Research

難波創太×伊藤亜紗

20140613230404.JPG

難波創太さんとの対談がまとまりました。見えない方の世界の理解の仕方というと、感覚的な違い(聴覚でその場の様子を把握する、など)を想定しがちですが、運動能力の使い方も違っているということが大きな発見でした。「備え」の感度が高いからこその身体のあり方。平衡感覚、アフォーダンス、「補完」について。ご希望の方には冊子版を郵送いたします。


 

伊藤 難波さん、今日はよろしくお願いします。この対談シリーズではいままでに二人の全盲の方(白鳥建二さんと木下路徳さん)にお話をうかがっています。お二人は先天的に全盲の方(厳密には見たという記憶がない方)たちでした。ですので、難波さんのように中途失明の全盲の方とお話するのは、今日が初めてになります。デリケートな部分に触れてしまうかもしれませんが、見える世界と見えない世界の両方をご存知であるという立場から、その二つがどんなふうに違うのか、また見える世界から見えない世界への以降がどんなふうに起こったのか、そのあたりを中心に教えていただければと思います。どこまでうかがっていいものか、不安ではありますが…

難波 いえ、どこまででもいいですよ(笑)。タブーはないです。

伊藤 (笑)ありがとうございます。見える世界から見えない世界に入られた当初、難波さんは見えない世界の「新人」だったわけですよね。いまはどうですか?

難波 2007年の2月3日にバイクの事故を起こしてからなので、もう7年くらい経っていますが、まだまだ新人ですね。最初の頃にくらべたら慣れましたけど、見えない人と一緒に行動していると、出遅れちゃいますね。彼らは聴覚の世界を「眺めて」いるんですよね。話をしていても、まわりの音をいろいろ聞いている。僕の家に最初にみんなが来たときも、誰かがトイレに行っている音を聞いて、トイレのある場所を把握してしまう。え、教えたっけ?って(笑)。集中していないところの情報も入っているんです。

 事故を起こしたときは生きるか死ぬかの状況で、2週間くらい意識不明が続いたあと、リハビリをして体は動かせるところまで行ったけど、目だけがダメでした。

伊藤 意識が戻ってすぐの記憶はあるんですか?

難波 現実と夢の世界を行ったりしている感じでしたね。意識不明のあいだは、夢を見ているような感じだったんじゃないかと思います。変な夢を見ていて、ラーメンズがお笑いを突き詰めすぎて顔を整形することになっている、という夢でした(笑)。小林賢太郎が片桐仁の顔になっていて、写真集まで出していました。僕は友達に連れられて彼らの公演に行ったのですが、会場につくと、お客さんもみんな整形していて、同じ顔を見せられる(笑)。観客席にびっしりベッドが敷き詰められていて、なかなか公演が始まらない、という夢でした。

伊藤 それはかなりホラーですね(笑)。

難波 事故で顔をだいぶやられていたので、その影響があったのかなと思います。

伊藤 意識不明の状態が2週間ほどあって、そのあとは…

難波 目覚めた当初は目の前に包帯があると思っていたんですが、だんだんそうではないことが分かり、でもそのうち治るだろうくらいに思っていました。その頃は少し光も分かったんですよね。でも3ヶ月くらい入院しているうちにだんだん分からなくなりました。現代の医学では治らないと言われ、ショックでしたが、体のリハビリでやることがあったので、現実逃避のような感じで、そっちに意識を向けていました。神奈川のリハビリセンターで1年ほど杖の使い方や点字の読み方などの生活訓練をしました。杖を使う訓練では、最初は怖いしどこを歩いたらいいかわからず、壁を伝って隅の方を歩いていました。その空間がどうなっているかというイメージが持てないと、真ん中をまっすぐ歩くということができないんですよね。でもなかなか難しくて、最近になってようやく、車の音や壁への音の反響を頼りに、壁をつつかずに、イメージの中を歩けるようになりましたね。

伊藤 ごちゃっとした音の塊から、必要な音を情報として聞き分けていくようになるのは、苦労しませんでしたか?

難波 そこはあまり苦労しなかったですね。カクテルパーティ効果のようにひとつの音に注目するという聞き方です。ただ、居酒屋のようなうるさいところは苦手ですね。

 ただ見えたときとくらべて、音を聴き分ける能力、この音が何の音かというのを把握する能力は高まった気がしますよ。もともと高い音が聞き取れない状況だったのですが、聴こえる範囲でのメモリが細かくなったというか。

伊藤 見える状況から見えない状況への変化に関してですが、「自分の存在が消える」というような感覚はなかったですか?見えていると、常に視覚の一部に自分の体の一部が見えていますよね。こうやって話しているときは手が見えたり、あとは自分の髪の毛や鼻が見えたりする。以前、真っ暗闇に入ったときに、自分の体が見えないので、自分の存在が世界から消えたというか、魂だけの存在になったような不安感があったんです。あまりに不安でずっとしゃべり続けてしまいました(笑)。

 

難波 真っ暗闇の場合は、見えないと同時にまわりの人から見られていない、という状況ですよね。僕の場合は、まわりの人は見えていて、自分は常に見られているという状況だったので、存在が消えるという感じはなかったですね。リハビリセンターは完全に見えない人はあまりいなかったので、まわりが僕の存在に気づいてくれる環境でした。いまの全盲同士の友達の中では、見られてはいないのですが、みなさん感覚が鋭いので、話さなくてもそこにいるのが分かるようです。僕はそういうのは苦手ですが…友達と話していて気づいたら一人でしゃべっていた、あれ、いなくなったの?みたいなこともあります(笑)

脳の補完機能

伊藤 さきほど、リハビリが現実逃避になっていた、というお話がありましたが、その状況が進んで、見えない状況を受け入れる、という感じになった段階はありましたか。心理的な意味だけでなく、音を通して理解するスキルの向上という意味でも、見えない状況を「受け入れられる」段階があるように思うのですが…。

難波 見える世界に対するこだわりがないかというと、それは今でもあると思います。ただ、いろいろな現実の問題にぶちあたって、角が丸くなっていくんじゃないでしょうか(笑)。例えば、見えなくなると、情報が入らなくなります。見えない世界というのは情報量がすごく少ないんです。コンビニに入っても、見えたころはいろいろな美味しそうなものが目に止まったり、キャンペーンの情報が入ってきた。でも見えないと、欲しいものを最初に決めて、それが欲しいと店員さんに言って、買って帰るというふうになるわけですね。それに最初は戸惑いがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。色を測ってくれる機械とか、いろいろな便利グッズが大好きなので、試していました。

 そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには2〜3年かかりました。これくらいの情報量でも何とかすごせるな、と。自分がたどり着ける限界の先にあるもの、意識の地平線より向こう側にあるものはこだわる必要がない、と考えるようになりました。さっきのコンビニの話でいえば、キャンペーンの情報などは僕の意識には届かないものなので、特に欲しいとも思わない。認識しないものは欲しがらない。だから最初の頃、携帯を持つまでは、心が安定していましたね。見えていた頃はテレビだの携帯だのずっと頭の中に情報を流していたわけですが、それが途絶えたとき、情報に対する飢餓感もあったけど、落ち着いていました。何か薬を打たれていたのかもしれないけど(笑)

伊藤 (笑)確かに見えていると必要・不必要にかかわらず、情報をつねに頭の中に流している感覚があります。それがなくなるわけですね。

 先日お話した木下さんは、情報が少ない部分、例えば地形を抽象的にイメージしていらっしゃって、情報が少ないからこそ可能な世界の理解の仕方があるんだな、と思いました。

難波 僕の場合は、情報がない部分は、勝手に想像していますよね。ここに来るときも大学のキャンパスの様子を、想像していました。無理に想像しているというのではなく、自動的に補完しているんだと思います。

伊藤 それは見ていた頃に見た大学のイメージなど過去の経験から引っぱりだしてきて補完しているということ?

難波 おそらくそうだと思います。見ていないものを想像することは無いから…。その場所が広いのか狭いのかとか、太陽の照り具合とか、のどかな場所なのかどうかとか、そういった条件と結びついている記憶が出てくるんだと思います。

 イメージを持つことは重要です。たとえば今ここにコップがありますが、コップがここにある、とイメージできていればすぐに取れる。頭の中にイメージを持つと、視覚情報がなくても、ふつうに生活ができる、ということですよね。

伊藤 ああ、なるほど。イメージこそが行動に直結していて、そのときのイメージというのは視覚情報と同じものではない、あるいは同じである必要はない、ということですね。イメージは行動の予想を成立させるものですね。

難波 視神経に入ってきたすべての情報が脳に届いているわけではない、と聞いた事があります。カエルは動いているものしか見えませんよね。動いていなかったときから動いたときの差を脳に届けている。そういうちょっとした、でも必要な情報さえあれば、あとは脳のイメージで行動できる。見るってそういうことなんだろうなと思います。

伊藤 必要な情報を取りいれて行動を成立させるのが目の機能だとすると、それは必ずしも目を使わなくても、できるということですね。

難波 こうやってコップを持つとき、僕、もう見ているんですよね。見ていないんだけど、映像でとらえている。

伊藤 面白いですね。大きさや形を映像化している、ということ?

難波 そう、大きさや形を。

伊藤 ではコップの中に飲み物が入っているという情報はどうですか?このコップ、陶器でできているので、視覚的には中は見えないのです。重ねられるように持ち手がついていないのですが、マグカップのように陶器でできた不透明のコップです。中身の情報は、コップを揺すれば触覚的には分かるけど、視覚的には見えません。

難波 あ、ガラス製だと思っていたので、ぼくの映像では少し中身が入っているのが見えていました。でも、これは陶器だと言われた瞬間に、陶器になるんですよね(笑)。

伊藤 魔法みたいですね(笑)。

難波 視覚的に見ていることが、行動のじゃまになることもありますけどね。あると思ったらなかった、というような。思い込みすぎると修正に時間がかかってしまう。高さを間違って想像してしまうと、鼻に当たったりしますからね。

 こうやって脳が補完するのが面白いなと思います。素材が陶器だと聞いたら、陶器の鈍い白さやつやっぽい感じを想像します。

 

伊藤 難波さんの場合は見えていた時期があるので、脳がそのときの経験から引き出す形で、補完しているんでしょうね。そこは見た記憶がない人とはまた違うイメージの仕方でしょうね。

難波 先天性の全盲である友達が、星のきらめきはイメージがわかないと言っていましたね。雲の感触は綿から連想して分かるようです。

伊藤 私が以前聞いた話では、生まれつき全盲の人でも、色という考え方は分かるし、好きな色がある人もいるそうです。でも、混色は理解できないと言っていました。絵の具などが混ざる様子を見たことがないと、色が混ざるという操作が理解できない。感覚ではなく概念として色を理解しているので、色を混ぜるのは机と椅子を混ぜるような奇妙なことに感じられるようです。

難波 なるほど。補完機能は聴覚にもあると思います。この前、人が話しているのを文字起こししたのですが、大事なところは聞けていても、語尾などはかなり勝手に解釈していました。

伊藤 外国語の歌詞を勝手に日本語として聞いてしまう、というような空耳もそうですね。

難波 感覚で受け取った情報を、頭にある情報で置き換えているんでしょうね。

 齋藤陽道さんという耳が聞こえない写真家がいて、音が出るものを写真に撮っているんですよね。大きなホルンを吹いている人とか、雨音のする水たまりとか、鈴がついた足元とか、ビジュアル的にも確かに鳴っていそうな光景を撮るわけです。僕がその写真を理解しようとすると、写真の説明を言葉で聞いて、写真のビジュアルを思い浮かべて、さらに音を想像をする、という複雑なことになります。見たようにしゃべってるけど(笑)。

伊藤 あ、そうですね。難波さんが見えないことを一瞬忘れていました(笑)。

難波 見た気になってますね(笑)。この間、聞こえない人ともつ焼き屋に行ったときも、面白かったですね。手話通訳の人も同席していたんですが、向こうも少ししゃべれるので、こっちも身振り手振りで、オリジナルの手話のような動作をしたら案外伝わりました。例えば "美味しい"で頬に手を当てたり、LightWaveというソフトのことを、頭のところでちかちかする動作("Light")と腕で波を作る動作("Wave")を組み合わせて表したり。手話ってかなり感覚的だし、その場でオリジナルな手話を作ってもいいんだな、と思いました。つながれば、正しくなくてもいいんですよね。楽しかったですね。

伊藤 すごい会話ですね。聞こえない人は声、見えない難波さんは身振りという、お互いに自分は把握できないチャンネルで伝えあうわけですね。

難波 もともと見えない人はジェスチャーが少ないし、自分もしなくなっていたので、それで伝わることがすごく楽しかったです。聞こえない人と話していて楽しいのは、伝えたいとき気持ちが強く伝わってくる、その安心感がありますね。たとえば「ありがとう」「よかったよ」と伝えるのに、手をぐっとにぎってきたりして、そういうときは、俺ナニ語でしゃべってるんだ?と思いましたね(笑)。僕がかかわっている「視覚障害者とつくる美術観賞ワークショップ」(「林建太×伊藤亜紗」参照)でもそうですが、ギャップを楽しむという発想に立てば、障害が「触媒」になるというのが面白いなと思います。

スリルとハプニング

伊藤 実際に行動する場面では、情報の少なさはどのような影響を与えていましたか?

難波 最初は怪我をしないで目的にたどり着くことに神経を集中していて、まわりに何があるかはどうでもよく、景色を楽しむということはありませんでした。富士急ハイランドに最恐戦慄迷宮という一度入ったら何時間も出られないお化け屋敷があるんですが、あんな感じでしたね(笑)。毎日戦慄迷宮でした。

伊藤 スリルありますね(笑)。前に、ある全盲の方が、自動販売機でジュースを買うときに、よく分からないけどとりあえずボタンを押してみる、いつもではないけれど、そういうロシアンルーレット的な買い方を楽しむことがある、と聞いたことがあります。すごい発想の転換だな、と思いました。ふつうだったら情報がないことをネガティブにとらえそうなのに、分からないからこそどっきり感が出てくる、それを楽しむ、という発想はすごいな、と。

難波 ああ、ありますね。回転寿司に行っても、まず皿を取って、とりあえず食べてみて、それから何を取ったのか分かる感じですね。これはマグロかな?あ、当たり!みたいな(笑)。自分でスパゲティを作るときも、まとめ買いしていたレトルトのソースをかけたりするのですが、何の味が出るか分からないんですね。食べて初めてミートソースだった、みたいな。

伊藤 (笑)面白いですね。でもそれって、「ハプニングを楽しむ」みたいな話として聞いていい話なんでしょうか?

難波 まあ楽しんでいますよ。「思い通りにならなくてはダメだ」「コントロールしよう」という気持ちさえなければ、楽しめるんじゃないかな。今日はミートソースを食べようと思って違う味だったら、残念というのはあるけど、今日は何かなと思って食べた方が楽しいですよね。心の持って行き方なのかな、と。

伊藤 なるほど。補完できない部分は、意志を通そうとしないで、偶然のハプニングを楽しむような発想をされているわけですね。

 料理をされるということは今は一人暮らしですか?

難波 そうですね。リハビリで4年ほど離れていましたが、見えていたときと同じところにもう3年ほど住んでいます。自宅に帰った当初は、自宅の感じが違うので、つらかったですね。病院は特殊な空間なので新しい世界を楽しむ感じもありましたが、自宅では過去と向き合わざるを得ないので、こんなに違うという驚きがありました。

伊藤 それはどんなふうに違ったんですか?

難波 これはルールを変えないとだめだな、もとあった感覚では動けない、という感じですね。ドアひとつ開けるにしろ、服を着替えるにしろ、同じ物なのにルールが変わっている。ドアは危ないので半開きにしない、物は無くなると探すのが大変なのでいつも同じ場所に置く、とかね。メモもできないので物の配置も覚えないといけない。抱えられないほどの荷物を全部抱えて歩かなくてはいけない、そんな気分になりました。駅までの距離感も変わりました。かつては何ともなかったのに、今は遠く、駅まで冒険の旅に出る感じですね(笑)。

伊藤 記憶力に関しては、確かに見えない人はとても優れていますよね。名前もすぐ覚えてくださって、びっくりすることがあります。

難波 自分の頭の中のイメージと、現実を一致させることが、快適に生活するコツなんですよね。部屋はシンプルに、物は整理整頓しています。本当は、どこ?って聞くとそのものが返事をしてくるといいんですけどね(笑)。でもしゃべる家電はいろいろあって、実家には手を叩くと反応するリモコンがありますし、自宅にもしゃべるIHクッキングヒーターや体重計、お風呂、キッチン秤もあります。そういうテクノロジーは大好きで、ガジェット関連のニュースはチェックしています。

伊藤 ふだんの生活の中で、見えない方と関わったり情報交換をすることは多いですか?

難波 リハビリセンターに行くと同じ境遇の人がいましたが、でもどのような工夫をしているかは本当に人それぞれでそのまま参考にはならなかったですね。自分で考えるしかないな、と。行動範囲を限定している人もいましたが、僕は変えない、もとの生活を取り戻すという気持ちが強かったので。

 いままでやっていたこと、やりたいと思っていたことをやりたい、という気持ちが強かったです。

サーフィン:運動神経の変化

難波 僕は事故で失明する直前、サーフィンを始めようと思っていたんですよね。だからいま時々やっています。やってみたらそんなに難しくはありませんでした。友達が連れて行ってくれて、ボードも貸してくれました。

伊藤 波が来るのはどうやって分かるんですか?

難波 波がくずれないほどの沖合に出るので、音では分かりません。最初は波のタイミングが来たら押してもらったり、声で教えてもらったりしていましたが、自分のボードが持ち上がる感覚でだんだんテイクオフのタイミングが分かるようになりました。

伊藤 すごいですね。純粋に平衡感覚だけで乗っていくわけですね。

難波 バランス感覚は非常に重要で、自宅でバランスボードに乗ったりしていました。目が見えないおかげなのか分かりませんが、見えていたころよりも、体の使い方がうまくなった気はします。足の裏の感覚、どこにどのくらい体重が乗っているか、その調節能力が鋭くなったような気がします。

伊藤 見えなくなると聴覚や触覚など別の感覚器官が鋭くなるという話はよく聞きますが、運動神経まで変わるんですね。

難波 変わると思うな。慎重になったせいもあると思うけど、転ばなくなったしね。見えているときのほうがいろいろなものに気をとられたり、あなどったりしているからね。

伊藤 私の印象ですが、見えない人と見える人では立ち方が違いますよね。見える人は、片足に重心をかけてだらしなく立っていることが多いけど、見えない人は両脚に均等に重心をかけてちゃんと立ってる。何かあったときにすぐ対応できるような立ち方、というか。

難波 そうなんだ…武道家みたいですね(笑)。そんなこと言われたの初めてだな。

伊藤 さっき駅で待ち合わせたときの難波さんもそうでしたよ。以前、電車の中で見えない方がつり革につかまらずに、両脚立ちで立っていたのですね。そうしたら電車が急にとまって、まわりの見えている人はみんなよろけていたにもかかわらず、その方は平然としていたのが印象的でした。

難波 用意しているんじゃないですかね。つかまるところが分からなかったり、手をのばしてさぐるのがためらわれるので、ふんばって、バランスの練習だと思って立っている。そうすると、電車が出発するときの煽られ感とか、ゆれが感じられて、けっこう面白いんですよね。どういうタイミングでがたっと揺れるか予想したり、それに応じてぱっと重心を変えたりしているので、たぶん倒れずにいられるんだと思います。

伊藤 そういうふうに考えると、難波さんがサーフィンを始められたのはぴったりという感じがしますね。見えなくなってからの運動神経の発達の仕方にあったスポーツに思えます。

難波 ブラインドサーフィンというのがあって、鵠沼にスクールがあって、僕より滑れる人もいます。もともとブラインドサッカーの日本代表をやっていて、運動神経がいい人なんですが。リハビリセンターにいたときにブラインドサッカーをやったことがありますが、まわりの人の運動神経のよさには驚きましたね。まずアップでグラウンドを何周かするんですが、いきなりどこにもつかまらず、最初の人が鳴らす鈴についてみんなで走るんです。遅れていったら鈴の音が聞こえなくなるので、慌ててついていきました(笑)。見えなくなって、思いっきり運動するということがなかなかできなくなっていたので、転んだりぶつかったりして汗をかきながら動くというのが気持ちよかったです。

 いまは近所の道場で合気道をやっています。体を触れてから始めるので、見えない人にもやりやすいんです。二人で組んで技を掛け合うんですが、技の型は決まっているので試合ではありません。道場では、「構えないで備えなさい」と言われます。それが重心を偏らせない立ち方にも関係するのかなと思います。

伊藤 なるほど…見えない方の身体の使い方は、武術の発想に通じるところがあるんですね。座頭市なんていうのが出てくるのも、運動機能的な必然性がありそうです。

難波 体の不思議さは興味がありますね。

 

アフォーダンス

難波 以前友達が、劇場の横で作品を展示していたんだけど、雨の日に、お客さんが次々と作品に傘をかけちゃったらしいんですよね(笑)。バーがあったら自動的に傘をかけちゃう。そういうアフォーダンスみたいなものに興味があります。

伊藤 ボタンがあったら押しちゃう、みたいな。

難波 蛇口があったらひねっちゃう、座布団があったら座っちゃう、紐があったら引っ張っちゃう。それに触っても初めは何か分からないけど、分かると行為につながる、というのがありますね。それと同時に、足元のように見えない部分のアフォードというのもあるのかなと思うんです。例えば坂があると、道に方向性ができるんですよね。実家のマンションの入り口が広い駐車場になっていて、その先に階段があってそこを上っていくのですが、駐車場が坂になっていることで、その階段を見つけることができるんです。

伊藤 なるほど。坂があることで空間に座標軸が生まれるわけですね。

難波 そう、坂が方向をあらわして進めるようになる。

伊藤 やっぱり難波さんの話は全部サーフィンの話に聞こえますね(笑)。そういう足元から把握したまわりの空間の状況にあわせていく行動パターンの、非常に複雑なバージョンがサーフィンですよね。サーフィンって自分が能動的に動くのではなく、やってくる波にアフォードするスポーツですよね。

難波 確かに。見えない世界だと方向が分からないので、そこに気を使うのかなと思います。まっすぐ歩くのが特に苦手だったので。慣れている人は音をたよりにまっすぐ歩けるんでしょうけど、緊張しているとよけいにそういう情報が入って来ない。かえって酔っぱらっているときの方がまっすぐ歩けたりします(笑)。緊張していないほうがいろんな情報をフルに活用できるのかな。

伊藤 そういう環境にあわせて行動するアフォーダンス的な感覚は、もちろん誰でも持っているものだけれど、そこに強く興味を向けているのが難波さんならではの世界とのつき合い方なんだな、ということがお話をうかがっていて分かってきました。

難波 アフォーダンスって共通言語だと思うんですよね。お芋さん食べたら屁が出る、みたいに(笑)、自動的に人間がやってしまう行為をデザインできないかな、と考えています。昔のMacintoshのインターフェースで、ウィンドウの横のスクロールバーに滑り止めがついていましたよね。あの滑り止め、物理的には必要ないんだけど、あれがあることで、そこに触れて動かそうという気になるわけですよね。横方向の縞模様が「滑り止め」に見えるとなぜか縦方向に対するアフォードになっている。

伊藤 面白いですね。パソコンにしろ、道具にしろ、建築にしろ、人と物や機械が出会うインターフェイスのデザインにとって、そうした要素は非常に重要ですね。ところでアフォーダンスは基礎言語だというお話がありましたが、見える人と見えない人とで、どの程度共通しているものなんでしょうかね。さっきおっしゃっていたような電車に乗っているときのバランス感覚、電車にアフォードするみたいな感覚は、見える人は放棄していますよね。

難波 それ、電車の動きにアフォードしてるのかな(笑)。

伊藤 しているんじゃないですか。お話を伺っていて、アフォードって二種類あるなと思いました。ドアノブのように行動のきっかけを作るものと、サーフィンのときの波のように変化する対象に自分の体の状態をあわせる、というものと。電車は後者ですね。どちらも自分の能動的な働きではなく、対象に刺激されての働きである、という意味では同じですが、前者は具体的な行為が促され、後者は状態の微調整を促されます。

難波 面白いですね。合気道の先生によく言われるのは、呼吸を合わせろ、ということです。この場合の呼吸は吸ったり吐いたりの呼吸ではなくて、相手の動きとこちらの動きを合わせる、ということ。ただしダンスとは違う、と言われます。相手が投げようとしているときに、その先を読んで、投げられたらダメなんですよ。投げる側に「投げた」という感触がないとダメ。

伊藤 合気道もダンスのデュオも、大前提としては呼吸を合わせようとしているんだけど、合気道の場合は本気でやり合うつもりでやらないとダメということですね。

難波 そこが難しいところなんですけど。サーフィンの波も電車も、向こうは勝手にやっているわけですよね。

 電車に関しては、確かに電車に乗って進行方向に向かって立っていると、電車に「乗っている」という感じになりますね。ボードじゃないけれど、車体の壁がなくなって、まわりの景色が流れていくのが見えるような感じがありますね。映画『暴走機関車』のラストシーンでジョン・ヴォイドが車体の上にのって暴走していくシーンがあるけど、あんな感じですね(笑)

伊藤 へえ、カッコいい。でもどこまで信じていいんだろう(笑)。補完もそこまでやると楽しいですね。

難波創太(なんば・そうた)

1968年生まれ

1995年 武蔵野美術大学工芸工業デザイン科卒業

3DCGデザイナーとしてゲーム・映像制作の仕事に関わる。

2007年 バイク事故で失明、全盲となる。

現在、三軒茶屋で鍼灸・指圧・薬膳の店を営む傍ら、視覚を使わないスポーツやアートイベント、ワークショップなどで幅広く活動している。

伊藤亜紗(いとう・あさ)

1979年生まれ。美学、現代アート。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。

身体や身体と言葉の関係に関心がある。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2014)。