インフラエンジニアの井上さん。理系のメタファーを駆使して、音で見る世界やその変化について、非常に丁寧に語ってくださいました。柵の横を通るときの「音的なしましま感」や周囲の情報についての「積分」とその忘却、また文字のそれぞれに色がついているという興味深いお話も。何歳で見えなくなったか、どんな記憶を持っているかが、その後の見方にいかに影響するかを実感しました。
2016年5月22日伊藤研究室にて
井上浩一さんプロフィール
インフラエンジニアとしてオフィス機器メーカーに勤務。40代。生まれつき弱視だったが、6歳頃から全盲(原因は不明)。
◎音を聴く環境
伊藤 今日はよろしくお願いします。駅で待ち合わせてこの部屋に来るまでにも音の話がいろいろと出て、音に敏感な方なんだなという印象を持ちました。
井上 今日は研究目的で来ているので、若干意識しました(笑)。
伊藤 (笑)。この前いらしていただいたトークイベント、本屋さんで開催されたものですが、音の響きが特殊だったのではないでしょうか。
井上 そうですね。本は音の吸収され具合がちょうどいいですね。無響室のように反響がなさすぎるのも怖いのですが、図書館のような本がたくさんあるところは聞き取りやすいです。大浴場のような反響しすぎる環境も分かりにくいですが。床がコンクリートの喫茶店も苦手ですね。
伊藤 見えていると本屋さんでトークをするのはものすごく気が散るのですが、音的にはよい環境ということですね。天気の影響もありますか。
井上 そうですね。傘は苦手ですね。手が濡れるというのもあるんですが、音が分からなくなっちゃうんですよね。音から感じる物との距離感がくるっちゃうんです。傘に囲まれると、音で想像される世界が「きゅっ」となるというか…。しかも、ふだん「このくらいの音だとこのくらいの距離感だな」と考えながら認識しているわけではないので、くるっちゃうと調整できないんですよね。そうすると目の前にある電信柱が分からなくなったりするので、杖を前に出して確認するようにします。でもそうすると遅くなるので、ちょっとの雨なら傘はなるべくささないで行ってしまいます。
伊藤 ということは、天気そのものというより傘が影響するんですね。帽子はどうですか。
井上 苦手ですね。耳をふさぐわけではないのに、音が変わるんです。盲学校のころの訓練で、ぶつかっても痛くない頭を被う防具のようなものをつけたのですが、耳のところが開いているのにすごく不安な気分になりました。
伊藤 マスクも影響しますか?
井上 マスクも不思議なことにダメなんですよね。耳は出ているんだけど、自分の息の音が大きくなっちゃうからですかね。傘とマスクを併用したときは最悪で、ハイブリッドカーが近づいてきたのが分からなかったです。風を感じる範囲が狭くなるからということはあるかもしれません。
伊藤 デリケートですね。服装はさすがに影響はないですか?
井上 服装はないですね。半袖の方が分かりやすい、といったことはないですね。
伊藤 髪型は影響しますか?濡れていると感じ方が違うとか、切った直後の変化とか。
井上 そう言われてみると、切った直後はクリアですね。切ってさっぱりしただけかもしれませんが(笑)。耳を隠すのは絶対に嫌なので、どんなに寒くてもフードがかぶれません。冬の北海道に行ったときは、堪忍して毛糸の帽子をかぶりました。
伊藤 なるほど。北海道の視覚障害の方に話を聞いてみたいですね。
井上 歩くことについてもいろいろ違うと思いますよ。友達に旭川出身の人がいて、冬は道がなくなるし、反射もなくなると言っていましたよ。東京でも大雪がふると、音が変わったり、足もとの感覚が変わったりしますね。あったはずの段差がなくなったりするので(笑)。
あとは、靴も気になりますね。エコロケーションのようなことを、自分で積極的に音を出すという仕方ではやっていないのですが、靴の音の反響は聞いていると思います。2−3年前に、靴を買って失敗したことがありました。靴底の吸収がよいということが売りの靴だったのですが、音がしなくて不安になりました。歩けないことはないんですが、靴の硬さが自分には関係しているみたいです。最近はあまりやらないですが、靴のかかとを引きずり気味に歩くと連続音が出るのでわかりやすいという経験があります。
◎柵に沿って歩くときの「音的なしましま感」
伊藤 井上さんは6歳頃までは見えていらっしゃったんですよね。
井上 もともと弱視ですが視力は0.03程度から徐々に落ちていきました。親に確認してみたところ、あるとき、家の中のものにぶつかり始めたらしいんですね。それで、親がテーブルの向こう側から指を出して何本かと訊いても、答えなくなった。ところがそのあと、ぶつからなくなったらしいんです。そこで、新しく別のぶつからない方法を編み出したんじゃないかと思います。本人は意識していないんですけど(笑)。
伊藤 見えなくなってものを認識する方法が変わったことに、ご本人は気がつかなかったんですね。
井上 どれだけぼうっとした子供だったんでしょうね(笑)
伊藤 見えていたときの記憶はあるんですか。
井上 ありますね。見えていた記憶があるのは、実家の周りや幼稚園ですね。そもそも0.03の視力を最大値とする解像度で見た世界なのですが、それが思い出しにくくなってもっと劣化した形で残っている感じです。
伊藤 それは例えば「お母さんが幼稚園に迎えにくる光景」のような出来事としての記憶なのか、それとも単なる空間的な記憶なんでしょうか。
井上 いろいろですね。いま家の近所を歩くと、道路がこれくらいの幅であって、その真ん中には中央ラインがあって、その脇に歩道があって、というような静的なイメージを持ちます。それとは別に、幼稚園の遊具から落ちた瞬間や、前に行ったら紙芝居がよく見えたという出来事のような、シーンとして残っている記憶もあります。
伊藤 そうした記憶のあり方は見えている人と変わらないですね。ただ人間は記憶を使って現在の認識を行っています。違うのは、おそらくそうした「記憶の使い方」なんでしょうかね。ご実家の周りを歩くときは、記憶はどの程度使っていますか。記憶として持っている風景をイメージしながら歩いていますか。
井上 イメージしていますね。ただ、こんなに滑らかな道だったかな、道路の舗装が変わったのかな、といったことを思うことはありますね。このあたりに駄菓子屋さんがあったな、よしずが立てかけてあったな、とかも、その場所を通るときに思いますね。今は全然違うものなんですけどね。
伊藤 現実は違うということは分かっているけど、イメージするということですね。
井上 そうです。違うということは分かっているけど、そこを通ると、むかしのイメージがよみがえる場合もありますね。していない場合もあります。
伊藤 ということは、見えていたころの記憶は、現在行動するうえではあまり使っていないということでしょうか。
井上 もう見えなくなってからのほうが長いのですし、横浜、東京、福岡のあいだで引っ越しを繰り返してきました。そうすると見たことない世界の方が多いので、見たことのある世界にいるのは、帰省したときくらいですね。あとは、勝手に想像しています。
伊藤 ということは、たとえば福岡は視覚のない世界としてイメージされているわけですよね。それは具体的にどのようなものなんでしょうかね。
井上 自分の中で勝手にビジュアルのイメージを作っているところがあります。といってもこれは見えている人のビジュアルイメージほどはっきりしたものではないんですが。たとえば、道路があったら、道路はアスファルトの色をしているだろうな、と想像します。範囲も狭く、身の回り10メートルくらいです。大学の塀があると、ここは白っぽかったりするのかな、音的に「しましましましま」ってなっていたら、縦の金属の棒が並んでいるのかな、とイメージします。
伊藤 「音的にしましましま」っていうのは初耳なのですが、そういうのがあるんですか(笑)
井上 ありますよ(笑)。年をとるごとに分かるかちょっと不安になってきましたが、繰り返しの音の変化は捉えられることがあります。自分が動いているとき、「へこんでいる/出っ張っている」や「棒がある/ない」の繰り返しは、ある程度の幅、たとえば50センチ幅で、耳の高さのところにあれば、分かるんじゃないかなと思います。
伊藤 それは、歩いている足音が反響して分かるのか、それとも向こうから透けてくる音で分かるのか、どちらなんでしょうか。
井上 両方だと思います。柵の向こう側に木があってさわさわ音を立てていたら、そのほうが柵のイメージがわくと思いますね。
起こっていることとしては、壁があってなくなる、という変化と同じだと思います。壁がとぎれると、反響や曲げられる音がなくなって、ぱっと開ける感じがする。柵の場合は、その変化が細かく繰り返されることになります。要するに、回っている扇風機に向かって「あー」と言うと、「あわあわあわ」となりますよね。あれが小さい音で起こっている感じなんじゃないかと思います。
伊藤 震えている感じですかね。
◎「微分」と「積分」
井上 今回インタビューを受けるにあたって自分なりに考えてみたんですが、歩いているときや、音でまわりを認識するときって、微分する部分と積分する部分がある気がするんです。勝手な自分流の言い方ですが(笑)
「微分」というのは、変わることへの意識です。この部屋の広さがどのくらいかとか、壁までどのくらいかということは、今こうやって話しているときはあまり意識していません。だけど移動してきてこの部屋に入ってきたときは、そのことをすごく意識しました。そういうふうに、変化として認識している部分が大きいんじゃないかと思います。反射音の変化も、壁がなくなって道があって開けるのと、柵の棒がたくさん並んでいるのは、変化として見えてきているという点では同じなんですよね。だから、自分が動かないとあまり分からないし、自分から音を出さないという意味ではパッシブな部分ですね。
伊藤 なるほど、時間的なそのつどの変化が情報量になるという意味で微分なんですね(笑)。
井上 はい。あくまで私なりの説明ですが(笑)。
それに対して「積分」は、「今はこれくらいの人がまわりにいて、こんな感じの部屋にいるなあ」というような意識の中に作られているイメージです。とはいえそれはずっと意識しているわけではなくて、音がしなくなると忘れたりします。割といい加減な積分ですけど(笑)。
伊藤 積分というのはつまり、変わらない部分、状況として把握しておいた部分、その「蓄積」としての積分ということでしょうか?
井上 そうですね。記憶として貯めておくんだけど、でも意識が別のところに行くと忘れるんです。たとえば「プー」って車の音がすると、「あ、そういえばあっちの方に道路があったな」と思いますよね。それは見えている範囲とは違って、あいだに建物や駐車場があっても、それを越えて道路を意識する。でもしばらくすると自分の周りに集中するので、消えていくんです。目で見る場合は、すべてが常に見えているという状態だけど、視覚障害者の場合は、変化していくんですよね。音などによって厳密になる部分もあるけど、意識から遠のくと消えていく部分もある。CGとかにしたら面白いんじゃないか、なんて想像します(笑)。
伊藤 なるほど、「視野」みたいなものがどんどん変化していくわけですね。たとえば今窓の外で電車の音が聞こえましたが、そうするとあっちに線路があったということが意識されるわけですね。
井上 そうですね。今の線路の音は聞き流しましたが(笑)、確かに音がしましたね。ずっと、線路の音がしていますね。
伊藤 ということは、あの電車の音は「積分」のほうに入っているわけですね。
井上 「積分」の方に入って、そのつど「ミュート」するカテゴリーに入っちゃってますね。
伊藤 無意識のレベルで「認識すべき情報量」と「無視していいノイズ」の取捨選択がかなり起こっているということですね。
井上 そうですね。意識したりしなかったり、そういうふわふわした世界に生きているんじゃないかと思います(笑)
伊藤 そういう時間的な変化について考えたことがなかったです。面白いですね。それは井上さんが音を重視して周囲を認識しているからなんでしょうかね。
井上 音は大きいと思いますね。触覚は、自分の周囲1メートルくらいしか触れないし、触れないものもある。中学生くらいまでは、何でも触っていたんですが、大人になると、教育の効果なのかあまり触らなくなりましたね。触らなくなった結果、音が残ったという感じですね。
◎迷って見つける
伊藤 以前、道に迷ってしまったときのことをうかがいました。
井上 最近は、実はあまり迷ってないんですよ(笑)。結婚して、一人暮らしでなくなったことと、家と会社を往復する生活をしているせいで、迷うことがなくなりました。でも、ときどき迷いたくなるんですよ(笑)。住んでいる場所も大きいかもしれません。以前は小石川に住んでいて、歩いていろいろなところに行けました。東京は、「この道を行くとどこに着くのかな」と考えながら行ってみる楽しみがありますよね。ところが今は横浜市のはずれの住宅街に住んでいるので、歩いてどこかに着く、ということがなくて楽しくないんですよ。
伊藤 迷っても、それを楽しんでいることがあるんですね。
井上 目的地があって、本当にそこに行かなければならないときには何とかしてリカバーしなきゃ、となりますが、楽しめる場合もありますね。そう考えてみると、「迷うとは何か」という問いにたどりつきますね(笑)。迷うっていうのは、目的地があるないにかかわらず、もといた場所に戻れないという意識になっていることなんじゃないか、と思ったんです。本当は戻れなくても、もとの位置に戻れると本人が思っているうちは迷っているとは言わないですよね。視覚障害者って、杖であちこちさわったり、うろうろして道の場所を確認したりしますが、これも探索しているのであって、迷っているのではないですよね
伊藤 なるほど、確かにそうですね。
井上 そういう前提で考えていくと、迷うパターンもいくつか類型化できるような気がしてきます。一つめは、目印を見失うときです。歩いているときは、いつも道に注意を向けているわけではありません。「あそこのプログラムはこうしたほうがよかったかなあ」とか「家に帰ったらこういうことしようかな」とか、いろいろ考えごとをしていることもあります。そんなときにふと、「あれ、今、道を渡ったっけ??」というようなことがあります(笑)。見える人なら周りを見れば分かりますが、見えないとそうはいかない。何本めの道だったか分からなくなったりすると、少し戻って、一本目は溝蓋が金属、越えるとすぐ左にお店の匂いがする、などのいくつかの要素を確認したりします。でも慣れていない場所だと、そういう印がなかったりします。あるいは、迷っているときに自分が想定してないものに出会うこともあります。以前、自宅のすぐ近くで迷ったことがあります。そのときは、道を渡ったところに自動販売機があることを白杖で叩いて発見しました。でも、自分の頭の中のマップではそのあたりに自動販売機はないことになっていたので、「あれ、いまどこにいるんだ?」と分からなくなってしまいました。自分のマップの中に自動販売機を置き直そうとしたり、いやそもそも知らない場所に来てしまった可能性を考えたり、何度も行ったり来たりしました。結果として、そのあたりを探索したので、その後、その自動販売機をよく使うようになりました(笑)。
伊藤 怪我の功名ですね(笑)。それまで脳内マップになかったその自動販売機が、それ以降は逆に目印になったわけですね。
井上 そうですね。それまではコンビニに行かないと飲み物が買えなかったんですが、自動販売機で楽に買えるようになりました。今はあまりやらないですが、以前は、適当にボタンを押してみるということがありました(笑)
伊藤 何が出てくるか分からないまま、とりあえず押してみるわけですね(笑)
井上 けっこうやっている人は多いと思いますよ。だって近くを歩いている人にいちいち声をかけるのは気が引けますよね。「コーヒーは上の段か下の段だろう」などとアタリをつけて押してみるわけです。今は、スマホを使って識別する方法もあるみたいです。アマゾンのアプリに商品を認識する機能があるので、それを使うと自動販売機の商品も分かるそうです。あるいはBe My Eyesのようなアプリもあって、使っている人もいるようです。
伊藤 なるほど。画像認識の機能は、見えない人の世界を変えますね。
◎手続き的な記憶と全体像
井上 迷いのパターンの二つ目は、誰かと一緒に何度か歩いたことがある道を一人で歩く場合です。自分では、もう分かっていると思い込んでいて迷うんです。近所の駅から隣の駅までの道を、よく奥さんと一緒に散歩をします。線路に沿って遊歩道があるんですが、ある場所で、道の右半分がスロープになっていて、そこをのぼっていくと、交差する車道が越えられる場所があるんです。いつもそこを通っていたんですが、右半分だけがスロープだという認識がなくて、一人で同じ道を散歩に行ったとき、迷ってしまいました。
伊藤 人についていくと、特定の道を選択したという実感がないですよね。迷うかもしれない間違った選択肢がそこにあることに気づかないというか。
井上 はい。私の場合、見える人と歩いているときは、広い範囲が認識できていると誤解しがちなんです。ここに来るまでも、駅を出て、右側に博物館があって、坂があって、というイメージはあるので、来られそうな気がする。でも実際には来られません。来るためには、もっと細かく目印をとっておくか、あるいはきちんと全体像を把握しておくかのどちらかが必要です。
伊藤 二つのやり方があるんですね。A地点からB地点に行くまでの手続きを順番に覚えて行くやり方と、全体像を把握しておくやり方と。
井上 二つありますね。両方あったほうがいいんだけど、最初は手続きの方ですね。ただ手続きだと把握しきれなってしまうんです。駅などで音声案内板が設置されていますよね。あるいは「ことばの道案内」というサービスがあります。「駅を出て、点字ブロックを右に2メートル進みます、その曲がり角を左に5メートル進むと、エレベーターがあるのでそれに乗ってください」という感じで、言葉で行き先を教えてくれるのですが、ものすごくステップが多いんです。目的地には行けるのですが、私の場合は、何回か行った場所は、もっとざっくりした構造で理解したくなるんです。「こう曲がってエレベーターに乗ったといいうことは、行った先の道とエレベーターに乗る前の道はこういう関係になっているんだな」というような立体的な構造も含めて理解しないと、気が済まなくなっちゃう。特に東京の駅は複雑なので、たとえば大手町駅だと、半蔵門線の上に丸の内線がどういうふうに交差していて、だから乗り換えをするときには、半蔵門線の先頭部分ではなく中間部分から乗り換えをしなくてはならないな、というようなことを考えたくなるんです。定理を覚えるのではなく、定理の導き方を覚える、というような感じですね。そうするといろいろな定理が導けるわけです。
伊藤 なるほど、そのように全体像を把握しておけば、行きたい場所がちょっと変わったときにも行けますね。
井上 そういうほうが、自分は好きなんでしょうね。ただ最初からそれは難しので、手続き的なところから始めます。
伊藤 駅に関しては、見えている人で全体像を把握している人、特に各路線の線路の関係を立体的に把握している人はあまり多くないような気がします。せいぜい平面的な路線図のイメージしかないですよね。横浜駅も複雑な構造ですけれど、把握されていますか?
井上 横浜も複雑ですよね。昨日もまわりを歩いていたら、「京浜東北線がこんなふうに曲がっているのか!」と発見しておもしろかったです。横浜駅はまだ自分一人で歩くことがあるので、新しくできた東横線の駅も自分の中のマップに組み込めているのですが、渋谷駅は一人で行かないので、ヒカリエのあたりはちょっと分からないですね。そういうときは一人で迷いに行くしかないんですが、大人になるとなかなか迷いに行けないんですよ。あやしい人に見られるんじゃないか、と考えてしまうんです。
◎文字の色
伊藤 色の話も教えていただけますか。メールで、頭の中で物に勝手に色を割り当てているとか、文字に色がついているという話をうかがって、とても面白いなと思いました。
井上 文字に関しては、いつからそうなったのかはっきりしません。ただ、子供の頃におもちゃのいろはがるたのようなものを見ていたので、その影響かなと思います。木の板に大きく「あ」「い」などと書かれていて、それで文字を勉強していました。文字の部分が彫ってあって触って分かるので、親が与えたんだと思います。その字に、それぞれに色がついていたんじゃないかと思います。たとえば「み」だと「みかん」のような色になっている。それを見ていたことから、文字に色がついているという不思議なイメージができたんじゃないかと思っています。
伊藤 おもしろいですね。
井上 数字だと、0が濃いピンク、1が暗めの白、2が0より赤みが強い赤、3が黄色、4が緑、5が薄青、といった感じで、不思議なんですよね(笑)。点字を触っても、あるいは人の名前を聞いてもそれが点字に変換されて、頭の中で色付きでイメージされるんです。
伊藤 それは点字の点が色付きでイメージされるんですか?
井上 いえ、頭の中では、点字の点ではなく、文字としてイメージしていますね。文字と言っても、墨字の文字ではなくて、これは「あ」だなという認識という意味での文字ですが。その文字単位でそれぞれ色が振られています。
伊藤 なるほど。2の点字を触ると、赤で書かれた墨字の2が出てくる、ということではなくて、2の概念が赤いという感じなんですね。ということは、点字を読んでいるときに、頭のなかが相当チカチカしているといことですか?
井上 そういえば、チカチカしますね。
伊藤 へえ、面白い!
井上 今、ピンディスプレイで点字を触っていますが、これでもやはりいろいろな色が勝手に結びついていますね。不思議ですね。単語には色はなく、たとえば「うし」に色はありません。黒っぽい「う」と、深くない青の「し」、「5」とは何かが違う感じがする「し」のそれぞれの色があるだけです。実物の牛が白と黒だということとも関係がありません。
伊藤 「し」の青と「5」の青が何か違うというのが面白いですね。一対一対応なんですね。
井上 たとえば数字にも赤っぽいものがいくつかありますが、それぞれ違う感じがします。「6」の赤は濃くて、あれを朱色と言うのかなと思っています。見たことはないですが…謎です。子供のころに見たテレビの「ひらけポンキッキ」で「いっぽんでもにんじん」という歌がありましたが、あの歌でも絵に色がついていて、あそこから来ているのかな、と思ったりもします。
伊藤 色と文字が、子供のころに見たかるたやテレビ番組などの記憶がベースになって紐づいているんですね。端から見ると恣意的に見えるけど、記憶としては必然性があるのかもしれない。
井上 たぶん、そういうことなんじゃないかと思います。
伊藤 そもそもの話ですが、見えなくなって40年近く経つのに色彩感覚が失われなかったんですね。
井上 そういう人もいるということですね(笑)。他で失っているものもいっぱいあるんですけど、私の場合は色は残った。何を失うかが人によって違うんじゃないですかね。中途失明の人でもっと精彩に見ていた人や、運転ができるほど広い視野を持っていた人は、見えなくなってからの感覚も違うと思います。直線の道路だと、目の見える人は、一つ前のバス停が見えたりしますよね。そういうのが自分には信じられません。ぼくはもとが曖昧な見え方だったから、そういう残り方をしたんでしょうね。
伊藤 子供の頃は、色彩はかなりみえていたわけですね。
井上 絵を描いていましたよ。車や宇宙戦艦ヤマトの絵を描いていました。
伊藤 見えなくなった年齢の影響は大きそうですね。5〜6歳だと、文字をはっきり覚える手前の年齢ですよね。色で覚えていたということでしょうかね。
ところでさっき色の説明をしてくださったときに、朱色として見た色はないけど、たぶんこれが朱色じゃないかという色はある、とおっしゃっていましたね。記憶としては持っているけれど名前がついていない色というのがあるということですね。
井上 あるんだと思います。色を頭の中で混ぜることはできないので、どうするとその色になるのかは分からないんですが、たぶんこうなのかな、と思うだけです。ただ朱色は、印鑑を見たことがあるので、たぶんあの色のことだなというのは分かります。
伊藤 なるほど。金色や銀色も記憶にありますか?
井上 あります。折り紙の金色や銀色を覚えています。
伊藤 文字には色がついているということですが、実際の物はどうですか。目の前にコップがありますが、このコップは実はブルーなんです。
井上 あ、ブルーなんですね、今割り当てました(笑)。でもそのうち忘れると思います。文字としての「コップ」とは別にコップの色をイメージします。この机は、材質が木なので、実際にどうであるかとは別に、頭の中で木の色をイメージしています。
伊藤 色彩を思い描くのは、井上さんにとっては、必要度がそれほど高い情報ではないですよね。ということはいつもイメージしているわけではなく、言われたときにイメージする感じでしょうか。
井上 そうですね。あとは触ったときや、一瞬の間みたいなときにイメージしますね。集中していることから離れて、広い範囲に意識を向けたくなることがあります。そういう瞬間に、ぼやっと、ああ、ここはこうだったな、とイメージします。
伊藤 ちょっと気を抜くようなときですね。そういうときに思い出すんですね。
◎ランダムアクセス/シーケンシャルアクセス
伊藤 お仕事はどんなことをされていますか。
井上 今はインターネット越しにサービスを提供するシステムを作ったり管理したり、いわゆるインフラエンジニアと言われる仕事をしています。
伊藤 見える/見えないという違いが、プログラミングの内容に影響することはありますか。
井上 プログラミングは、まず人によって生産性の差が大きいんです。できる人は、ものすごく早くきれいなコードを書くし、そうでない場合はいくら時間をかけてもバグばかりのコードになってしまう。そうすると、見える/見えないという差が、比較的相殺されやすいんじゃないかなと思います。
伊藤 プログラミングは個性が出るものなんでしょうか。
井上 個性はあまり出ないほうがいいとぼくは思っています。プログラミングはみんなで書く文章のようなものなので、いかに効率を落とさずに、他の人が見て分かるものにするかが重要です。もちろんその中で個性はあるんですが、自分にできることじゃないプログラミングは、仕組みが分からなくて困ってしまいます。
プログラムの道具にはいろいろあって、ひたすら文章を入力していくようなテキストエディタ的なものもあれば、構成要素単位がツリー状に並べてあって、つねに全体が画面上に見えている状態で目的の箇所に入力していくものもある。たぶん後者のほうが、大きなプログラムを書くには有利だと思います。でも視覚障害者って、自分の記憶に入っている分と、いまコンピューター等で操作している周囲に意識が限定されがちです。もちろん大きな範囲を覚えていられる視覚障害者もいて、そういう人の中には、電話で将棋の対局ができる人もいます。ぼくはそういうことはできないので、全体を常に意識しながら作業をするというより、細かい部分に入っていくほうが得意です。じわじわ意識する範囲をとなりへと動かしていくような感じです。
伊藤 確かに全体が見えているかそうでないかは、情報の整理の仕方や扱い方に大きな影響を与えますね。
井上 そこでまた持論を見つけたんですが(笑)、見えている人は、視覚を記憶の一部として使っているんですよね。見えると記憶しなくていい。ランダムアクセスとシーケンシャルアクセスの違いみたいなもので、見えていると特定の情報を取りに行くときのコストがとても小さいんですよね。見えていれば、画面上に見えていることと、頭の中に入っていることがほぼ同義になるのですが、視覚障害者の場合は、頭に入っているか、シーケンシャルアクセスで順番に見えて行くかになる。それは画面を切り替えたり、他のアプリに切り替えたりするくらいのコストがかかります。そういう意味で、大きなものにアクセスするのは見える人の方が得意で、視覚障害者がそれをやろうとすると脳内にキャッシュメモリみたいなものを持つ必要が出てくるんですよね。あと、ネットワークの構造も、自分は把握するのが苦手です。図にしてしまえば大したことないんだろうけれど。
◎ 夢、エイジングのこと
伊藤 夢は見ますか。
井上 最近は夢をあまり覚えなくなっている気がします。よくある夢はプレゼン当日にまったく準備が出来ていない、というような夢です(笑)。
夢の中では声で会話はしていますね。面白いのは、最近は夢のなかで自分の設定が全盲になったこと。以前は、見えている設定で車を運転する夢を見ていた頃もあったんです。ただ設定は見えていても、実際には自分が思っている強度でしか空間が把握されないので、本当は運転できないんですけどね(笑)。人と一緒に走り回っているんだけど、人につかまっていたりして、「あ、全盲じゃんオレ」(笑)って思ったりする。
伊藤 設定は見えていても感じ方が全盲、というふうに混ざっているんですね。
井上 弱視の友達でも、車を運転している夢を見て、信号が見えないので車を降りて直接見ようとしたと言っていました(笑)
伊藤 それは危ないですね(笑)
井上 ありえない設定のなかに、自分のふだんの状況がからみあっているんですよね(笑)。フロントガラス越しだと見にくいという意識があるので、降りて見ようとしたんでしょうね。
伊藤 触覚の夢はあまりみないですか?
井上 なくもないですね…。ピアノが上手に弾けているという設定で、その鍵盤を叩く感じが触覚的に再生されることはありますね。
伊藤 なるほど。ピアノを弾くということを再生したとき、それが触覚的なものだということですね。
ところでメールに「視覚障害者力」という言葉がありました。ご結婚されて十年で、視覚障害者力が低下している、と。
井上 まずエイジングの話で言うと、コンビニで物を買うのにちょっとストレスを感じるようになりました。以前は、お弁当を買うにも、横のところを軽く触って、「この形はチキンタツタだろう」とか「今日はお腹が空いているから、この重いのでも大丈夫だろう」とか、自動販売機と同じように、とりあえず買ってみるという買い方をしていました。もちろんお店が混んでいなければ店員さんに聞けるのですが、昼どきだとそうもいきません。それで触って買うというようなことをしていました。今はもうそういうことをしようとは思わずに、なるべく混んでいる時間に行かなくなったり、店員さんにとってもらうにしても頼むのにストレスを感じるようになった気がしますね。
あるいは知らないところに行く能力が下がった気がします。以前だったら、行きたいところがあったらまず電話をして、現地に行ってからも細かく人を呼び止めたりして聞いていたんですが、今はそういうことをするのが恥ずかしくなってきています。以前は、気になっているアーティストがいて、下北沢のライブハウスに行ったこともあるのですが。
伊藤 だんだんと億劫になってきているんですかね。
井上 億劫になってきているのかもしれませんね。
伊藤 こういう人に見られたいという他人の目線が気になるということでしょうか。
井上 それもありますね。必要性が強くないと、恥ずかしいと思う気持ちが勝ってしまうんですよね。大学生の頃は、スーパーで買い物をしていました。スーパーは店員さんが少ないので触って探す感じになるのですが、当時は「あ、豆腐あった!」と見つけて豆腐の場所を覚えるというようなことをしていたんですが、今はさすがにできないかな、という感じがします。
伊藤 触ることに抵抗感が出てきたというのは、具体的なきっかけはあったんですか。
井上 何でしょうね…。あるとき、自分は手癖があるなあと思い始めたんですね。テーブルの上に何もないときに、テーブルの木目のようなものを触っていることがあって、触るというのはモゾモゾと動かすことなので、何か嫌だなと思うようになりました。人に直接言われたわけではないのですが、他の人が言われているのを聞いたのかもしれません。
伊藤 そういった抵抗感を越えるような強いモチベーションが生まれなくなったということですね。
井上 そういうことですね。今急に一人で生活しなければならなくなったとしたら、昔ほどアグレッシブになれないだろうなと思いますね。年をとるごとに恥ずかしさが増えて、ジェントルな市民として振る舞いたいという気持ちのほうが出てしまっています(笑)。