Research

山田舜也さん

はじめて吃音の方にインタビューをしました。いろいろな人にインタビューをしているうちに、自分の体のことも考えざるをえなくなり、私の体の特徴のひとつである「吃音」の世界に踏み込みました。私自身はいまは対処テクを身につけて外見的にはほとんど分からないようですが、子供の頃はけっこうひどかったです。

最初のインタビュイーになってくれたのは、東大スタタリング創設者の山田舜也さん。すでに当事者研究の蓄積があるので、吃音一般についての知識も交えつつ、ご自身の感覚についてじっくり語ってくれました。めちゃくちゃ面白いです。山田さんの特徴は「演じる」という視点。声優が好きで、演劇もやられていて、音読もとてもうまい。私には信じられません。でも、日常生活では演じることに抵抗があるそうです。

それから、以下の文字起こしは、吃音症状を消して読み易い文章にしています。最初は吃音も含めて文字起こししようと思ったのですが、吃音症状そのものではなく、山田さんが吃音をもつ自身の身体をどうとらえているかに興味があるので、カットしました。また同じ理由から、インタビュー後にも大幅に加筆していただきました。


山田舜也さんプロフィール

東京大学大学院理学系研究科修士2年生。吃音学生のための自助グループ・東大スタタリングの創設者・現代表。埼玉言友会では、勉強会係を務め、吃音勉強会を定期的に開催している。趣味は演劇とチェス。吃音の研究者を目指している。

 

○90度逆の方向に手綱を引く

伊藤 いまの吃音の状態はいつごろから出始めましたか。

 

山田 今の症状はそこまで大きくないのですが、発症したのは二歳か三歳のころです。小学校低学年から高学年まで、吃音者のための特別支援学級である「ことばの教室」に週に一回通っていました。そこでの体験が自分自身の吃音に対する考え方や付き合い方に大きな影響を与えているなと思います。

 ことばの教室も先生によっていろいろやり方が違います。言語訓練をやっている先生もいれば、もっと心理的な問題にアプローチする先生もいます。ぼくの担当だった先生は、今になって振り返ると、大阪吃音教室の伊藤伸二さんの考え方にすごく近い先生でした。発声練習みたいなことはしないで、コミュニケーションをとるということをしていました。今週どんなことがあったの、とかを話したり、ゲームをやったりしていました。

 

伊藤 小学生のころの吃音の出方と今の出方はかなり違うということですね。

 

山田 そうですね。僕自身もそうだし、一般的にも、発症したころは、「どどどど」という感じで言葉がつまる連発の状態で、本人に自覚はありませんでした。でも幼稚園のときに女の子に「しゃべりかたが気持ち悪い」と言われたり、親も気にしていました。そのころ抱えていた吃音の問題と、いま抱えている吃音の問題は違うかなと思っています。

 当時は子供だったので、吃音に対して本人はそれほどネガティブにとらえていなかったし、意識してなかったんですが、友達に「あそぼう」と言えなかったんですね。本当はあそびたかったけど、声がでなかったから、ずっと一人で遊んでいたんです。でもそのときは「吃音さえなければ」みたいには考えていなくて、「声でないな」くらいな感じで、楽しく一人遊びをしていました。

 

伊藤 「あ」から始まる単語はハードルが高いですか。つまりやすい言葉とつまりにくい言葉がありませんか。

 

山田 そうですね…中学生のころ、それから大学も吃音症状がひどい時期があったんですが、そのころはいいにくい行(ぎょう)があったような気がします。ただぼくの場合は、時期によって言いにくい行が変化するので。

 

伊藤 言いにくい行が変わるんですね。私は「ア行」と「ハ行」がいつも言いにくい感じがするので、変わるというのは意外です。最近言いにくいのはどこですか。

 

山田  昔、特に中学時代は特定の行、それこそア行とかハ行とかが言いにくい、ということがありました。最近では、日本語の場合、特にどの行が言いにくいと自覚することはないです。でも、だからと言って、吃音が出ないというわけではありません。特定の行や音について吃音が出やすいというよりも、むしろ、特定の関係性や話し言葉の種類・人格によって「吃音の出やすさ」が変わります。

それから、英語を話すときは吃音が出ます。理科系だと学部の授業は全部英語、研究室の公用語も英語という環境だったので、かなり辛かったですね。特にプレゼンをするときは吃音がでやすいです。吃音には、同じ音がと続く「連発」のほかに、音そのものが出ない「難発」がありますが、難発になるのが多かったですね。

一方で、絶対に吃音が出ない条件というのがあります。歌を歌う時、独り言を言う時、大勢で一緒に音読する(斉読)です。これは、発症してから、今に至るまで、一度も変わっていません。

 

伊藤 英語だと難発になりやすいのはどうしてでしょう。

 

山田 多くの吃音者がやっている「言葉を言い換える」ということが、英語だとできないためだと思います。難発時に吃音を制御するとき、一拍間をおいてみるとうまくしゃべれたり、しゃべろうと思っていた単語を瞬時に別の同義語に言い換えるとうまく話せることがあります。私は日本語を話すとき、そのような「言い換え」ですとか「助走」ですとかを非常に多用するのですが、この時の感覚は、ドッグトレーナーが犬をしつけるとき、思い通りに歩かせないように、犬が向かった方向と瞬時に90度逆の方向に手綱を引く(リーダーウォーク)、というのと、似ていると感じています。自分が本当は言いたかった単語を、それを言おうとした瞬間に別の方向に、「裏切る」ことで、全体としてスムーズにしゃべれるようにする、という感覚です。この感覚は吃音と付き合う中で、長い間の時間をかけて、特に中学から高校時代に、自分の中で身に着けた特殊な感覚だと思います。おそらく一般の人にはない感覚です。吃音者全員が持っている感覚ではないかもしれませんが、同じような感覚を身に着けている吃音者は、おそらく多いのではないかと思います。

でも英語だと、さすがにそれほどの語彙がないので、瞬時に同じ意味の単語を複数並べるということができないんです。プレゼンだと原稿も決まっているので。

もっとも、外国語だと必ずどもりやすいというわけではなくて、英語の場合とドイツ語の場合で違ったり、同じ英語でもどの国や地域で話すかによって違うという人もいますね。私は、母語ではないから、英語では吃りやすいのだ、と勝手に思っていましたが、実は母語か母語ではないか、ということだけではなく、言語の種類ですとか、言語を使う人がその言語に対してどういう意識を持っているかですとか、そういうことも、吃音の症状に影響しうる、ということがあるんですね。これは、当事者研究会で、他の当事者の語りを聞いて新しく発見したことでした(参考サイト)。

 

伊藤 なるほど。面白いですね。

 

山田 でもどういうときにどもりやすいかは本当に人によって違いますね。当事者研究をしていて、「こういうときにどもる」という法則を決めるのをためらうところがすごくあります。人によって違うというのもありますし、同じ人でも時期によって、変わるからだと思います。さっき、どの行が吃りやすいか、という話をしたとき、中学時代の僕はどの行が吃りやすい、というのがありましたが、今の僕は、音よりも、関係性や人格が影響しているように感じます。

 

○会話と対話

伊藤 インタビューに入ったら山田さんがどもる回数が減ったような印象があります。初めてで緊張もあったと思いますが、さきほどの雑談のときのほうがどもっていたように感じます。

 

山田 そうですか(笑)。

 

伊藤 特に小学校の頃のお話をされるときはスムーズだったように感じましたが、あの話は何度もされている話なんでしょうか?

 

山田 何度もはしていないですが、吃音について語るという経験そのものは最近多いです。テンプレートのように自分の中で思い浮かべているわけではないんですが、あの話をしよう、この話をしよう、というのはあります。英語で話さなければならないときも、最近は原稿を作らないようにしていて、一字一句決めないで、プロットだけを決めます。そうすると考えながら自由に話せるんです。少し前は、プレゼンの前の日ともなると、準備に準備を重ね、原稿を丸暗記して、何度も何度も練習をしていたものですが、今はやらなくなりました。どんなに練習しても、失敗する時は失敗するっていうことがわかったんで。もちろん練習が報われて、それでうまくいくっていう経験もありました。それはそれでうれしい経験だったんですが、でも、「なんか変だな」、って思うようになったんです。

そもそも、自分は吃音をネガティブなものだって、とらえていなかったはずなのに、こんなにも「うまくしゃべろう」と努力しているのは変だなっと思い始めたというか。それで、「英語を上手に話せるようになりたい」っていう気持ちと、吃音を肯定するっていうのは、よく考えてみると、矛盾しているような気がするんですよね。両立しにくいな、というか。でも、ある言語の規範があってそれにうまくフィットできた時、自分で使いこなせたときに、うれしく思う、っていう経験は、それはそれで否定するべきものじゃないし、大事だとも思うんです。英語の発音記号をマスターした時ってやっぱりうれしかったですし、そもそも、僕は人の声のモノマネするの、すごく好きだから。でも、そのことと、「吃音を肯定している」っていうのは、多分、矛盾している。

それから、やっぱり難発っていうのは苦しんですよね。だから、難発になるんだったら、言い換えとか助走をしても、楽に話せた方がいいって、多分どこかで思ってるんだと思います。

だから、そういうことで、悩んだ時期もありましたね。「本当は僕は吃音を治したいって思ってるんじゃないか」、みたいに。ある種のアイデンティティの危機というか。今にして思うと、吃音が原因でからかわれたり、あるいは、英語と本格的に向き合うようになったり、コミュニケーション能力が問われるような新しい環境に入ったりするたびに、吃音についてのアイデンティティの組み立て方について、悩んできたなっていう感じがあります。でも、子供のことに受けた教育ってすごく大きくて、どんなに悩んでも、「吃音はマイナスなものだ」という風には、絶対に思えなかったですね。今でもそうですけど。それだけ、吃音が僕のアイデンティティの中に、強く、組み込まれているっていうことだと思います。

まぁそんな風にいろいろあったんですが、今は、プレゼンするときは、準備はほどほどにして、大まかな話の枠組みというか話の流れ、プロットだけを作って、あとはその場その場で言葉を作りながら、考えながら話すようにすることにしたんです。そうすると、割とうまくいくし、自分も楽だなっていうことに気が付いたので。

ただ、このやり方も、いまのところはうまくいってますが、どこまで通用するのかわからないっていう不安もあります。その時はまた、自分の中で、新しい方策を立てるようになると思うんですが。

 

伊藤 一字一句再生しているわけじゃないけど、小さなネタみたいなものを展開している状態だと楽なんですね。逆にテンプレート系のやりとり、たとえば何かを手渡されて「どうもありがとうございます」と定型句を言わなければならないときのほうが難しいわけですね。

 

山田 それも相手との関係性によりますね。吃音者の集まりに参加するときや、相手に吃音であるっていうことをカミングアウトしているときは、いつもよりも吃音が出やすいような気がします。これは、「吃ってもいいや」、っていう安心があるから、いつも吃音を制御するために張っているある種の緊張のようなもの・タガが外れている、ということが原因だと思っています。「楽に吃れている」というか。だから、吃音症状は出ますが、吃音で苦しいっていう感じではないですね。難発が出るときは、やっぱり苦しいですが。

あと、目上の人と話すときは、距離感を測りかねて、吃音が出やすいことが多いですね。先日、平田オリザさんと初めてお話する機会がありました。ぼくは平田さんをすごく尊敬していて、しかもそのときは自分が吃音者だということを伝えたうえでお会いしたので、ふだん出ないぐらい吃音が出ましたしたね(笑)。平田さんからはすごく吃音が重い子だと思われていると思います(笑)。ふだんは、もちろんどもることはありますが、症状として表に出ることはそれほど大きくはないです。最近は吃るという症状そのものではなく、別のところに問題があるような気がしています。

 

伊藤 その問題とは何ですか。

 

山田 さいきん当事者研究会をして、平田さんの本を読みながら思いついたことなのですが、関係性、人格、ペルソナのようなものが吃音と関係があるのではないかと思います。これはまだあまり言われていないことですが、少なくともぼくはそう思っています。こういう人格を演じているときは吃音がでやすい、あるいはこういう関係性のときは吃音がでやすいけど、他の場合には出にくい、というのがあるんです。

 平田さんは話し言葉をいくつかに分類していて、「話し言葉の種類」とかいう風に読んでいるんですね(注1)。それを見たときに、ぼくの中で吃音が出やすい話し言葉とそうでない話し言葉があるなと気付いたんです。当事者研究をいているときは「対話」で、この場合は吃音が出にくいのですが、日常生活の「会話」は吃音が出やすい。あるいは、「対話」をしているときは、吃音が出ても比較的楽なんですが、「会話」をしているときは、吃音が出ると苦しくなる、ということが傾向としてあります。

 

伊藤 対話と会話はどう違うんですか。

 

山田「対話」は、人と人が違うということを前提にしながら、その違いを言葉でお互いに確かめあっていく作業です。知っている人同士の場合もあるし、知らない人同士が知りあっていくときに対話を行う場合もあります。「会話」は、共感したりするときに、あまり相手のことを意識しないときに生まれるものです。日本はずっとムラ社会で「会話」をしてきたけれども、これからは「対話」の文化を作らなくてはいけないというのが平田さんの主張です。

私にとって対話することは、吃音症状が出たとしてもすごく楽なんです。当事者研究会のような場面は楽です。でも親しい人との会話のほうが、ぼくにとっては、言い換えが増えたり、助走が増えたりします。年齢を重ねるうちに症状が軽くなったと思っていたのですが、本当は、対話するようにしか相手とコミュニケーションできていないのではないかと、最近思うようになりました。女性と話すときに、研究の話をすることはできるけれども、親しく話をするということができない、ということがあります。おそらくそれは吃音と関係があって、会話したいのに対話のような話し方になってしまったりする。

 吃音には進展段階というのがあると言われています。僕自身はあまり鵜呑みにはしていないですが、4つの進展段階があるとされています(注2)。心理的な負担が一番大きいのは、この第4層の人だと言われていて、まわりからは症状が大きくないので悩んでいると思われないのですが、この層の人が、実は一番、うつ病の併発率が高かったり、自殺率が高いと言われています。おそらくこれは「人格の制御」というのがあるのではないかいう仮説をぼくは立てています。

 

伊藤 おもしろいですね。対話と会話の違いはよくわかります。ただそれは、相手によって、この人とは対話、この人とは会話、と決まるわけではないですよね。たとえば当事者研究で対話したあと、おなじメンバーと食事に行ったり飲みに行ったりしたらどうなるんですか。

 

山田 そういうときは吃音が出やすいような気がします。ただ、僕の場合、あまり変わらないような気もしますね。ほかの人は対話から会話にモードがチェンジできてるのに、ぼくだけチェンジできない、というようなことは多いような気がします。でもまあ、吃音者の飲み会だとあまりモードチェンジはないですかね(笑)。

でも、おそらく、特定の人格を演じているときは話をしやすい、操作しやすいから、そればかりに頼ってしまって、他の人格をするということを避けてしまう、というようなことはあるのではないかと思います。僕のほかにも、実はそのことに悩んでいる吃音者は思いのほか、多いんじゃないか、と思っています。勝手な仮説ですが。

 

伊藤 対話をしているときの人格というのは、具体的にどのようなものですか。

 

山田 今みたいな感じで、自分のことを説明的に話すということだと思います。自分で思っていることを、ちゃんと意識して言葉にして相手に伝えるということです。研究会ではファシリテーター役なので、人の意見を聞くということが中心になるので、また今とはちょっと違いますが。

 

伊藤 なるほど。ご自身以外のこともちょっと話してみたいのですが、たとえば自分以外のこと、研究の話や旅行の話、聞かせていただくことはできますか。

 

山田 ぼくの一番の趣味は、今度演劇をやるので演劇が好きなのと、ずっとチェスのサークルの代表をしていたのでチェスが好きですね。

 

伊藤 チェスの話は対話としてしますか、会話としてしますか。

 

山田 そうですね…。ぼくの中で、会話のなかでもこの人格なら言いやすいというのがあると思います。大学二年生のときにチェスサークルの代表をやりました。それまでみんなをまとめるようなことはしたことがなかったので、すごいプレッシャーがありました。サークルなので、チェスをやるだけでなく学生の居場所というか、行きやすい場所という側面もなければならない、みんなで楽しく会話できるようなサークルにしなきゃいけないというのがありました。苦手なので、すごく困ったんですよね。そういうときに、わざと適当なキャラを演じてみんなを笑わせていました。やっぱりそれもまた人格の制御ですよね。

 吃音者の人と話していると、同じように適当な人格を演じようとしているという人は結構いるんですよね。言い換えたり、助走をつけたりするほうに意識がむいてしまって、相手のことを考えるということがおろそかになってしまって、今もわりとそういう感じですが、とりあえず言いたいことが言えるようにしようというふうになっていく。外見的な症状は消えるんだけれど、演じるキャラみたいなものが固定化してしまったり、制御できなくなってしまう、というところで悩んでいる人がいるように思います。

伊藤 チェスサークルのときには、演じることにはそれなりに成功していたんですね。

 

山田 ただ、3年生のときに、すごく優秀な先輩が入ってきたんです。それまでは2年生が最高学年で後輩しかいなかったところに、えらい先輩がはいってくるということが起こって、困りましたね(笑)。今はその先輩と話すときはどもらないんですが、そのときは、その先輩と話すときだけどもるということが半年くらいずっと続いたんですね。となりにいる後輩と話すときは全然出ないのに(笑)。ぼくが先輩のことを「話しにくい人」と思っているかのようで申しわけなかったです。その後徐々に冗談とかも言いながら話せるようになって、吃音も消えていったんですが、その時、その先輩はすごく喜んでいました。

 

伊藤 わたしも大学に就職して一番切なかったことは、まわりにいる学生たちが、自分と話すときに緊張していることですね。単なる肩書きなのに、自分が人をどもらせる人になってしまったという感じがしました(笑)。

 

山田 ぼく自身は伊藤伸二さんの影響が強いので、吃音をそんなに悪いものだとは思っていないんですが、そういうことがあると困るなと思ってしまいますね。

○二重スパイの感覚

伊藤 社会生活は根本的に演技のたまものだと思いますが、吃音があると、うまくいっていないからこそ、「演じる」という感覚が意識にのぼりやすいんでしょうかね。

山田 放課後誰でも当事者研究会、っていう東大のサークルがあるんですが、そこで、自己紹介の時に、自己病名をつけるっていうのをやるんですね。べてるなんかでもやっていることですが。それで、僕が最初に着けた自己病名が「二重スパイ型コミュニケーション不制御障害」とかいう病名だったんです。名前を付けたときはそれほど深く考えてつけたわけじゃないんですけど、今から思うと、端的に、これは僕自身の吃音の生きづらさを表しているように思います。今では「コミュニケーション不制御病」じゃなくて、「人格不制御病」っていう風に読んでいます。

これも平田オリザさんがよくお話しされるんですが、秋葉原の通り魔事件の加藤死刑囚が「いい子を演じさせられるのに疲れた」みたいなことを犯行声明文で述べているんですね。「演じさせられる」っていうのは、非常におかしな表現で、「演じる」っていうのはplayですから、本来主体的な行為のはずなんですね。しかし、それを「させられている」と感じたとたんに、人は特定の人格が重くなってしまうことがある。誰によって演じさせられていたかというと、彼の場合は明らかに母親によって「演じさせられて」来たわけですが、ひょっとすると、吃音によって「演じさせられる」ようなことがあるのではないかと僕は勝手に思っているんです。

吃音者で、どんな場合でも吃音状態になるっている人は、多分いないんです。歌う時とか独り言を言う時とか、斉読するときに、吃音が出るっていう吃音者はほとんどいません。別の言い方をすると、吃らない話し言葉の種類と、そうじゃない話し言葉の種類があるっていうわけです。人によってその「話し言葉の地図」は違うかもしれませんが、何にせよ、特定の関係性や人格において、それが話しやすかったり話しにくかったりするということがあるんだと思います。僕の場合、「話し言葉の地図」を見て、「対話」の方が「会話」よりも話しやすいっていうことに気が付きました。

でも、たいていの場合、当事者研究でもしない限り、どういう関係性の話し言葉が話しやすくて、話しかけにくいのかっていうのは、本人にもよく自覚できないんじゃないかと思うんです。実際、僕も、平田さんの本を読むまで、そんなことは考えたこともありませんでしたから。さらに、その、個々の吃音者が持っている「吃りやすい話し言葉の地図」っていうのも、さっきの「吃りやすい行」と同じく、時期によっても変化しうると思うんです。継続的なものじゃなくて変動性がある。今の僕は「対話」が安心できて「会話」が苦手だと言いましたが、もしかしたら将来、逆になるかもしれない。独り言、歌、斉読で吃らないっていうのは、おそらく一生変わらないだろうっていう風に思いますが。

何にしても、吃音者は、話し言葉の選択の依存先が限られてしまっている。しかも、自分がどういう時に話しやすいか、話しにくいかっていうのが、時期によって変動してしまう。そうすると、何が起こるかというと、「サバイバル」のために、無意識のうちに、特定の話し言葉の種類を、選択させられてしまう、というようなことが起こると思うんですね。まさに、吃音によって、本人の意思とは関係なく、特定の人格を「演じさせられ」てしまうっていうことが起こる。そして、実はこれが、吃音者、特に第4層の隠れ吃音者の大きな悩みなんじゃないかと僕は推測しているんです。

「二重スパイ」っていうのは、その辺のニュアンスを表した言葉です。自分が一体何のためにこの人格を演じているのかわからなくなってしまっている状態が、「二重スパイ」です。

「一重スパイ」、つまり単なるスパイであれば、自分が何のためにその人格を演じているか、嘘をついているのか、自覚的になれるんですね。本当はA国の人間なんだけれども、B国から情報を盗み出すためにB国の人間のようなふりをしている。B国の人格を演じるわけです。嘘をつくのはつらいかもしれませんが、しかし、自分が何のためにうそをついているのか、演じているのか、自覚することができるわけです。

ところが、「二重スパイ」っていうのは違うんですね。「二重スパイ」っていうのは、もともと別役実さんが『犯罪症候群』っていう本の中で使っている言葉なんですが、A国ではA国の人間のようなふりをして、裏ではB国のために画策し、B国ではまるでB国の人間であるようなふりをして、裏ではA国のために画策する、一体本当はどっちの味方なんだか、自分でもよくわからなってしまった人間なんです。これは、「言い換え」ですとか「演じ分け」ですとか、そういう「サバイバル」を発展させればさせるほど、苦しくなっていく吃音者の悩みと非常に近いのではないかと思っているんですね。

そして、しかも、私の場合、それを演じさせているまさにその原因であるところの「吃音である」ということについて、絶対にマイナスなものだとかネガティブなものだとか否定することができないわけです。それとともに自分が生きてきて、その下で常にコミュニケーションをとってきたので、そうではない自分というのが想像できない、っていうことだと思いますが。よくわからないんだけれども、ニヒリスティックなかたちで、非常に肯定的なものとしてアイデンティティの中に組み入れている。「吃音だったからコレコレこういういいことがあった。だから私は吃音を肯定する」というような形で僕は吃音を肯定していません。ただ、そのことそのものに、意味があると考えている。「どういう意味か」と言語化してしまったとたんに、僕にとってそれは嘘になってしまうので、絶対に言語化不可能な文脈での「意味」だと思うんですが、少なくとも何かしらの「意味」があると信じている。だから僕は常に吃音について意識化したり言語化することをどこかで恐れているとも思うんですね。今でもそうです。当事者研究をするようになった今でさえ、そう思っています。

だから、今でこそ「二重スパイ」なんていう言葉を使ってある程度言語化できていますが、これまでは、人格の選択ですとか演じ分けを無意識のうちに行ってきました。しかも、その選択の仕方が、自分自身で制御もできなければ、時期によって変動もしてしまうから、よくわからない。よくわからないまま、「演じ分け」てしまう状態。こういう状態は、長い期間積み重なると、とっても、苦しいものになるんじゃないかと思うんですね。本当は演じたい人格みたいなものがあるのに、それを、ドックトレーナーが90度リードを回転させるように、反転し、制御された人格でコミュニケーションをとる。その「トレーナー」の顔ですとか意図ですとかがよくわからない。ある程度法則性みたいなものはあるかもしれないけれど時期によって大きく変わるところがある。少なくとも、平田オリザさんの「話し言葉の地図」を見るまでの僕はそうだったわけです。

 おそらく、私が演技するのが好きなのは、舞台上で演技をしているときっていうのは、「一重スパイ」でいられるからだと思うんですね。だって、嘘ですから。演劇っていうのは。ここは嘘の世界ですよっていうことを、客も役者も承知の上で、その虚構の人格なり関係性なりを一生懸命演じることができる。特定の人格を演じるっていうことに集中できる。「演じてもいい」とみんなが承認してくれる。むしろうまく嘘をつきとおしたり、うまく演じた方が褒められる。そういうときは、僕はとっても楽なんです。吃音そのものの回路が消えることだってあるくらいなんです。

 もともと、「吃ること」を、スムーズにしゃべらなければならないという言語規範から無意識のうちにはみ出てしまう「演じきれなさ」の外面的な表れとしてとらえるのなら、「二重スパイ」になってしまった吃音者っていうのは、その「演じきれなさ」を、一見外からはわからないような形で内面化させてしまった人たち、と言えるんじゃないでしょうか。ヴァン・ライパーの吃音進展図が意味しているのは、吃音っていうのは最初は症状として外面化されているものなのに、進展するにしたがってそれが内面化されていくっていうことだと思うんです。スムーズにしゃべれているけれども、コミュニケーションの不全感みたいなものは、残る。一見うまくコミュニケーションをとれているように見えるし、本人もそう思ってしまう分だけ、第4層の人が抱える吃音の問題っていうのは、より深刻だと思うんですね。内面的に蓄積された不全感の得体のしれなさというか、持っていきどころのなさというか。

 ただ、さっき、僕、この進展図を鵜呑みにしているわけじゃないって言いましたが、「言い換え」とか「助走」をしながらも、「二重スパイ」にならずに、元気に生きることは、できることなんじゃないかなと思うです。伊藤伸二さんなんかまさにそうだと思っていて、あの人も「サバイバル」しながら、しかし、おそらく非常に前向きに生きている。だから、この進展図っていうのは、絶対にどこか間違いがあっておかしいんじゃないかなと思っています。難発があって、「言い換え」もしているけれど、それほど深刻に悩んでいない吃音者っていうのは、多分、大勢いる。しかし、この進展図だと、そういう人も治療の対象になってしまう。だから、どこか間違いがあると思うんです。この進展図は。どこがどう間違っているのか、については、まだうまく指摘できていないんですが、おそらく「人格」とか「演じ分け」っていうのはひとつのキーワードになるだとうと思っています。

伊藤 なるほど。非常に面白いですね!私自身は、ふだんから「言い換え」をしまくっていて、つねにアワアワしながらしゃべっているという自覚があります。二重スパイの感覚もよくわかります。でも、山田さんとは違って、言葉を制御できなくなる感じは私にとっては快楽でもあります。そもそも、考えたことが言葉になるという順番を信じていないのかもしれません。出たとこ勝負というか、言葉にしてみることで考えがうまれてくる感じですね。自分はさまざまな言葉や経験や感覚がためてある肥溜め(笑)みたいなものにすぎず、話している相手やその場の状況のほうが、私からいろんな言葉や経験や感覚を引き出していく感じですね。社会人としてこんな無責任でいいのかなとも思いますが(笑)。

つまり、吃音が自分じゃなくて環境の方にある、あるいは環境と自分の間にあるんですよね。環境が吃音という形で私に作用してくるというか。だから、たとえば話している途中で相手がため息つくとどもったり、変化に対して過敏に反応します。吃音の具合をみながら、「いま、自分と環境の関係、こんな感じになってるなー、ふふ」とか冷静に観察している自分もいる気がします。捉え方がかなり違って面白いです。

 

○   舞台上ではどもらない

伊藤 どもれと言われたらどもれますか。

 

山田 どもれないですね。喉をきゅっと締めて吃音に近い状態を作ることはできるけれど、それは演じているのであって吃音症状が出ているときとは違いますね。喉の筋肉は随意筋と半随意筋の中間みたいなもので、制御はできるけど、ふだんは無意識に動いている。閉めようとしている脳の回路と、無意識に閉まってしまうときの脳の回路とでは違うと思います。

 

伊藤 連発性のときも同じですか。「どどどど」となるとき、緊張していないですよね。

 

山田 ないですね。連発は緊張ではないですね。よく、吃音じゃない人が、「私も緊張すると吃ることがあるよ、誰でも、吃音ってあるんじゃないの?」って言いますが、あれは間違いです。だって吃音者は連発のとき、べつに緊張しているわけじゃないですからね。だから、吃音っていうのは、元々は非常に身体的な問題だと思っています。

 

伊藤 吃音といっても、連発と難発ではだいぶ違いますね。連発はいつか言えるという感じがありますが、難発は永遠に言えないような感触があります。

 

山田 そうですね。もうひとつ伸発といって「たーまーご」というのがありますが、ぼくはほとんどやらないですね。連発と難発が重なる場合もあるように思います。たとえば怒っているときに、そういうことがあるような気がします。ふだんほとんど怒らないのでだいぶ昔の記憶で曖昧ですが。

 

伊藤 いまは難発でも最終的に発声できていますね。そのことに対する安心感はありますか。

 

山田 家族の前でというのとは違いますが、いまは安心して話せていると思います。「吃らないだろう」、という安心感というよりも、「吃っても、自分の言いたいことを話せるだろう」という安心感です。

 

伊藤 自分に対する安心感というか、自分の体に対する安心感はありますか。「つまっちゃっても、まあ、いつか出るよ」みたいな。

 

山田 そうかもしれません。でも、今は対話なので、何を言おうかというところに意識がむいていて、あまり吃音を制御するほうに意識がいっていないというのもあると思います。

 

伊藤 ということは、考えながら話す方が楽なんですね。

 

山田 いや、でもそうとも言えないという気がしてきました。ぼくは今あまり大きな口をあけないでもごもごしゃべっていると思うんですが、そういう声の出し方にも関係があると思います。吃音者は竹内敏晴さんと演技をやっていましたが、今は竹内さんの弟子の方がそれをまた復活させようとしています。人に声を届けるレッスンをするんですが、そういうときはこういう話し方ではなく、声をぶつけようとしています。ぼくは演劇が趣味なんですが、舞台上では絶対にどもらないんです。プレゼンだとどもるんですが。

 

伊藤 どこが違うんでしょうね。

 

山田 何が違うんでしょうね…。舞台上は虚構なので、ここでは何をしてもいいし、内容がつまらなかったら役者のせいじゃなくて脚本家のせいだから、というのがあるし(笑)。プレゼンだと自分がしっかりやってきたのか値踏みされている感じがするからですかね。

舞台上では人格を演じることに意識的になっているからかもしれませんね。これはこういうキャラだというのを自分で決めて、それに没入することに集中すればいいので。ぼく以外のも、舞台上だとどもらない、吃音の回路そのものが消えるんだという人が一定数いますね。

 

伊藤 バイトとかはどうですか。ちょうどその中間のような感じですよね。もちろんバイトの種類によりますが、コンビニの店員のようなバイトだと演じる度合いが高いですね。

 

山田 接客はあまりやったことないですが、どもりやすい気がしますね。決められた「いらっしゃいませ」とかを言うのはやりづらい気がしますね。

 いまサークルで吃音者の演劇をつくっていますが、そのなかでどういう演技のときに吃音が出やすいのかということをみんなで研究しながら稽古しています。竹内レッスンみたいな演技がいいのか、平田さんみたいな演技がいいのか、ひとりひとり話してデータにしています。

 

伊藤 最前列のお客さんが全員寝ててもどもらないですか?

 

山田 (笑)ぼくはあまり客席を見ていないんですよね。あまり関係なくやれますね。

 

伊藤 まわりの役者さんがどもった場合はどうですか。

 

山田 自助グループで話すときは、難発の人と話すと自分もどもるということがありますね。

 いま作っている演劇は、吃音者の自助グループをテーマにしたものなので、ここは絶対にどもってほしいという演出の場所を作ったんですね。そうしたら、ぼくと同じように演技のときは絶対に吃音が出ないという人が、ものすごく吃音が出ました。それで演出を変えて、吃音が出ても出なくてもいいから、演技に集中してくださいというふうにしました。そのどもる感覚はぼくもちょっとわかります。

 さっき話した竹内さんや平田さんの演技の話をしましたが、平田さんのブレヒトのように「どう見られているか」を意識するやり方は、ぼくも吃音がでやすくなります。竹内さんのようなメッソッド演技法のようなほうが、吃音が出にくいんです。吃音の回路そのものが消える感じがあります。

 

○音読の実験

伊藤 音読はどうですか。一般的に吃音の人はもっとも苦手なものだと思いますが(笑)

 

山田 国語の授業とか、苦手でしたね。

 

伊藤 いま、ちょっとやってみるというのはどうですかね。

 

山田 いまですか?でも、ぼくそんなにどもらないと思います(笑)

 

伊藤 文章を印刷してきたので、これを読んでもらえますか。長新太さんの『ばけたらふうせん』という絵本の一部です。セリフが多めの文章です。

 

山田(音読)

 

伊藤 (拍手)うまいですね!素晴らしいですね!かなり感情を込めて、演劇に近いモードで読んだ感じだったでしょうか。聞いていて内容がすっと入ってくる感じでした。

 

山田 でも中学生とかのころはこんなふうに読む方法を知らなかったので、みんなから笑われたと思います。もっと棒読みみたいな感じでした。

 

伊藤 入り込むと、本当に一切吃音が出ないですね。むしろ堂々とした、見本のような、メソッドっぽい読み方ですね。でも入り込むといっても、このお話に登場するお医者さんとかふうせんといった登場人物に感情移入するのともちょっと違いましたね。何に入り込んでいたんでしょうね。

 

山田 いまは内容をそこまで理解していないので、そこまで内面を考えて気持ちを込めてということはやっていないと思います。単純にこういう抑揚のつけ方で読むというのを経験で知っていたんだと思います。ぼくは中学校のころ、吃音の症状がすごくひどかったときに、ラジオドラマにはまっていたんです。ひとりで、声優さんの真似をしていました。学校では吃音がものすごくひどかったけど、家でひとりごとを言っている分にはまったく吃音がでないので、声優さんの真似をすごくやってたんですね。なるべく自然を装いながら抑揚つけて感情を込めて言う、そういう読み方を自分の中で開拓していったというのはあると思います。日常生活のなかでそれをやるのは抵抗があってできないですが。

 

伊藤 面白いですね。違うテキストも音読していただていいですか?沖縄の旅行のガイドブックなんですが。

 

山田 いいですよ。(音読)

 

伊藤 さっきと違いますね。

 

山田 感情を込めようがないテキストだったので、違いますね。

 

伊藤 でも、そういう話し方をする人がどこかにいそう、という感じはしました。

 

山田 そうですね。ちょっとそういうのを入れるんですよね。アナウンサーみたいには読んでないですね。

 

伊藤 社会の中でスタイルになっているパターンを使っている感じですね。感情移入じゃなくてもうまくいくということですね。

 

山田 はい、パターンを使ってますね。真似をしている感じですね。

 

伊藤 違う感じでも読めるということですね。

 

山田 読めますね。一般的な吃音者ではなく、ぼくが変わっていて、中学校のときに声優さんの真似をたくさんしていたからだと思います。

 

伊藤 違う読み方をお願いしてもいいですか。

 

山田 (音読)

 

伊藤 なるほど。ちょっとテレビっぽかったですね(笑)。どうやってモードを変えたんですか。

 

山田 なんでしょうね…「テレビっぽく」とかは思ってないですね。声の音程をちょっと高めにしましたね。

 

伊藤 何か具体的にイメージしているものはないですか。たとえばバスの次の停留所を言うアナウンスのようなものとか。

 

山田 うーん、もう少し考える余裕があれば、たとえば喫茶店のマスターのセリフなら自分の知っているマスターっぽくしゃべりますけど、今はあまり考えていないですね。自分のなかにあるパターンを取り出して読んでる感じですね。

 

伊藤 モノマネもしますか。

 

山田 うまくないですが、ひとりのときにしてましたね。親からうるさいと言われますが(笑)。吃音を治すためとかではなく、本当に純粋に声優さんが好きでやってました。それがよかったんだと思います。

 声優さんでは、むかし波平さんの声をやっていた永井一郎さんが好きでした。あまり演じてないんですよね。穴子さん役の若本規夫が好きだという人が多いと思うんですが、永井さんは声を変えないで人格を変えるということをやっています。ふつう声優さんは声を開発するんですが、永井さんはそういうことはしないで、自分の声のまま演じるんです。だから気がつかない人が多いんです。

 今のアニメ声のような声優さんではなく、文学座とか出身の自分の味がある人が好きですね。ねずみ男役の大塚周夫なんかも好きでしたね。一般受けしそうな声を設定している人ではなく、人間を表現するだという意識がある声優さんが好きですね。声には敏感なほうで、上野千鶴子先生の声なんかも好きですね(笑)。

 

○生活のなかで演じることへの抵抗感

伊藤 また別バージョンの読み方を試していいですか。私が音読するので、そのあとについて読んでいただけますか。

 

山田 はい。(音読)

 

伊藤 私が山田さんに送ったメールを読みました。スムーズですね。でも私の読み方よりも抑揚がついていましたね。

 

山田 そうですね。伊藤さんの声の真似をしていたわけではないですね。

 

伊藤 音として受け止めるのではなく、一度、言葉の内容を理解したうえで真似ているということですね。

 

山田 話し方を真似るというのではなく、文字として追っている感じですね。声や話し方のテンポを真似ているわけではないですね。

 

伊藤 じぶんで文章を読むのと、どっちが楽ですか。

 

山田 さっきのほうが楽ですね。セリフが多い文章が一番楽で、次がガイドブック、最後があとについて読んだ場合ですね。

 

伊藤 なるほど。実験続きですが、記憶にもうちょっと負荷をかけてもいいですか(笑)。あとについて言ってもらう切れ目を長くしてみます。

 

山田 はい。(音読)

 

伊藤 ありがとうございます。今はあまり演技っぽくなかったですね。わりとナチュラルな感じという印象をうけました。

 

山田 そうですね。覚えきれなかったので(笑)。

 

伊藤 忙しいとどもらないというのはありますか。

 

山田 どうでしょうね…。平田さんのワークショップに参加したときに、意識を分散させるということをやりました。メソッド演技法のようにやらないで、携帯電話を見ながら、頭をかきながら、歩きながら、セリフを言うということをやるんです。身体の負荷を増やして、セリフから意識を遠ざけるんです。一般の体験者は、ちからが入らないからそっちのほうが楽だというんですが、ぼくとしては、そういうときのほうがきつくて、吃音がでやすくなりました。

 

伊藤 なるほど。となると、セリフを言いながらそういった動作をするのと、さっきのように記憶しながら読むというのでは、負荷のかかり方が違うということですかね。

 

山田 さっきは字面を追おうとしていたので、全体としての意味をつかむことはできませんでした。自分で何を言っているのか分からなかったです。

 

伊藤 呪文みたいな感じですかね。

 

山田 そうですね。呪文を覚えようとしていました。感情を想像したり、パターンに当てはめるということもできなかったので、わりといましゃべっている感じに近いですね。ただ、思い出す方向に意識が向いていたので、吃音を制御しようというほうに意識は向いていなかったですね。

 

伊藤 意味を重視するかどうかは、吃音に関係しているような気がします。さっきの対話と会話も、対話のほうが意味重視で、ちゃんと伝えたいということですよね。対話は、意味を大切にする場だから楽なのではないか。でもさっきは、意味がないしゃべりで、吃音はでなかったけど、ご本人としては楽ではなかったんですよね。

 

山田 やはり自分の中にあるパターンを使っていることが大きいと思います。「こういう抑揚をつけて読めば、面白く感じてもらえる」というのを、おそらくストックとしていくつか持っているんだと思います。

 でもふだんの生活のなかで、永井一郎さんのしゃべり方をしよう、というのはできないですね。すごく抵抗があります。上野千鶴子先生なんかは、「こういう声で話せば色っぽくなる」というようなことを把握しているんだと思います。ぼくはそれができなくて、演じる、というところにすごく抵抗感があるのかもしれません。男性だからかもしれませんが。

 

伊藤 演劇をやっている一方で、ふだんは演じることに抵抗があるというのは面白いですね。

 

山田 抵抗がありますね。でも、そのときどきで濃密に関わっていた人で特徴的な人がいると、すぐ真似てしまうというのがあります。大学二年生のときに化学史の先生と一対一で毎週ゼミをやっていたんですが、そのとき先生のしゃべり方が気に入って、それっぽくしゃべっていましたね。ラジオでも同じ声を聞いていましたし、最近は平田先生のしゃべり方もよく聞いて真似たりしています。

 

伊藤 本はどうですか。文体がうつったりしますか。

 

山田 偏読癖があって、ひとり気に入った方がいると、その人の全集を端から読む、というような読み方をしてしまいます。そうするとその人の文体がうつりますね。

 

伊藤 ある人の中の「言葉が出てくるシステム」を使うということにこだわりがあるんでしょうね。演じることと吃音の関係、面白いですね。ひきつづきいろいろ見せてください。ありがとうございました。

 

 

(注1)

演説・・・政治家などが、あまり聞く意志のない「不特定多数」を相手 に、一方的に行う発話。

スピーチ・・・結婚式などで、あまり聞く意志のない「特定少数」を相手 に、一方的に行う発話。

教授・・・教室などで、ある程度聞く意志を持った「特定少数」を相手 に、ほぼ一方的に行う発話。

対論・・・裁判などの発話。通常、一対一で、主に相手の主張を論駁する ことを目的とする。交互に意見を発表することが多い。

対話・・・会議などでの発話。二人あるいは数人で行い、説得、妥協などののち何らかの共有できる結論を得ることを目的とする。発話のタイミングなどは流動的になる。

会話・・・通常の挨拶や、すでに知り合った者同士の「お喋り」。

(平田オリザ「劇作家として自然な日本語とは何か?」より)

 

(注2)

ブルーメルは、吃り始めて間のない、軽くことばを繰り返すような吃音と、吃ることへの恐れや不安を持ち、慢性化し複雑化した成人の吃音とは明確に区別すべきだとして、一次吃、二次吃と名づけた。その後、ヴァン・ライパーは吃音の進展を次の4段階で区別した。

イ 第1段階

始まって間のない吃音は、主として力まない吃り方である。「タ、タ、タ、タマゴ」「タタ-マゴ」といったように、軽い音の繰り返しや引き伸ばしで、話すときにあまり力が入っていない。話すことへの不安や恐れはないし、フラストレーションを感じている様子はなく、話すときに意識はしていない。

ロ 第2段階

音の繰り返しや、ことばの引き伸ばしが徐々に変化してくる。「タ、タ、タ、タマゴ」と言っていたのが、「タ・・・・・タ・ターマーゴ」といったような言い方に変化する。この頃から、話すときに少し意識するようになる。

ハ 第3段階

ことばがつまり、いわゆる難発の状態になり、発語に際して緊張が生まれ、それが表情や身体にあらわれる。首を振る、手を振る、体を動かすなどの随伴運動が生じる。心理面では欲求不満が起こり、吃るのではないかという予期不安が起こってくる。

ニ 第4段階

難発の状態が一層激しくなり、ことばが出ない間隔が長くなり、頻度も多くなる。心理面では予期不安が一層大きくなり、恐怖が生じる。話すことを避ける回避行動もあらわれ、コミュニケーションに大きな障害となる。吃るかもしれないという不安と恐れで、話す場面に出ていけなくなる。そして、ますます不安や恐れが大きくなり、吃らずに話そうとすればするほど吃ってしまう悪循環に陥る。

(「日本吃音臨床研究会HP」よりhttp://kituonkenkyu.org/0002_001_02.html)

 

 2016年10月18日 医学書院会議室にて