Research

木下路徳×伊藤亜紗

私と同い年の全盲の木下路徳さんとの対話1回目の内容が冊子にまとまりました。「坂」の感じ方の違い、「想像力」の違いなどについて、かなり発見のある対話となりました。でもまだまだ深められそうな気がする!継続して行っていきたいです。

以下が全文ですが、冊子版をご希望の方には郵送します。メールにてご一報ください。

プリントアウトの場合はこちら↓

20140411082808.pdf


ーー気づいたら見えなかった

伊藤 木下さん、今日はお越しいただきありがとうございます。メールでもお伝えしたとおり、私は芸術や、芸術を通して身体や感覚の問題について研究しているのですが、そういった興味の延長で、今日は木下路徳さんとざっくばらんにお話ができたらなと思っています。私が一方的に質問する場にするつもりはありませんので、木下さんにとって気になることがあったら、どんどん聞いてくださいね。

まず確認させていただきたいのですが、木下さんは現在は全盲ということでよろしいですか?

木下 はい。

伊藤 先天的にではなく、中途失明?

木下 そうです。見えなくなったのは、16歳…高校生になってからですね。何月何日に見えなくなった、というのは覚えていなくて、気づいたら失明していたという感じでした。

伊藤 それは目が覚めたら見えなかったということですか?

木下 そうことではなくて、生まれつき弱視で病気を持っていました。小さい頃は視力が0.2あって、白杖も使わず、裸眼で景色を見たりしていました。今は想像もできないですが、教科書の字も、小学校1年生くらいのときは見えていたはずです、覚えてないけど。

伊藤 覚えていないものなんですね。

木下 小学校1年生であまり意識してなかったというのもあるかもしれない。緑内障という次第に見えなくなる病気だったので、だんだん目を近づけても教科書が見えなくなり、それからレンズや拡大鏡を使うようになりました。そこからは苦労したのでよく覚えています。手術も何度か繰り返して、でもうまくいかず、高校生のときに火が消えたように見えなくなった、という感じです。でもはっきりこの日に見えなくなった、という記憶はないんですよね。

中学校のときはがんばって見ようとしていました。盲学校だったので勉強もそんなにきつくなかったので大丈夫だったんですが、高校は普通高校だったので、教材の字が小さく、拡大しても見えないので点字で勉強するようになったんですね。点字の方が、目を使わなくていいので確かに楽なんです。ノートも点字でとるようになりました。「これなら大丈夫だな」と思って、しばらく目を使わないでいたんですね。そうしたらある日「あれ、最近見てないや」と気づいて、もう見えなくなっていました。

伊藤 失礼ですけれど、その話すごく面白いですね。急に、見えなくなるわけではないんですね。「見える」と「見えない」の間にはっきり断絶があるのかと思っていました。

木下 そういう人もいます。野球をやっていて顔面にボールを受けて、その瞬間に見えなくなっちゃったという友人もいるし、手術をして失敗してしまい、戻ってきたら見えなくなっていた、という人もいます。そういう人たちは、「いつ見えなくなったのか」という日付を覚えていることが多いみたいです。ぼくのように徐々に見えなくなった人の場合は、はっきり「この日」というのは覚えていないことが多いと思います。

ーー見る/想像する

伊藤 能力としては見えるけど、目を使わないで、点字など見る以外の方法で情報を得ていた時期というのがあったわけですね。私の先入観では、見える人が持っている世界の理解の仕方と、見えない人が持っている世界の仕方は、かなり違うものだと思っていたのですが、ある日気づいたら見えなくなっていたということは、その二つの世界の理解の仕方は、そんなに断絶したものではない、ということなんでしょうか?

木下 …その二つはどう違うのかな。

伊藤 まさにそこが一番知りたいんですが、一つのポイントとしては、「想像すること」や「イメージ」の位置づけが違うのではないでしょうか。つまり、「ここにあるものについての理解」と「ここのないものについての理解」が、質として区別されるかされないか、ということです。たとえば、おそらく木下さんは、音の反響具合や私がこの対談が始まる前にお伝えした情報を通して、この部屋がどのくらいの広さだとか、ポットがどこにあるか、椅子が何脚あるか、といった私たちが今いる場所の様子を、頭の中でイメージされているのではないかと思います。私ももちろん、この部屋の中の様子を、「目で見る」という仕方で理解しています。一方、私たちが先ほど待ち合わせた大岡山駅ということになると、今はそこにはいないわけですから、見える人にとってそれは「想像する」という言葉で表現される対象になります。想像するとは、つまり、今自分に見えていないもののイメージをつくる、ということですね。この意味で「想像する」は「見る」のとは全く別のものです。この二つが、見えない方にとっては区別されるんでしょうか?あるいはそもそも「想像する」ということがあるのでしょうか?

木下 なるほど!そっちの見える世界の話も面白いね。でも、確かに今までの経験のなかで、違うと言われると納得するようなことがありましたね…でもまず先に言っておくと、ぼくはこの部屋の広さとかポットの位置は、分からないです。そういう能力がある人もいて、そういう人が取り沙汰されるけど、ない人もいて…すいません、今日は「ない代表」で来ちゃったんで(笑)

伊藤 (笑)前回白鳥さんとお話したとき、彼はかなり音でその場の様子を理解していらっしゃるとのことだったので…

木下 ああ、白鳥さんはねえ、できる人だから(笑)

伊藤 でも今日、木下さんは、初めての場所である大岡山駅に、ひとりで来てくださいましたよね。何らかの仕方で空間はもちろん把握されているのだと思うんですが…

木下 ぼくの場合はとりあえず踏み出してみて、あるいは白杖を出してみて、点字ブロックがあればちょっと乗っかってみようかな、とか、ぶつかったらこれは柱か壁か、柱だったらその先もいけそうだな、とか、とにかく出たとこ勝負で進んでいくタイプですね。事前にメールで教えてもらっていた駅の構造についての情報と照らし合わせながら、階段があったら上る、改札は音がするほうにフラフラっと行ってみる、何とか行く、という感じです。

伊藤 あらかじめ慎重に空間を把握される方と、そうではなくて、体当たりでそのつど情報を仕入れていく方と、人によってそれぞれということですね。

木下 人それぞれ、自分の使いやすい能力を使っているので、その人の中にできる世界もちょっとずつ違うんでしょうね。

伊藤 では木下さんの世界の話で結構なんですが、先ほど、大岡山駅に来ていただくときに、私が事前にメールで送った説明を読んで、駅の様子をシミュレーションされたとおっしゃっていました。このシミュレーションが「想像する」に対応するんでしょうかね。

木下 たぶんそうだと思います。

伊藤 見える立場からすると、「見る」というのは、いつも自分込みの情報なんですね。自分の目から見た、自分がいる場所の情報なんです。一方「想像する」というのは、自分抜きの情報であり、自分がいない状態で対象について考えることなんですよね。

木下 ぼくの場合、視覚に関しては、その区別はないですよね。見えない人にとっては、その場で見えるものはないので、どっちも「想像」なんだと思います。でも触覚ということになると、その区別はありますよね。触ってここにあると分かるものは想像ではないし、でもここにないもの、たとえば「マシュマロって柔らかいよね」と言われたら、その触感を思い描くことはできる。これは想像ですよね。

伊藤 なるほど

ーー大岡「山」を感じる

伊藤 さっき、駅からこの研究室のある建物まで一緒にくる途中で、15メートルほどの下り坂がありました。その坂のところで、木下さんが、「大岡山はやっぱり山で、いまその斜面をおりているんですね」とおっしゃった、あれはすごく新鮮でした。見えると、なかなかそういうふうには考えられないんですよね。坂は坂として切り離されちゃって、大岡「山」を感じられないんです。やっぱり見えているものに縛られるので、切り取る範囲が狭くなっちゃうんですよ。

木下 なるほど!面白いねえ。

伊藤 見えない人のとらえ方の方が抽象度が高いような気がします。見えると、駅前にスーパーがあるとか、マクドナルドがあるとか、そういう情報ばっかり入って来て、全体が山というお椀型の土地で、その頂上に駅があるという幾何学的なイメージを持てないんですよね。

木下 たぶん脳の中にはスペースがありますよね。見える人だと、そこがスーパーや通る人だとかで埋まっているんだけど、ぼくらの場合はそこが空いていて、見える人のようには使っていない。でもそのスペースを何らか使おうとして、情報と情報を結びつけていくので、そういったイメージができてくるんでしょうね。さっきなら、足で感じる「斜面を下っている」という情報しかないので、これはどういうことだ?と考えていくわけです。だから、見えない人はある意味で余裕があるのかもしれないね。見えると、坂だ、ということで気が奪われちゃうんでしょうね。きっと、まわりの風景、空が青いだとか、スカイツリーが見えるとか、そういうので忙しいわけだよね。

伊藤 そうですね。ものすごく手前にある情報に気を奪われる感じはありますね。別の言い方をすると、人工物に気を奪われているといえるのかもしれません。たとえば今の季節だと、新入生向けのサークルの看板が立っていたり、ポスターが貼ってあったりするので、「ここを見て下さい」と見るために用意されたものに、自分の意志にかかわらず注意を奪われてしまいます。町全体の地形を考える余裕なんて、普段はありません。

木下 すごいね、そういうことなんだ。

伊藤 そうなると、見える人と見えない人では、入ってくる情報も違うし、情報の置き方、整理の仕方もだいぶ違うような気がしますね。

木下 入れられる情報が違っていて、たとえばぼくはお店を探そうとしても自力で看板が読めなくて、つらいこともあるけど、でも入ってこないからこそ、じゃあ全体像でも見ましょうか、丘なのか、谷なのか、そういうことを考えるようになるのかもね。でもまあ、当てずっぽうで言っている部分もあります。今日はたまたま坂が大岡山の斜面だったということで当たりましたけど、ただの坂の場合もありますからね。そういうときは、見える人が違うと教えてくれると、それがまた情報として蓄えられる。当たる人は誉められて、偉人扱いされるんだけど(笑)、はずれることもいっぱいあります。

ーー「触る」のバリエーション

伊藤 点字を読むことで目を使わなくなった、というところをもう少しうかがいたいのですが、点字を読むときは、そのつど文字に置きかえて、文字をイメージしているわけではないんですか?

木下 それは人によると思います。ぼくの場合は、点字の点の配置がつくるテトリスのブロックのような形を頭の中でイメージしながら読みますね。それをひらがなに置き換えたりはしていません。ぼくはそうだけど、形をイメージしない人もいるかもしれないし、別のものをイメージしている人もいるかもしれない。結構人によって違うらしいので、ぼくの場合の話しかできませんが。

伊藤 点字の読み方ひとつでも人によって違うんですね。指を動かすと、イメージも次の形に移動するという感じ?

木下 そうね。あ、この形は「ま」だな、次は「か」だな、という感じですね。音声でなく映像として形をとらえて、その形をイメージすることで意味が通るという感じです。

伊藤 点字を使い始めたのはいつごろですか?

木下 将来見えなくなりそうだから、ということで小学校6年生で習いました。だけど、見えるうちには無理しなくていいよという感じだったので、点字もあれば読むけど、墨字を一生懸命書いて、読むということを中学生までやっていました。

伊藤 点字は小さいうちに習った方がいいんですか?

木下 そう言われていますね。10歳までに習うとわりと速く読めるようになる、と聞きました。

伊藤 それは子供の方が触ったときの指先の触覚が敏感だから、ということですか?

木下 たぶん指の神経が発達している途中なので、回路ができやすいからだ、と読んだことがあります。英語を小さいうちに習っておくと、LとRの発音ができるようになるとか、絶対音感も小さいうちにやると身に付くとか、そういったことと同じだと思います。20歳を過ぎると、かなり難しくて諦めてしまう人もいるようです。

伊藤 木下さんの指先の感覚と私の指先の感覚をちょっと比べてみたいのですが、さっきお土産で木下さんが持ってきてくださった赤いタオル、真ん中で分かれていて右側と左側で織り方が違うということですが、木下さんはパッと感触の違いが分かるんでしょうか?私は、言われればなんとな〜く違いが分かる、という程度なんですが…。

木下 ぼくもそんなにパッとは分からないですよ。これね、話が飛んじゃうかもしれないけれど、点字とそれ以外って同じ「触る」でも違うんですよ。で、どう違うかは、明確には言葉にできなくて、むしろ研究してほしいぐらいなんだけど…(笑)

伊藤 へえ、驚きました。点字を読める人は何を触るにしても指先の触覚が敏感だとおもっていたけれど、そんな単純な話でもないんですね。

木下 よく、見えない人は点字を触れるから、何でも触ればわかるんでしょ、触った方がいいですよね、って思われていますよね。たとえば美術でも、触ることが重視されていますけど、当事者からするとどうもそうではないんですよね。

伊藤 何でも触れるようにした方がいいと思っていました。

木下 点字の方は、やはり触りやすいようにできていますよね。盛り上げる高さや、点と点の間隔が、ルールにのっとって、読みやすいようにできている。一方このタオルはそういうふうにできていないので、ぼくらでも毛の一本一本を感じたり数えたりすることはできない。たまたまいろいろな製法があるのを、ぼくらが触っているだけなので。見えない人の中でも、タオルの左右の違いが分からない人もいるだろし、逆に毛の流れや柔らかさを語れる人もいると思います。

伊藤 「触る」って2種類ありますね。物の表面をなでて「質感」を感じるというのと、そこにものがある/ないという「存在」を確認するのと。その違いですかね?

木下 そうかもしれないねえ。それ以上は研究してほしいね。その辺の誤解から、ぼくらも、点字が読めるんだから触ることのスペシャリストじゃなきゃいけない、というプレッシャーを感じることがあります。たとえば「触察」の資料をもらったことがあって、立体コピーという特殊な塗料で線などを盛り上がらせて印刷したもので作られていたんですが、細かいものになるとやっぱり分からないんですね。線が細かくなってくるとくちゃくちゃになって混ざっちゃうんだけど、分からないと言えない雰囲気がありましたね。わざわざ立体コピーをしてくれたのに悪いという思いもあって、分かったフリをしていました(笑)。

それに、別に目が見えない人は触ることじたいが楽しいわけじゃないですからね。触ることは手段で、目的がかなうから楽しいんですよね。でもそのあたりのことがあまり伝わっていなくて、見える人のボランティアの方でも、触れればいいんでしょ、という考えの方もいらっしゃいますね。

伊藤 そのあたりは、私も誤解していたかもしれません。見える人だって確かに文字を見ることじたいは全然楽しくないですからね。「触る」にいろいろ種類があるというのも面白い発見でした。確かに「見る」だって、テレビを「見る」のと風景を「眺める」のと文字を「読む」のでは全然違いますからね。「見る」の場合はそれを表す動詞にいくつかのバリエーションがありますが、「触る」は細分化されていないですね。「触察」という言葉を先ほど教えていただきましたが、必ずしも一般化していないですね。

木下 そうですね。触察は、ただ触るのではなく、理解するためによく触る、という感じですね。

伊藤 ちなみ点字は今でもよく読まれますか?

木下 あまり使わないですね。見える人用に紹介のために打ったり、あとは道具を整理するためのラベルなどの実用的な使用くらいですね。本などはCDの音声で聴いてしまいます。

ーー恥ずかしさについて

伊藤 少し話題を変えて、人間関係の作り方についておうかがいします。見ることはそれじたい攻撃的な部分があり、人を緊張させます。その点、見えない人は、そういう緊張関係とは別のところで、人間関係を作っていらっしゃるのではないかと思います。そのあたりのことをおうかがいしたいのですが、たとえば、木下さんは「恥ずかしい」という感情を強く感じますか?どんなときに感じますか?

木下 ぼくはかなり強く感じる方ですね。小学生のころ、見えているときは、「自分で何でもやりなさい」と言われていたので、何でも自分でやりたいという気持ちが強かったです。でもだんだん見えなくなってくると、自分ひとりでできることが減ってくるんですよ。「あれしたいけど、やるには人に聞かなきゃいけないな」と思ってためらってしまったり。そういう、人に聞いたり、お願いしたりすることが、とても恥ずかしかったです。だから遠慮したり我慢することが多かったですね。それはぼくの性格と感じ方がそうさせていて、今でもあまり変わっていないと思います。ただ、まわりの人のいろいろな処世術を聞くなかで、そこまでやっていいのか、と知ることもあります。たとえばレストランのメニューを全部読み上げてもらうとか、人にぶつかったついでに道を聞くとか、「そんな裏技使ってるの?!」って。ぶつかって謝った次の瞬間にもうお願いしてる、賢いなって(笑)。そういうのを聞くと、自分も真似してみようかな、ちょっとやってみようかな、そういう感じで生きるのはアリなのね、とちょっとずつ学んでいって、できることが増えてきました。でもやっぱり声をかけるのは、自分と予想外の返答が返ってくるのがちょっと怖いですね。

伊藤 声をかけてトラブルになったり無視された経験もある?

木下 トラブルはないけど、無視はありますね。だいたい助けてくれるんですが、それも何かわるいな、と思ってしまうんだよね。自分との戦いというか…ジレンマですね。声をかけないと何もできないけど、わざわざしてもらうのも悪いな…とためらってしまう。

伊藤 とくに大都市だとお互いに干渉しないようにする空気がありますからね。もちろん見える人でも誰かに声をかけたり頼んだりしたい時ってあるんですけど、抵抗感がありますね。でも、私、目の見えない方とかかわるようになってまだ3ヶ月くらいなんですが、他人に対するバリア感がちょっと変わってきたかな、という思うことがあります。というのは、たまたま昨日、浜松町の駅のホームで電車を待っていたら、隣に立っていた70歳代くらいの男性が、おそらくてんかんか何かで急にゆらゆらと揺れ始めて、こちらに倒れてきたんですね。そのとき、私はふっと手が出て、その人が地面に頭をぶつけないように支えることができて、さらに「救急車呼んでください」ととっさに叫べたんですね。これって一年前の自分だったら自然にはできなかった行動だったという気がしていて、目が見えない方と関わるなかで身体を触れ合う機会が増えたせいか、それまでの他人には干渉しないというバリア感が、ほぐれてきた気がします。ヨガを始めた、というのも関係しているかもしれません。面白いのは、その変化というのは、単なる意識の変化ではなくて、身体の状態の変化なんですよね。もっと身体的に関わりあっていいんだなという感じですね。

木下 接することに対していいイメージを持てると、次につながっていきますよね。見える人の側でも、声をかけたら失礼なんじゃないかと思っている方がいると聞いて、驚きました。自分のペースで歩いているのを邪魔しちゃ悪い、そっとしておこう、と。こちらとしてはもちろん全然失礼ではないんだけれどね。お互い相手のことが分からないので、遠慮して、距離ができてしまっている。でもそういう距離が前提としてあるだけで、それが何かのきっかけで近づいて、ここはいい、ここはマズいというところを少しずつ修正していけばいいと思うんですけどね。

伊藤 なるほど。トライ&エラーでちょっとずつ修正していけばいいという寛容さは社会にとって本当に必要で、そして木下さんらしいですね。

人に話しかけるときに恥ずかしさを感じるということですが、別のシチュエーションはどうでしょう。たとえば見える人だと、目線が自分に集まっているというのを意識するだけで恥ずかしさを感じる場合があります。そういう「人が発している圧力」みたいなものも感じることがありますか?

木下 緊張、ということですね。何かしゃべらなければいけないときに、うまくしゃべれなかったらどうしようという緊張はあるけれど、見られて恥ずかしいというのとは違うのかな。薄着だったりミニスカートをはいていると恥ずかしい、というのもそういう恥ずかしさの一種ですよね? 

伊藤 そうですね。

木下 ぼくはそもそも露出しないけど(笑)、もし水着になったら恥ずかしいだろうとは思いますね。

伊藤 電車でズボンのチャックが開いてますよと言われたら…

木下 それは恥ずかしいね。意識していないときはなんともないけど、現状が分かって、こういうふうにみんな見ていますよ、というのが分かったら、やっぱり恥ずかしいね。視線に関して言うと、こういうふうに話していても、分かったり分かんなかったりという感じですね。分かる時あるよ、という人もいるけど、それは何となくそんな気がするだけで、肌を触られるような感じがあって、100%分かる、というのではないですね。自分が前にでて話すような場面で、会場にお客さんが集まってきているのが分かると、当然みんなこっちをみているだろうと思うので、想像上で、恥ずかしくなれるけど、恥ずかしいはずのシチュエーションでも気づかなければ平気ですね。

伊藤 他人の視線が来る感覚を持った気になることもあるけど、それよりも、自分の頭のなかで知的に状況を理解して恥ずかしさを感じる、ということですね。 

笑いについて

伊藤 木下さんはさまざまなワークショップをされていて、私はそのなかでも「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」に何回か参加させていただいて、本当にみんなを楽しませるのがお上手な方だなと思いました。木下さんはもちろん慎重な部分もあるとお話を聞いて分かりましたが、同時に、大胆に人を笑わせたりするのもお得意ですよね。

木下 ありがとうございます(笑)

笑ってほしいなというのはあります。見えていた小学生の頃は、笑わせてみんなの注目を集めたり、人気者になったり、というのが好きだったんですね。でもだんだん見えなくなってくると、みんながぼくのことを大事に扱うようになって、よそよそしい感じになって、とてもショックでした。小学校の頃、手術をして半年くらい学校を離れていたんですが、戻ってきてもしばらくは弱視学級という別室でマンツーマンの授業を受けていました。でもせっかくなので音楽や給食の時間は通常のクラスに戻りましょうということになったんですが、そのときに、自分の一番の親友だと思っていた子が、弱視学級まで迎えにきてくれることになったんですね。それで、来てくれたんだけど、「よお!」みたいな和気あいあいとした雰囲気にならなくて、「はい、じゃあ行きましょうか」というような事務的な感じで、何もしゃべらず移動していったんですね。何これ、ぜんぜん楽しくないじゃんって(笑)。その子はクラス替えして新しい友達と仲良くやっていて、奪われた、という感じでした。ものすごくショックでしたね。それで、自分も輪に入りたい、こっち向いてほしいと思うようになり、そのころラジオを聞き始めたんです。ラジオってパーソナリティがおもしろいしゃべり方をするわけですよ。ラジオショッピングなんかでも、指輪がどんなにすごいかとか、カニがどういうふうに美味しいかをルポしたりするわけですね。それを聞いて、ラジオのパーソナリティみたいにしゃべれたら、楽しく過ごせるんじゃないかと、漠然と思っていました。ワークショップに関わるようになって、そういうのが戻ってきた、楽しみな世界が自分の中に開けてきた感じはありますね。自分の言葉で周りの人が笑ってくれているうちは、その一瞬は、自分が支配できるわけですからね。その辺の感じがとても嬉しかった。やりすぎてもよくないけれど、最後おいしいところはオレにくれよ、というのも込めて(笑)、がんばってやっていますね。だから得意かどうかというより、願望で日々やっている感じですね。

伊藤 将来はラジオのDJに…なんていうお考えもあるんですか?

木下 取材でTBSとかかわる機会があったので、これは伊集院光と共演できるかも、なんて冗談で思ったりしましたが、まあ夢として、しゃべることで力が出せたらいいなとは思います。

伊藤 この対談もいつか公開でやりましょう。

木下 ネタが通用するか…がんばります(笑)。

ワークショップをするなかで、見える人が見えないこっちの世界に関心があるというのが分かってきたので、見えない人だからこそできることもあって、最近ちょっと張り合えるような、心休まる気持ちですね。見える人にあわせるのではなく、見えない人の技を磨いていく、というふうに力の使い方が変わってきました。もちろん見えない人でもいろいろな価値観の人がいます。美術鑑賞のワークショップをしていても、見えた頃を引きずっている人からは、「美術は諦めています」とか「見えなくなったんだから想像なんかしません」と怒られたりします。原美術館で開催していたソフィ・カルの展覧会でも、先天性の盲目の人にこれまで見た中で一番美しいものは何かと問う《盲目の人々》(1986)という作品があったのですが、その絵を見ながら「あなたにとって美とは何ですか?」と質問したら、「もう見えないんだから美なんて想像できない」と言われ意外でした。

伊藤 見えなくなったから想像はしない、という人もいるんですね。

木下 そういう人とどう接していくかは、まだ考えどころですね。

伊藤 直接的に視覚をテーマにするのではなく、コミュケーションのレベルで問題をとらえて、見える人と見えない人が、ある意味ではお互いにお互いを利用するわけですよね。見えない人は見える人の説明を聞いて作品がわかるし、見える人は見えない人を前にしているからこそがんばって言葉にし、そうすることでいろいろ発見がある。お互いにお互いを利用して、それが楽しいんですよね。

木下 実際にやるとなると試行錯誤の連続でしたけれど、お客さんの反応を見て、ようやく最近形になってきたかなという感じです。

伊藤 今後の展開も楽しみにしています。今日はありがとうございました。

(2014年3月24日(月)伊藤研究室にて)

木下路徳(きのした・みちのり)

1979年栃木県生まれ。

2001年、筑波技術短期大学(現筑波技術大学)鍼灸学科卒業。

2004年よりダイアログ・イン・ザ・ダークにアルバイトとして勤務。暗闇の空間の中、参加者を案内し、視覚以外の感覚やコミュニケーションの大切さを体感するワークショップのアテンド(案内役)を務める。

2012年より「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」のナビゲーターを務める。

みえる人、みえない人の双方が言葉を使って美術鑑賞を楽しめるように会話を促し、多様な参加者の意見や感想を引き出し、交流の場をつくり、美術の新しい楽しみ方を提案、実践している。

伊藤亜紗(いとう・あさ)

1979年生まれ。美学、現代アート。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。

身体や身体と言葉の関係に関心がある。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2014)。