Research

Kさん

はじめて半盲の方にインタビューしました。体の中心と視野の中心がずれているとはどういうことなのか、具体例を交えて明晰なお話をいただきました。それにしても車が半分に見えるとは驚きです。


《Kさんプロフィール》

私は、手術室看護師の職歴を生かし、小・中学校で、教諭として、さまざまな生きづらさを抱える母子の問題に取 り組み、支援してきました。そこで、私自身の視覚障害による暮らしの困難克服のための探究を通して、脳の生理学的解明や、見えない暮らしから生まれる新た な価値の発見が、他の人々の暮らしの向上に資すると考えました。

◎右と左の感覚

K もともと慶応大学病院のオペ室の看護婦をしていました。その後で教育学部に入り直して、小学校と中学校の数学の免許をとり、小学校で算数を教えていました。社会福祉の大学も通信教育で卒業しています。何でも聞いてください。自分が研究材料になることが歓びです。

 

伊藤 いろいろな専門の知識をお持ちなのですね。今日はよろしくお願いします。まず、今の見え方について教えていただけますか?カテゴリーとしては「半盲」になるとうかがっていますが…。

 

K はい、「左半盲」です。四年前に脳出血をして、その後遺症でこの状態になりました。右側頭葉の出血で、視交叉の近くだったので、視神経がやられたんです。倒れたときは、左耳も聞こえていなかったように思いますが、今は聞こえています。見え方は、世界が真半分で、左側がないんです。真っ白とかではなく、視野がない、光もないです。障子を左側から閉めてきて、鼻のところで止めて見ているような状態です。右目は若い頃は0.04くらいしか見えませんでしたが、老眼で見えるようになって0.4くらいあると思います。

 

伊藤 なるほど。ということは、ご自分の体の左半分についての意識は、背中に対する意識と同じような感じですか?

 

K まったくそのとおりです。

 

伊藤 生活される上では杖はつかないんですね。

 

K 杖は持っていますが、首を振って全部を見る習慣があります。首を振って、左側を見て、記憶するんです。

 

伊藤 記憶するんですね。信号を渡るときに、右を見て、左を見る、あれと同じようなことでしょうか?

 

K そうです。以前は正常に見えていたということが大きく影響しているようです。生まれつき視野狭窄である人は、見えないところはないものとして生活しているようですが、私の場合はあるはずのものがないという前提で見ています。前のように暮らしたいから、意識して「今右側だけが見えている状態で行動しているんだぞ」と体に言い聞かせています。

 

伊藤 そのような非対称な状態になってから、「右」や「左」の感覚に何か変化はありましたか?

 

K 面白いですね(笑)。見えてはいませんが、こうやって両手を動かしてみると、左右同じように動かしていることを感じます。障子が真ん中まで閉まっているというところ以外は変わらないです。

 

伊藤 視覚的なフィードバックがなくても、左右の感覚は変わらないんですね。自分の体を鏡に映すとどうですか。

 

K 鏡はあまり見ませんが…でも普通に見えます。

 

伊藤 左右の感覚に変化がなくても、左手が不意に何かに触れたりすることが増えたのではないですか。たとえば誰かに急に手を触られたりとか。驚くと思うのですが、そういうときはどういう反応になりますか。首を振ってまず見ますか。

 

K 驚いて、首を振って見ますね。それに関連して、どういう見え方なのかが分かるエピソードをご紹介します。たとえば前にいる相手がボールをこちらに向かって投げるとします。それが直球だと見えるのですが、自分から見て左側にカーブすると、ボールがいったん消えていきなり現れることになります。正常に見えれば、ボールが迫ってくる経過が見えるのに、私の場合にはボールが現れてから気がつく。そういう面白い現象があります。

 

伊藤 怪我をされたことはありますか?

 

K 山ほどあります。新宿駅などの混雑した場所で、目の前に急に人が現れることがよくあります。ところが先週、京都にいて、建物を指し示そうとして左手を伸ばしたら人にぶつかって驚きました。東京だと、左手を出してもぶつからないのですが、大阪と京都は人の流れが逆なので、ぶつかったんです。

 

伊藤 都市によって左右の使い方が違うので、その場その場で振る舞い方を変えないといけない難しさがありますね。

 

K 意識の基盤を取り替えるんです。「ここは左と右は逆だから、そういう意識で行動するぞ」と思う工夫をしています。

 

伊藤 ご自宅などで廊下を歩いていて、両側に部屋があるとしますよね。その左側の部屋に用事がある場合、どのようにその部屋を探し当てるのですか?

 

K 面白いですね。まず、その前段階で、扉が開くかもしれない怖さがあるんです。だから廊下を歩くときは、扉の幅の分だけ左側から離れて歩いています。廊下の右側の壁を指でこすりながら歩くんです。離れると視界も広くなるので、左側が見えやすくなります。道路でも、ガードレールをこすりながら歩くんです。

 

伊藤 左側で何が起こるか分からないから、いつも安全地帯を確保しておく必要があるわけですね。

 

◎体の中心と視野の中心

K もうひとつ、大事な条件があって、まっすぐ歩くのができないんです。だから右の壁をこする、つまり基本線が必要なんです。視覚障害の人は、基本線になりそうなものを見つけて、それをなぞるように歩くんです。そうすると、安心して歩ける。全盲の知人も同じそうです。眼をつぶってまっすぐ歩けと言われたらできないですよね。それと同じようなことだと思います。

 

伊藤 立体感はどうですか

 

K 私は立体感はやられませんでした。両目とも右側が見えているので、立体感は分かります。ただし、ここを先生に伝えたかったんですが(笑)、予想外のことがありました。歌舞伎が大好きで見に行くのですが、猿之助の舞台を2階席から見下ろしていたところ、舞台上にいる3人の役者が、ふわあっ、ふわあっ、と移動するんです。

 

伊藤 えっ、3人一緒にふわあっ、と浮いて別の場所に動く…どういうことですか?

 

K 書道をやっていても、技術はあるはずなのに、まっすぐ文字を並べていくことができないんです。例えば文字を上から10文字並べていくとして、上から2個半くらいまでは、真ん中の中心線が出ていると確認できるんですが、3個目以降は、中心がふわあっとずれるんです。それでまた2〜3文字書くと、またふわあっと中心がずれるんです。猿之助たち3人が動くというのは、中心がずれているということなんだと思います。

 

伊藤 なるほど…面白いですね。中心がずれるというのは、視野の中心がずれるということですね?

 

K はい。

 

伊藤 その猿之助たち3人が動いたというのは、目を逸らしてまた見たら動いていたというのではなくて、見つめているときに動いたということですか?

 

K そうです。じいっと見つめていると動きます。

 

伊藤 見つめているうちに中心線が動いたということですね。縦書きで文字を書く場合にずれるというのも、2〜3文字書くとずれるんですよね。歌舞伎の舞台でも役者が3人かたまりになっていますね。でも重要なのは数ではなくて…

 

K そうです。時間的な問題なのかな、と仮説を立てています。

 

伊藤 実際に紙に書いていただいてもいいですか?

 

K もちろん、いいですよ。

 

(紙に縦書きで住所を書く)

 

伊藤 かなりまっすぐに書けてはいますが、2〜3文字ずつわずかに左にずれていきますね。それと、意外に速く書かれますね。

 

K 文字を書くときには、スピードでカバーしようと思って、早く書くことをチャレンジしています。ゆっくり書くとやはりずれるんですよね。

 

伊藤 意味的なまとまりも関係しませんか?「東京都」「○○市」というところで、いったん意識の区切りができ、リズムができますよね。

 

K そうではないと思います。書いていて、2〜3文字経つと、「あれ、変だな?分からない」と中心探しが始まっちゃうんです。

 

伊藤 なるほど。いま書かれるときに、紙の端は頼りにしましたか?

 

K していません。体の中心を基準にして書きました。書道をやってきたので、体の中心にあわせる癖ができているんです。

 

伊藤 見えている視野の中心は、身体の中心ではないという意識が常にあるわけですよね。おそらく、脳がそこを補正するんでしょうね。ところが集中して書いているうちに、補正機能がゆるんで、見えている視野の中心が本当の中心であると思うようになるんでしょうね。

 

K そうだと思います。あっていると思います。

 

伊藤 人間の体って一定の緊張が長く続くことに耐えられないんですよね。ずっと一点を見つめているとぼやけてくるのもそうですが、同じ緊張が続くのをさまたげるようにできているんです。きちんと実験しないと分かりませんが、そのあたりと関係しているのかなと思います。加えて、効き目がどちらかということも関係しているかもしれません。

 

K 距離も関係していると思います。歌舞伎の場合には、2階席から見下ろす形で見ていました。十秒以上の長い時間見つめていると、役者が移動します。同じ場所のあいだを反復横跳びのように往復するんです。

 

伊藤 そうなると、生活のなかで難しいのは、位置を把握することですね。

 

K 階段を降りるときにも、段差が動いて困ります。上がるときは困らないんですが、降りていくときに、段は段として見えているんだけど、縁がぶれているので、段が動いたなという感じになります。流して写真を撮ったような見え方です。

 

伊藤 下りのときだけなんですね。見下ろしていて、距離があるからですかね。

 

K そうだと思います。この話、一番分かっていただきたかったんですよね。

 

◎半分になる車、ヘッドだけの電車

伊藤 半盲の状態になって4年とのことですが、その間に何か変化はありますか。

 

K 特にないです。自分研究が進んだくらいです(笑)。

 退院したばかりのときに驚いたのは、前を走っている車が縦半分で切れて、右半分は見えるんだけど左半分は向こう側の景色が見えたことです。

 

伊藤 面白いですねえ。そんなふうに見えるんですね。走っている車ですか。

 

K はい。面白いです。怖いですけど。

 

伊藤 走っていない車や、建物や家は半分にならないわけですよね。

 

K 言われてみればそうですね。家を近くで見ると、障子が半分まで来ているから、残りの右半分しか見えない。視界が狭いだけです。だけど、走っている車は、後ろ半分が欠けていて、向こう側の景色が見えてる。その景色が本物の景色かどうかも確認したんですが、本物でした。同じことが言えるのが、駅のホームで電車が来るのを迎えているときです。この場合は、ヘッドだけ見えて、後ろが欠けているんです。1号車だけ見えて、後ろがないんですよね。

 

伊藤 へえ、そんなふうに見えるんですね。その景色は、電車が来る前に見ていた景色ですよね。

 

K なるほど、そうだと思います。見えていた景色をそこにあてがっちゃうんですね。新たな景色が見えるわけではないですね。

 

伊藤 電車がこんな形であるはずがないという意識があることと、背景の景色を補完する働きは、どう関係しているんでしょうかね。矛盾することのようにも思いますね。不思議ですね。

 それから、運動しているもののスピードも関係するでしょうね。人間のようにゆっくり移動しているものについては起こらないですよね。

 

K 全く起こらないですね。のろのろ運転している車についても起こらないですね。

 

伊藤 さきほどの中心がずれる話のときもそうでしたが、見ることと時間の関係を考えさせられますね。私たちがものを見るときには、瞬間的に見るのではなく、前後の情報を組み合わせながら見ているんでしょうね。

 

◎本の読み方

伊藤 本を読むときはどのようにして読みますか。

 

K その話も面白いです。そして工夫している自分がけなげで可愛い(笑)。

 本を読むときには、まず本の全体をさわって、そのサイズを確認します。ページがどこまで広がっているのか分からないんです。そこから読み始めるのですが、左が見えないので、縦書きだと読み進めるのが困難です。私、この病気になって英語が得意になったんですよ(笑)。横書きだと、先が見えるので読みやすいんですよね。

 

伊藤 なるほど、縦書きだと先が見えないですね。

 

K 縦書きだと二行くらいしか見えません。読んでいても楽しくないんですよね。別のところを探しているうちに、どこまで読んでいたかが分からなくなるので、指でなぞりながら読む工夫をしています。

 

伊藤 本の読み方も変わるんですね。

 

K 子供の頃から琴をやっているのですが、琴の楽譜は縦譜なので困ります。琴は全盲用の楽器なので、弾くのは困らないのですが、楽譜が動いてしまう。ラインマーカーをたくさん引いて、追いかけられるようにしています。

 

伊藤 楽譜を見ながら演奏する場合は、少し先を把握しながらでなければ難しいですよね。

 

K 演奏に関していえば、ここでも中心線が重要です。全盲の方に聞くと、体の中心線と琴の関係を覚えて、そこからの距離で弦の位置を把握しているそうです。

 

伊藤 視覚がなくなると、体の中心線は非常に重要になりますね。今まであまり意識したことがありませんでしたが、ハサミを使う場合なども中心線に合わせることは重要ですよね。

 

K ハサミも困ることは多いですね。あれ、というような意外なところに指があって、切ってしまうことがあります。特に線の上を切るときには、線を見て集中しているので指を切ってしまうことが多いです。

 包丁を使うときは、千切りの場合には左手を包丁に当てながら切るので問題ないですが、大きめに切るときには移動しなければならないので危ないですね。自分の感覚が信用できないんです。

 

伊藤 なるほど。大きめに切るときは全体の把握も必要ですから難易度があがりますね。

 Kさん、今日はいろいろと貴重なお話をありがとうございました。

 

K ありがとうございました。

 (2106/3/15東工大大岡山キャンパス伊藤研究室にて)