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岡野宏治さん

目の見えない人が晴眼者の介助なしでどのように歩いているのかに興味を持ち、鍼灸師の岡野さんに盲導犬との散歩を見学させていだきました。散歩を挟んで、マインドマップの使い方や、気(エネルギー)の話など、長時間にわたってお話を聞かせていただきました。「見えない人だけの社会があったらそれはどんな社会か?」の質問 に、とても興味深いお答えをいただきました。

岡野宏治さんインタビュー(2015年10月29日 岡野さん宅(練馬区)にて)

◎岡野さんプロフィール

1960年東京生まれ。男性。

鍼灸・あんま・マッサージ・指圧師。

30代で網膜色素変性症を発症し、現在の視力は光がわかる程度。

2006年より盲導犬ユーザーとなると同時に鍼灸・マッサージの治療院『大泉あんしん館』を開業。

 

伊藤 ここに来るまで、事前に岡野さんが送ってくださった文章(駅から家までの道のりの説明)をたよりに歩いてきました。地図を見ながら歩くのとは感覚が違っていて、新鮮でした。全体が俯瞰できない状態で、目印を次々見つけていく感じになりますね。

 

岡野 あの文章は私がふだん目印にしているものに、見えていた時の記憶を加えたものです。私は中途失明で、見えているときからここに住んでいたので、様子は分かっています。

 

伊藤 なるほど。今日は最初にお話を少しうかがってから、途中でグリーン(盲導犬)との散歩の様子も見せていただきたいと思っています。よろしくお願いします。

 まず確認させてください。岡野さんはいつから見えない状態なんですか。

 

岡野 ぼくの場合は、網膜色素変性症という徐々に視力を失っていく難病なんです。もともと夜目がきかなかったんですが、30歳(1990年)くらいのとき に、指を目の前で動かしていくと見えない場所があって、「あれ?」と思いました。視野の一部が欠けていたんですね。それで病院に行って分かったんです。そ のときは生活に支障はなかったんですが、ときどき折りたたみ式の白杖を持ち歩いてワンポイントで使うようになり、その頻度がだんだん増えていきました。 2003年から鍼灸の学校に通うようになったんですが、最初は墨字の教科書が読めました。2006年に国家試験を受けたときは、問題を目で追えなくなって いたので、テープで問題を聞いて、回答は拡大読書機で選択肢を白黒反転してマルをつける、というやり方をしていました。免許をとってすぐ自宅で開業し、開 業の三か月前から最初の盲導犬のイヴと一緒に歩くようになりました。いまの見え方は光が分かる程度で、道路だとなんとか白線が分かるくらいです。

 

伊藤 生活訓練は受けられましたか?

 

岡野 所沢の国立障害者リハビリテーションセンターで白杖の歩行訓練を受けました。その前から白杖は使っていたので、そんなに大変だなという感じはなかったです。

 

伊藤 30歳のときに病気に気づいたということは、見える世界から見えない世界へ、20年くらいかけてゆっくりやってきたということですよね。これは病気の進行としてはかなりゆっくりなんでしょうか?

 

岡野 いや、早い方です。人によって進行の早さは全然違うんですよね。鍼灸学校に入ってから早かったです。学校でぼくが手引きしていた人よりも、今ではぼく のほうが見えなかったりします。ぼくは25歳まで車を運転していましたが、今では同じ病気で生まれつき目が悪くて星を見たことがないという人よりも悪かっ たりします。遺伝子異常の病気なので、遺伝子の損傷のパターンによって原因が違うので、進行の速度が違うようです。

 

伊藤 30歳で病気に気づく前は、どのような生活をされていたんですか。

 

岡野 会社に勤めていました。スポーツもふつうにしていました。会社をやめる最後の数ヶ月は、書類のレイアウトの確認が厳しくなるし、任される仕事も減って きて、なんだかジリ貧な感じでした。真綿で首を締められるような気分です。障害の受容ができていないので、精神的にちょっと辛かったですね。管理職なんだ けど、仕事が終わらなくて一人で途方に暮れている感じでしたね。

 

伊藤 ご結婚はいつされたんですか。

 

岡野 結婚は病気がわかる前、88年です。家族は理解をしてくれていて、辛い思いをしたことはありません。

 

伊藤 見えなくなってから、できるようになったこともありましたか。たとえば、音で周囲の状況を把握できるようになる、といったような…

 

岡野 そうですね…。それはアドバンテージという感じではなくて、見えなくなったことを補う感じですね。感覚のバランスが変わるんだと思います。耳が良くな るというより、耳の情報を捨てずに拾うようになる。取捨選択が変わるんですよね。触覚ももちろん使います。歩き回っていろいろ確認します。でも今でも家の 中で柱などに激突することはあって、家のように慣れている場所のほうが思い込みで目測をあやまりやすいですね。

 

○マインドマップ

伊藤 なるほど。その歩くことに関連してですが、事前にメールでやりとりさせていただいたとおり、今日は「マインドマップ」に焦点をあててお話できたらなと思っています。まずマインドマップは、意識して作るものなんですか?それとも自然にできるようなレベルのものですか?

 

岡野 自然にできるものですね。というか、たぶん晴眼者もマインドマップを使っているんだと思います。視覚から膨大な情報が入ってくるので、意識してないけ れど、使っているはずです。だって、たとえば慣れている駅の改札を入ると、見えていなくても、その先に階段があってホームがあって…というのをイメージで きますよね。それは、頭の中にマップができているということですよね。だけど晴眼者の場合は、実際に行くと目で確かめられるので、マインドマップを使って いる意識が生まれないんだと思います。これが失明して、視覚情報がなくなっちゃうと、「あ、自分はこんなに頭の中のイメージを使っているんだ」と気づく。 だからそれは見えなくなって作ったものではなくて、もともとあったものがはっきりしてきただけのことじゃないか、とぼくは思っています。

 

伊藤 なるほど。確かに見えていても頭のなかにイメージを作っています。だとすると、違いはマップそのものではなくて、実際にマップを使う使い方にあるとい うことになりますね。いただいた文章を読んで、何カ所かのポイントをたどっていくような歩き方をされているんだろうなと思ったんですが、実際はどうなんで しょうか。たとえば駅を出てコンビニが2軒あるという説明があります。これは目印としては分かりやすいのですが、本当は、一軒目のコンビニと二軒目のコン ビニのあいだにもいろいろなお店がありますよね。

 

岡野 コンビニは音がするので分かります。音がないものは存在しないも同然という感じです。

 

伊藤 ということは、コンビニとコンビニのあいだは空白なんでしょうか?

 

岡野 そうですね。昔から知っている店は別ですが、音か匂いがしないと今のぼくにとっては意味がありません。

 

伊藤 ということは、マインドマップの中を歩く(という表現が正しいのか分かりませんが)というのは、チェックポイントを確認していくような感じなんでしょうか?

 

岡野 うーん…イメージを思い浮かべて、ああ、自分の歩いている位置が、「確かにここだ、あ、ここだ」と確認していく感じですかね。想定されているマップ上 の現在地を本当に歩いているかどうか確かめている感じですね。この音なら間違いない、足裏で砂利を感じるようになったから合っている、向こうから車がくる からあの道だ…そんな感じです。

 

伊藤 なるほど。さきほど音でコンビニを認識されるというお話でしたが、マップの中ではどういう姿をしているのでしょうか?視覚的なお店のイメージなんでしょうか?

 

岡野 音としてはイメージしていないですね。正解かどうか照合する手がかりが音や匂い、あるいは足裏の感触で、マインドマップの中は漠然とした空間の配置み たいなものですね。照合する手がかりは複数あって、お店のとびらが開いているかどうかなどによって使えるものが変わってきます。

 住宅街を 歩いているときは手がかりが少なく、ちょっとしたことで手がかりを見落としてしまうと、自分がいまどこにいるのか分からなくなります。そうするとマップが 真っ白になってしまう。「え、ここどこ?」と、家の近所なのに未知の世界にワープしたような感じです。理性が感覚的な判断に負けるんですよね。理性が「い や、ここはそんな遠いはずはない」と思っていても、感覚的な手がかりがないと、「どうしよう、ここがどこだか分からない」ってなっちゃう。そういうときに 起死回生の音が聞こえてくると、またばーっとマップが復活するんですけどね。

 

伊藤 へえ。マインドマップが復活するというのも面白いですね。それはどういう感じなんでしょうか。

 

岡野 通り過ぎる車やバイクや自転車が大事なんです。ぶーんと通ると、「あ、この方向、このライン」と向きが分かる。あとは速さ。速いっていうことはかなり 開けているということだから、長い道路にいることになります。あとは曲がるかどうかに耳を澄ませています。行き止まりになかなかつかないなと思っていると きに、車が来て曲がると、「あ、曲がり角だな、よしよし…」と確認できたり。迷っているときに車が通ると、「これでラインがわかった、ラッキー!」ってな りますよ(笑)。

 

伊藤 そっか。晴眼者が道に迷う場合は、まわりは見えているけどそれがどこだか分からないという状況です が、目が見えないと、まわりが分からないことと自分がどこにいるのか分からないことが同時に起こるわけですね。そうすると、道の方向も分からくなってしま う。そのようなときに、車などの音で向きが分かるというのはおもしろいですね。でも音から向きを感じるのは難しいそうです。

 

岡野 音に対して体がどちらに向いているかによって聞こえやすさが変わります。音の方を向いているか、直角だと分かるんですが、ナナメに立ってしまうと分か らなくなる。交差点でもナナメに立ってしまうと、車がどちらに向かって走っているのか分かりません。意外に難しいです。

 

伊藤 マインドマップって、俯瞰的なイメージもあるんでしょうか。たとえば駅と自分の現在地の関係のような、一般的な地図に近い、全体を見下ろすようなイメージです。

 

岡野 そうねえ、もうちょっと近視眼的なんだと思います。今自分がいるところから50メートルくらいをイメージしている感じです。もちろんそこから先のこと も分かるんだけど、それは行ってから展開する感じですね。一気に全体を俯瞰して見ることは、あまり意味がないのでやらないですね。見えていると、「あ、向 こうにビルが見えるから…」と遠くの情報を活かすことができる。見えていないとあまり遠くの情報は入ってこないですね。

 

(日課の散歩を見学させていただく)

 

伊藤 自分がガイドをしない状態で見えない人と歩くというのは新鮮でした。マインドマップを使いながら盲導犬とどう歩くかというのをきちんと観察したことが なかったんです。盲導犬といっしょに歩くときは、人が「コーナー」等とコマンドを出して、盲導犬がそれを探すという感じになるんですね。となると、人の側 が先のことを予測していないと、つまりマインドマップを持っていないと難しいですね。

 

岡野 そうですね。盲導犬歩行はマイ ンドマップがないと無理ですね。盲導犬が訓練されていることって、基本的には「段差で止まること」「障害物をよけること」「角を見つけて知らせること」の 三つだけなんです。だから人間がマインドマップを持っていないと難しい。まれに、いつも限定された同じ場所を同じ道のりで歩くだけに人も犬も慣れてしまっ て、そこは犬が指示がなくても案内できてしまうことがありますが、そればかりやっていると応用がきかなくなってしまいます。

 

○夢

伊藤 ちょっと話題を変えて、メールでもお伝えしていたトピックについて聞かせてください。まず、夢についてです。そもそも夢は見られますか。

 

岡野 見ますね。中途失明なので、晴眼者と変わらないんじゃないかな。

 

伊藤 私がいろいろお話を聞いたかぎりでは、変わる人と変わらない人がいるようです。岡野さんは変わらないケースなんですね。

 

岡野 ただ面白いのは、夢の中で、自分が目が見えない設定のときと、目が見える設定のときがある、ということ。「おれ、目が悪いんだけど」とか言っているパターンと、見えていて「おれ、目が見えるようになったじゃん」というパターンがあるんです。

 

伊藤 なるほど。見えていないときの夢はビジュアルなんでしょうか?

 

岡野 それが変で、設定としては見えていないのに、ビジュアルとして見てる。でも、あまりよく見えてはいないのかもしれません。

 

伊藤 触覚の夢や音の夢は見ますか?

 

岡野 触覚の夢はないかなあ…。音の夢は…会話はしているから見ているんだと思います。でも会話しているからといってそれが音かというと微妙ですよね。

 

伊藤 夢って確かに具体的にどの感覚なのかというのは特定できないですよね。

 

岡野 でも、あからさまに何かの音が聞こえたというのはないかもしれません。

 

伊藤 お話をうかがっていると、確かに見えていた頃とあまり変化がなさそうですね。一般には、昼間によく使っていた機能が夢に関わってくると言われますが、なぜ変化がないんでしょうかね。

 

岡野 そうですね…。あとは、記憶から夢を作っているという問題もありますね。前の職場の夢を見るとなると、記憶で知っている職場のイメージが出てくるわけですから。

 

伊藤 なるほど。記憶の問題もありますね。すると見えなくなってから行った街についての夢を見るとなると、それは視覚的なイメージではなくなるんでしょうか。

 

岡野 新しいところに行ってもマインドマップを作るので、結局あまり変わらないような気がします。ないものを頭の中でイメージする、という意味でマインド マップと夢はとても似ているんですよね。もちろん、意識的か無意識的かの違いはありますが。マインドマップから夢が作られるのだとすると、結局「見る」感 じになるんじゃないでしょうかね。夢が変わらないのも、さっきも言った「見えている人もマインドマップを作っている」という説のひとつの証拠で、そのマイ ンドマップをもとに夢が作られるんじゃないでしょうかね。

 

伊藤 なるほど。自分なりにこの世界をどう理解しているか、その理解の内容が夢として再生されるわけですからね。

加えて、視覚は、世界をビジュアルで捉える感覚であると同時に、風景の変化を通して自分の身体の位置変化を認識する感覚でもありますね。中途失明された方の 場合、前者の意味での視覚はなくなるけど、後者の意味での視覚性は残るような気がしています。夢は一人称視点で展開することが多いので、その展開を言葉に しようとすると、どうしても「見る」という言い方になります。

 

○目が見えない人だけの国

伊藤 もうひとつの トピックは、「もし目が見えない人だけから成る社会があったら、それはどのような社会か」です。H・Gウェルズに「盲人国」という小説があって、そこでは 目が見えない人だけの国が描かれます。その国を見える人が旅するんです。現実の社会は、基本的には見える人が中心となって作っていて、見えない人はマイノ リティに属することになりますが、ウェルズの小説ではそれが反転して、見える人がマイノリティになっているんです。そうすると、常識と思われていたさまざ まなことが通用しなくなります。たとえば「昼・夜」という光を基準にした時間のリズムの作り方は、見えない人にとっては意味がないので、その国では一日が 「暖時・寒時」に分けられ、人々は暖時に休み、寒時に働きます。こういった「盲人国」のような社会があるとしたらどんな様子か、岡野さんと想像できたらと 思います。

 

岡野 あまり細かく考えていくと、それは無理だろという話になっちゃうと思うのですが(笑)、ぼくが思ったのは、感覚のバランスが変わって、聴覚と触覚、そして気配を感じるような感覚が優位になるのではないかということです。

 

伊藤 気配を感じる感覚?

 

岡野 見えなくなったせいなのか、鍼灸師をやっているからなのか分かりませんが、人の感情がエネルギーのようなものとして分かるんです。いつもではないけれど。

 

伊藤 それは声がなくても分かる?

 

岡野 たとえば、ぼくが奥さんに余計なことを言って、奥さんがムッとしたりする。その「ムッ」というのが、光線みたいな感じで自分に向けられたのがわかる。「いま、ムッっていう光線だしたよね?」と言うと、奥さんが「うん、出した。もっと出してやる〜」とか(笑)。

 

伊藤 何でしょうね、それ。

 

岡野 でもこれはそれほど特別なことではなくて、気配や雰囲気は、誰でも感じていることですよね。現代の人間は視覚が圧倒的に優位になっていて、さらに外敵 に襲われるような危険もないので、あまり使わなくなったけど、実は基本的な感覚なんじゃないでしょうか。動物はまだその感覚を持っていますよね。

  このあいだ、旭山動物園・元園長の小菅正夫さんの『動物が教えてくれた人生で大切なこと』という本を読んでいたら、「簡単に死ぬわけには行かないー殺気を 感じる動物」という章でそのことが書いてありました。エゾシカの角を切るために、吹き矢で麻酔をかけるのですが、著者が「今日、あの個体の角を切ろう」と 思った瞬間に、その個体だけが走って逃げるんだそうです。次に、吹き矢を入れて、別の個体に麻酔をかけようと思った瞬間に、今度はその個体だけがまた逃げ る。そんなことが何度も繰り返されるのだそうです。ところが試しに吹き矢を入れずに吹き矢の筒だけ持っていったら、吹き矢の筒を口にしても全然逃げない。 同じようなことで、開園のころにカラスが大発生して、狩猟免許を持った人が散弾銃を持って向かっていくとばっと逃げる。ところが弾を入れずに銃だけ構える と、全然逃げないでしれっとしている、ということもあったそうです。小菅さんが書いていたのは、動物には殺気を感じる感覚というのがあって、それは生存し ていく上で非常に重要な感覚なのだろうと。たぶん人間も同じような感覚を持っているはずなんだけど、いま人間はそれほどその感覚を必要としていないから、 鈍っている。ぼくが感じるのもそれだと思うんです。おそらく自然の中で暮らしているマタギや漁師の人は、今でも敏感なんじゃないでしょうか。

  こういう感覚ってアカデミックな人に話すとえてして「オカルトですか」という反応になっちゃうんだけど、例えば武道家、音楽家や舞台俳優、ダンサーなどの 話を聞いてみると、みんな使っていますよね。身体性を重視する職業についている人にとっては、当たり前の話です。でも、アカデミックな人に話をすると、た いていドン引きされちゃうんですよね(笑)。

 

伊藤 わたしは超面白いですけど(笑)。大学の教員だって、講義をしているときの学生の反応は分かるはずですよ。

 

岡野 分かりますよね。五感のうちそれは何に相当するのかと言われると難しいけれど、確かにありますよね。ある人形師の方がラジオ番組で、一番怖いお客さん は〇歳児だと言っていました。〇歳児って興味をひかれるとこちらの体に穴があくほど注目するけど、ちょっと気を抜くとぐずり出すんだそうです。

 また、ある演出家の方は、ある俳優さんが舞台に出てくると、それだけで重力のようなエネルギーで空間がゆがむのを感じる、と話されてました。これらはこの感覚で何らかのエネルギーを感じた体験を離されているのだと思います。

  ぼくはこの感覚に興味があるので、いろいろな人にメールを出して聞いて見たりするのですが、あるピアニストの方に聞いてみたところ、聴衆の反応は分かる し、お弟子さんの演奏を聴くだけでその人に恋人がいるのかどうか、その人とうまくいっているのかどうか、あるいは家庭環境まで分かることがあると言ってい ました。

 

伊藤 わたしも自分の話がウケているのかどうかは感じますが、かなり表情に頼っている気がしていたんで、目をつぶったときにそれが分かるかどうか…自信はないですね。そうとう都会っ子になっているかもしれませんね(笑)。

 

岡野 たぶん、目の見えない人だけが集まっている社会って、その感覚が発達すると思うんです。

 

伊藤 なるほど。

 

岡野 そうすると、心が読めるという超能力のようなことでなくても、相手の感情のトーンのようなものは分かるようになると思うんです。そうすると、感情はご まかせない。「怒りを抑えながらにこやかな笑顔で話す」というようなことはできなくなるし、そういう意味での騙す・騙されるというのができない社会になる んじゃないかと思います。犬っていくら笑顔で近づいても、その人が犬嫌いだと分かるじゃないですか。アメリカの有名な俳優犬が詐欺師を見抜いたという話が あるそうですが、きっとその感覚を使っているはずです。

 

伊藤 その感覚はいい感情に対しても働くんですよね。

 

岡野 もちろんです。動物は楽しいときに、そういったプラスのエネルギーをまき散らしているんじゃないでしょうかね。だからペットを飼う人は意識せずにその エネルギーを心地良く感じているんじゃないでしょうか。目が見えない人の社会では、そういったエネルギーが当たり前に感じられるんじゃないかと思います。 そして、その社会では、見た目の美しさがない代わりに、声の美しさや、エネルギーの美しさという考え方が出てくるんじゃないかと。香月日輪(こうづきひの わ)さんの『大江戸妖怪かわら版』という小説のシリーズでは、主人公が妖怪ばかりが住む世界にワープしてそこで新聞記者になるんですが、その世界は見た目 の姿がバラバラなので、見た目ではなくエネルギーで美しさが決まるんです。ある歌舞伎役者を、みんなが美しいと言って見惚れるんだけど、見た目はよぼよぼ のおじいさんでしかなかったりする。あ、この感覚だなと思いました。

 

伊藤 面白いですね。それは体調のような日々の変化もあるんでしょうが、その人が本質的に持っている何かがあるんでしょうね。

 

岡野 ええ。もう一つは、エンリケ・バリオスの『アミ小さな宇宙人』というSF小説のシリーズの中で、舞台に立った人が声も発しないでいるのを、みんながす ばらしいと誉め称えるアートが出てきます。宇宙人アミの説明では、あれはあの人が本当に美しい思いを発散しているのをみんなで鑑賞しているんだ、と。

 

伊藤 アートとしては究極ですね(笑)。

 

岡野 実際の経験でも、私の知人がバレエダンサーのシルヴィ・ギエムの踊りを見たときに、舞台の真ん中から手を伸ばした瞬間に舞台の端に手が届いたように見 えた、と言っていました。隣で観ていたパートナーもそう感じたそうで、たぶん何かすごいエネルギーを出していたのを感じた脳がそんな錯覚を作り上げたんで しょうね。見えなくなったからなのか、こういう仕事をしているからなのか、そういうものに敏感になりました。ポジティブなエネルギーで一番美しいと感じる のは、月並みですが、愛情ですね。それは音楽みたいな感じです。

 

伊藤 それはどういうふうに説明できるんでしょうね。もちろん「エネルギー」というのもひとつの説明ですが、もうちょっと解像度をあげたいですね。

  わたしも五歳の息子とかかわっていると、言葉を発する前に伝わってしまう、ということがかなりの頻度であります。「お片づけして」と言おうとすると、彼が 「お片づけしようかな」と言ったりする。家族なので、「発想のパターン」みたいなものを知っていて、伝わるのかもしれませんが、不思議な気持ちになりま す。

 

岡野 言葉を発する前に「思い」が先に出ていますよね。動物や子供は、その言葉になる前のものを感じているんじゃない かと思います。親子といえば、以前、何かの本で、著者が野生のキツネの親子を観察していたときのエピソードが書かれていました。巣穴のまわりで子ギツネが 遊んでいるとき、親ギツネが巣穴から顔を出して子供たちをじっと見ていたと思ったら、子ギツネたちが親ギツネの声を聞いたかのようにあわてて巣穴に戻った そうです。

 人間が言葉を使うようになる前は、動物と同じようにそれを使ってコミュニケーションしていたはずですよね。そう考えると、「ア ニマルコミュニケーション」というのもあり得るんじゃないかと思うし、カウンセラーの仕事もそのあたりに関わるんじゃないでしょうか。現代人がこれをもっ と使うようになると、コミュニケーションの形が変わったり、消費者行動などの人間の行動も変わったりするんじゃないでしょうか。感覚というのは価値基準に なるので、新しいものさしが増える、ということですよね。「このマンションはすごく高くて立派だけど、このエネルギーじゃ住めないよね」とか(笑)。

 

伊藤 空間に関しては「気」みたいなものは感じますね。ここは何か落ち着く、そっちの席はいやだ、みたいな。

 

岡野 どんなお店が入ってもうまくいかない場所ってありますよね。あれは場所のエネルギーが悪いのではないかと思います。

  エネルギーは匂いのように人の身体に付いてしまうこともあって、ぼくは治療でそれを取るということをやります。エネルギーの質感を感じることができるの で、良いエネルギーを入れると悪いエネルギーが抜けていく。あやしく聞こえるかもしれないけれど、光の煙のようなものが抜けていくのが視力がないのになぜ か見えるんです。おそらく、ぼくの身体のどこかでエネルギーを感じ、それを脳が「光の煙のようなもの」として解釈しているのだと思います。うちの犬でもそ れをすると非常にリラックスして気もち良さそうになりますよ。鍼の時は、鍼がツボにふれるとツボから光の霧のようなものが噴き出すのが見えるので、その光 り具合で患者さんの体長がだいたいわかります。

 また、動物が恐怖や怒りなどの感情をためこんでいる場合にそのエネルギーを抜いていくと、動物からそれらの感情が消えて行って穏やかになったりします。

 

伊藤 なるほど…私は美学者なので、体が感じたことはすべて肯定して、それをどう説明しようかと考えます。そういうエネルギー、「気」のようなものは、身体 を専門にする学者にとって、オカルトではない仕方で語れるようにしなければならない大きなテーマですね。岡野さんはいつからそれを感じるようになったんで すか。

 

岡野 もともとは、全くそういう感覚はなかったんですが、太極拳で知りあった人からそんな話を聞いて、だめもとで会社にあったベンジャミンの幹に毎日触ってみました。三か月か半年毎日触っているうちに、かすかに温かいかな?でも気のせいかな?と感じたんですよね(笑)。

 

伊藤 (笑)

 

岡野 幹を離れて手をかざしても感じるような気がして、でも心の中では「ないない」と思ってました(笑)。でも続けたら、だいぶ見えなくなったときに、オ フィスの電気を消してベンジャミンに近づいたら、ぼうっとそこが明るく見えた。その感覚が薄皮をはぐように少しずつ強くなっていったんです。それから鍼灸 の学校に通うようになったんですが、鍼灸の先生が、「一度だけ湯気のようなものがツボから出ているのを見たことがある」とおっしゃっていました。これを聞 いて、鍼灸の専門家でも必ずしも常にそれを見ているわけではないのだ、ということを知りました。

 ヒーリング、というと中には詐欺まがいのものもあったりして玉石混交のイメージがありますが、本当にヒーリングを行なうことのできる人の中にはエネルギーが「見える」人はけっこういるようです。

「気」のようなものは、長い間物理的に立証されていないままです。その一方で、身体や物体のまわりをとりまくエネルギーはよく「オーラ」と呼ばれたりしますが、これは物理的な現象として「準静電界」と呼ばれてその工学的な応用が研究されているようです。

「気」のようなものが物理的に立証されなくてもいいけれど、共感覚のように、感覚としてはあるということを誰かが示してほしいですね。

 

伊藤 またぎのような人など、いろいろな人にインタビューしながら、解明していきたいですね。

 

岡野 ぼくは研究者ではないので、証明しようとするのではなく、感じる人を増やせないかなと思っています。ある程度練習することでその感覚を自覚できるよう なメソッドを作れたらいいなと思っているんです。それを活かして例えば良いエネルギーを音楽やアートのように楽しみながら感じる体験型のワークショップが 出来たらなと。これを感じる人の割合が増えたら、その中から「自分の感じているこの感覚は一体なんなのだろう」と研究する人も出てくるでしょうし。

 

伊藤 見える・見えないという身体の条件の違いが、価値のものさしの違いにまで発展する可能性を持っているというのは面白いですね。岡野さん、今日は長時間にわたってありがとうございました。