八木智大さんは吃音の当事者の方。テレビでその話し方を拝見し、「どもっているのにオープンな感じ」に驚いてすぐにコンタクトをとりました。その背後には、身体に対する幅広い関心が関係しているらしい。吃音は心理的な問題として語られがちですが、八木さんはちょっと違うアプローチをしていて、とても実り多いインタビューになりました。(インタビュー中にドクターイエローに遭遇!)
八木智大さんプロフィール
京都大学文学部二十世紀学科5回生。2017年3月卒業予定。フリーターとニートに内定しているが、出版や教育の仕事を探している。本を読み旅をしていたが、最近は街の中にある学びの場に参加するのが楽しい。竹内敏晴を引き継ぐ「人間と演劇研究所」を関西でプロデュースしている。自分で学びの場を作ることもはじめようとしている。
◎外へのベクトル
伊藤 卒論ではどんなことを書いているんですか?
八木 竹内敏晴の身体論と教育についてです。「からだとことばのレッスン」という竹内さんのメソッドを引き継いだ教室にも月に2回通っていて、二人一組でからだを緩めたり、「ららららー」という感じで声を出したり、宮沢賢治の作品を朗読したり芝居にしていったりしています。二泊三日の合宿になると、演技までやります。
伊藤 参加していくと、言葉と体の関係は変わりますか?
八木 自分としてははっきり分からないですが、同じレッスンを受けている人には、変わったねと言われることがあります。あと一回のレッスンの中で、自分の声の出方が違って気づくことはよくありますね。でも、変わって良い状態になっても、日常生活の中でそれがもとに戻ってしまうなという感じがあります。定期的にやっていますが、どうしてもそういうのは仕方がないのかなと思います。
ほかにもいろいろなことをやっていて、体のことはずっと興味を持っています。気功を休みながらですが2年くらいやっています。他にもアレクサンダー・テクニークを4月くらいからやっています。最近はダンスも始めました。
伊藤 すごいですね。体に関心を持ってらっしゃるとのことで、よかったです。吃音は心理的な方面から語られることも多いですが、私はどちらかというと身体論の立場から吃音に興味を持っているので、面白いお話ができそうです。
八木 ぼくも好きなテーマです。事前にいただいていた質問で、吃音の状態についてのものがありましたが、見ないといけないなと思いつつ、結構勇気が必要なんですよね。あまりどもらないほうがいろいろ便利だし、楽なんで、そうしたいんですが、その方法を見つけるためには、どもっているときの状態に自分で気づくことが必要なんだろうなとは思っています。
伊藤 ということは、ふだんはあまり吃音の状態を分析的には見ていないということですね。
八木 見てないですね。おそらく全然見てないですね。
伊藤 どういう距離感なんでしょうね。
八木 吃音の状態になると、言葉を出すことにばっかり意識が向いていて、客観視する余裕はないかもしれないですね。客観視しようと試みてもその方法が分からないというか。最近すごくやりたいのは、自分の話し方を人に真似してもらうということです。結構勇気はいるけど、そうしたら分かるんだろうなと思います。
伊藤 この前NHK・Eテレの「バリバラ」という番組に出演されましたが、映像で見てどうでしたか?
八木 正視してないですね(笑)。自分がどもっているところはちょっと流しながら見てますね。「こんな感じなんだ」とは思うけど、詳しく分析的には見ようとしないですね。
伊藤 出演すること自体は勇気がいりましたか?
八木 それはあまり考えなかったですね。どもっている状態がいまのぼくの状態なので仕方ない。ネット上で悪口言われるくらいですからね(笑)。
伊藤 でも、八木さん以外のどもっている方を見たときに、どもりのタイプみたいなものが、ひとりひとりそうとう違うと思うんですよね。
八木 そうですか。あまり考えたことはないですね。種類というより、どれくらいしゃべるのが大変そうかとか、コミュニケーションに負担がかかるかという軸でしか見てないですね。
伊藤 私が八木さんの話し方をテレビで拝見してとても驚いたのは、独特のオープンな感じです。さっきもおっしゃっていましたが、どもっているときは、緊張が高まってベクトルが強く自分に向いていますよね。見ていて、八木さんがそうなっていることも分かります。でも同時に、外に向かってもベクトルが張れている感じがしたんです。それはどうやっているんだろう、というのが気になりました。
八木 そうですか。外にベクトルを張ろうという意識はあるんです。でもまだできていないなという感じが結構あるから…。外にベクトルを張るというのは、アレクサンダー・テクニークから学んだことです。今年の4月くらいに始めて、それから意識しているんで、その効果が出ているのかもしれないですね。
伊藤 へえ、面白いですね!アレクサンダー・テクニークでは、どういうふうに外に向ける練習をするんですか?
八木 練習という感じではないですが、先生が言うのは、習慣から自由になろうということです。話すことに限らず、たとえば水を飲むときに、別の飲み方もあると考えてみる。このコップを、いつもはすっと口に運んでいるけれども、そうではなくて、たとえば座っている椅子の後ろにホテルの広いロビーがあって、上にホテルの建物があって、前に京都駅があって、南にもずっと道があって、北には 京大があって同志社があって…みたいな広い空間の中にあるこの水を飲む、みたいなこともできるよね、っていうことをするんです。
伊藤 面白いですね!
八木 面白いですよね。水を飲むというベクトルと同時に、自分の感覚が、水を飲む以外の世界にも広がっていくベクトルがある、ということですよね。吃音の場合には、それが役立つのかもしれません。話すときでも、なんとなくですけど、町があって、空があって、宇宙があって、地球があって、大地の下にはマントルがあって…みたいなことをイメージしています。
伊藤 番組の最後、八木さんがどもってなかなか話せなかったときに、文福さんが舌打ちと扇子の動きでトン、トン、トンとメトロノームをやってくれました。八木さんはそれに乗って「なか、なか、こと、ばが、でに、くい、けれ、ど」って話しましたよね。私、番組を録画していたのであのシーンを50回くらい分析的に見ちゃったんですが(笑)、あのとき、八木さんは直前でもうほとんど話すきっかけをつかめていたんです。しゃべろうとしてものすごく内側にベクトルが向いている状態から解放されそうになっていた、そのタイミングで文福さんがメトロノームを始めた。そのアドリブに、八木さんがちゃんとこたえられているがすごいな、と思いました。私だったら、あの瞬間に、時間を切っちゃったと思います。文福さんのアドリブにたぶん気づいただろうけど、その意味が分からなかったり、「やってくれたんだ、ハハ」みたいに笑いでごまかしたりしたと思う。いっぱいいっぱいで、文福さんが作った新しい流れに乗れなかったと思うんです。
八木 ぼくは全然分析的に見れていなかったですが、それは重要な指摘だと思います。あのとき、ぼく自身、乗れてよかったと思っていました。思い出すと、あのときは何を言おうか迷っていたんです。最後に「どんな先生になりたいか」と聞かれて、その前のVTRと同じことを言っても面白くないなと思ったけど、言うことが全然浮かばなかったんです。だから、どもっていたのは、まず何を言えばいいかというのが自分のなかで定まってなくて、でもとりあえず何かを言おうとしていたからなんです。文福さんのメトロノームにあわせて「なかなかことばがでにくいけれど」って言っているときも、何を言おうか考えていたんです(笑)。
伊藤 文福さんの動きをキャッチすることと、それにあわせてしゃべること、さらには何を言うか考えることという3つくらいのことを同時にやっていたんですね(笑)。
八木 そうです。ふだんは、考えをまとめることと、もうひとつ、言いやすい言葉は何かをさがすということをしなきゃいけない。それを同時並行でしなきゃいけないから大変なんですよね。でもあの場では、文福さんがメトロノームをやってくれたおかげで、吃音への恐怖を消せたんで、言う内容に集中して考えられたんで、そこからはぱっとしゃべれるようになったんです。
伊藤 なるほど!そういうことだったんですね。言いたいことがあって、それが声として出なかったのが、メトロノームにあわせたことで出るようになったんじゃないんですね。むしろ言う内容を考えるほうが、メトロームのおかげでスムーズになったんですね。
◎言い換えの実感がほぼない
八木 吃音の人は、「言おうとしているその言葉が本当に言いやすいのか」ということを考えているのがつらいんですよ。だから、本当はもっと瞬間的にぱっぱっと考えて言うことができる人でも、どうしてもテンポは遅れるんですよね。一般に言えるかは分かりませんが、少なくともぼくにとってはそうです。
伊藤 私も生活のなかで言い換えをしていると思いますが、もうそれがナチュラルになっちゃってますね。
八木 よく分かります。ぼくも言い換えしているという実感があまりないんですよね。これが当然、という感じで。ときどき吃音の人で「言い換えをしてしまって…」といいう人がいるんですが、ぼくにはよく分からないです。言い換えはぼくにとってはネガティブなことじゃなくて当然のことで、そう言われると「言い換えって何だっけ?」みたいな気になってしまいます。
伊藤 そうですね。私は考えることと言い換えの区別がつかなくなってます。
八木 そうそう、考えることと区別がつかないです。でも、ぼくも以前、吃音が軽い時期があって、そのときは言い換えを意識してましたね。「これはこう言い換えられるぞ」とか。でも今はそんなことをしている場合じゃないので、言い換えは意識にのぼらないですね。ぼくにとっての言い換えは、たとえば、ふだん使っている手が怪我しているから左手を使う、みたいな感じですね(笑)。
伊藤 分かります(笑)。私もそんな感じです。
でもナチュラルにやっていることをもうちょっと分析してみたいんですが、言い換えるときは、どういう単位で言い換えていますか。単語単位ですか?フレーズ単位ですか?もうちょっと別の単位ですか?
八木 単語でうまくいくなら単語のほうがいいと思うけど、そのときそのときで臨機応変にやっていると思います。たとえばさっき「利き手」って言おうとしたんですけど、言いにくい感じがしたので、0.001秒くらい前にぱっと「ふだん使っている手」と言ったんですよね。「利き手」を「ふだん使っている手」に言い換えるのは、単語レベルともフレーズ単位とも言える感じですね。感じとしては、大学受験の英作文で、難しい単語を文章で言い換えるというのに似てますね(笑)。
伊藤 なるほど。似てますね。
でも、吃音でない人からすると、吃音ってすごく分かりにくいもののようですよね。現象として「同じ音を反復する」とかは分かっても、実感としてどのような感じなのかがなかなか伝わりにくいようです。
八木 それはそうだと思います。ぼくは直接的によく分からないと言われたことはないんですけど、態度や言動で示されることはあります。けっこうつきあいがある人に、「ゆっくり落ち着いて言ってごらん」と言われると、「もうそろそろ分かって」という気になりますね(笑)。確かにゆっくりだと言えるんだけど、「落ち着いた状態をいかに作り出すか」が問題なわけで…いや、落ち着くだけじゃないんだけど…そこは難しいですね。別の状況では言えているのに、その状況では言えないというのが、たぶん理解しにくいんだろうなと思いますね。
伊藤 そういうときは、状態を説明したりするんですか。
八木 あまりしないですね。よっぽどしつこかったら言うけど、めんどくさいからかなあ…。
◎さぐる連発
伊藤 わたしは子供のころはたぶん連発だったと思いますが、いまは連発しようと思ってもできない状態です。八木さんは、難発の感じもありますが、連発も出ていますよね。
八木 意識的に連発するようにしています。
伊藤 意識的に連発をしているんですね。
八木 だから、これはたぶん連発じゃないんじゃないかなと思います。難発になってしまうと言えないじゃないですか。それを言いやすくするために、あえて「た、た、た」と言っているんです。一般的に言う連発とは全然違うじゃないかと思います。
伊藤 確かに、八木さんのは緊張しながらの連発ですよね。
八木 そうですね。家族と話すときなど非常にリラックスしている状況では一般的な連発になりますが、そういうときは連発になっていることすら意識していません。それについては何も困難を感じてないです。独り言でもどもることがあって、どもっているときは気がつかないですが、あとから「そういえばどもってたな」と気づくことがあります。98%くらいはどもらないですが、ときどきそういうことがあります。吃音は必ずしも緊張によって引き起こされているわけではないということですよね。連発になりそうだということに気づいて、緊張によって、それが難発になるということなのかな、と思います。
伊藤 なるほど。八木さんの連発は、音程や強さの変化がありますね。「たたたた…」って同じ音が連続してすべっていくのではなく、いろいろな「た」が出てくるという感じですね。さぐっている感じがありますね。
八木 そうですね。「次、言えるかな」みたいにタイミングをさぐっていますね。
伊藤 そのさぐる感が見える感じが、「八木さんらしさ」というと変ですが、新鮮でした。
八木 このやり方を始めたのは、大学に入ってからです。高校生までは、どもることはできるだけ避けたいと思っていました。一発で言おうと努力していました。今の、連発の状態でもわざと出して発話につなげようとするのは、とにかく話したいという意図があるわけですよね。「どもるのも止むなし」という感じです。どうやったら言えるかなという試行錯誤のなかで、いまはこのやり方を採用していて、いまはこうすれば出やすいとぼくの体が直感してて、それに従っているだけです。これより良い方法があったら、また変わると思います。
伊藤 なるほど。でも、そのさぐる状態まで行くということは、言い換えをしないという決断があるのではないですか。
八木 いや、言い換えができないということだと思います。固有名詞以外にも、この言葉じゃないと伝えられないというのがあって。言葉に対して他の人がどのくらいの繊細さを持っているのか分かりませんが、ぼくは比較的こだわっているほうだと思います。それは吃音とは何の関係もなくて、ふだんから自分の考えていることや感情を伝えるときには、できるだけ正確な言葉を使いたいんです。適切じゃない言い換えはしたくないんです。「利き手」と「ふだん使っている手」というのは、さっきの文脈ではほぼ正確な言い換えだったと思うんです。でも自分の感情とかになると、いつもこの言葉で考えているというのがあるんで、それを別の言葉に言い換えると別のものになってしまう感じがあります。そこはこの言葉しかないというときは言い換えをしません。
伊藤 なるほど。言い換えができないときに、さぐるような難発の方法を使うんですね。
◎聴覚障害との類似
伊藤 これまでの吃音の状態の変化について、時系列的に教えていただけますか?
八木 はい。母が言うには、言葉を話しはじめた2−3歳のころからどもっていたようです。4−5歳くらいは消えていた時期があったようですが、小学校に入ったころから連発のようなものが始まりました。でも自覚はなくて、まわりに言われても、「何のこと言ってるんや?」と思っていました。小学校2年生のときに難発になって、そこからガクッと悪くなって、小3、4、5年は意識せざるを得ない感じでした。小6から中1はわりと軽くなりました。国語の授業で読むのを当てられたりするとどもっていましたが、友達と話すのには苦労していませんでした。それが中2くらいからまた悪くなって、高2のころは生活環境の状態の影響もあってさらに悪くなり、そこからは微妙ですが高3でちょっと軽くなって、浪人しているときも軽かったです。京大に入って1回生の7月くらいからまた重くなったかなと思います。とはいえ、正直とても微妙なものなので、よく分かりません。外から見ると分からないくらいの変化だと思います。
伊藤 なるほど。外から見て変化がないというのは、変化そのものが小さかったのか、それとも変化が他人から見て分からない部分にあったのか、どちらですか。
八木 症状の変化というよりは、発表する場面が少ないとか、知らない人と話す堅苦しい場面がないとか、そういうことかも関係しているかもしれません。いまだと、たとえばみどりの窓口で切符を買うときにも、紙に書いて「これでお願いします」って渡しますが、前は絶対に口で言わないといけないと思っていたので、どもって疲れて、フラフラになっていました。そういう変化のほうが大きいと思います。
伊藤 いまは生活のなかで、紙に書いて渡すということを方法として使っているんですね。
八木 よくあります。楽なんで。できるだけ楽をしようとしています。大学の英語の講読の授業でも、訳文を作って発表しなきゃいけないとき、書いてきたものを先生に読んでもらったりしています。吃音のつどいでも、作った詩を読むときには、となりの人と一緒に読んでいました。
伊藤 そういう人は、吃音の方ではめずらしくないですか?
八木 症状が軽いからじゃないでしょうか。ぼくも軽かったらそんなことしないと思います。あんまりがんばらない、ということをぼくは今年からやりはじめました。
伊藤 柔軟ですね。
八木 前にくらべたら非常に柔軟になりました。前はがんばっていたんですが、そんなにがんばらなくても、と思うんですよね。そのほうが自然だと思います。聴覚障害の人は、筆談でものを買ったりするわけですし。
伊藤 わたしは視覚障害のことを主に研究してきたのですが、視覚障害の場合は、「できないことがあるなら別の方法をさがす」というのが基本スタイルです。見えないなら、がんばって見るのではなくて、耳や手で知覚したり、人と会話しながら周囲の状況を把握したりするわけです。ところが吃音の当事者の方と関わってみると、「どうやって話すか」というところでがんばるケースが多い印象があります。「話す以外の方法を考えよう」というアプローチはないのでしょうか。
八木 吃音は頑張れば頑張れててしまうところがあると思います。聴覚障害も、頑張れば聞けるということがあるようですが、とても疲れてしまう。ぼくは聴覚障害に関心があって、2回生のときにtwitterをはじめて聞こえない人をフォーローしてみたら、「わりと近いな」と感じました。「同じこと考えてるぞ」って。それで聞こえる人と聞こえない人がコミュニケーションをとるサークルにも行ってみたりしました。そこで、筆談カフェというものがありました。われわれ吃音の人も聴覚障害の人も、声でのコミュニケーションという意味ではふだんは障害があるわけですけど、筆談ということにすると障害が全部チャラになる。それが面白いなと思っていい衝撃を受けました。そのあたりから、買うときに紙で書いて渡すということを始めたりしました。
伊藤 面白いですね。わたしも手話で話したいなと思ったことがあります。
八木 いいですね。手話はみんなが知らないので、覚えてもなあ…と思っちゃいますけど。これが仮に義務教育で手話を覚えるようになったりしたら、声と手話を併用するようになるから、すごく助かるんですけどね。
伊藤 表現できる内容も変わりそうですね。
八木 この前、聞こえにくい人と話したら、日本語と手話を別概念として持っていたので面白かったですね。日本語の中に手話が入っているわけではなくて、言語的に違うものと考えているそうです。ふだん、ついつい声に頼ってますけど、体で伝えるというのはいいですね。ボディランゲージでも結局は声で確認しないと納得できないので、体にもっと信頼を置けたらいいなと思っていますね。
伊藤 吃音の当事者以外の人ともいろいろ交流があるんですね。
八木 そうですね。吃音のコミュニティだけにこだわるということには興味がないですね。団体に属するかどうかにこだわる人もいますが、自分はどうでもいいと思っています。障害が自分のアイデンティティになるのは分かるし、自分もそうなってますが、それをあまり大きくとらえたくないです。
◎恥ずかしさ
伊藤 体についての感覚もうかがいたいなと思っていました。大きな質問ですが、体についてどう思っていますか。体との距離感というか、そういうものを教えていただきたいのですが…。
たとえば、私の感覚だと、吃音の状態というのは、望んでないのに体が出てしまう感じがあります。自分としては意味という精神的なものを伝えるために言葉を使っているのに、そうではなく自分の体の質や状態が伝わってしまう、という感じです。それが恥ずかしさにつながっているのではないかと思います。「体、ちょっとだまってて、おまえの出番じゃない」みたいな気になりますね(笑)
八木 いいですね(笑)。それはよく分かります。どもるときは、いつもではないにしても、基本的に「恥ずかしい」という感覚はあると思います。その一部に、体の状態が伝わってしまう、体に注目させてしまう、というのは確かにありますね。体ばっかり伝わって、言いたいことが伝わらない。
伊藤 どもったことでその相手からどう評価されるか、というレベルではなくて、もっとベーシックなレベルで恥ずかしいというのがある気がします。
八木 それはあります。それと、ちょっと別の話になりますが、人間という動物的存在として、声のコミュニケーションという非常に便利な機能が正常に使えないという劣等感みたいなものは持ちますね。持って当然だと思います。実際に不便もありますしね。そう思うのは吃音だけじゃなくて、身長などの見た目の造形が美しいかどうか、望ましいとされているものかどうかとかもそうですよね。その「望ましいとされているもの」が、百パーセント社会が作り出したものとも言い切れない部分があって、生命の原理としてそうなっている部分もあるので。社会が作り出している部分については社会全体として小さくしていく必要があるけれど、生命レベルでの劣等感というのは持って当然だと思います。
◎吃音と初音ミク
伊藤 さっきの「さぐるような連発」についてさらに細かく聞きたいんですが、さぐっているときに、連発の単位がひとつの音じゃないときがありますね。おそらく、言おうとしていることに関係しているんだと思うんですが、「や、こ、こ、や、あ、こ」みたいに三つくらいの音が不規則に出ていることがあります。「や」と「こ」と「あ」だと、単語としては繋がらないので、もしかしたら「や」は「やっぱり」とか、「あ」は「ああ」みたいな、あまり意味のない助走のような語が挿入されているということなのかもしれませんが。
八木 いまぼくは、「それは」と言おうとしてるんですけど、「えーっと、そ、あー、そ」という感じで、あいだに「えっーと」とか「あー」とかが入りましたね。たとえばこういうことですか。
伊藤 そうですね。いまのは、「そ」がメインで、「えーっと」と「あー」が挿入だということが分かりました。でも分からないこともあって、三つくらいの音の間を行ったり来たりしているように見えることがあります。「それ」って行ってからまた「そ」に帰ることもありますね。
八木 一音を言うだけだったらできるんですよ。「た」でも「こ」でも五十音全部言えます。一音目から二音目への接続に、ぼくは苦手意識を持っています。接続がうまくいくかなんですよ。
伊藤 なるほど。最初の音ではないんですね。
八木 そこも変わったんです。ぼくは昔は最初の音に苦手意識があったんですが、最初の音はそれを言うのに集中すれば言えるなということに気がつきました。まあ、そうやって最初の音を言うと結局次の音が言えなくなったりするんですけど。ただ、何も言えずに黙っているよりも最初の音を言ってしまったほうが、何かを言おうとしているということが相手もわかるし、最初の音から推測してくれる可能性がでてくるじゃないですか。たぶん、だからこうしてるんだと思います。
伊藤 なるほど。変わったんですね。移行が難しいってどういうことなんでしょうね。
八木 吃音の人でも、たぶん一音だけだと言えるじゃないですかね。
伊藤 あまり考えたことなかったですが、確かにそうですね。つまり、さぐっているというのは、どうやったら一音目から二音目に行けるかという道筋をさぐっているんですね。
八木 そうです。接続がどうやったらうまくいくかです。「利き手」の「き」から「き」は結構難しいです。
伊藤 そう考えると、言葉をしゃべるって面白いですね。一音一音を発しているわけではなくて、その間も連続的に移っているんですね。
八木 それは本当に面白いと思います。研究してほしいですね。
伊藤 それはVOCALOIDの話にもつながりますね。初音ミクのすごさは、五十音だけでなくて音と音のあいだのつなぎめの部分も音声化されていることにあると言われています。だから歌っているように聞こえるんだ、と。
八木 「初音ミクと吃音」っていうのは絶対に面白いテーマですね。「初音ミクのシステムを吃音治療に役立てる」とか仮説として最高です(笑)。
ただ吃音の研究ってデータ的にとるのは難しいですよね。何が吃音なのかっていうのが決められないし、ぼく自身が、ほかの吃音の人と全然違うじゃん、と思っているんで、吃音の人の傾向として一般化されても信じられない部分があります。
伊藤 吃音以外の障害でもそうですね。多様な体があって、障害の有無にかかわらず、みんなそれなりに自分の体を扱うテクニックを持っているという感じでしょうね。
八木 面白いですね。だれでもテクニックを持ってるんでしょうね。
伊藤 テクニックの話で言うと、バリバラの中でもやられていた、メトロノームに合わせて話すものがありましたね。
八木 あれは、ディレクターの提案です。でも実際には使えないテクニックですよ。カチカチ言いながら人と話したくはないので。ゆっくり話すことになるので、考える速度ともずれますしね。体につけて振動でわかる電子メトロノームも買ってみたんですが、やはり使ってしゃべるのは現実的でないかな…まだ検討中です。文福さんのときはテレビだから乗って話そうと思いましたけど。
伊藤 実用性はなくても、現象としては、メトロノームに合わせてだとスムーズに話せるわけですよね。考える速度とずれるとおっしゃいましたが、メトロノームに合わせて話すことはずっと続けられますか。
八木 できますよ。めっちゃつまらないことを話すことになると思いますが。
伊藤 しゃべれるけど、内容のクオリティーが下がるんですね。
自分で拍子をとってもそれにあわせてしゃべれますか。
八木 (指で机をビートしながら実験)「わ-た-し-の-な-ま-え-は-や-ぎ-と-も-ひ-ろ-で-す」しゃべれますね。
伊藤 一音ずつ話すことになるから、移行を切っている感じですね。
八木 (ひきつづきビート)「りゅ-う-ちょ-う-に-は-しゃ-べ-れ-る-け-ど-、こ-ん-な-こ-と-さ-れ-た-ら-めっ-ちゃ-い-や-で-す」
(……スマホのメトロノームでさらに実験)
伊藤 しゃべり方がまさに初音ミクになりましたね(笑)。切ってしゃべるから、思考の流れが見えないですね。
八木 まとめて考えて、まとめて言うという感じで、言いながら考えるというのができないですね。やっぱり嫌ですね(笑)。
伊藤 ビートがあるとしゃべれる理由は、切ることだけですかね?
八木 言おうとするタイミングと、ビートのタイミングが一致しないので、ビートのタイミングにあわせるようになりますね。自分でリズムを作り出すというのが苦手なんじゃないですかね。緊張時にリズムを作るのが苦手というか。歌を歌うときどもらないのはそういうことなのかなと思います。
伊藤 私も吃音をリズムの問題として考えたいというのがあります。運動の最初が出ないということだと、吃音以外にもパーキンソン病などいろいろな症状があります。「自分で自分にキューを出せない問題」は結構普遍的だと思いますよ。
2016年12月11日@京都、新・都ホテルにて