「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」主宰の林建太さんとの対談が冊子にまとまりました。見える人と見えない人があーでもないこーでもないと議論しながら作品を鑑賞していく、この「見る」ではなく「鑑賞する」のレベルを設定したときに、見える人と見えない人のあいだに、お互いがお互いの役にたつような揺れ動く関係が生じる。これは非常に大きな発見だと思います。丁寧に丁寧に方法論をさぐっていらっしゃる思いがつたわる対談です。
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伊藤 林建太さん、今日はお越しいただきありがとうございます。あまりきちんと自己紹介をする機会がこれまでなかったので、林さんの「視覚障害者とつくる美術観賞ワークショップ」の活動にどうして興味をもったのかも含めて、最初に意図を簡単にお話させていただきます。私はいまは大学で現代アート等の講座を持っていますが、もともとは19世紀末から20世紀前半にかけての芸術について研究していました。とくにポール・ヴァレリーというフランスの詩人の芸術についての考え方を面白いなと思っていて、大学院生時代はずっとヴァレリーを扱い、博士論文と書籍(『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』水声社、2013)にその成果をまとめました。19世紀末から20世紀前半にかけての芸術のひとつの特徴として、「視覚を否定する」という傾向があります。ビジュアルを介した、ビジュアル重視のコミュニケーションを否定しようとする。その背景には、広告やマスメディアの発達、あるいは高層建築の誕生によって、社会の中に、パッとみてわかる瞬間的な視覚刺激が氾濫しつつあった、ということがあげられます。アーティストたちの中には、そういう瞬間的・刹那的なコミュニケーションに疑問を抱いていた人もいて、もっと別のところに芸術の面白さを見出そうとしていたんですね。例えばヴァレリーは、そういうショック重視のコミュニケーションは、人間から身体性をうばう、と警鐘をならしました。そこで、これはかなりユニークな考え方だと思うのですが、彼は詩をつかって読者の身体を鍛えようとしたんですね。つまり、言葉によって視覚的なイメージを伝えるのではなくて、リズムや意味の多層性を道具として読者に新しい身体的な経験を与えようとした。別の言い方をすれば、これは現実のものを写すという「再現性」を否定することです。再現性を否定する傾向は、色彩やかたちで観者のうちに独特の感覚を呼び覚まそうとした抽象画とも共通するものです。
こんなふうに「視覚を否定する」ということを、19世紀末から20世紀前半の芸術は考えていたわけですが、そうはいっても、実際に視覚を持たない人、つまり視覚障害の人に興味があったかというと、どうもそこまでは行っていない。あくまで理論的な水準で視覚を否定したのであって、本当の意味で視覚がない世界がどうなっているのか、というところまでは考えていなかったわけです。そこで私は、視覚を否定するのならちゃんと否定してみたい、視覚がない状態の可能性をもっと具体的に考えたいと思って、ダイアローグ・イン・ザ・ダークに行ってみたりとか、林さんのワークショップに参加させていただいたりとか、視覚障害の方と関わる機会を増やしていくようになったんです。これまで、第一回の白鳥さん、第二回の木下さん、と視覚を使っていない方にお話をうかがってきましたが、今日は初めて私と同じく視覚を使っていらっしゃる林さんに来ていただいて、これまでの活動やそこに至る経緯、今後のビジョンなどについて、教えていただきたいなと思っています。よろしくお願いします。
揺れ動く関係
伊藤 まず、林さんの活動について、林さんの言葉で、ご説明いただいてもいいですか?
林 いまは「視覚障害者とつくる美術観賞ワークショップ」というメンバー6人の任意団体で活動しています。見える人と見えない人が、話しながら美術観賞をする、というワークショプを美術館などで行っていて、2012年7月に横浜美術館で最初のワークショップをやり、これまでに合計で 32回開催しました。観賞するときには、見える人が見えない人に一方的に説明するのではなくて、参加者の人には、「見えているものと見えていないものを言葉にしてください」と伝えています。「見えているもの」というのは、文字どおり目の前にある、たとえば絵画の大きさだとか、色だとか、モチーフなどですね。「見えていないもの」というのは、その人にしか分からない、思ったこと、印象、思い出した経験などですね、そういうものは言葉にしないと他の人には見えないので、ぜひ言葉にしてください、と伝えています。絵を見るときに、客観的な説明だけではなくて、主観的なものも言葉にしていくことで、また新しい作品の魅力や輪郭が見えてくる。そこを共有しながら、みんなで楽しく観賞していきましょう、というものです。
僕たちとしては目的が二つあります。一つは美術館が縁遠かったり楽しめなかった視覚障害者にとっての芸術、文化へのアクセシビリティを高めること。もう一つは、見える/見えないにかかわらず、「みんなで見る」という新しい美術観賞のスタイルを考えること。この両輪を意識して活動しています。
伊藤 もともと視覚障害に対する興味があったんですか?
林 20代のころは福祉の仕事をしていたのですが、主に肢体不自由の方と関わる在宅ヘルパーをしていました。その後、このワークショップを始めるまで8年ほど関わった職場は、同僚に視覚障害がいるところでした。これが視覚障害者の人と関わる最初の経験だったのですが、はじめは分からなくて緊張しましたね。「メールはどうやって送ればいいんでしょうか?全部ひらがなで書いたほうがいいんでしょうか?」っておそるおそる聞いたりして(笑)、そういうこと聞くのも失礼なような気がしていました。でもだんだん先入観がなくなって、ふつうに話をしていいんだな、と分かってきましたね。
伊藤 なるほど。8年関わった職場を離れたとき、どういう思いでワークショップを始められたんですか?
林 もともと白鳥建二さんと面識があり、白鳥さんのMAR*1の活動を通して、会話を通して一緒に見るというスタイルの美術観賞があることは知っていました。自分でも参加したいと思いとても興味を持っていました。でもMARの活動はやがて休止してしまい、また自分としては少し違うことをやりたいという考えもあり、仕事をやめたタイミングで、今の「視覚障害者とつくる美術観賞ワークショップ」を立ち上げました。
視覚障害者像を過剰に特別視したくない、という思いはありましたね。たとえばよくある「視覚障害者は聴覚や触覚が敏感で感性が豊かである」というような意味付けは逆に視覚障害者についての固定したステレオタイプを作りうる、という危うさを感じていたんですね。もっと普通にかかわり合うようなことがしたかったんです。
伊藤 視覚障害者像を固定しない形で活動をしたかったわけですね。
林 最近やっとそういう形になってきたという感じです。「見えることが優れている」という先入観を覆して、「見えないことが優れている」というような意味が固定してしまったら、それはまたひとつの独善的な価値観を生むことになりかねない。そうではなく、お互いが影響し合い、関係が揺れ動く、そういう状況を作りたかったんです。
伊藤 なるほど。そういう関係が揺れ動く感じは、林さんたちのワークショップに参加していてとても強く感じました。見えない人は見える人の説明や感想を聞くことでどんな作品か分かるし、見える人は見えない人がいることで自分の感覚を言葉にしなければならないので、作品についてじっくり考えるきっかけを得る。さらに複数の人で一緒に観賞するので、作品の見え方が非常に立体的になる。それは「対等な関係」というのとは違って、見える人と見えない人がお互いに利用しあっています。まさに「揺れ動く関係」でした。
林 ワークショップをやろうと思う前に、プライベートで、視覚障害の同僚と一緒に美術館に行くということをしていました。最初は、自分が同僚に美術について教えてあげる、というスタンスだったんですが、言葉で説明しているうちに、僕の方も面白いぞ、という感触があったんですね。他の人の言葉を聞くことで、目の前の作品が全然違ったものに見える、見える人同士だとしても同じようには見ていない、これは非常に面白い、と。それでこの面白さには価値があるな、これを価値として何らかの形にできないかな、と思うようになりました。その後、少しずつ試行錯誤して、見えない人も見える人も面白いという、実感を頼りに取捨選択して、現在のようなワークショップの形になりましたね。
伊藤 ワークショップでは、見える人ではなく見えない人の方が「ナビゲーター」と呼ばれていますね。
林 見えない人は物理的には誘導してもらう側なのですが、場を作ったり、見える人から言葉を引き出すファシリテーターという意味で、ナビゲーターと呼んでいます。あと、参加者に見えない人がいたら、その人を見守ることもナビゲーターの役割ですね。とはいえ、ナビゲーターである見えない人自身も観賞を楽しんで欲しい、と伝えています。
ドキュメンタリー映画
伊藤 以前から美術がお好きだったとのことですが、どういう作品に興味をお持ちだったんですか?
林 もともとは、ドキュメンタリー映画が好きでした。佐藤真という、水俣病の現在や、障害者を撮った作品で有名な映画監督の考え方に特に影響をうけましたね。歴史的、社会的に大文字で語られるようなことをどう解体していくか、日常というとりとめもないものをどう映像に残すか、といった問題意識や視座を持った人でした。福祉の仕事をしていた頃で、自分のなかでも障害者とどう関わるか、ということがテーマだったんで、引っかかったんだと思います。佐藤監督や是枝裕和監督、諏訪敦彦監督が講師をつとめる映画美学校のワークショップに参加したりもしていました。
伊藤 さきほどのお話とつながるエピソードですね。大文字の障害者像をこわすということに興味をお持ちだったわけですね。
林 いろいろな人と美術鑑賞してみると、視覚障害者の中でも美術が好き、音楽が好き、話すのが好きか、一人が好きか、などいろいろな人がいてひとくくりにできないなと感じます。当たり前のことですが何を楽しむかというのは個人によって違いますし、地域や世代によっても違いがあるようです。やはり上の世代の人は、地域社会の中で活動の範囲が限られていたり、情報が少なかったからか、鑑賞の仕方も受け身な傾向があるように感じます。若い世代の視覚障害者には、美術館でこういったワークショップがあるのは当たり前だと感じている人がいる一方で、上の世代の方はワークショップがあることじたいを感謝する人がいる。良い悪いではないですが、時代によって、地域によって作られた障害者像という概念が影響しているのだと思います。また上の世代の方が、視覚障害者団体などに所属している傾向があり、逆に若い世代はバラバラで、大学のサークルや職場など自分のコミュニティをつくっているように感じます。生活する上で選択出来る幅が広がっている。これも時代による自然な変化なのだと思います。
伊藤 なるほど。美術とドキュメンタリーの関係はどうですか?たとえば、2013年5月にワークショップを開催された原美術館のソフィ・カル展には、ドキュメンタリーの要素がありました。彼女の作品はどんなふうにご覧になりましたか?
林 最初に下見で展覧会を見に行ったときは、悪意というか、トゲトゲしたものを感じました。でもワークショプとしてはとても成功したんですよね。あのとき展示されていた作品は、視覚障害者に「さいごに見たものは何か」「あなたにとって美しいものは何か」等の質問をぶつけて、その答えや回答者のポートレイト写真を展示するといった内容でした。複数で話しながら鑑賞してみると僕が見て想像することと、視覚障害者を含む他の人が想像することは違うものでした。例えば、作品のなかで、「さいごに見たものは何か」という質問に対して、リボルバーで撃たれる光景について語っている人がいました。事前にひとりで見たときは、失明者のエピソードとしてずいぶん痛々しいなと思って、ソフィ・カルの挑発的な部分にトゲトゲしたものを感じてしまいました。でもワークショップの中で視覚障害者を含む他の人たちから「これは劇的すぎて共感できないな」「そもそもこれはどこまで本当の話しなんだろう?」という話しが出始めました。いろんな文脈をふまえて見てみると、作品の中でその出来事を語っている人は、自分の持ちネタとしてそれを語っているぐらいの雰囲気で、ずいぶん距離が取れている様子でした。出来事そのものの衝撃よりも、出来事を物語としてどう語るか、というところに視点が移ってくる。「ある失明者の物語」から誰にとっても普遍的な「物語ること」「記憶」といったテーマが見えてきました。ワークショップを通して、いろいろな人の言葉を聴くことで目の前で変容していく展覧会の奥行きを見られたという感じがありました。
伊藤 おもしろいですね。でもなぜ、ひとりで行くと、挑発的だと感じてしまうんでしょうね。実際の視覚障害の人が挑発的だと感じないのであれば、それはそもそも感じる必要のなかった挑発にも思えます。もしかしたら、見える人が見えない人に対して持っている過剰な配慮や先入観に由来するのかもしれません。
林 美術館をはじめとしたいろいろな美術鑑賞の場面で思うのは、アクセシビリティと鑑賞が混在して考えられているな、ということです。アクセシビリティというのは、例えば視覚障害者が情報を理解しやすいように聴ける、触れるツールを用意することです。そこだけで終わってしまうと、その先の楽しく深く鑑賞できるかどうかの質は担保されないと感じます。触ったり、聴いたりして理解することと鑑賞することは別物なのでは、というもどかしさがありますね。見える人の先入観をもとにした受け皿というのが、まだ多いように感じます。もちろん、触って知ることが有効な場合もありますけれどね。そうした認識の隔たりを、美術館の外側からいろんな視点を持った人と一緒につないでいきたいです。
とはいえ、おそらくMARの方たちの活動があったからだと思いますが、美術館の方は、僕たちの活動の意図を好意的に受け入れてくれることが多いですね。ここ10年で少しずつ変わってきているんじゃないでしょうか。先日の 東京都現代美術館での「井戸端観賞」*2というワークショップは、視覚障害の方のためのワークショップではなくて、一般の人向けのワークショップの中で視覚障害者の方が普通に参加出来る、という形を意識して美術館の方と何度も話し合い企画を考えました。美術館の方と意見を交換し練り上げたことは、とても大きな経験になりました。
「対話」でなく「会話」
伊藤 日常というのも、ひとつ大切なキーワードですね。美術はどうしても一人で集中して見なければいけないという先入観がありますが、そういった近代芸術観が成立する前は、日常生活の中に芸術的なものがあるのが当たり前だったわけで、林さんのワークショップに参加すると、その状態に帰っているような感覚になります。
美術の外では、「みんなで見る」というのは、むしろ当たり前になりつつありますよね。ニコニコ動画など動画共有サイトでは、動画そのものとそれに対する視聴者のコメントを同時に見る、という環境が設計されています。テレビでも、生放送の番組で画面下のテロップにtwitter上のつぶやきがライブで流れたり、生放送でない場合は視聴者がテレビを見ながらスマホでtwitterを見る、ということが当たり前です。「ひとりでじっくり見る」方が今はむしろマイナーで、「みんなで見る」ほうが自然なのかもしれません。そういう変化のなかに林さんのワークショップを置いてみると、意外と似た構造を持っているように見えます。
林 なるほど。そうかもしれないですね。
伊藤 また美術の歴史を考えても、かつては生活の中に作品があったわけですし、音楽のコンサート等もしゃべりながら見るのが当たり前だったわけですね。近代的な芸術観の成立とともに、この300年くらいは芸術と生活が切り離されていましたが、近年ではリレーショナル・アートなど極端なしかたで融合しつつあります。演劇の世界にも同じような傾向があります。
林 ワークショップの活動を続ける中で、なるべく日常の語彙や話し方で話すこと、つまり「対話」でなくて「会話」をすることが大事だと分かってきました。日常とどこかでつながっているという態度で作品を見た方が解釈の幅が広がるし、話し言葉の方が視覚障害者の人にとっても情報量が多いようです。
伊藤 今後の展望についてはいかがですか?
林 まだ、大きくすることを考える段階ではないと思っています。現状維持と継続が目標です。美術館と連携するなどして継続的にいろいろやっていきたいですね。そしてやるからには、その美術館らしい形であってほしい。この前の東京都現代美術館の「井戸端観賞」は東京都現代美術館らしいものになっていたので、そうしたものが美術館の中に定着して定期的に行われていく、というのはもっと起こって欲しいと思います。昨年度は東京都美術館との連携もありました。東京都美術館は、障害者のための特別観賞会というのをずっと前からやっているのですが、視覚障害者のための特別プログラムというのはない。そこで、東京都美術館と東京芸術大学の連携事業である「とびらプロジェクト」というアートコミュニケーションのプロジェクトと関わって、特別鑑賞会の日に「トーク∞トーク」という観賞プログラムを行いました。これは50人くらいが集まってチームに分かれて観賞したのですが、それも美術館をよく知る「とびらプロジェクト」のスタッフの人たちがいたからこそ視覚に障害がある人にもない人にも配慮の行き届いた楽しいプログラムになりました。ただソフトを渡す、というだけではなく、その美術館ならではの関わりが持てたらいいなと思いますね。
伊藤 それぞれのニーズに応えながら形を作っていく、コンサルタント的なお仕事ですね。
美術以外のジャンルはいかがですか?
林 演劇は興味があります。このあいだのフェスティバル/トーキョーで、Port Bの「東京ヘテロトピア」という、劇場ではなく町中に出て、参加者がガイドブックと携帯ラジオを持ってあちこちをツアーするという作品を見たのですが、とても面白かったです。演劇の幅をかなり広げているような作品ですが、また美術とは違う「何だこれ?!」という感じがありましたね。
携帯ラジオは視覚障害者にとっても使いやすいツールですし、見える人と見えない人が一緒に体験することで新たな普遍性が見える気がしました。
伊藤 確かに言葉を聞くことで町の見え方が変わる、というのは林さんたちのワークショップに通じるものがありますね。
林 今のこのワークショップの形は美術鑑賞をするために考えているので、文学や音楽だと難しい部分がありますね。美術は現場のライブ感もありつつ話したり考えたりできる。文学だとじっくり話はできるけどライブ感は少ない、音楽だとライブ感はあるけど話をしたり考えたりするのにはこのままでは難しい。できれば新たなプログラムを考える上でさらに工夫していきたいですね。
伊藤 なるほど、そうですね。丁寧に丁寧に育てていらっしゃる活動が、今後どのような形になっていくのか、楽しみにしています。今日はありがとうございました。
(2014年4月7日(月) 伊藤研究室にて)
*1 MAR : Museum Approach and Releasingの略。NPO法人エイブル・アート・ジャパンが2000年に開始した、見える人と見えない人が一緒に美術観賞するプロジェクト。
*2 2014年3月1日、2日に実施された東京都現代美術館主催「春のワークショップ2014 みえる人とみえない人の「井戸端鑑賞」
—オリジナル音声ガイドをつくろう!」
*3 2014年3月10日 東京都美術館「世紀の日本画」展特別鑑賞会の中で実施された鑑賞プログラム「トーク∞トーク」。
林 建太(はやし けんた)
1973年東京生まれ。「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」主宰。
1995年より、在宅ヘルパーとして身体障害者の日常生活全般のサポートに携わる。
2004年より、ダイアログ・イン・ザ・ダークにて勤務。現場統括、広報を務める。
2012年6月より「視覚障害者とつくる美術鑑賞ワークショップ」発足。関東近郊の美術館にて、視覚障害者と晴眼者がともに美術鑑賞をするワークショップを主催している。
2014年3月東京都美術館鑑賞プログラム「トーク∞トーク」企画協力。
2014年3月東京都現代美術館「春のワークショップ2014みえる人とみえない人の「井戸端鑑賞」—オリジナル音声ガイドをつくろう!」企画指導。
伊藤亜紗(いとう・あさ)
1979年生まれ。美学、現代アート。東京工業大学リベラルアーツセンター准教授。
身体や身体と言葉の関係に関心がある。著書に『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2014)。