Lab 2015.11

渇望する東京(村上)

20151117231243.jpg村上さんレビュー第4弾。大学のイベントでゲストにも招いた長谷川祐子氏キュレーションの「“TOKYO”—見えない都市を見せる」展(東京都現代美術館)。こういう展覧会は、見る人の世代や経験で印象がだいぶ変わるのが面白いです。メタキュレーションという手法も最近よく見かけます。


 

渇望する東京

 

東京的承認欲求

 

2020年の東京オリンピック・パラリンピックをめぐるあらゆる失望のなかでも、わたしたちは2020年という近未来的な字面に希望を諦めずにはいられない。東京アートミーティングの第6弾として開催された「“TOKYO”-見えない都市を見せる」展は、世界に誇る東京の魅力の源泉を80年代のサブカルチャーに見出し、現在へと接続することによって「新しい東京の創造力」という希望と、ある種の安心感を与えている。

 

 80年代、高度経済成長を終え、すっかりアジアの中でのエリート意識を手に入れた日本は、欧米のなかでは未だ劣等感を募らせてもいた。そんな複雑なプライドを持つ日本の首都、東京の文化は、世界から承認されたいという欲求に突き動かされてきたのではないだろうか。

 今展の蜷川実花のセクションでは、今の東京のディープなサブカルチャーを代表する「ギリギリの人たち」撮影し、Instagramを思わせる正方形のフォーマットで展示している。蜷川は80年代の竹の子族やジュリアナ東京といった誰もが“見られる”立場になることができる装置としてのサブカルチャーが、東京的な自己表現の特徴であると考え、80年代の若者文化を文字通り自身の写真の背景に据えることによって、東京的な自己表現の系譜を具現化した。

 彼女の言う「ギリギリの人たち」とは、「際限ない承認欲求とそれを制する自分自身の理性とがせめぎ合う」境界線で戦っている人たちを指し、彼らはInstagramにおいて「いいね」を得るために写真を加工し、メイクを施し、コスプレするが、その自己演出は時に整形にさえ及ぶ。蜷川はそのような自己表現に傾倒していく彼らを愛おしいと述べ、圧倒的に支持する。彼らの際限ない承認欲求は、彼らに特別なのではなく、日本の、そして東京に通底する欲求なのではないだろうか。そして、この展覧会が私たちを満たす理由もそこにある。

 

東京の自尊心を取り戻す

 

宮沢章夫とYMOのセクションでは、80年代の良質なサブカルチャーとしてのYMOが現在にも通づる文化事象であることに誰もが納得するのではないだろうか。病的に統制されたビート、洗練されたコスチュームやアートワークは約30年前のものであるが、現在のわたしたちにとっても誇らしく、鼻が高くなる。今展は「東京のオリジナルな文化アイデンティティの批評」という試みであり、まさに彼らはこの展覧会において、現在までの日本のサブカルチャーを代表し、これからの東京に新たに求められるべきオリジナルな文化アイデンティティとして参照されている。

 そもそもYMOは、彼らに影響を与えた欧米の音楽へのカウンターという形で、黄色人種として、日本人として、東京から発信する音楽の可能性を探りテクノ+ポップというハイブリッドな形態とアジア人らしさを誇張する人民服や背広などのヴィジュアルを選び取ったのである。しかし、今展においては、彼らを形成した外的な影響が拭い去られてしまっていた。彼らが背負わされたのは日本独自に突然「ぽっ」と生まれたオリジナルな文化への期待と言えるだろう。そのことで彼らは、まるで悟りを開いたかのように突然に生まれた東京オリジナルな文化へと昇華させられ、日本人のアイデンティティが含む承認欲求を満たす役割を負ってしまったのである。

 

中国のアーティスト、林科は東京をテーマに作品を制作しているが、東京に一度も来たことがない。デフォルトのソフトウェアを使い、中国から仮想の都市としての東京を更新するように、作品を制作する。《トーキョーのビーチ》は、ショパンのピアノ曲のピッチを波のように上下させた音に合わせて、その波形を映像で見せた。穏やかで豊かな海が、時にわたしたち襲いかかり、日常を破壊することを知ったわたしたちにとって、この作品は東京の忘れっぽい性格に対する警鐘のようであった。

しかし、この展覧会で林科の作品が担っているのは、日本と政治的な対立や文化的な違いを抱える中国からの東京に対する目線を可視化し私たちを安心させる役割と考えるのは過敏だろうか。わたしには、中国からの日本・東京への関心あるいは好奇の視線のサンプルとして、80年代にあった日本人のアジア内でのエリート意識を取り戻し、安心感を与える機能を持たされているようにも思えてしまった。

 

更新される近未来

 

 一方ポスト・インターネットの感性はそうした80年代的な東京感を脱することを可能にするにするかもしれない。EBM(T)は89年生まれのナイル・ケティングと90年生まれの松本望睦によるアーティスト・ユニットであり、同時に彼らが主催するバーチャルの聴覚室を指す。彼らの選んだ作品のほとんどが10年代以降に制作された作品であり、テクノロジーや技術を用いて今日的な都市と都市の感覚を描写している。テイバー・ロバックの《20XX》は、世界中の都市から高層ビルや企業のネオンのロゴがサンプリングされた映像作品であり、日本という国の人格形成を手伝った企業のネオンや、見覚えのあるビルが目に入る。80年代の東京が夢見ていた未来の都市を写したレンズは、どんどんと雨に濡れ、写る都市の形を歪ませる。わずか10秒間で次の都市を映し出し、近未来的な都市という妄想の儚さを視覚化している。

 

ここ数年、特に2020年オリンピック・パラリンピックの招致決定後からは国民レベルでの自尊心への渇望が顕著であるように思われる。この展覧会は渇望したわたしたちに、80年代の東京が夢見たのと同様の夢を見せるように働きかけ、承認欲求を満たし安心させる。しかし、忘れてはならないのは、そうした近未来への期待はテイバー・ロバックの作品のように、現れては消えて、現れては消えてを繰り返し、時に絶望を伴って打ち破られたのだった。ホンマタカシは、今展で「何かが起こる前夜としての東京」と銘打ち東京の歩んできた物語をキュレーションしている。良くも悪くも東京は、何かが起こる前夜であり、夢を見せるが夢を破る場所でもあるのだ。