだっく』についてのインタビューで、「どもることでトンビと一体になる」とおっしゃっていましたね。吃音と世界の関係、というようなとても大きなお話に感じます。ただ、吃音それじたいは、むしろ体が緊張するできごとですよね。吃音は、世界と距離ができることのようにも感じます。
高山 本当に、吃音はそうですよね。人前で何か話そうとすると体がカチカチになって、呼吸もしなくなって、細胞の活動が止まってしまうんじゃないかというくらい(笑)。石みたい。体が氷のように冷たくなっているんじゃないでしょうか。その実感はちょっとまだ残っています。世界から一番遠くに離されていくみたいな感じの怖さがありますね。
その真反対のところに一体になるというのがあるんだと思います。みんなが自分の味方で、木や葉っぱとも対話できる。たとえば森の奥の、人が分け入ってはいけないようなしーんとした畏れ多い場所で、葉っぱが揺れたら「あ、ここに入ってもいいんだな」と思える。そういう感覚です。『どもるどだっく』にも、絵本『たべたあい』にも出てきますが、子供の頃に、というか、大人になってからもあるのですが…草むらや山の中でおしっこをすると、世界と一体になる感じがありました。どうしておしっこなんでしょう。体を開くことで力が緩むのでしょうか。大人になってからは、お酒を呑んだ帰りによく駐車場のような原っぱでしてました。そうすると、なぜだか泣けてくるんです。多幸感で。
神戸に来てからは、酔っぱらわなくても、おしっこをしなくても、そういう感覚を味わうことができるようになってきたんです。それが絵本作りともつながっているんだと思います。その一体感は、本当は若い頃からいちばん興味のあることだったのだけど、忘れるようにしていました。結婚生活には向いてないので(笑)。でも、夫と生活の場を別にして、絵本をやっていたらそれが吹き出してきました。もしかするとそういうこと全部に、吃音が関係しているのかもしれません。あとひとつ、これは絵本を作るようになってからの変化なのですが、あんなに朗読が苦手だったのに、絵本だと人前でもどもらずに読み聞かせができるようになりました。
(2017年4月26日 雨がふる神戸の高山さんのご自宅にて)