ソウルの講演で偶然お会いしたユニさん。「社会モデル」から「信用できない語り手」へという、私が障害について考えていたパラダイムシフトを、在日コリアンのジェネレーションの違いという、思ってもみなかったフィールドに重ねて受け止めてくれました。チマチョゴリを着て電車にのるときの緊張感。これまで自分にはあまり関係がないと思っていた差別やアイデンティティといったテーマを、体の問題として捉え直す機会になりました。
ユニ・ホン・シャープさんプロフィール
アーティスト。東京都生まれ。現在はフランスと日本を拠点に活動。アーカイブや個人的な記憶から出発し、構築されたアイデンティティの不安定さと多重性、記憶の持続をめぐり、新しい語り方を探りながら、身体/言語/声/振付を通じてその具現化を試みる。最近の作品に、パフォーマンス『ENCORE I -Mer』(2022)、映像インスタレーション『RÉPÈTE』(2020)など。2023年度アジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)、アーツコミッション・ヨコハマ(ACY)フェロー。→web
◎チョゴリを着て通学する緊張感
ユニ はじめまして。あささんでいいですか?
伊藤 はい、大丈夫です、よろしくお願いします。
ユニ 一応自己紹介をすると、私はユニという名前で、元在日コリアンです。
伊藤 「元」なんですね。
ユニ フランス国籍を2017年にとりました。
伊藤 じゃあ、フランス国籍をとってからけっこう長いですね。
ユニ そうですね。フランスへ行ったのは2005年からです。生まれたのは新宿の団地で、小中学校は朝鮮総連系の朝鮮学校に、高校と大学は日本の学校に行きました。その後、フランスへ行って、そこでやっと現代アートの勉強をしました。それまで絵を描いたりはしていましたけど。いま15歳と13歳の子供がいて、子供が生まれたあたりから、現代アートを本格的にやろうと思ったんです。2015年に、セルジーという場所にある、領域横断的な教育をやっているボザールを卒業しました。
伊藤 フランスに行ったのは、学校に行くことが目的だったんですか?それともフランスに行くことが目的だったんですか?
ユニ 両方あったと思います。昔からずっと、海外に出たいなとは思っていました。関係あるか分からないですけど、自分の過去の作品のなかに何度か出てくるテーマで、私が中学校1年生のとき起こった「チマチョゴリ切り裂き事件」というのがあって。
伊藤 ありましたね。覚えています。
ユニ あ、覚えていますか?中学校から制服でチョゴリを着て、入学した年にその事件が起きて、けっこう衝撃でした。私の学校の子じゃないんですけど、違う朝鮮学校の女子生徒のチョゴリが切られて、「スカートの中の肉もちょっと切れた」みたいに伝え聞いて。在日の学校の中で言われていることと、外で言われていることのギャップに、混乱を覚えました。
伊藤 それはどんなギャップだったんですか?
ユニ そのころ北朝鮮のミサイルの発射もあったせいか、朝鮮学校へ嫌がらせの電話がかかってきたりとか、チョゴリが切られる事件があって、学校の中が警戒態勢に入っていた記憶があります。そのあと何年かして、制服がふつうのブレザーに変わりました。
伊藤 男子はふつうのブレザーですよね。
ユニ そうですね。女子だけなぜか民族衣装でした。事件があってからも制服が変わるまでチョゴリを着て登校していて、たぶんめちゃくちゃ緊張していました。
伊藤 通学は電車ですか?
ユニ そうです。そのときちょうど西東京の方に引っ越して、学校が遠かったんです。電車に乗る時間が長くて、痴漢もいるし、でも切られるよりは触られるほうが被害は大きくないかな、とかちょっと捻れたことを考えていました。触って満足したら切りはしないだろうみたいな(笑)。とにかく緊張している感じです。父母たちにも学校の人たちにも緊張感があった覚えがあります。でも、日本の社会ではあまり話題になっていなかったのかな。あと、一部の人のあいだでは自作自演と言われているようだったし、北朝鮮とつながっているから攻撃されても仕方ない、みたいな意見もあって。ギャップっていう言葉があっているのか分からないですが、「住んでいる世界がちがうんだな」みたいな感じでした。
伊藤 ギャップがある話や、学校に行くときに緊張しているという話は、友達とする機会はありましたか?
ユニ そのころの記憶があまりなくて…。引越しのあと転校して、通学中に頭が真っ白になって、学校へしばらく行けなくなっちゃった、みたいなことがあったんですけど、何をしていたのか覚えていなかったり。単に学校に馴染めなかっただけかもしれないですが。でもそんなことがあったので、家族の中では多分話していたと思うんですよね。
高校に入ってから日本の友人ができても、よっぽど仲がよくないとわざわざ切り裂き事件の話とかしないじゃないですか(笑)。北朝鮮がまたミサイル打ったよ、とかも言いづらいし。ほんとに発射しないでほしいんですが。友達とはもうちょっと違う話をしていました。
伊藤 高校時代も、お名前はユニさんで生活していたんですか?
ユニ 日本名もあったんですけど、高校には朝鮮名で行っていました。アルバイトとかするときだけ「唐沢さん」になっていました。
伊藤 日本名は生まれたときから持っているものなんですか?
ユニ そうです。だから、自分がいろんなところにいるという感じですね。久しぶりに会う友達だと、「あれ、この人バイトの友達だったかな、高校の友達だったかな」と迷うときがあって(笑)。でも久しぶりに会える友達は仲良い友達だから、自分の名前を間違えたとしても、「実は私…」って話せるので、まあいいかなと思っています。
伊藤 高校と大学は日本人の友達が多くできる環境だったんですね。
ユニ そうですね。だから在日の友達とはちょっと疎遠になりました。同窓会もあまり行かないタイプでしたし。でも、2人くらいは今も関係が続いています。
伊藤 高校大学のあいだは、中学生のときにチョゴリを着て通学していた緊張感は、どうなっていたんですか?
ユニ 高校大学は見た目で判断されることがなくなったので、電車での緊張感は薄まったと思います。痴漢にも「やめてください」と言えるようになりました。でも朝鮮の名前を言うときには緊張感がもどってきて、どきどきする感じがありました。相手のバックグラウンドが分からない状態で話すときは、体がキュッって一瞬緊張する感じでしたね。
伊藤 実際に攻撃されたり、名前を言った瞬間に相手の表情に独特のニュアンスを感じたりとか、そういうこともありましたか?
ユニ あります。たぶん人の顔色を読むのがめっちゃ上手くなっていると思います。それもあまりよくないと思うんですけど、つい「怖い」という気持ちが先にたっちゃうので。
でも在日でもいろんな人がいて、この前20歳くらい年上の在日2世の人と話したのですが、彼女の時代は今よりコミュニティの規模も大きくて日韓関係もそんなに悪くなかったので、肩で風を切って歩いていたらしいです。なので、私は「鬱屈世代」と言われました(笑)。京都の朝鮮学校へのヘイトスピーチがあったときの世代の人たちにも、似たような鬱屈を感じると言っていましたね。
伊藤 なるほど…
ユニ 在日もいろいろあるんですけど、私の場合は、怖さというか、身構えて、人の顔色を見て、大丈夫そうだったら進んでいく、みたいなのをチョゴリを着ていたときからずっとやっているんですよね。チョゴリを着て電車の中に入った瞬間の、まわりの人の表情とか反応で、電車のどこに立つのか、端っこにいるのか、座るのか考えていました。すごく混んでいるのに座ると、「朝鮮人なのに座っている」とか言われたら嫌だなとか思ってましたね。私の世代にも全然気にしない人もいると思うんですけど。
◎在日性って何だろう
伊藤 チョゴリを着ていると、まわりからは朝鮮人として見られると思うんですけど、自分的にはどうだったんですか?「朝鮮人だ」というアイデンティティはどういう感じだったんですか?
ユニ アイデンティティというのを最後まで持てなかったなと思います。他の在日の人たちみたいに、コミュニティの中で自分の安全な居場所を見つけることが、私はできなかったですね。在日コミュニティの中でも、ちゃんと居れてない、みたいなのがありました。チョゴリを着ていても…どうだったのかな、自分の在日性にすごく確信がある、みたいな感じはなかったですね。在日性って何だろうな、というのは思っていました。常に日本の社会と接触があって、その度に揺り動かされるんですよね。「在日の世界ではこう言っているけど、日本ではこういう感じになっていて、本当はどうなんだろう」って。それで高校ではコミュニティの外に出ていろいろ知らなければと思って、外に出ました。
伊藤 高校に行ってからはしっくりきましたか?
ユニ 高校は都立国際高校というところで、いろんな国籍の子がいたので、すごく楽でしたね。日本人が大多数のなかの在日コリアンじゃなくて、インドネシアとかブラジルとかいろいろいる中のひとつとしての在日でいられるので、気が楽でした。国際問題に関心が高い子も多かったので、そこまで身構えることはなかったです。
伊藤 大学はどうでしたか?
ユニ 大学では身構えていましたね。自分の在日性っていうのをちょっと意識して、日本と朝鮮半島をつなげるような仕事がしたいと思っていました。そういえば、国連に入りたいと思っていたんです。今思い出しましたが(笑)。だから商学部にいたのかもしれないです。でも国連も組織だからやりたいことができなそうだなと思って、それでアートの道に行ったんです。
◎フランスではただのアジア人
伊藤 韓国籍に変えるときは事務的に変えた感じですか?
ユニ 二十歳のときに、もう日本を出たいなと思っていました。不安定さに耐えきれない、つぶれちゃいそう、と感じていて。日本、朝鮮、韓国の亀裂…亀裂って言っていいのか分からないけど、そこに落ちて身動きがとれない感じでした。それで海外へ行こうとして、でも朝鮮籍だと旅行が面倒くさいので、韓国籍に変えました。変えるときは1人ではできなくて、家族で戸籍ごと変えるんですよね。それで、家族でがらりと韓国籍になりました。話していて矛盾しているなと思ったんですけど、国籍って、単に「強いパスポートをとっていく」っていう事務的な面もありつつ、逆に海外へ行ったひとつのきっかけは、ふたつの国に押しつぶされそうになっていたということがある。軽さと重さみたいなものが矛盾していましたね。
ただ、そのあとフランスへ行って、めっちゃ楽になったんですよ。ただのアジア人なんですよ。フランス人にとって在日コリアンなんて東方の一民族じゃないですか(笑)。だれも在日のことなんて知らないので、「みんなに紛れられるって楽」って思いましたね。ヨーロッパでもアジア人差別とかはありますけど、日本にいたときに比べて断然楽。道で「ニーハオ」とか言われたら、「この人、私のこと中国人に見えるんだな」って。いやがる人もいますけど、私はわりと「ニーハオ」って答えたりしてました(笑)。
伊藤 なるほど。「アジア人」っていうざっくりしたカテゴリーに入れたという楽さなんですね。
ユニ そうですね。常にジャッジされて、一部の人にとっては差別の対象になり得るという怖さ…いろんな差別の歴史を教わってきたので、怖さが身についちゃったのかもしれません。もちろん日本人みんなが差別する人たちではないんですけど、「自分はそこにいるだけで差別されてしまうかもしれない存在なんだ」と条件反射で思ってしまうときがある。フランスではそれがフリーになった感じですね。しかもアジア人がいっぱいいて、中国人とか強いじゃないですか。だからアジア人差別とかあっても、これなら仲間がたくさんいるし大丈夫かなと思いました。
伊藤 電車乗る時にどこに立とう?みたいなことからも解放されましたか?
ユニ はい、楽になりましたね。あと、フランス人と話すのが楽でした。フランスで日本人と話す時は、日本で起こっていたような感覚が引き続きあって、韓国人の場合は、またちょっと違う問題がありました。韓国籍があるのに韓国語がしゃべれないし、韓国で生まれたわけでもないから、本物じゃないなという感じで、一歩引いてしまう。結局フランス語で話していました。でも実際話すといい人たちが多かったので、大丈夫だな、とだんだんほどけて、フランスで体がゆるんでいった感じです。フランスで、「私大丈夫かも」ってなりました。
フランスへ来て3年くらい経ったときに妊娠して、妊娠中に強制送還になりかかりました。学生ビザの更新をするために、大きいお腹で窓口に行ったら、「あなたフランスに家族はいるの?」って聞かれて。結婚する予定はあったけどまだしてないタイミングだったので「いません」と言ったせいか、怪しまれたみたいです。しばらくして強制退去命令の手紙が来ました。「一ヶ月後にこの国を出ていけ。もし1ヶ月が過ぎたら、国籍のある国か法的に住めるその他の国へ強制送還、もしくは投獄」と書いてあって、そのときに「国籍のある国?」ってなって。「国籍のある国って、もしや韓国?」って。
そのときはもうお腹も大きかったし、出産する病院もフランスで決めていたので、どこにしろ帰るのは無理だなと思って、国と裁判をしました。そしたら裁判に勝ちました。そのあと国から控訴の通知が来たんですけど、そのときにはもう出産をしていて、フランス人のパートナーとの子供は生まれたときからフランス人なんですよ。だから私はフランス人の親ということで在留資格はできる。弁護士さんから「あなたはもう滞在許可証があるから、国のそういうのは無視して幸せに生きなさい」と言われたので、通知はそのまま放っておいています。今ではもうフランス人になっちゃったし大丈夫だと思います。またこういうことがあったら面倒だな、もう手続きとかめんどくさい、というわりとドライな理由で国籍を変えました。
伊藤 それがいつですか?
ユニ 申請が2014年で、正式にフランス人になったのが2017年です。出産後に滞在許可証はとったけど、いちいち更新に行かなくちゃいけないし、韓国とフランスが戦争になったりしたら私は韓国に住んだことがないにもかかわらずフランスにいられないことになるかもしれない。だからこれはフランス人になろうと思ったんです。ただそのとき、日本人になろうとは思いませんでした。何かもやもやがあったんでしょうね。それで何にも関係ないフランス人になりました。ちなみにこの経験から、2014年にパフォーマンスを作っています。
私の気を楽にしてくれたフランス人になって、アイデンティティの問題なんて片付けた、くらいに思っていたんです。キュッてなることもなくなったし、韓国人の友達とも日本人の友達ともフランス語でしゃべれば、在日っていうことなんて別に気にしなくてもよくなったんですよね。
◎体は片付いてなかった
ユニ ただ、それがこの前(2023年10月)初めて韓国に長く住んで、案外片付いてなかったということに気づきました。というのも、まず2017年ころに、日本でヘイトスピーチがあるというニュースを見て「日本まだこんな感じなんだ」って絶望してしまって。昔キュッとなって何も言えなかった感じが戻ってきたんです。それで、私もそろそろ40歳だし、死ぬ前に言いたいことを言っておこうと、自分のアートプロジェクトで在日コリアンの問題を扱っていこうと思い始めました。2020年くらいから、今やっているプロジェクトの第一部のクリエーションを始めて、それが2022年に終わりました。ソウルへは第二部をつくるために行って、「植民地主義の暴力とそのトラウマからの回復」っていうわりとシビアなテーマでリサーチを始めていたんです。
私、朝鮮学校で習った朝鮮語をほとんど忘れてしまっていて。ソウル滞在中にちょっとずつ思い出してきたんですけど、読めるけど意味は分からないという状態でした。いろいろな文化施設、例えば戦争と女性の人権博物館や西大門刑務所歴史館、日本の植民地時代のことがメインで展示されている植民地歴史博物館などへ行きました。ソウルで体調が悪くなったきっかけのひとつだと思うんですけど、植民地歴史博物館の受付で、「どこから来ましたか?」って聞かれたんですよ。そのときに頭が真っ白になってしまって、昔いた日本と朝鮮の亀裂みたいなところにスポンと落ちて身動きが取れなくなって、受付で固まっちゃったんです。受付の人はたぶんパンフレットを渡したかっただけで、どの言語かを確かめたかったんだと思います。私も、渡したいんだろうな、私がしゃべる言語を知りたいんだろうな、ということは分かったんです。でも言語って特にアジアだと、生まれた国に結びついているじゃないですか。日本人だと日本語をしゃべる、韓国人だと韓国語をしゃべるって。植民地歴史博物館という場所で、私は日本語をしゃべります、日本人です、っていうことを言う重さがまずあり、朝鮮語は読めるけど意味がよく分からない、昔韓国人だったけどそれはまた別、それでフランスから来ましたっていうのも、在日コリアンという過去があって、そのリサーチで植民地歴史博物館に来ているのでできない、日本語をしゃべりますって言って日本人と思われるのもいやだったんです。それで固まっていたら、受付の人は「この人、いま私が言った韓国語分からないんだな」って思ったらしくて、英語のパンフレットを渡してくれました。でも英語をもらって、そのあとに落ち込んじゃったんですよ。それで、そのあとに、いま勉強中なので韓国語もくださいって言って、そのあと日本語もくださいって言って、3つもらいました(笑)。
なんでこんなこだわり行動しているのかなって。そのあと涙腺がばーっとなってしまって、関東大震災での朝鮮人虐殺に関する展示だったんですけど、泣きながら展示室をまわりました。それがたぶんひとつのきっかけになってなんかしゃべれない、という状態になっちゃいました。スーパーに行っても、言葉があまりうまく出てこない。自分でもよく分からないんですけど、英語もなんかしゃべれない。日本語も話しかけられても返せないし、韓国語も、日常会話くらいだったらできるけど、ちょっと発音が変かも、って引きこもりみたいになっていたんです。
伊藤 何が起こっていたんですかね?人からどう見られるかっていう外側の問題なのか、もっと自分の中のある種のフラッシュバック、フランスで解放されたはずのものが急に時間が巻き戻ったことの副作用みたいなことなのか…
ユニ アイデンティティの問題は、フランスにいるときに頭では片付けたと思っていたけど、ソウルで体がまたキュッてなって。体は片付いてなかったって思いました。国籍なんてドライなものだって思っていたんですけど、なんか残っていたんですよね。何がどう残っていたのか分からないですけど。「どこから来ましたか?」っていう言葉やそのほかのきっかけで、トラウマまでは行かないかもしれないけれど、何かあるのかなって思いましたね。
しゃべれない、言葉がでないという症状に加えて、ずっと食堂に行けなかったんです。とりあえず入れば出されたものはたいてい美味しいから大丈夫だよと教えてくれた人もいて、私も行きたいなと思っていたんですけど、全然行けなくて。食堂のおばちゃんが押しが強いので怖いのかなと思っていたんですが、チムジルバンとかカフェだったらふつうに行けるんですよ。それでハッと思ったのが、料理なんですよね、韓国料理。ソウルのアパートでも韓国料理を作っていなかったし、なんか取り入れる気がしなかった。明確に分かっていたわけじゃなくて、だからトラウマ的なものとはちょっと違うんだと思うんですが、たぶん避けていたんですよね、韓国的なものを。それがなぜなのかっていうのは分からないけど、守ろうとしていたんですかね。
伊藤 防衛体制に入っていたんですかね。実は私もユニさんとソウルでお会いした翌日に、泊まっていたホテルの前の道路を封鎖して、大規模な集会が行われていたんです。その集会の一画に、かつて日本軍が朝鮮の人たちにどんなことをやったのか、ということを写真つきで展示する簡易的なコーナーがあったんです。人の首がたくさん吊るしてあるようなかなりショッキングな写真が20枚くらい、道端に並べてありました。そこは英語でもキャプションが書かれていたので、そこは私にも読めるし、他の外国人も読める状態でした。私は日本にいるときはすごく楽をしていて緊張することはないんですけれど、その展示のあたりにいたときには、自分が日本人だということがバレたらどうしよう、みたいな怖さがありました。見た目ではたぶんカモフラージュできてるけど、もし日本人だっていうことが分かったら、この集会をやっている人たちは何をしてくるんだろうって。アメリカにいるときにアジア人に対するヘイトを受けたこともあるけれど、それとはまた違う恐怖をはっきり感じたんです。で、それは確かに体の問題だなって思ったんです。自分の体が自分のために使えなくなる感じっていうんですかね。楽な気持ちのときは、この体は自分のものだって思えるんですけど、そこにいたときは、日本人として体が人種化される感じがして、そうなるとこんなに体が自分のものじゃなくなるんだ、体から出てけって言われたような気分でした。いままで体の研究をするなかで、障害や病気のことに関心があって、そういうのが体の問題だと思っていたけれど、それだけじゃないんだ、人種の問題のような一般的には社会的な問題と思われているようなことも、ひとりひとりの経験としては、体の問題なんだなっていうことにそのとき気がついたんです。
ユニ そういう経験をされていたんですね。欧米のアジア人差別と違うのは、見た目がほぼ一緒だということなのかなと思います。日本人と韓国人は見た目はほとんど区別がつかないから、何で区別がつくかっていうと、自己申告と、あとは言葉かな…。
伊藤 確かにあのとき、「話しかけられたらどうしよう」って思っていました。韓国語で話しかけられて返せない場合に、日本人だっていうふうに思われるんじゃないかって。でも食べ物が食べられないっていうのは面白いですね。
◎済州島で回復のストーリーに乗る
ユニ 実はそのあとに食べられるようになったんですよ。私もそういう不調になったので訳がわからなくて、でもリサーチで来ているので焦ってもいて(笑)。これは気分転換しないとダメだなと思って、済州島に行ったんです。祖父が済州島出身なんですけど、一度も行ったことがなかったし。
今はチマチョゴリ切り裂き事件とか過去のことを推論で関連づけて話していますけど、韓国で落ち込んでいたときは本当に訳が分からなかったので、どうにかしなければならないと思って、理由をあたっていました。それで、今自分がリサーチしている「植民地主義の暴力」が、もしかするとパーソナルな形で体に発露しているのかもしれない、と済州島に行く飛行機の中で思って。
それで済州島についたらそこがめっちゃ良かったんですよ(笑)。ソウルの滞在場所は日本でいう品川区みたいなところで、ビルが高くて灰色のところだったんですけど、済州島はみんな建物が低くて、沖縄のようなところで、ここだったらこの国と友達になれるかも、と思いました。それで、もしこの国が友達だったら友達が作ったもの食べたいよな、と思い込むことで回復しようとしていたんです。回復できるストーリーを自分で作って、乗っていこうとしました。それで初めて食堂に行きました。全然食欲はなかったけど、祖父が済州島出身なんですって言ったせいか、おかわりまでくれて(笑)、それでちょっといい思いをして、ほどけていった。この済州島の食堂大丈夫だった、じゃあもう少し大丈夫かもってなって、フランスで大丈夫だってなったみたいに、済州島でほどけだして、回復のストーリー成功したなって(笑)。それでソウルに戻って、ちょっと不安だったけど、大丈夫でした。
不思議な点が二つあって、まずなぜか体がキュッとなる反応が起こってしまって、それで次に頭でそれを理論づけてやってみたら、たまたまかもしれないけど大丈夫だったということですね。それであささんのソウルでの講演で「信用できない話し手」の話を聞いて、障害とは別の話だとは思いますけど、在日コリアンの中にも社会モデル的に権利を主張して運動して、在日性をまとって肩で風を切って歩くみたいな人もいます。もちろんそういう人たちはすごく重要なんですけど、私は資質的にもそういうことができなくて、でも違うやり方でどうにかこの世で居場所を見つけたい、日本も韓国もずっと避けていくのはいやだなと思って。ソウルで最初にしゃべれなくなったり食べられなくなったのは、居場所を見つけられなかったからかもしれませんね。自分を消そうとしているというか。そういうときに、あささんのおっしゃっていた「私は私が分からない」というところから出発してやっているという人がいると聞いて、「あ、なんかこの方法いいかも」って思ったんです。
伊藤 そこだったんですね。
ユニ 私も自分の体とか謎だし、在日性とかよく分からないけど、でもまあ世の中にいたいじゃないですか(笑)。だからそれを聞いていいなあと思ったんですよ。
伊藤 社会モデルにもとづく運動はとても重要なものだったけど、でも体に蓋をするところがあるんですよね。スローガンを社会にとどけることが第一になってくるので、自分の体について語るのは負けだ、みたいなところがあった。でも今では、もう一度体について語る言葉をとりもどす必要があるのではないか、ということを国内外の当事者が言っていて、それはまさに自分の体に起こることを「本人にとってもよく分からないもの」、だからこそ「ずっと考えられる資源」としてとらえるということなんだと思います。あと体に関してはよく症状が対処法であるということが起こります。吃音の例で話すと、最初は連発が起こって、その症状を隠すための対処法として難発という新しい症状が生まれて、さらにそれに対処するために言い換えが起こったりする。さっきの防衛状態というのは、リサーチが進まないという意味ではネガティブな症状だけど、経験に対して自分を守るという意味では対処法だったのかなと思います。
済州島の話はけっこう吃音に似てるところがあるなあと思いました。吃音の人でもしゃべるための方法として演技する人がいるんですよね。たとえば以前インタビューした方だと、その方はディズニーが好きで、ディズニーのアトラクションのMCの人のしゃべり方を真似れば自分もうまくしゃべれるのではないか、と考えて、塾のアルバイトで子供の前でしゃべるときに、MCになりきってしゃべるということを試していたりしました。自分の中で設定を作ってそこに乗っていく感じが似ているなと思いました。それも対処法としてやりすぎると、それに乗っ取られて症状になってしまうということもありうるのですが。
ユニ なるほど…。そう考えると、私はずっと演技し続けている気がしますね。自分ってなんだろうっていう気分になってます(笑)
いまは1958年に起こった小松川事件を題材に作品を作っています。当時18歳だった在日コリアン2世の人が日本の女子高生をレイプして殺すという事件で、彼は2年後に死刑になったんですけど。当時、知識人らの恩赦嘆願運動とかもあったようで、いろんな創作物の題材にもなりました。例えば大江健三郎も「叫び声」という作品を書いています。その作品の中で、呉鷹男くんという事件そのままのキャラクターが出てきます。それで、鷹男くんに関する作品を作りたいなと思っていたんですけど、韓国でメンタルブレイクしているときに、やたら鷹男くんのことを思い出していて。彼が犯した罪は罪ですけど、孤独だったんだろうなあとか、当時の在日コリアンが置かれている状況は劣悪だったから辛かったのかなあとか。刑務所の中で、彼はもう僕は死刑でいいですと言っていて、恩赦を強く求めることはなかった。その彼の孤独感に自分を重ねていました。だから鷹男くんについてリサーチをするのではなくて、一緒に旅をするのはどうかなと思っています。済州島に行ったときにも、鷹男くんと話してました。やばい人みたいですけど(笑)。鷹男くんがここにいたらどうかな、というようなことを考えたりしていました。三部作の第一部は崔承喜(チェ・スンヒ)についてのレクチャーパフォーマンスだったんですけど、第二部は鷹男くんと旅をした記録みたいにしようかと思っています。鷹男くんと私にとって、あるいは異なるけど似たような問題をかかえている人にとってちょっとでもひびく回復ストーリーを作る、でもそれは私が作った信用できないストーリーだよ、みたいなことを考えています。まだこれからですけど。
鷹男くんをかかえる
(YPAM Exchange-Presentation, 2023 / Photo: Atsushi Watanabe)
2023/11/27 @東京工業大学大岡山キャンパスにて