Research

濱田隆史×林建太×伊藤亜紗

「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」の林建太さんとともに、視覚障害者も遊べるボードゲームを開発している濱田隆史さんにインタビューしました。ゲーム、美術鑑賞、美学、と3人ともフィールドは少しずつ違いますが、「見える・見えない」という差異を面白がり生かす姿勢を共有していることを改めて確認することができました。盲目のプログラマーの仕事から見える情報処理の違い、空間をマップ化するさまざまな可能性…刺激的なお話をたくさん聞けました。脳内マップがどうなっているかについては、私もとても関心があります。研究する方法をご存知の方(質的でも量的でもOK)、力を貸してください!


濱田 隆史(はまだ たかし:ギフトテンインダストリ株式会社代表)

1984年 栃木県生まれ 埼玉県宮代町で育つ
2005年 武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科入学
2007年 任天堂株式会社の学生インターンで初めてゲームを作る
2009年 株式会社ハル研究所入社(企画職)複数のゲームタイトルの開発に関わる
2014年 独立 視覚障害者も楽しめるボードゲームの開発を開始 創業補助金交付決定
2015年 法人化 第二作目の開発においてクラウドファウンディングでの資金調達に成功
現在、視覚障害者と健常者が一緒に遊べるボードゲーム会を月一のペースで開催
お申し込みはこちら「やほげ会」


林 建太(はやし けんた:「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」主宰)

1973年東京生まれ
1995年より、在宅ヘルパーとして身体障害者の日常生活全般のサポートに携わる
2004年より、ダイアログ・イン・ザ・ダークにて勤務。現場統括、広報を務める
2012年6月より「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」発足。関東近郊の美術館にて、視覚障害者と晴眼者がともに美術鑑賞をするワークショップを主催している
2014年3月東京都美術館鑑賞プログラム「トーク∞トーク」企画協力
2014年3月東京都現代美術館「春のワークショップ2014みえる人とみえない人の「井戸端鑑賞」—オリジナル音声ガイドをつくろう!」企画指導


(2015年6月24日 伊藤研究室にて)

◎美術との距離感

濱田 伊藤さんの本を読んで過去に読んだ本とつながるものがあったので、今日はお土産代わりに本をいろいろ持ってきました。話したい内容がいろいろ多いんですよ。

 

林 いま手に持っているノートのメモは、今日のために書いたんですか?

 

濱田 そうですね。読んで気になったところを。アイディアごとにまとめて、必要があれば話そうかな、と。

 

伊藤 すごいですね。インタビューというよりプレゼンですね。真面目に「大学生のときはどうでしたか」とか質問するのが滑稽な気がしてきました(笑)。

 

濱田 せっかく林さんがいるので、美術系のことをまず話しましょう。伊藤さんの本に書いてあった、林さんたちがやっているソーシャル・ビューはとても面白いなと思いました。ぼくが最初に美術館に行ったのは、受験で絵の勉強が必要だったので、技法をパクりに行きました。それがなかったらまず美術館には行ってなかった。興味がなかったし、美術館は「どう見ればいいか」のリテラシーが要る場所だと思っていたんです。日本では特にそういう印象が強いです。ところが会社員になってNYのMoMAに行ったときに象徴的な出来事がありました。MoMAは金曜日の夕方以降は入場料が無料なんです。

そうすると何が起こるかというと、地元のおばちゃんたちや、特に美術に興味がない人がたくさんやってきて、作品と一緒にフラッシュで写真を撮ったりしている(笑)。そういう、美術館が公園みたいな状態になっているのがすごくいいなと。日本だとそういう空気はないですよね。さらに、MoMAは学芸員の解説も充実しています。まず、音声ガイダンスの装置が無料で借りられるし、聞いてみると一つの作品について五分くらいしゃべっている。そこには「私がなぜこの作品をいいと思うか」というような主観も入っていて、そこまで熱を入れて解説されるといいな、と思いました。学芸員の解説を聞いて作品のことが分かった気になるというのは、「分からないことが分かる」という快感を与えてくれます。

 

伊藤 MoMAの解説はアプリにもなっていて非常に充実していますね。「この絵画は持ちがいい」みたいなトリビア的なことも含めて、情熱的に語っています。

 

濱田 すごくいいですね。日本の音声ガイドはそっけなくて面白くないですね。伊藤さんは美術館はどういうときが楽しいんですか。

 

伊藤 そうですねえ。美術館は不自然な場所ですよね。五歳の息子は作品に触ることができなかったり、話していてはいけないというその不自然さを非常にいやがります。

 

林 非常に強制力が強い空間ですよね。ぼくも子供のころは美術館にはほとんど行ったことがなかったです。ダイアログ・イン・ザ・ダークで働いているときに、仕事の参考になりそうだと思って行くようになりました。

以前は美術の作法に従って見るという感じでしたが、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」を始めてから、見るとはどういうことかについて考えるようになり、もっと自由に見ている気がします。

 

濱田 「見る」というのは深いテーマですよね。みんな同じものを見ていると思っているけど、実は違うものを見ていたりする。たとえば平安時代の絵では、雲越しに街を見下ろしているような描き方がなされていて、当時の人はあれが当たり前だと思っていたわけですよね。近代になって遠近法が浸透すると、初めてそういう見方で見られるようになる。

 

林 最初は見えている人と見えていない人の違いを考えていましたが、実は見えている人のあいだでも違いがあるんだなということが分かってきました。

 学芸員の話を聞いて知識を得るのも僕は好きです。それは情報がプラスされていく面白さなんです。でもぼくが「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」でやりたいのは、あなたはなぜそういうふうに見ているのか、と見方について掘り下げて行く面白さなんです。その「美しい」「ユーモラス」という感覚がどこから生まれるのか、と。

 

◎「柔軟度」の文化的差異

濱田 以前お二人にはボードゲーム会にいらしていただきましたが、僕たちが作った「ダッタカモ文明の謎」というゲームも、そのことを意識しています。「ダッタカモ文明の謎」は、博士役の人が、「出土品」(箸置きのような小さい陶器のコマ)を選んでその形から何かを連想し、それ以外の学生役の人が、博士が連想しているものは何か当てる、というゲームなのですが、ある形を見て何を連想するかはその人の経験に大きく左右されます。その人が何を連想したのかをみんなで当てるゲームの過程で、参加者たちの関係性がどう変わるのかに注目しています。

 11304027_1598777960379368_602524923_n.jpg

林 ネットであのゲームを知ったとき、言葉や経験や想像力によってゲームが成立する点がソーシャル・ビューと共通していると思いました。

 

濱田 ところが今度ぼくたちのゲームをドイツの展示会出品するんですが、日本では成立していることがドイツでは難しそうだ、ということが知人のアドバイスで見えてきました。日本人は、文化的な共通部分がかなりあり、なおかつ適度に人によってずれてもいる。ドイツだとずれ過ぎているんです。

 

伊藤 確かにあのゲームは共通認識を必要としますね。私があのゲームをプレイしたとき、ある博士役になった人が、円錐形のコマからパーティで使うクラッカーを連想しました。そのときヒントとして「6個くらいセットで売っている」という情報が出てきた。あれは、日本でドン・キホーテとかでクラッカーを買った経験がないと通じない情報ですよね(笑)。

 

濱田 確かに(笑)。ドイツの人たちは、国民性なのか、「自由に考えください」と言われて想像するのがとても苦手なのだそうです。だから、リストを作って、そこから選ぶようなルールに変えようと思っています。日本人は曖昧さを好む民族ですが、ドイツではすべてが厳密にルールとして明文化されていないとゲームが止まってしまうらしい。

 

林 僕があのゲームをやっていて面白かったのは、博士役の人が想像するものが、選んだコマの形からかなり飛躍してもいいということです。たとえば「乙女心」のような抽象的なものを連想してもいい(笑)。とはいえ、それだと当たらないだろうからもう少し分かりやすくしよう、とか考えたりする。あの空気が面白いと思いました。

 

濱田 確かにそういう空気はありますね。うまく空気を生成すればルールがなくても何とかなるんですよ。あるいは、あのゲームでは「博士」や「学生」の役になりきるというのも重要なので、その役のキャラクターで行動を規定していくということもできる。

 でもドイツのゲームを見ると、たとえば「博士が難しすぎる問題を出したら3ポイント減点」とか、モチベーションをシステムによって制御するということが細かくなされているんです。

 

林 ある美術館の方がMoMAに行ったときに、学芸員の人に、ぼくらのワークショップについて話してくれたんです。そうしたら、その学芸員の人は「きょとんとしていた」そうです。確かにMoMAにも視覚障害者向けのギャラリートークはあるんですが、これはあくまで知識伝達型のものです。一方ぼくらのワークショップでは見えない人は必ずしも知識を伝達されるだけの側ではない。逆転する場合もある。その曖昧な関係が理解されなかったんです。MoMAでは話すのは解説のトレーニングを受けた知識のある人、というふうに役割がきっちり決まっているんです。

 

濱田 関係が逆転するというのはどういうことですか。

 

林 立場が逆転するわけではなく、見える人だけが主導権を握って、答えを伝える、という構図が変化するという意味です。見えない人でも問いを立てることはできるし答えを持つこともある。見える人が見えない人に対して、「この作品をどのように感じていますか」と質問し、見えない人が答えるという場面もあります。

 

伊藤 実際にワークショップに参加して思うのは、見える人と見えない人では情報処理の方向が逆なんですよね。見える人は、たとえば絵画を見たらぱっと全体の印象が入ってきて、そこから先はひたすら細部に入り込んで分析する、という方向に行く。ところが見えない人は、美術鑑賞に限らず常に、細部の断片的な情報を総合して全体を想像するという推理の仕方をしているんです。テーブルのようなものを触って把握するにしても、こっちを触って、それから別のところを触って、それらの情報を総合して、サイズや形を理解する。見えない人は、そういった総合の作業がうまいので、美術鑑賞をしているときにも、見える人が細かい細部にどんどん入り込んでしまったときに、「それって結局こういう感じの作品なんですよね」といった具合にまとめ役をしてくれるんですよね。その見えない人がつかんだ全体の「感じ」が、見える人にとっては納得がいく場合もあるし、「いや、もっとこんな感じだよ」とさらなる会話を誘発したりもする。その補完関係がすごくうまくいくことがあります。見えない人がナビゲーターであるというのは、まとめるのがうまいという意味で、理にかなっていると思います。

 

林 見える人と見えない人で情報処理の方法が違うのでまとめ役は大切な役割ですね。情報処理の違いが面白く作用することもよくあります。見える人が「説明しなきゃ」と細かく話しすぎたり、目をひくものだけについて語りすぎて伝わらないこともあります。この前のワークショップで中村宏の《革命首都》という絵(図版参照)を鑑賞したのですが、便器のインパクトが強すぎて、見える人がみんな便器という細部についてばかり一生懸命に語る場面がありました。それで見えない人が「そもそもこれって便器の絵じゃないですよね?」と全体の話しとしてまとめることで、それぞれが何を見て何が見えていなかったかに気付くんですよね。

 

伊藤 コラージュっぽい作品は、理屈で説明できないつながりがたくさんあるので難しいですよね。

 o0800047112241546440.jpg

中村宏《革命首都》1959

◎見えない人の情報処理(1)プログラミング

濱田 見えない人の場合には、最初に断片の情報が与えられて、そこから全体を想像する、という流れになる、というのは面白いですね。ぼくの友達で盲目のプログラマーがいて、高校生でゲームを作っています。彼のプログラミングが面白いんです。

 彼の話に入る前にプログラミングの変遷について簡単に説明すると、昔のプログラミングは、1つのファイルに長々と何千行にもわたってつなげて書くようなやり方で、それだとある箇所で書いた記号列をまた別のところでも書いてしまって、そのダブった情報が悪さをするなどのトラブルが起こりがちでした。そこで、オブジェクト指向という、もっと整理ができる設計の方法がでてきた。オブジェクト指向ではそれまで続けて書いていたプログラミングをいくつかの部分に分けて、それらの諸部分をメッセージでつなげて全体を作るという方法です。これはとても見やすくて、ぼくもこの小分けの発想が好きです。

 ところが、その盲目のプログラマーが書いたものは2万行くらいあったりする。ぼくの場合は50行超えたら分からなくなるので分割するので、2万行は信じられないくらい長いつながりです。その人に○○の機能ってどこにあるかと聞くと、「一万三千行くらいのところにあるよ」と返事が返ってくる。目が見えていると小分けにしないと情報を把握しきれませんが、実用性という面でいえば、ひとつにまとまっている方が動作は早いんです。見える人と見えない人では頭の中のマップが違うんじゃないか、と思いました。

 

林 高校生となると見えない上にデジタルネイティブ世代なので、情報処理の仕方が違いますよね。

 

濱田 スマートフォンを使う場合は、ボイスオーバーを利用していたとしても、ぼくらと同じGUI(graphical user interface)をいじっていることになります。つまり、デスクトップ上にアイコンやフォルダが並んでいて、それをたたくと中の情報が出てくる、という構造です。GUIは、開くと中に情報が書き込まれているという、ノートのような構造で、人にとってとても「自然な」情報の整理の仕方です。

 そのような共通の方法があるとしても、でもどうやら、見えない人には見える人とは違う情報のマッピングの仕方があるらしい。GUIのようにフォルダをどんどん開いていく方式ではなくて、ある部分から別の部分にワープするような感じの頭の使い方をしているのではないか、と思っています。

 

伊藤 見える/見えないといった感覚能力の違いや、使っているツールによって、情報の整理の仕方が変わってくるというのはとても面白いですね。しかし、一方で、自分のパソコンの中を考えると、ほとんど整理がされていないことに気づきます。何かを探すときには、いちいちファイルを開かずに、Spotlight機能でパソコンの中を検索してしまうからです。検索すれば何でも出てくるので、ますます整理しなくなる。検索機能が洗練されさえすれば、もう人間は整理というものをしなくなるのではないかと思います。

 

濱田 デジタルの世界だけでなく、現実もそうなるかもしれませんね。伊藤計劃の『ハーモニー』の世界のように、どんなに部屋が散らかっていても、必要な物がどこにあるか検索できるようになる。「○○という本が欲しいなあ」と言うと、その本が光る、とか(笑)。あらゆる物にチップをつけてネット接続させるIoT(Internet of Things)の発想ですね。そうなると、視覚障害者との情報格差がなくなりますね。

 

◎見えない人の情報処理(2)地図

濱田 ぼくは昔から地図が大好きで、たとえばある村に一週間滞在していたときに、訪れた場所を書き込んで地図を書いたりしました。会社に入ってからもゲームのマップを作っていたんですが、最初はなかなかいいものができなかった。そこであるとき、単なる空間的な配置ではなく、面白い出来事(イベント)がどのようなリズムで起きるのかという時間をデザインすればいいのだ、ということに気づきました。ゲームは確かに上に行ったり下に行ったりという空間的な移動もあるのですが、それよりも経験の時間をマップ化することが重要なんだな、と。固いものをずっと噛み続けたくて過食症になってしまうのと同じで、ゲームが好きな人の中にも、同じリズムを味わいたくてゲームをし続ける人がいる。

IMG_4250.JPG

 この経験を記した時間的な地図というのが、見えない人の情報処理を理解するヒントになるのではないかと思います。先天的に目が見えない方に話を聞いたときに、たとえば新宿からある地点まで来るときにどうやって来るのかと聞いたところ、そのときそのときの場所の雰囲気を再生するんだという答えが返ってきました。その場の音の反響や匂いをポイントごとに覚えていて、ある地点から別に地点にいくときには、ワープするようにそれを順にざざざっと通って行く感じらしい。そういう覚え方もあるんだなと衝撃を受けました。

 目が見えない人用の地図というと、見える人用の地図を立体化したものが一般的ですが、もしかすると、そもそも発想じたいが間違っているのかもしれない。触れる絵画に感動がないのと同じで、ただ立体化してもだめなのではないか。見えない人の考え方をヒントに新しい地図を作ったら、それは見える人にとっても便利なものになるかもしれませんよね。

 世界中の地図を見るといろいろなものがあります。川を中心とした地図、オリンピックのときに作られた名所のアイコンが並んだ地下鉄路線図、海図など、見ていると楽しいです。

 

林 東京都庭園美術館にある「さわる小さな庭園美術館」という館内地図も面白いです。いわゆる触地図とはちがって、それぞれの部屋の装飾や壁紙の模様、関連するものが貼ってあって触れるようになっている。地図としての統一感は全くないのですが、それをきっかけに会話が生まれるツールになっています。学芸員の方がデザイナーと作ったそうです。館内に行く前に見てもいいし、館内をまわってから見てもおもしろい。

この「さわる小さな庭園美術館」というツールは来館者に立体化した情報を与えるツールではなくて、会話という経験を生むツールなんですよね。建物について、文化や歴史、職人の技について、それぞれの見方について話し合う時間が生まれることで建物や空間そのものを楽しむプログラムが出来るのではないかと思います。

 

伊藤 見えない人が町をどのように把握するかは、私や林さんが見えない人を交えてやっている研究会のテーマにもなりました。興味深いです。

 地図に関して言うと、最近は、会議の議事録も空間的に描いていくやり方がありますね。スタートとゴールがあって、最初はこの話をしていたけど、別の話に移って、と思ったけどやっぱりもとにもどって別の可能性を検討して…といった具合に土地の絵を描いていくんです。美術鑑賞ワークショップの話も、そんなふうに流れを視覚化していったら面白いのではないかと思います。

 

林 美術鑑賞ワークショップでは話しの流れやテーマが一本道ではないですからね。視覚化することで面白い広がりが見えてきそうです。実はスタッフでミーティングするときの議事録や情報共有の方法をよく考えています。目の見えないスタッフがいるので、視覚的な絵や写真での共有は難しく、テキストでの共有がほとんどです。今は先天盲の人でもパソコンを使うので、エクセルに例えたり図式化することはできるかもしれませんが。

 

伊藤 アイディア出しをする場合も、テキストベースだと話の流れに縛られますよね。たとえばKJ法のような空間的な方法だと、話の流れに関係なく、みんなが同時にアイディアを出し合うことができます。見えない人は確かに話がうまくて、話題の交通整理もよくしてくれる。それはそれのよさもあるけれど、どうしても話の内容が流れに依存しがちで、流れと違う飛躍したアイディアを出しにくいという欠点があります。

 

濱田 一本の話の筋を、見えない人がどういうふうに交通整理しているのか、そのとき頭の中でどのようなイメージを持っているのかが気になります。ぼくらと同じように図のようなものをイメージしているんだろうか。たとえば、見えない人が利用するスクリーンリーダーでは、ヘッダーからヘッダーにジャンプする機能があります。読みたい箇所のヘッダーのところに入って行くと、それまで折り畳まれていた情報があらわれていく。と呼ばれる方式に似ています。

◎見えないことの応用

伊藤 そもそも濱田さんが見えない人と関わるようになったきっかけは何だったんですか。

 

濱田 もともと福祉機器には興味がありました。大学の授業で「片手がない人が使える皮を剥く器具を考える」という課題が出たんです。それがすごくおもしろかった。皮むき器なんて形が決まっていると思っていたのに、片手がないだけでいろいろな形のアイディアがでてくる。すごくクリエイティブだなと思いました。卒業後はゲーム会社に就職したのですが、2014年の2月に辞めて独立するときに、できることをいろいろ考えるなかで、大学での経験がヒントになって、視覚障害者に関わるものをつくるというアイディアがでてきました。見えない人がどういうにいろいろなことを捉えているかはずっと興味があったんです。そのときは視覚障害者の友達はいなかったけど、徐々に増えていきました。

 

林 濱田さんはいまボードゲームを開発されていますが、やはりプロダクトを作るというところに関心があるのですか。

 

濱田 そうですね。視覚障害者と晴眼者の垣根をなくすということはボードゲームでやろうとしています。でも他にもいろいろなやり方はあると思うので、興味を持っています。

 週に2回他の会社に手伝いに行っていて、そこでユーザーインターフェイスのデザインをしています。アプリ上のボタンをデザインするときには触覚的なフィードバックを重視しています。画面の中でマウスポインターがボタンに重なった時、まるで指で物体を触ったような触感を光で表現したり、押すとボタンがグミのようにつぶれるような表現を試してみました。視覚障害者向けというわけではないですが、視覚障害者を通して考えてきたことが生きています。

 

伊藤 この前、私の本をきっかけに知り合ったベンチャー企業の方とお話する機会がありました。その会社もやはりユーザーインターフェイスをデザインする仕事をしているのですが、面白かったのが、視覚を使わないスマホのデザインの話です。「最近のスマホは視覚に頼りすぎていて、その結果、町を歩いている誰もが自分のプライベートな世界にこもってしまっている。スマホに関わる人間としてそれはいやだ。見ないで使えるスマホができれば、そのような状況を変えられるのではないか。」というのがその会社の方の考えでした。視覚を使わないスマホは難しくても、視覚を使わないアプリくらいならできるかもしれない。視覚障害者向けのデザインでなくても、視覚を使うことが当たり前だと思われているものから視覚を差し引くことで、あらたな価値が生み出せるかもしれない、と思ってわくわくしました。

 

濱田 面白いですね。以前、CEATECという技術系の見本市で、眼球の運動やウィンクでスマホを操作する技術を紹介していました。電車の中でやっていたらちょっと気持ち悪いですが(笑)。

 ユーザーインターフェイス以外でも、インタラクティブなものにも興味があります。まだ簡単なものしか作っていないですが、ポインターで触ると形が変わるグラフィックを作ったりしています。

 

林 インタラクティブということではないですが、「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」で、動くもの、具体的にはアニメーションを鑑賞するのはとても面白いと思っています。毎年、鑑賞ワークショップを実施しているメディア芸術祭にはアニメーション部門があって、音があるもの、ストーリーがあるもの、幾何学的な形がぐにゃぐにゃ変わっていくもの、いろいろあるのですが、企画を立てるときは難しいから(アニメの鑑賞は)やめようかと思っていました。ところがやってみたら面白い。アニメーションは、そもそも動きや変化そのものを表しているわけですから限定された言葉に置き換えるのはとても難しい。あまりの難しさに参加者が絶句してしまうこともあるのですが、ではなぜ絶句したのか、とか、言い表す以外の目的が出てくるんです。アニメーションの本質に触れている気がします

 

伊藤 運動を表す擬態語、たとえば「にょわ〜ん」といった言葉の意味は、見えない人とどの程度共有できているんでしょうかね。「にょわ〜ん」はモニターの中だけにしかない、触れることができない運動なので、見えない人に伝えるのが難しそうです。

 

林 あり得ない動き、あり得ない変化をどう共有するかは難しいですよね。説明するのも難しいですが受け取る側も難しいと思います。そのとき、そこにいる人たちが、自分の持っている言葉と想像力をもちよって伝え合うしかない。語彙の豊富さだけでなく受け取る側のキャッチ力にも工夫が表れます。双方に生まれる創造性が面白いと思います。アニメーションだけでなく、漫画も意外ともりあがりました。コマ割りやオノマトペを伝えるところに漫画というメディアを新たな角度から見つめる視点が生まれるかもしれません。

 

伊藤 濱田さんが皮むき器の課題について話されていたように、見える/見えないというギャップが創造性を刺激する例ですね。「見えない」という縛りを作ることで、デバイスやサービスの開発においても、見える世界の当たり前が覆されて行くのは面白いですね。

 濱田さん、林さん、今日はありがとうございました。同じ問題を扱っていてもアプローチが少しずつ違う人たちで話すことができて、とても面白かったです。