Research

木下知威×伊藤亜紗

木下知威さんと筆談にて行った対話の記録が冊子にまとまりました。木下さんは百瀬文さんの作品《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》にも出演されていた方。絵画の見方、リズムの感じ方、振動について等、ぞくぞくするお話をたくさんしてくださいました。例によって、ご希望の方には冊子を郵送いたします。


木下知威×伊藤亜紗

2014年5月12日 横浜美術館内のカフェ小倉山にて

筆談でのやりとりをもとに構成

 

伊藤 木下さんは建築関係の研究をされているんですよね?

 

木下 はい、19世紀の建築が主なフィールドで、近世から明治の建築を追っています。京都盲唖院という、明治11年に日本ではじめて開校した盲唖学校の建築の研究を通じて、盲人や聾者・唖者をめぐる社会に関心をもっています。

 

伊藤 建築に興味を持ったのは、木下さんが生まれつき聴こえないことと関係がありますか?

 

木下 いいえ。高校一年の夏休みに、ヴァレリー『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法』を買って、レオナルドの建築についてふれたのが最初の芽生えだと思います。生まれてはじめて買った岩波文庫で、今も大切に持っています。

 

伊藤 私もヴァレリーを研究していますので、木下さんの建築への入り口にヴァレリーがいたとは驚きました。

 ところで、筆談というのは、いつもこういうふうに交互に書くものなのですか?一方が書き終わったら、相手にノートを渡して、相手が書き終わったらノートを受け取って今度は自分が書く、というふうに。声を使って話すときは、たぶん手話もそうなんじゃないかと思いますが、あまり交互には話しません。相手の発言に割って入ったり、相手の顔色を見て、伝え方や内容を変えたり、チューニングしながら話す感じです。

 

木下 そうですね。チェスをテーマにした映画『ボビー・フィッシャーを探して』の冒頭は、公園で交互にチェスの駒を動かしている人びとのシーンです。にわか雨がふってきて、手とチェスに雨がキラキラと反射している。筆談は、そのチェスや将棋のように交互に手を差し出しながらやりとりする行為なのだと思う。

 ゴールデン・ウイークに聾者たちと久しぶりに飲む機会がありましたが、手話となると、あちこちから手が飛んでくるので、さながら格闘技みたいですよ。ふだんは手話で話しこむようなことはほとんどなくなっていますが。

 

伊藤 筆談で話すのが初めてなので最初は不安でしたが、だんだん、そのチェスや将棋っぽさを楽しめるようになってきました。私は子供のころは特に「どもる」子だったので、話すことにあまり自信がなく、だからこそチューニングに気を使ってしまうタイプです。手話の場合、そういうチューニングはありますか?それとも、わりとハッキリ言う感じでしょうか?

 

木下 もちろん、相手や場の様子に合わせてコントロールすることはありますが、性格によるんじゃないかな。経験的には、ズバッと言う、まわりくどいことは言わない、結論を先に言う聾者をよくみてきました。わたしは聾学校育ちではないからなのか、チューニングしているところはあると思う。

 

伊藤 なるほど。

 先ほどの「手話が格闘技みたいだ」というお話はとても面白く、でも私は経験したことがない感覚なのでもう少し教えてください。たとえば4−5人の人たちで手話を使って話しているとき、もりあがってくると一体感のようなもの、リズムを共有するような感覚(ダンス?)はあるのですか?

 

木下 そうですね。誰かの話に皆さんが同意すると「あぁ、そうそう」「あるある」という手話が一斉に出て一体感がありますから、それはコーラスのようだなと思います。大久保の「ふさお」という串揚げのお店や、東大赤門近くの「Sign with me」というスープがメインのカフェに聾者が集まっているようなので、その様子をみることができるでしょう。

 

後ろからくる恐怖

伊藤 メールでお伝えしていた「恐怖」についてお伺いします。ホラー映画の怖さにとって音が重要な要素であるように、恐怖と聴覚は密接な関係があります。これは聴覚の性質に起因するものだと考えられます。たとえば、視覚と聴覚の違いを、こんなふうに整理してみます。

・  視覚=前方だけ=「私が見ている」

・  聴覚=全方位=「私が音に取り囲まれている」

つまり、視覚は体の前にあるものしか見ることができないのに対し、聴覚は背後を含む環境全体に対してはりめぐらされています。この守備範囲の広さが、かえって、「取り囲まれている」という受動的な態度を作っているように思えるのです。この受動性には、閉じることができないという物理的な耳の性質も関係しているのかもしれませんが。「まわりを取り囲まれている」という受動性は、後ろから急に何かがやってくるかもしれないという不意打ちや恐怖心と結びつきます。子供の頃は、怖いものや得体の知れないものは、背後から、まず音としてやってくる、という感じがありました。そのように恐怖心と聴覚が結びついているのだとすると、木下さんの場合はどんなふうに恐怖がやってくるのか、気になります。

 

木下 ウォルター・オングは視覚を外部にあって、表面をとらえるもので、聴覚はあらゆるところから身体のなかに音が集まってくると。それを「ハーモニー」と表現していますよね。わたしにはあらゆるところから集まってくる音がなく、自分の身体と環境が分離するように感じられるかもしれません。その場で起こっている雰囲気と融和するような実感に乏しく、空しさのなかにいるのかもしれない、という感覚です。

 わたしの怖いものはいろいろですが、後ろからの怖さはあって、それがわたしと他人でどう違うのかは分からない。背後の気配を感じるには、小さな物音や足音なり何かの「しるし」がありますが、わたしにとってそういう音は感じられなくて、でも、何となく何か怖い気持ちがあって、振り返ったら何もないや、というのは一、二回ではありません。たとえば、推理小説、ポオの『モルグ街の殺人』やドイルの『まだらの紐』では、音が犯罪に結びつくシーンがありますよね。そこはどきどきしながら読んだのを覚えていて、なんだか後ろが気になったりする。音の主が何者か見えないことの怖さはわたしにもあるのではないか。

 

伊藤 お話をうかがうと、背後から来る怖さについて、私とあまり違いがないように感じます。そもそも「背後の音」というものじたいが、文化的なものであって、推理小説やホラー映画を通して身につけたモチーフなのかもしれません。

では日常生活では、背後はどのように感じていますか?人に急にぶつかられるとか、危険な経験をされたことがあるのではないですか?

 

木下 大きな振動や雷といった大きな音でなければ、背後からは何も感じません。あるいは背後から空気のながれがあったとき。わたしは子供のとき、補聴器をつけていました。わたしの障害はとても重いので、何の音かは分からないけれどとにかく音は耳に入ってくる。それで、道を歩いていて後ろからバイクや車が通り過ぎるとき、補聴器をつけていれば、何か一定の拍子をもった音がきて「ああ、何か来るな」と振り返ったりする。するとニュッとそれがわたしに近づいてくるのがみえる。それはいつもひやっとする経験でした。文学や映画における恐怖の音そのものは知りませんが、後ろからすごいスピードでやってくるバイクや車の音を想像すれば、姿のみえない、何か得体のしれないものの音がもつ恐ろしさという意味ではリンクしていると思う。

 

伊藤 表現のなかの「音」と実生活の「音」が必ずしも別のものではないわけですね。でも「リンク」ということは全く同じものでもないんでしょうか?

 

木下 だって、その不気味な音の性質は分からないから…。わたしは音を聞いて、その音の正体を想像する力がほとんど欠けてしまっています。ただ、補聴器を使ったことがあるので、それを通じて存在していることを知っていて、認識したこともあって、そこからイメージするということなのかな。

 

伊藤 木下さんはご自身の感覚について、「声を剥がす——聾の想像力」(北村紗衣編『共感覚の地平—共感覚は共有できるか?』所収)という論考を書かれていますが、その中で、砲弾のシーンを描いた絵画に音を聴くという経験を、実際に経験した花火の音(振動?)と関連づけて論じていらっしゃいましたね。そういったことでしょうか?

 

木下 音が本当に出ているかを確かめることはできないので、出ているならこんな感じだろうなと考えるということです。三島由紀夫が、遠い花火が美しいのは、音の前に光がやってきて、音が出るときはもう光が終わっているからだと評していたとき、はじめて花火はそういうものなのかと知りました。花火をみた経験だけでなく、他人の身体に憑依しながら一人称として花火の音を感じているのですが、花火そのものを認識することはありません。

 

伊藤 今は補聴器を使っていないのですか?

 

木下 はい。きっかけは、壊れたから(笑)。

 

伊藤 (笑)。なくても生活に支障はないということ?

 

木下 聾者が補聴器を使うことについてはいろんな意見があります。音を聴きたいなんて、みっともない、あんなの聾者じゃない、とネガティブに言う方もいますし、補聴器を使うことで、自分が聾者であることを視覚的に示すことができるとポシティブに考える人もいます。わたしの場合は、子供の時から補聴器をつけていたこともあって、習慣のようなものでした。つけなくなって、自分の生活が変わりましたね。後ろからバイクや車が来るようなシーンに出会わないように歩く。つまり、道の左・右のどちら側を歩けば、車やバイクが正面から来るように見えるかを選んだり。そんなふうに、補聴器をはずすことによって生活を変えました。

 

振動について

伊藤 補聴器を使うことにネガティブな意見があるとは知りませんでした。ということは、今は音を聴くことはなくて、純粋に振動を感じるという知覚の仕方なのでしょうか?たとえば今手元にあるコーヒーカップをソーサーに置くとき、視覚以外に何か感じますか?

 

木下 ネガティブな意見は、手話ではなく、口だけでコミュニケーションをおこなうという口話教育や補聴器を使った聴能訓練にたいする批判や、人工内耳のように機械と身体をマッチングさせることのアレルギーからくるのではないでしょうか。補聴器を通じて聞く音は、色気がないというか、角張った感じがあって、気持ちが落ち着かなかった。それで、小さい頃は補聴器をつけていても大人になったら外して、「わたしは聾です」と宣言するような人たちを見てきました。

 いまのわたしが何かを知覚するときは、主に振動と視覚を使っていますね。コーヒーカップをこうやって置いてみると、ソーサーとカップがぶつかりあう、カチッという振動があります。音はしません。その手に伝わる振動が、音の代替みたいなものです。

 

伊藤 振動(感触?)が音の代替なのですね。

 木下さんとお話させていただくことになって、私も少し振動について意識しながら生活してみました。たとえば車に乗っているときに、道路のデコボコをお尻で感じたりする場合など、振動を感じる触覚は、視覚以上に広い範囲をカバーすることもあるな、と気づきました。

 

木下 そうですね、振動はいろんなシーンであります。最近のテレビゲームのコントローラーは振動するし、iPhoneのバイブレーションや、振動するタイプの目覚まし時計のように、振動そのものがシグナルになっているものを使います。でもそれ以外に、わたしが確かめるものとしての振動もあります。レンジの扉をしめたり、カギをかけたりするときの、ガチャという振動です。そこは受動的、能動的な振動として区別しています。

 

伊藤 シグナルのための振動と確認のための振動、確かにありますね。それ以外の振動はありますか?たとえば振動じたいに何らかの感情や記憶が伴ったりすることはありますか?

 

木下 あぁ、たとえば、肩をたたいて呼ばれるとき、その人の独特の強弱のあるたたき方、リズムを記憶しています。たたかれて、あ、○×さんかな?と予測できるレベルです。それに、美容院で美容師の手が頭にあたるときの感覚も覚えているものです。逆に、ボールペンで肩を叩かれたときやいきなり殴られるような叩き方といった、不快な感触とリズムも忘れることができない。振動と触覚をどのように定義するかにもよるのでしょうけれど、異質なものどうしが触れ合ったときに、かすかな振動が生じうると思っています。

 

伊藤 音の場合は、

・  シグナル、記号的な音(すぐに音源を連想するもの)ex.「バンッ」と聞いてドアを連想する

・  感情と結びつきやすい純粋な音=つまり音楽

という区別があるので、振動にも音楽的なものがあるのか気になりました。音楽(あるいはその要素であるリズムやスイング)を感じることはありますか?

 

木下 それはまさに、伊藤さんが『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』でも触れられていた、クラーゲスが考えていたことではないかと思います。わたしの母はピアノの先生で、わたしの部屋のとなりがピアノのレッスン室になっていて、床を通してレッスンの音がします。メロディーが床に流れてくるわけです。何の曲かは分かりませんが、音調はあって、それが止んだり動くことで、となりの部屋の気配は分かる。それが一番古い音楽の記憶かな。

 

伊藤 足元から音楽がやってくるのは全身で感じられそうですね。

 

木下 そうですね、下からじわっとやってくる。松岡正剛『フラジャイル』では、聾のおばさんがでてきて、スピーカーの前に手をかざすところがあります。そこは松岡さんの強烈な記憶に残っているようでした。それと同じようにスピーカーに手をあててジャズを聴いたりしましたが、いまはもうやらなくなってしまいました。友達に誘われてカラオケにいったりもしましたが、いまはYouTubeでPVをみてお風呂でワンフレーズ、ゆっくりと歌うぐらいです。PVというと、ロバート・パーマーの“Addicted To Love”は定期的にみています。Addictとあるように、パーマーの恍惚とした表情や身振りがとてもいいのに、バックの女性たちの表情がほとんど変わらないし、延々とエア・演奏をしている。機械的だといいたいのではないんです。機械は、車やアシモのように予測がつかないものです。何かの瞬間、筋肉の動きのようなテクスチャー、予感が一切ない。

 演奏をするふりといえば、たとえばエア・ギターがありますが、音が出ているかのように感じるところがおもしろいんじゃないのかな、無を演奏している。わたしはなにかの音、声を出すふりをするひとが無に感じられるところに惹かれるのかもしれません。パーマーのPVは、ほかにも女性たちが一気に踊るのもあったり、リズムのシルエットが強烈ですね。

 

伊藤 パーマーの“Addicted To Love”のPV、確かに面白いですね。音を消して見ると、木下さんの言うように「リズムのシルエット」が見える感じがあります。画面全体に人が詰め込まれている感じも面白いですね。うしろの女性たちは、無表情のままうねうねした動きを反復していて、Kraftwerkのようなロボット感とはまたちがう、非人間性がありますね。

 

木下 ああ、“The Robots”ですね。そのPVをみたときに、無表情と演奏する手の動きがマッチングしていなくて、人なのか機械なのか分からなかった。

 

ヴィジュアルなものと言葉の関係

伊藤 聴者の場合、視覚と聴覚を同時に使って「見ながら聴く」あるいは「聴きながら見る」ということがあります。たとえば、後者の例ですが、絵をみながらその解釈について友人と話す、というような場合です。このとき、耳から入ってくる友人の言葉によって、絵の見え方ががらっと変わる、ということがしばしば起きます。他人の解釈によって、同じ絵が違ったふうに見えてくるのです。つまりこの場合は、言葉がヴィジュアルに対してメタ的な位置に立ち、ヴィジュアルを操作する、というような関係に立ちます。木下さんの場合、言葉は見るもの(手話、文字)ですよね。木下さんにとって、ヴィジュアルなものと言葉はどのような関係にあるのでしょうか。「聴きながら見る」をするかしないかで、ヴィジュアルなものと言葉の関係が変わってくるのかどうか、気になります。

 

木下 わたしは聴きながら見ることはできません。絵画と言語を同時に認識することはできないのです。わたしの世界は、紙芝居のようなもので、2つのことがいえるでしょう。まず、絵画と言語が表と裏になっていて同時には見えません。そして、絵画と言語は紙芝居と一体になることで、お互いに表現しあえるということです。世界はそういうものだと信じていました。「信じていました」と過去形なのは、世界そのものが紙芝居でできているとは考えていないからです。

 わたしが通った小学校は、聞こえない子供たちだけの特別教室があって、紙芝居がたくさんありました。それはボキャブラリーを増やすための教材としてストックされていたけれど、先生は使わなかったので、昼休みに見に行っていました。まず、絵を見て、何をしているのだろうと考え、引っくり返して文を読んでいました。読み手はいませんから、自分で読みあげ、紙をめくっていくことで物語を理解していきました。この意味で、わたしにとって絵画と言語は同時にみることはできず、かつ、絵と文がぴたっと対応していることから、絵画と言語はお互いを完全に表現し合えるものであると信じていたのです。

 でも、レッシングはそう考えていません。『ラオコオン』で彼は、ラオコオンの彫刻と言語(詩)における表現を比較することで限界を示し、それぞれの芸術の特質を指摘しますよね。レッシングの視点には「欠け」の意識があって、わたしと違う見方をしています。わたしたちが生きる世界では、絵画と言語は別のものであって、お互いを表現しあえない。

 それでは、絵本や漫画はどうなのかと言われるかもしれません。それは紙芝居と違って、ひとつの面に絵と言語がありますから。でも、わたしにとってひとつの画面で絵と言語(台詞や効果音)を分解し、反復しながら、全体を見ているので、同時に認識することはやはりできないのです。

 

伊藤 なるほど。では木下さんのように絵画と言語がまざらない、並列的な関係にあるのだとすると、絵画の解釈は、どのような意味を持ってくるのでしょうか。たとえば、マレーヴィチのような黒い正方形だけの絵があるとして、これを「死」として見たり、「窓」として見たり、さまざまな解釈ができると思います。

 

木下 じっと見ているときに変化していくこともありますが、言語との関係でいうと、絵を見たあと、カタログや人の意見を知ることで見方が変わります。以前、ある人とMiho museumでこちらに向かってくる龍の掛軸を見ていたときに、居合わせた他の方が「津波のようだ」と呟いたそうです。それをある人が筆談でそっと教えてくれました。それをみて、掛軸に目を移したとき、龍が本当にそのように見えたのです。言語を見ながら絵画の変化を感じたのではなく、一旦イメージとして記憶しつつ、筆談で得られたことを反芻しながら絵にふたたび立ち向かうことによって変化を感じるということになります。

 

伊藤 絵と言葉が時間的に重なることはないけれど、絵と言葉が関係して見方が変わるということはあるということですね。ヴィジュアルと言葉が連動する場面は、絵画以外にもあります。たとえば演技がそうです。話し方や話す内容を変えることで、その人物(役者)の見え方が変わるというものです。(もちろん、衣装などのヴィジュアルの要素もありますが。)

 

木下 わたしが人の話すところを見るとき、ヴィジュアルと言葉のどっちで見ているのか、あるいは両方を連動させて見ているのか、そこを考えなくてはいけません。ヴィジュアルと言葉は、両方とも同じ肉体から表出されています。

 何かを言わんとしているところに注意しなければいけない。そのスタンバイに入った時点で、すでにその見るべきものは言語になっていると思う…(いま、となりのテーブルでしゃべっている二人のおばさまの様子を見て考えています。)…自分の見方を観察してみると、表情、身振り、言語をトータルに把握して、その人の内面をつかもうとしていました。最終的に言語として理解するまでのプロセスがあって、そこにいたるまで、見えるものを統合していくということでしょうか。

 

伊藤 私の設問が良くなかったですね。人を見るときには、表情などを含めたヴィジュアルと言語をトータルに把握しているのであって、分けることはできませんね。

 

木下 絵画と言語は同時に認識できないのに、人が話す、演技をしているときは、同時に認識しようとしている。何か矛盾するような感じだと思いますが、でも、それは書かれた言葉と声に対するわたしの姿勢の違いだと思う。オリヴィア・デ・ハヴィランドが主演した映画“Lady in a cage”で、彼女が泥棒と遭遇してヘルプ!ヘルプ!と叫ぶシーンには口、顔、身体の3つのショットが組み合わせられています。わたしにとって、人が話すところをみることはあのショットのように、口、顔、身体の動きのなかで声そのものをみる行為です。

 

伊藤 ・ヴィジュアル 動く    言語 発信者の身体と切り離された言語(文字)

         動かない       発信者の身体と結びついた言語(表情、身振り、手話)

の組み合わさり方しだいで、受け取る側の態度も変わっていそうです。

 

認識/比喩/錯覚 文化的な構成物としての耳

木下 わたしには「存在するもの」と「認識できること」の区別があります。

①    存在するのだけれど、わたしには認識できないもの

②    他の人にとっては存在しないけれど、わたしには認識できるもの

 

伊藤 ①はつまり音のことですよね。

 

木下 そうです。

 

伊藤 木下さんにとって声を出すとは、「存在するもの(振動)を認識できないもの(音)」にする行為なわけですね。それが「声を剥がす」という感覚になっている。

 

木下 でも②はあるのかな?

 

伊藤 論考で書かれていましたよね。砲撃を描いた絵を見たときに木下さんが感じるという「耳の奥の振動」や、何かをしゃべっても「声が身体から剥がれないという感覚」があること。それから、だからこそ意識的に「声を剥がそうとする意識」が生まれること。こういったことは②に該当するのでは?音が聴けてしまうからこそ、聴者には分からないものです。

 

木下 それは他人から見ると錯覚よね。

 

伊藤 木下さんの文章を読んでいると、どこまでが実体験でどこからが比喩表現なのか、分からないときがありました。比喩表現というのは、言語だけど多分にその人の身体感覚に支えられたものなんだろうと思いますが。

 

木下 あの文章はわたしの実体験に基づいていて、「わたしにはこう感じられます」と淡々と、ストレートに表現しています。

 

伊藤 木下さんの感覚をストレートに言語化したときに、それを私が比喩にしか感じられないのだとすると、それは②ですね。

 

木下 ですよね。他人にとっては存在しないわけだから…。

 

伊藤 物理的な身体の器官としての「生理的な耳」とは別に、「文化的な構成物としての耳」があるように思います。木下さんは、ふだんから本を読まれる機会が多いこともあって、小説などの文章を通じて、「聴く」の経験を文字上でかなりしていらっしゃいますよね。実際に音を聴くこととは別に、ある音がもたらす効果というか、あるシチュエーションでその音を聴いたときに私達がとる反応パターン、それを想像するというレベルがあります。反応のパターンというのは、たとえば冒頭でお話したような、背後で物音がしたら恐怖を感じてびくっとする、というようなものです。この反応パターンは、「聴く」のさまざまな表象に接することで私達が学んでいくものであって、生理的な耳とは別の、文化的に構成されていく耳と言うことができるのではないでしょうか。つまり、文化が耳を作っていく、というようなことがあるのではないか。クラシック通などの、いわゆる「耳が肥えている」というのにも近いのかもしれません。木下さんのお話をうかがっていると、木下さんは「生理的な耳」は機能していないけれども、「文化的な構成物としての耳」は持っていらっしゃるのではないか、と思えてきます。もっとも、小さいときに補聴器で音を聴いていた経験もそこに加わっているとは思いますが。聴者の場合、この二つの耳は一体になっていて区別していません。木下さんのお話をうかがって、耳の種類に気づかされたような感じがあります。

 

木下 そうですね、文化的な構成物としての耳。はたして、わたしの顔の両側についているのは、耳なのか。それを思うのは、三木富雄という彫刻家です。東京国立近代美術館でよく展示されていますが、耳にとりつかれたような彫刻家で、耳が頭部からちぎれたような作品があります。それをみると鼓膜に続く穴がなかった。これは耳なのか、耳にみえるだけなのではないかと。わたしの耳に穴はあるけれど、耳としての機能はもっていない。あるとすれば、眼鏡をかけるときぐらいです。それで、ある人 — 著名な研究者になるだろう、若く、すぐれた人で耳の話題になったときに「ぼくの耳は作り物です」とみせてくれたことがあります。かれの髪は耳が隠れる長さになっていて、それを少しかきあげてくれた。見たら、ほんとうに穴がなくてギョッとしたことをよく覚えています。かれは耳の形成手術を受けているのですよね、テクスチャーは肌のようで全然わからなかった。聴く機能は片方の耳しかないだろう、まわりの人は誰も知らないのではないか…。唖然としつつ、三木のことを思い出して、わたしとかれの耳というのは、ただ、社会にまぎれるための耳なんじゃないかと考えたことがありました。

 

百瀬文さんの作品について

木下 百瀬文さんの《聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと》という、わたしを撮った作品があります。去年公開されたもので、わたしにはまったく認識できないという作品です。

 

伊藤 そうですね。木下さんと百瀬さんが対話をしているのですが、手話や筆談は使っていなくて、木下さんは百瀬さんの唇の動きを見ながら会話をしている、という映像作品ですね。ネタバレになるので詳しくは言えませんが、作品のある重要なポイントが、作品の内部にいる木下さんには知覚できない構造になっている。あの作品は、まさに①の部分を扱った作品ですよね。

 ところで、百瀬さんの作品では、木下さんの発言、百瀬さんの発言、両方ともに字幕がついていましたよね。さきほどのヴィジュアルと言語の話ともつながるトピックのような気がします。

 

木下 ええ。合わせ鏡のようにもう一人の自分をみるわけですが、字幕を中心にみてしまいます。自分の口を読みとることもできますけど、マシンガンのようにあふれてくる字幕がわたしの注意を強くひいてしまう。パチンコ店や広告のイルミネーションのように、光の動きが大きく感じられるからです。百瀬さんの字幕は「表示」しているというよりは、「点滅」している。

 テレビや映画でみる字幕は読みやすさや表示時間を考慮して、省略することがあるのですが、百瀬さんの編集は、話す口とのタイミングを慎重にとっていて、なおかつ省略をほとんどしていないために字幕が出ている時間が短いように感じられます。そういう字幕に集中していると、ヴィジュアルとしてのわたしたちの姿は背景になっていく。

 

伊藤 確かにあの作品にとって字幕は重要な要素ですね。「読む」と「聴く」は両方とも言葉をうけとる作業だけど、前者は能動的、後者は受動的で、だいぶ態度が違います。

 

木下 そうですね。近代以来、聾教育に関わった人びとによって蓄積されてきた口話教育の盲点を突いています。それで、字幕は、わたしの不明瞭な声を理解するために必要なもので、鑑賞者に「聴く」という能動的な態度をうながしていたのではないかと思います。

 じつは、収録のあとでふっと思うことがあって、字幕は本当に必要なのかとメールしたら、作品の構造上、不可欠なものですと返信がありました。アーティストが作品に取り組んでいるときにあれこれ言うべきではありませんが、字幕のあり方はわたしにとってたいへん気になるところで、言ってしまいました。百瀬さんにはすまないことをしたと思っています。

 

伊藤 私の場合はむしろ、字幕があるからこそ変化を強く感じました。お二人の会話は、少しずつエスカレートしていく感じでした。

 

木下 エスカレートしていく感じ、あれはわからない。いま見てもわからない。でも、収録された2012年のわたしが置かれていた状況や百瀬さんの言動を思い起こせば、カタストロフィに満ちていた。だからこそ、百瀬さんの依頼を引き受けられたわけだけれども…。

 初めてみたときに作品を認識することはできなかったけれど、そこがとても大切なことでした。わたしたち全体を映すショットは初期ルネサンス絵画のように、個々の部分が明快にみえるけれども、わたしだけのショットなどは空気遠近法、背後が曖昧で距離が感じられます。字幕はわたしたちの口を消失点にした聴覚的な遠近法として点滅していて、狂いはありません。それらのバランスのなかに、静かに壊れていくような美しさがあった。最後のスタッフロールで、とてもホッとしてしまって、しばらく椅子から立ち上がれなかった。

 でも、あとになって考えると、歴史のなかで聾者にたいして人びとが求めてきたコミュニケーションの理想がこの形なのかと思ってしまう。そういう意味では、自己否定の感情を引き起こさせられますね。

 

伊藤 木下さんが感じたものは、自分のイメージに字幕がついているという経験からくる違和感だったのかもしれませんね。自分の伝えようとするものが、自分のイメージから、切り離されていく違和感。そこまでは聴者の場合でも感じそうですが、木下さんの場合は、視覚的なものプレゼンスが弱まるということは、大切なコミュニケーションの媒体が離れていく感覚でもあり、そのことがある種の強い動揺をもたらしたのかな、と想像します。

 さて、筆談を始めてからあっと言う間に3時間半が経ってしまいました。私のつたない表現を汲んで対話におつきあいくださり、ありがたかったです。木下さん、今日は本当にどうもありがとうございました。

 

木下 こちらこそ、どうもありがとうございました。楽しかったです。

 

 

木下知威(きのした・ともたけ)

1977年、福岡県北九州市生まれ。男性。横浜国立大学大学院工学府 社会空間システム学建築コース修了。博士(工学)。現在は主に、京都盲唖院と楽善会訓盲院(東京盲唖学校)を中心に、近代日本の盲人、聾者、唖者をめぐる社会・空間に関する研究を行っている。