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Aさん

浅草で天ぷら定食を食べながら、全盲のAさんにお話をうかがいました。Aさんは見た記憶が全くない方。頭の中のイメージに視覚的要素がまったくない方のお話を聞くのは初めてだったので、非常に新鮮でした。目の前の天ぷら定食ひとつとっても、晴眼者とはもちろん、中途失明の方ともだいぶ違った理解の仕方をしていることが分かりました。ひたすら心のなかで「面白い!」と叫びつづけた対話でした。


○全体像の有無

伊藤 見える人と見えない人で情報処理の仕方が違うのかどうかが気になっています。たとえばパソコンを開くと、デスクトップがあり、ファイルが並んでいて、ファイルを開くとその中にもさらにファイルが並んでいたりして、そうやってどんどん細部に入り込んでいくと、ようやく書類が見つかる、という構造になっています。これは最初に全体が与えられ、そこからどんどん部分に入っていくという空間的な構造になっています。見える人にとってこれは「自然」ですが、見えない人にとって、情報が空間的に整理されていることは、あまりメリットがないのかもしれないな、と。

 

Aさん そのような階層的なファイル管理は、僕もしていますよ。ただ、パソコンのデスクトップは、確かにあまりイメージが湧かないです。パソコンを操作していると、いまタスクになっている部分だけがあって、全体はない、という感じです。最初は、ウィンドウが重なったり並んでいたりするというのが分かりませんでした。最近は、見える人と仕事をする上で、自分がやってほしいことを伝える必要があったので、そういう視覚的なことも理解するようになってきましたが。だから、あまり「マルチタスク」という感じはないですね。

 

伊藤 ものすごく長い文章やものすごく長いプログラムを読んでいるときに、自分がいま全体のどのあたりにいるのか、分からなくなったりしませんか。

 

Aさん それはときどきありますね。自分で制御できているうちは困らないのですが、パソコンはときどき勝手にポップアップでメッセージがでたり、ちょっとマウスを触っただけで別のところに移動してしまったりするので、そういう場合はもどってくるのが大変になりますね。あまり経験がないですが、人の書いたプログラムを解読するときには、全体を見渡せないので不利かもしれないですね。自分で作ったものだと、全体像が頭に入っているのでそんなに不便はないです。

 

○一人で町を歩くとき、誰かと町を歩くとき

伊藤 Aさんは見えていたときの記憶はあるんですか?

 

Aさん 5歳のときに見えなくなったので、もう覚えていないですね。見えなくなって最初の何年間は、親の顔も覚えていたし、景色も映像のようなものとして理解していたような気がするんですが、いまはもう「映像が見える」っていうのがどういうことなのかが分からなくなっちゃいましたね。

 

伊藤 なるほど。ということは、いま頭の中で、このお店の空間を映像で見ているわけじゃないんですね。でも全く何もイメージしていないわけじゃないですよね?

 

Aさん そうですね。何なんでしょうね、これ。

 

伊藤 (笑)。たとえば後ろのほうで声がしたときに、そこに人間のイメージが浮かぶわけではないんですよね?

 

Aさん 人がいるなあとは思うけれど、それを例えば俯瞰で全体を把握して自分たちはこのあたりに座っていてここはこういう位置関係で…ということを、常に意識しているわけではないですね。たとえば一人で歩くときのように必要があれば意識はするけれど、そうじゃないときは、そういうことを意識しないで過ごしちゃいますね。同じ道を歩くのでも、一人で歩くのと、人と歩くのでは、全然違うんですよね。ちなみに、なつかしさというのも感じません。浅草には子供のころによく来ていたのですが、今日改めて来ても、「ああ、浅草に来たな」とは思わないんです。

 

伊藤 誰かと一緒だと、まわりの状況は空間的にはイメージしていないんですか?

 

Aさん その地点ごとの情報を意識しているだけで、それを地図にしてイメージはしていません。もちろん、次はひとりでここに来るんだぞ、というつもりで人と歩いているときには変わりますけれど。

 

伊藤 何だろう…電話しながら歩いているような感じかな?

 

Aさん (笑)

 

伊藤 一人のときはまわりの状況把握に集中しているけれど、誰かと一緒に、しかも話しながら歩いているようなときは、会話のほうに意識の9割くらいが行っている感じですかね。

 

Aさん そうですね。でも中には、それほど集中していなくても、すぐに地図を把握してしまう人もいます。そういう人はふだんから意識しているのかもしれません。

 訓練すれば頭の中に地図ができて、それと連動しながら動けるようになるのかもしれません。でも意図的に把握しようとしないと、そのポイントごとのことしか意識しなくなっちゃうんですよね。

 

○お皿を「クリック」すると、料理情報が出てくる

伊藤 でもテーブルの上の状況は全体を把握していますよね。今日はてんぷら定食で、かなりお皿の数が多く、食器が七つもありますが、何がどこにあるかをイメージしていないと食べられないですよね。

FullSizeRender.jpg

 

Aさん これくらいだとイメージしますね。

 

伊藤 でも、そのときの、テーブルの上に七つのお皿が空間的に配置されているイメージは、視覚的な映像ではないわけですよね。

 

Aさん 何なんでしょうね。映像じゃないけど…。触図を見るのが好きなんですが、触図も全体イメージがつかめるんですよね。

 

伊藤 テーブルの上も図みたいなものとして理解している?

 

Aさん うーん…。分からないけれど見えないなりの空間イメージがある気がします。

 

伊藤 例えば、お皿の大きさや形がひとつひとつ違いますよね。その違いはそのイメージに入っているんですか。

 

Aさん そうですね。入っていますね。

 

伊藤 映像じゃないけど、大きさはあるんですね。

 

Aさん 微妙な位置関係も分かりますね。伊藤さんの前の皿の位置関係は分からないけど、伊藤さんとの距離感は分かりますね。

 

伊藤 何なんでしょう。映像ではなくて…

 

Aさん 映像ではない空間イメージというのは、見える人にはたぶん想像できないものでしょうね。

 

伊藤 そうですね…両立しないかもしれません。

 

Aさん 僕も、映像が思い浮かぶということが、どういうことかもう分からないです。中途障害の人はそのあたりどうなっているのかな。

 

伊藤 見えなくなって十年経っていないような人は、かなり映像的にイメージしている感じでした。たとえばコップがガラスである場合には、中身が透けて見えているようなところまでイメージしているようです。

 

Aさん なるほど。ぼくは色に関してはノーマークですね。形あるのみ。言われれば「そうなのか」とは思いますが、その配置のイメージに色の情報は組み込まれません。

 

伊藤 皿に乗っている料理の情報は組み込まれているんですか。例えば真ん中の大きいお皿に天ぷらが乗っているのと、お刺身が乗っているのでは、その配置のイメージに変化はありますか。空間の配置と、ひとつひとつの物についての情報が、どんなふうにセットになっているんでしょうか。

 

Aさん お皿の形や触った感触は、地図的な、空間的なイメージに組み込まれています。そのうえで、お皿を、パソコンで言うところの「クリック」すると、「天ぷらです」って出てくる感じかなあ(笑)

 

伊藤 (笑)あーなるほど。そこには二段階ある感じなんですね。ちょっと分かってきました。

 FullSizeRender2.jpg

Aさん で、そこにさらに色の情報も付け足そうと思たら「詳細を見る」とかを開く感じですね(笑)。そういう関連づけです。もちろん本当にクリックしているわけではありませんが。みんなそうかどうかは分かりませんけどね。

 

伊藤 なるほど。空間の配置と、一つ一つの物の情報は階層がちょっと違うんですね。でも確かに、たとえば誰かに会ったとき、その人について知っているすべての情報、たとえば出身地がどことか職場がどことか、そういったことすべてを思い描きつつその人を見ているわけではないですね。そういった情報はふだんは折り畳まれていて、話の流れで必要になったときに、折り畳まれていたものが展開される感じですね。

 

Aさん うん、それに近いと思います。だから、ときどきお皿にのっている料理がどっちがどっちだったか分からなくなることがあります。たとえば、左に丸いお皿があってそのとなりに四角いお皿がある、ということは間違えないけれど、丸が漬け物で四角がきんぴらだということは、最初に教わって覚えたけど、話しているうちに曖昧になったりしますね。

 

伊藤 丸いお皿が漬け物で四角いお皿がきんぴらだということは、純粋な情報としての記憶なんですね。

 

Aさん 乗っているものは記憶で、お皿の形や配置はイメージ、見えない人なりの映像なんです。

 

○かくれんぼ

伊藤 このまえ、盲学校で小学校3年生のクラスを見学させてもらったのですが、子どもたちがかくれんぼして遊んでいたんですよね。全盲の子と弱視の子がいて、全盲の子がついたてのうしろに隠れて「こっちだよ」と遊んでる。全盲の子でも、ついたての後ろにいると相手から見えないということを理解してるんだな、と思いました。

 

Aさん かくれんぼは子供のころにやりましたよ。体育館のステージの脇の、物が雑然と置いてあるところに隠れたりしていました。小学部の児童、といっても全部で20人もいないような盲学校でしたが、全員で集まって遊ぶ時間がありました。そんなときにかくれんぼをしていました。ピアノの陰やマットの裏に隠れる。隠れられているという実感があるわけじゃないんだけど、「目の前に物があるから見えないはず」という理解のもとで、隠れている感じです。だけど空間的なことがそれほどちゃんと分かっているわけではないので、ちょっと高いところから見たら見えてしまうような隠れ方もあったと思います。

 

伊藤 見えない子同士でもかくれんぼするんですか。

 

Aさん 見えない子どうしでかくれんぼする場合は、隠れる必要はなく、息を潜めてはじっこでじっとしていればいいんですよね。見えない子がオニのときに、死角になるところに隠れるのではなく、意表をついてただ息を殺してじっとしているだけの子がいるとか、そういうことはありました。大人だったら馬鹿にしてるのか、と思うかもしれないけど、子供だったら何とも思わず遊んでいますよね。懐かしいですね。

 

伊藤 盲学校に行ったときに、3年生の二人が、一日中「ゆりニャン」という架空のキャラクターについて話し合っているんですよね。どこに住んでいるか、どんな性格か、どこから来たか、といった設定を細部まで詰めるような話をしてもりあがっている。ところが帰り際になって、二人がそれぞれ書いた「ゆりニャン」の絵を見せてくれた。一人は全盲なので、当然、二つの「ゆりニャン」は全然違う姿をしているわけです。ローラースケートをはいているとか、感情を表すゆりの花を持っているとかは共通しているんだけど、顔つきのや体の形は全然違っている。そうしたら彼らが「ほら、ぼくたちの頭の中、全然違うでしょ!」ってむしろ誇らしげに言ってくる。見える世界では、見えるものは客観的で絶対的で共有されているものという前提が強いので、「見える部分で違う」ことをそんなふうには認められないなと思いました。

 

Aさん 面白いですね。自分たちが違うものを書いているということを分かっているのがいいですね。

 

○落語のこと

伊藤 今日は落語の寄席に行く予定でしたが、満席で入れず、残念でした。寄席にはずっと前から行かれているんですか。

 

Aさん 子供のころはラジオで聞いていました。今は減っちゃいましたが昔はどの放送局も落語の番組を持っていたんです。中学生くらいからカセットテープを借りて聞きつつ、ときどき寄席にも行くようになりました。高校生くらいでいったん興味が止まったんですが、大学生になってまた聞くようになりましたね。子供のころってどうしても情報が集まらないんですよ。図書館やレコード屋さんに行っても、人に読んでもらわないとそこに何があるか分からない。全体をひとりでぶらっと眺めるということができない。ラジオを聞いていても、ラジオに出ている噺家さんしか分からない。でも大学生になるとインターネットで、世の中にどんな落語のCDが出回っているというのが検索すれば分かるようになった。外出することのハードルも下がっていたし、趣味を共有してくれる人と出会ったりして、いろいろ聞きにいくようになりました。

 

伊藤 それだけ落語歴が長いと、古典と言われているようなお話についてはもうストーリーはすべて覚えているということですよね。

 

Aさん そうですね。古典落語についてはすべて覚えていますね。それなのに、同じところで同じように笑えるというのが落語の面白いところです。

 

伊藤 ラジオで聞くときには、お客さんの笑い声も入っているんですか。

 

Aさん 入っています。ライブを収録したものなので。ただ、一人で聞いているときにはそれほど大きくは笑わないで、くすっとするくらいです。寄席に行くと、その場の空気感や一体感で、自然と笑うべきところで笑いが出てくる。だからときどきは寄席に行かないと、本当に落語で笑ったという気持ちになれないんです。

 

伊藤 その場のライブ感や一体感が一番の醍醐味なんですね。

 

Aさん そうですね。ただ落語って笑いだけでなく人情話もあるので、喜怒哀楽があっていいですね。

 

伊藤 落語を聞いているときには、噺家さんの姿をイメージしているんですか。それともお話の世界をイメージしているんですか。

 

Aさん 噺家さんがどんなふうにしているんだろうというイメージはないですね。登場人物が複数いれば、その複数いるっているイメージを持っていますね。演劇だと役者の動作を見ないと分かりませんが、落語は動作を見なくても話が分かるようになっているんですよね。

 

伊藤 なるほど。それは人間のビジュアルが複数あるというわけではなく、複数あるというイメージということですよね。

 

Aさん そうですね。姿形が思い浮かぶわけではなくて、複数いるということをイメージしていますね。落語は、二人の人物のやりとりが基本なんです。噺家さんが右を向いたら誰、左を向いたら誰、という決まりで進んでいくらしいので。複数の登場人物がいたとしても、誰かと誰かのやりとりで場面が作られてきます。見える人はどうなのかな…噺家さんがいると、そこに二人の人がいるというイメージじゃないのかな?

 

伊藤 難しいですね。演劇の役者と役の関係に近いかもしれません。ずっと噺家さんを見てはいるのですが、「いま、噺家さんは○○という役だな」「今度は変わって△△という役になったな」というふうに、二重化させて見る感じです。噺家さんの見え方が変わる、という感じですね。

 

Aさん うまい噺家さんは役によって声色まで変わります。それに、落語は「かしこそうな人」「荒っぽい人」「抜けている人」などキャラクターのパターンが決まっているので、聞いているだけでよく分かります。そういう噺家さんの場合は、笑いの要素がなくても聞き入っちゃいますね。

 

伊藤 名前のある○○さんというより、「おっちょこちょいさん」という感じなんですね。

 

Aさん そうですね。実際に、役に名前がないこともありますよ。名前があっても抜けているのは「与太郎さん」、人がいいのは「甚平さん」などと決まっていることが多いです。

 

伊藤 そのあたりが、やはり落語ってビジュアルじゃないんですね。「あのときあそこであった出来事」を再現しているというよりは、「よくある話」や「あったかもしれない話」として、抽象化して語られるわけですね。

 Aさん、今日は本当は落語に行くことができませんでしたが、ゆっくりお話ができてよかったです。ありがとうございました。(2015年8月8日、浅草・葵丸進にて)