Research

情報と意味

高校生のころの私は昼休みに生物室にこもってホルマリン漬けのイイダコや巻貝を写生しているような生物オタクだった。100パーセント生物学者になるつもりだったので、大学ももちろん理系に進んだのだが、実験や講義をうけるうちに「?」と思うようになり3年生に進級するときに文転(そのあいだ大学を1年休学してパリで刺繍職人として働くという「回り道」もした)。そのとき生物学に対して(というか科学全般に対して)感じた「?」はずっとつづいていたのだが、東工大にきてだんだんその正体が明らかになってきた。要は私は「情報」という考え方に納得がいかないのである。

いまの科学の主流は、とにかくデータ処理だ。すべては情報に変換され、スーパーコンピューターに入れられて処理される。生物系の研究室に行ってもラットがいるわけではなく、遺伝子という「情報」を画面上であやつることが研究の中心なのだ。これは子どもの頃から「生き物好き」だった身にはちょっと耐えられない。とにかく「自分と違う身体機能をもった生物がどんなふうに世界を理解しているか想像すること」(本川達雄先生)が生物学の営みだと思っていたのだから。ユクスキュルが考えたように、すべての生物は意味の解釈者であり、その意味をもとに自分の世界(環世界)をつくりあげている。生物を考えるためには、情報ではなく意味に迫ることが必要なのでは?かいつまでいうと、これが私が感じた「?」の正体であり、文転した理由だ。

今年の大学院の「美学」の授業では、このあたりの問題、つまり「生物」と「情報」が結びついた経緯やその結果生まれた生物観などについて考えてみたいと思う。具体的には、ヘイルズのHow We Became PosthumanやクラークのNatural-Born Cyborgsなどポストヒューマン系の基礎文献を購読するつもり。人工知能を研究している学生にもぜひ参加してほしい。

ところで「情報」と「意味」の問題は、視覚障害の方とかかわるときにも痛感する。「情報」でいったら彼らにはハンディがあるけど、すくない情報から作り出す「意味」は非常に豊かなものだ。そして意味は言葉でシェアできる。「情報化社会」を妄信するだけじゃなくて「意味社会」の発想も必要じゃないか、と思っているんだけど。